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彼と彼女の迷宮えれじい  作者: 三澤いづみ
第一部 『彼と彼女の出逢い、あるいは地下迷宮の魔』
7/62

七、悪意


七、



 ソエモンは地下三階への階段に辿り着いた。

 オークの大集団以降、モンスターに遭遇していない。これを幸運と見るか、あるいは別の要因によるものと疑うべきか。

 階段を下った。一段、二段……早足気味に降りていくと、先の空気が違う。


 天使を前にしても感じなかった異様な空気に、つい剣に手を伸ばしていた。

 周囲に何かいる風ではない。

 耳を澄ませても、心を研ぎ澄ませても、近くに存在する者は感じ取れない。

 いない。誰も――いや、何もいないのだ。


 どこの通路もしばらく歩けば、どこから湧いたのかと思うほどクロウラーに遭遇する地下三階だというのに、モンスターのいる感じがしない。

 それが一層不気味だった。懐から地図を取り出し、どこから探すかと当たりを付けた。この迷宮は地下に広がっているが、その全容はよく分かっていない。


 地上に存在している場合、たとえば塔であるとか、遺跡であるといった建物であれば、外からの見た目で内部の構造も想像が付く。

 地下の場合は階によって大きさがまちまちである。地下深くに進むにつれ広くなっていく場合もあるし、最深層まで階ごとの広さが全く同じというパターンもある。

 端まで辿り着いてみないと全貌が分からない。それが迷宮なのである。


 地下三階は地図を見る限り、他のフロアに比べ、実は若干狭くなっている。

 罠によって足止め、回り道をさせようとする階でもある。

 隘路や隠し通路などを含め、複雑に込み入った道や、方向が分からなくなる迷路状通路、そして面倒なクロウラーと罠の連鎖が延々続く場所と、面倒な仕掛けが揃っている。


 ソエモンやアーシャのような例外にとっては、クロウラーの妨害を無視し、最短ルートを真っ直ぐに突っ切るという選択肢が生ずる。

 おおよそ一時間弱で地下四階への階段まで進めてしまう。距離だけで考えれば、全力で走れば端から端まで三十分掛からない。


 が、要救助者を捜すためには役に立たない。

 それより買った地図に記されている、モンスターの湧かない小部屋や、罠の配置の量が少ない傾向にある方角、全モンスターの死角となる休憩地など、先人が必死に調べ上げた情報にこそ千金の価値がある。向かって左手の方角にある角、それを折れてからが本番である。

 地下三階の闇の中へと、ソエモンは一人踏み込んでいった。モンスターの姿は無かった。だからこそ微妙に嫌な予感がぬぐえず、剣から手を離す気にはなれないでいる。



 空気の嫌な感じが一層強くなったのは、三十分ほど歩き回った頃だった。

 今だモンスターの一匹とも出逢えていない。

 ソエモンですらありえないと思うのだ。相当におかしな事態である。立ち止まったまま三十分が経つのとはわけが違う。


 遺物のない迷宮は存在しても、モンスターのいない迷宮など存在しない。逆に言えば、あらゆる区画にモンスターがいる建物をして、ひとは迷宮と呼称するのである。

 大破壊を乗り越え、古代文明当時より現在まで残った建造物。

 塔、城、ピラミッド、洞窟、地下通路、遺跡。これらをそのまま調査出来るならば冒険者は存在し得なかった。


 それらの場所には必ず魔力があり、同様にモンスターがいた。魔力のあるところにモンスターは発生し続けるものだったからだ。

 幸いというべきか、通常この大陸においては、常時モンスターが発生し、且つ生存出来る程に魔力の濃度、密度がある場所は迷宮内のみである。

 逆に言えば、継続的に大量の魔力を用意出来る場所でさえあれば、モンスターは迷宮内でなくとも発生しうる。


 アーシャを襲った影のように、地上で活動することは不可能ではない。

 基本的にモンスターは発生した階層を離れない。普段地下五階にいるモンスターは、地下一階へ降りても生きていくことは出来ない。

 いわんや迷宮内でのみ生存出来るモンスターが、魔力の薄い、あるいは皆無である地上において生存することは、独力では無理である。


 なお、ソエモンの故郷のある大陸には、迷宮と呼ばれる場所がほとんど存在しない。

 代わりに魔力溜まりのある区画、すなわち禁地、神域、暗域、聖地などがあり、ここで言うモンスターと同等の怪物が発生する。

 ソエモンは首をかしげた。魔術師でないソエモンには迷宮の魔力の濃度、密度、そういったものはよく分からない。


 なんとなく感じる空気の流れに違和感は覚える。微細な変化だ。先刻までと何かが異なるとは認識できるが、詳細については理解が及ばない。

 しかし、いつか故郷にある神域のひとつで、今と似た感覚を得たことがある。


「何が出ても、斬るだけか」


 口にすれば簡単だ。結局、やることは変わらない。 


 目の前にあるのは、不可視の壁だった。


「なんだ、これは」


 透明だが、確かにそこにある。目に見えないが、触ってみれば分かることはある。

 奇妙だった。空を掴むような不思議な感触だ。

 そのまま通り抜けようとすると、得体の知れない感触が身体中にしがみついてきて、元の場所へと引っ張られてしまう。前に進めなくなる。色々と試したところ、ソエモンの手前に浮いている光、アーシャによる明かりの魔術がその壁に触れて、そのまま押し返されていた。


 おおよそのことは分かった。魔力を持つものを通さないのだ。

 ひとしきり考える。頭脳労働はアーシャに任せたつもりだったが、自分しかいない状況では頭を使わざるを得ない。悠長なことをしている余裕はない。それは分かっている。

 しかし闇雲に突っ込んでもどうにもならない。


 いったん引き返し、とりあえず地図を読み直す。手元を照らす魔術の仄かな明かりは、ソエモンの周囲を漂っている。道を変え、今度は地下四階への最短ルートを進んだ。

 向かうべき階段は、方角で言えば北にあたる。

 周辺のトラップはそのままだが、クロウラーが出現しないのも変わらない。道半ばで立ち止まり、曲がり角を折れる。


 しばらく歩くと再び透明な壁にぶつかった。

 ソエモンは難しい顔をする。逆方向へと進んでみると、今度は簡単に進めた。

 最短ルートは中央の道をほぼまっすぐ突っ切るものだ。現在歩いているのは東側にあたる区画である。奇妙な壁があったのは北西側の一部だ。他の方角には透明な壁は存在していない。フロア内の狭い区域のみに壁があると思われた。


 壁のない東側にもモンスターの気配は感じられなかった。

 ソエモンとアーシャが先刻通り抜けた際から、何らかの理由でモンスターが増えていない。迷宮のモンスターは放っておけば一定数まで再生成されるものである。

 ソエモンは、もう一度考える。生き残りがいる確証はない。まだ生きているかも。しかし壁の向こうに足を踏み入れて欲しくない誰か、あるいは何かがいる。

 壁は中と外とを隔てるためにある。あの天使。この不可解な壁。そしてまだ聞いていないアーシャの目的。


 すべてが偶然、同時期に発生したなどと、誰が信じるというのか。

 剣を抜いたソエモンは、かすかに笑みを浮かべた。

 不可解な壁の前に立ち戻ったソエモンは、それを見据えた。それは目に見えぬもの。触れ得ぬもの。魔力に作用する、奇っ怪な仕掛け。


 ソエモンは逸る心を鎮める。前に立ちふさがるものを切り伏せてこそ、剣士である。すでに抜き放った剣が、仄明るい光を鋭く跳ね返し、一瞬きらりと煌めく。闇に支配された迷宮の通路を、白々とした温度のない光が照らす。

 眼前に広がるのは透明で、形のない壁だ。

 呼気を整え、全身に力を込め、深く踏み込み、ただ一閃を振り下ろす。


 斬るためには、正しく剣を振ることだ。修練の末、身体に染みついた一連の動き。その基本にして究極の一振りを無想のままに行う。

 斬った。刃が煌めいた。風を切る音すらしなかった。形ないものに感触などあるはずがない。

 なのに。

 透明で、触れられぬ、うすぼんやりとした不思議な壁は、確かに斬り裂かれた。


 その透明な壁はしばらく何の変化もなかった。やがて耐えきれなくなったか、それとも己が斬られたことにようやく気づいてか、断ち切った部分から、するりと一本の糸が抜け落ちた風に互い違いにずれ、その透明で複雑な編み目がするすると解れてゆき、そのうち壁は壁としての姿さえ忘れて、ただ霧散した。

 見た目には何の変化もない。透明な壁だ。無くなっても透明はそのままだった。物理的なものではなかったから壊れた後に破片などは残っていない。


 壁は、魔力で編み上げたやわらかな一枚の網だった。

 斬った瞬間に理解した。恐ろしく繊細で精密だったがゆえに、一カ所でも瑕が付けばそこを起点に全てが崩れていった。


 透明な壁がすでに消え失せたことを確かめて、ソエモンは歩き出した。

 壁に囲まれていた区画が生き物めいて震えた気がした。

 背筋を悪寒が走り抜ける、ひどくおぞましい気配がある。通れるようになった通路の向こうから、饐えた臭いのする生ぬるい風が吹き付けてくるようだった。



「あっ、あっ、あっ」


 ソエモンは見た。

 生きながら身体を食われている女性が、ぼろぼろと涙を流す姿を。

 綺麗だったであろうブロンドの髪はくすんだ色となり、辛うじて顔は無事だが、そこにある表情には感情が見えず、本当に生きているのかと疑わしいほどだ。


 彼女は股に食いつかれている。皮の鎧はどろどろに爛れ、右肘から先は失われている。左腕は辛うじて残っている。両足はどこにも見当たらない。

 近くに転がっている臑当てと手槍とが、むなしく鈍色に輝いている。

 笑えば愛嬌のある顔だったのだろう。その名残だけが見えている。


「あっ、あっ……」


 声ではない。口から漏れ出た音だ。

 痛みや悲しみから来る涙ではなく、生理現象として垂れ流している。

 なんとか生き存えている。いや、ただ死んでいないだけだった。


「あっ……」


 暗い通路の向こう側、広間のように大きなスペースのある場所に、それはいた。

 魔術の明かりが照らした先に、半分しかない女性の半裸が白く輝いている。対照となる黒い塊が女性の股にかぶりついている。

 太ももの場所から音を立てて血液が流れ落ちる。心臓が動いているからだ。

 しかし、これほどに血を失えば、もはや死は不可避である。


「あ……」


 少しずつ漏れる声の頻度も減り、同時に咀嚼する音が激しさを増す。

 肉を噛みしめる音。骨をかみ砕く音。それらに混ざって湿った音がそれの口腔内から響いていて、後ろから近づくソエモンに気づいた様子も無く、ただひたすらに女性を貪っている。

 照らされて、気づかないはずがない。ソエモンは踏み込んだ。怪物の領域に。


 背を向けていた怪物はくるりと振り返った。貪っていた彼女の肉体から、無事だった左腕を力任せにもぎとった。耳を塞ぎたくなる絶叫が部屋を満たす。

 彼女の絶叫はわずかに残った痛覚の働きによるものか、それとも限界を超えたためか。左腕は恐るべき速度で投擲された。


 ソエモンは身を躱して避けようとした。怪物は次の準備をしていた。彼女の身体の残りを掴み、大きく振りかぶっていた。軽々と持ち上げられた彼女の目に意思の光はない。

 命の火はすでに絶えている。

 切り裂けば、あるいは打ち払えば、さほど苦労せず次の行動に移れた。


 ソエモンは躊躇した。うら若き女性を無碍に扱うのは矜恃に反する。投げつけられた彼女の身体を受け止めた。当然衝撃は大きく、体勢も無理をしたため、ソエモンの服や顔に彼女から撒き散らされた血が張り付いた。

 残っている血液が流れ出て、ソエモンの身体を赤く染めていく。それを見た怪物が馬鹿にするように笑い声を上げた。

 嘲笑する程度の知能はあるらしい。


 いや、耳に残る不快な笑い声を上げながら、いきなり飛びかかってきた。

 剣は抜いていたが、彼女の身体を抱えては上手く振れない。その場に丁寧に降ろす暇は与えてくれないだろう。


 かといって、あの怪物はどう考えても嘗めてかかれる相手ではない。

 人間の腕を無理矢理もぎ取る怪力だ。懐に入られた時点で終わりだった。

 頭を掴まれれば脳漿をぶちまけることになる。腕や足を破壊されれば対抗する術が無くなる。腹をぶち抜かれたら内臓が破裂する。


 人間の頭を丸ごと包み込める巨大な手。裂けるような大きな口、そして重量を感じさせる固太りの全身。

 下ぶくれの体格は愚鈍なトロルに似ているが、その印象はまるで異なる。

 全体的に黒い塊だ。魔術の明かりに照らされて、黒光りしている全身。毛は無い。爬虫類や両生類の湿り気のある肌に近い。じっくりと観察すればその身体の隅々まで、強靱さと柔軟さを兼ね備えた筋肉の層と分かる。


 顔の造形も好意的に見る余地のない凶相で、笑みすら悪意に満ちており、まさしく人間を食いものにして喜ぶ、得も知れぬ醜悪さの権化だった。

 あらゆるモンスターは、疑いようもなく人類の敵である。


 しかし、目の前の怪物は、敵である以上に許し難い悪だった。

 邪悪。人間を殺すのではなくいたぶることに執念を燃やし、嗜虐心を持って他者を玩弄せしめるもの。

 モンスターは本能によって人間を殺す。この怪物は、悦楽のために人間を殺す。


「悪魔、か」


 不意に口を突いて出たのは、そんな陳腐な表現だった。念頭にあったのは天使の姿だ。

 聞こえたのか、単なる偶然か、ソエモンが悪魔と表した怪物は笑った。


 残酷な笑みだった。悪魔はそこまで迫っている。嬲るためか、殺気はあまり感じない。狙うのは腕か足か、あるいは剣を折るつもりか。

 まともに戦えない状態で対峙するには分が悪い。迫り来る悪魔の一撃に備え、ソエモンは呼吸を整えた。機会は一度だけだ。頭の中で秒数を数える。


 ひとつ、ふたつ、みっつ……


 今だ!

 右腕を狙った大振りは予想通りではあった。恐ろしい速度と威力であった。予期していなければ分かっていても避けられない一発だ。バックステップで大きく退いて、悪魔が次の攻撃を仕掛けてくるまでの一瞬を盗んで、その場を全力で逃げ出した。


 悪魔も追いかけてこようとする。この区画に入る前に罠の位置を確かめておいた。わざと踏んだ罠がカチリと音をさせた途端に、大量の矢が逃げるソエモンの目の前に出現する。

 スライディングですり抜け、体勢を立て直して再び走り始めた。


 後方は確認しなかった。あれで倒せる相手でないことは確実だったが、この場から離脱するまでの足止めには十分だ。

 悪魔の叫び声が聞こえる。凄まじい怨嗟の声だった。三十六計逃げるに如かず。ソエモンはその言葉を思い返していた。

 ソエモンは、彼女の遺体を抱えたまま、地下三階を全力で駆け抜けていく。



 地下二階を一通り探索し、アーシャは独りごちた。


「無駄足ってわけじゃないけど……どうしたもんかしら」


 モンスターの大集団を焼き尽くした後、しばらくは戦闘が無かった。

 迷宮内で自動的に湧くモンスターも、あれだけの量が一斉にいなくなれば、再生成するまでに間が空こうものだ。

 浮かない表情のアーシャは、待ち合わせ場所の地下三階への階段へ急いだ。ソエモンがすでに要救助者を確保済みかもしれないと期待して。



 アーシャの目にまず飛び込んで来たものは、疲れきったソエモンの姿だった。

 驚いている余裕は無い。互いの無事を喜ぶ一声もなく、すぐさまソエモンが抱えている女性の状態を確認する。

 手遅れだった。ソエモンが彼女の遺体を、そっと床に降ろした。


「焼いてやってくれ」

「そう、ね」


 ここまで損壊の激しい遺体を、あの男の元に連れ帰るべきではない。


「炎よ、その身を清め給え。〝フラム〟」


 真っ赤な炎が、名も知らぬ彼女の身体を包み込んだ。あの男が口にしていた名前から、リズかシャーレイのどちらかだろう。

 灰になるまで燃え続ける炎を前に、ソエモンから話を聞くことにした。

 ソエモンは、ひとつひとつ語り出した。地下三階にも起きていた異常。普通のモンスターの不在、魔力を通さない透明な網。

 間に合わなかった彼女の結末と、悪魔と呼ぶに相応しいイレギュラーな敵。


「ねえ、ソエモン。ひとつ聞きたいんだけど」

「なんだ?」

「あれよね、悪魔って」


 視線の先に気味悪く黒光りする巨体があった。醜い顔。邪悪な気配。何より圧倒的な存在感。まっすぐな通路である。

 暗闇に紛れて分かりづらいが、近づいてくるのは確かだった。


「あんたさ、結構疲れてるでしょ」

「らしいな。悪い」


 殊勝な態度である。戦いに身を置き、斬ることに全霊を傾ける剣士であっても、彼女が受けた仕打ちには怒りを覚えたか。あるいは同情心が芽生えたか。

 アーシャは肩をすくめた。


「結局、剣士だって人間ってことよね」

「ひとをなんだと思ってたんだ」

「剣士」


 アーシャは目を細めた。ソエモンはこほん、と咳払いを一度だけした。


「斬ってくるの?」

「いいのか」

「本気で戦うんでしょう? 見てみたいし」

「そりゃ情けないところは見せられんな」


 油断をして良い相手ではない。天使もどきと同様、あるいはそれ以上にえげつない何かを持っている。ソエモンの話からは物理攻撃しか出なかったが、そんなわけがない。


「ただし、怪我したら……許さないわよ」

「応」


 一歩進んだソエモンは、いつの間にか剣を抜いていた。

 先ほどまでの疲弊した様子は見えなくなっていた。荒かった呼吸も平常のものとなり、剣を握った姿にはひどく恐ろしげな気配を漂わせていた。

 通路の向こうから、闇を食い破るようにして現れた黒い巨体。


 なるほど、悪魔と呼びたくなる気持ちは分からなくもない。一目で人間とは相容れないバケモノと分かる。迷宮に湧く普通のモンスターとは異なり、必ずここで殺さねばならないとアーシャも強く感じる。

 暴力の臭いを撒き散らす、どうしようもない邪悪の権化がそこにいた。



 斬る。ソエモンの脳裏にあったのは、そのことだけだった。

 悪魔は巨体に似合わぬ俊敏な動きで通路から飛び出して来た。

 警戒していたアーシャは距離を取った。ソエモンに一任したとはいえ、アーシャも動く体勢を整えているようだ。


 自由に動いても問題が無い。悪魔の瞳が爛々と輝き、憎悪を持って己を捉えていると把握する。いきなり襲ってくるかと思いきや、階段前の若干広いスペースをぐるりと見回し、それからソエモンを凝視する。

 アーシャも視界に入ったはずだが、すぐに視線を戻す。中途半端な距離しかない。異常な身体能力を考慮すれば、この程度の距離は無いに等しい。


 罠の有無を確かめたのかも知れない。悪魔の肩越しにアーシャの顔が見えた。

 位置取りは上手い。

 悪魔から距離を取り、自分に興味が向かないようにと心がける。ソエモンの間合いは広くない。懐に飛び込めばなんとでもなるが、悪魔の方も距離を保っている。


 静かだった。下卑な笑いも、嘲笑も、怒りも、全部抑え込んで、ソエモンを殺そうとしている。わずかな音は大きな口から漏れる呼吸音だ。足音が響く。ソエモンが右に回り込もうとすると、ゆっくりと追いかけてくる。左に向けば、すぐにその方向へと。


 ごふぉ、と悪魔の喉から音が漏れた。液体が零れだし、どろりと床に広がった。ソエモンは後ずさった。悪魔は追いかけてきた。

 床に広がった吐瀉物を踏みしめた悪魔の足が、じゅうと焼ける音がした。酸だ。胃液、消化液のたぐいだろう。剣を握りしめたまま、ソエモンは攻めあぐねた。

 溶解液は口からあふれ出している。悪魔は気にした様子も無いが、ソエモンが進めば靴が溶けるか、足まで溶かされ骨になるか。


 ソエモンが気にしているのは、これを下手に剣で受けられない点だった。かなり丈夫で使いやすい剣である。

 溶かされてはかなわない。戦い方に自然と制限がかかってしまう。


 突然、悪魔が動いた。突進してきたのだ。ソエモンは大きく避けた。確かに巨体に似合わず俊敏だが、慣性を殺しきれるほどではない。

 動きを見定めて回避するのは難しくない。そこまで考えて背筋に冷たいものが走る。突進の途中で顔を上げた悪魔は、これ以上ないほど大きく口を開いた。


 溶解液を噴射した。吐き出したのではなく凄まじい勢いで噴射したのだ。

 狙った相手はソエモンではなかった。顔をわずかに横に背け、いつの間にか射程圏内に入っていたアーシャに向けてだ。

 別段この悪魔の興味を惹くような真似も、標的になるような行動も取っていなかったはずだが、そんなことはどうでも良かったのだろう。

 アーシャを狙った方がソエモンの動揺を誘えると計算したか。アーシャの全身を覆うように放射された大量の溶解液。


 喰らえばひとたまりもない。少量で床や足が焼けて煙が出る。ちょうどアーシャのいた場所で大量の溶解液が反応して、もくもくと白い煙が上がった。

 一挙に視界が悪くなる。様子は窺えない。結果を見るより先に悪魔が凄まじい勢いで突っ込んできた。突進そのものも終わったわけではなかったからだ。


 ソエモンは勢いを利用して、身を翻し悪魔の右手に斬り付けた。

 飛び散った溶解液は、抜き取った鞘で弾く。なめした皮で出来ている鞘は音を立ててどろりと溶けた。

 硬質な音を立てて剣が弾かれた。悪魔の肌は岩を叩いた感触だった。

 多少の傷くらいは付いたようで苦痛を感じたのか、悪魔がぎろりと目を見開いた。

 それだけだ。

 腕の部分を斬り飛ばす気概だったのだが。


 アーシャの様子は気になったが、大丈夫と決めつけた。あの程度で死ぬ女じゃない。どの程度の実力か掴みかねてはいるが、ソエモンなりに上物と認めている。

 だから脇目も振らずに悪魔とにらみ合う。これほど斬りにくい相手は久々だ。


 しかし、まったく楽しくない。

 ソエモンは、ため息混じりに剣を握る力を弱めた。

 悪魔は眼窩の奥に暗い輝きを湛えている。激怒が見え隠れしている。


「……どうせ分からんのだろうが、一応言っておくぞ」


 悪魔は答えない。意味が分からないのか、それとも言葉が喋れないからか。


「これは敵討ちじゃない」


 答えないどころか、動きもしない。何かの機会を窺っている。

 分かるか、と尋ねる。悪魔がまともに答えるはずもなく、ただ嘲笑していた。


「腕だけで剣を振るなら剣士が人間である意味がない。斬るという行為には、二つのことが必要だ。誰が。そして、何を」


 うなり声が静まりかえったフロアに響く。そして悪魔は口にする。


「〝ダグ・バマルド〟」


 魔術は天使にも使えた。悪魔に使えない道理が無い。

 モンスターに人間とで、力在る言葉だけは共通だが、人間の言葉ではなくとも詠唱は存在しうる。たとえばうなり声のような。人間とモンスターの魔術の差は弾込めのやり方の違いだけだ。

 禍々しい闇の雷が球体となって悪魔の目の前に出現する。

 弾ければ、天使がもたらした雷撃より猛烈な破壊がこの場を満たす。これだけの近距離で直撃すれば跡形も残らない。


 おそらく避けても余波だけで即死する。高密度の雷撃と、その凶悪な威力すら褪せて見える濃密な瘴気。ありえない現象にはそれだけの異常な効果が含有されている。

 ソエモンの目には死そのものが撒き散らされる印象を受けた。今にも爆発する直前のごとく、ぼこ、ぼこと膨んで、黒色の雷が、球体の表面にいくつも吹き出してくる。


 もはや雷と言うよりは、黒い太陽と呼ぶべきかも知れない。

 すべてが陽炎に揺れている。熱気で顔や髪がちりちりと焼けている。ドラゴンの鉄をも溶かすブレスですら、これほどの禍々しさ、おぞましさは兼ね備えていないに違いない。

 悪魔は嗤っている。この近さで爆発すれば自分の身もただでは済まないだろうに。黒い太陽の爆発に耐性があるのかもしれない。


 あるいは狂っているだけか。黒い太陽が回転を始めた。もはや止められないことを明示するように。悪魔は嗤い続ける。哄笑する。今までの嘲笑じみた笑い声ではなく、もっと気持ち悪い、耳障りな、救いようのない、呪いのような笑い声だった。

 ソエモンが剣を構える。天の構え。すなわち上段の構えである。


 悪魔はもう手遅れだと言いたげに、身体を揺らして笑い声を高くする。

 流れるような動きで剣を振った。何の派手さもない。何の変哲も無い。ひたすらまっすぐな軌道。見ているものに何かの重さを感じさせる動き。


 それは、終始ゆっくりとした印象を与える、ただの一振りだった。

 上から下へ、天から地へと、剣は振り下ろされた。


 音は、無かった。黒い太陽は真っ二つに切り裂かれていた。悪魔は笑い声を止め、ソエモンを凝視した。数メートル先の黒い太陽、爆発した途端、周辺すべてを巻き込んで破滅の嵐が吹き荒れるべきその巨大な雷球が、右と左と半球二つに分かたれていた。

 そして何ら破壊を引き起こすこともなく、静電気のような小さなパチッという音だけを残し、やわらかく宙に溶けた。


 もう一歩、ソエモンが軽く踏み込んだ。流れるような動きで横に一閃した。先ほどの再現のような、ゆっくりとした動きだ。悪魔は何の反応も出来なかった。

 緩やかで、遅くて、重いその動きは、しかし悪魔のどんな反撃よりも速かった。


 岩より硬い体皮を誇っていた悪魔も、それで綺麗に真っ二つだった。

 反撃のため、悪魔が飛びかかってきた。跳ねた勢いのまま上半身が天井にぶつかり、むなしく床に落ちた。


 下半身だけが真っ直ぐ突っ込んできた。

 ソエモンが一歩隣にずれたところ、そのまま脇を通り過ぎて壁へと激突した。

 二つになった悪魔はどちらも動かなくなった。


 ソエモンは上半身の方へと向かった。近くまで寄って、その悪魔の脳天に無造作に剣を突き刺した。断末魔の声が聞こえた。

 鋸を引く音に似た、耳に残るおぞましい響きだった。


 落ち窪んだ眼窩の奥が炯炯と燃え上がっていたが、やがてその光も消えた。

 トドメを刺して、ようやくソエモンは長々と息を吐いた。



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