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彼と彼女の迷宮えれじい  作者: 三澤いづみ
第一部 『彼と彼女の出逢い、あるいは地下迷宮の魔』

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五、天使も踏むを恐れぬところ



五、



 地下五階まで来ると、他の冒険者の気配はほとんど無くなる。攻略済みの地図を以てしても辿り着くには相応の実力がいる。地下六階でソエモンが出くわした、あの山賊まがいの男達には一定の技量が備わっていたかもしれない。

 そんな話題を口にしたところ、アーシャから解説された。


「このナイフのおかげね。調べてみたら、やっぱりなかなかのものだったわ」


 リーダーが持っていた遺物だ。現存技術では再現出来ない魔術的な物品である。アーシャが説明しようとしたところで、通路の向こうからモンスターが姿を現した。

 広い通路を我が物顔で歩いてくる。血走った目が二人を捉えると、躊躇なく駆け寄ってきた。大きな身体には不釣り合いなほど素早く、あっという間に距離を詰めてくる。


 地下五階の、ハウルベア。地図にはメモ書きとして、危険なモンスターの名称と外見、その性質まで記されている。

 ハウルベアの振り下ろす爪には決して当たってはならない。鋼鉄製の剣や盾が易々と引き裂かれた報告がある。


 普通の熊でも、鉄をひしゃげさせるくらいなら出来るだろう。魔力によって強靱さ、剛力を得たクマ型モンスターには、それどころではない凶暴性が備わっている。


 ソエモンが剣に手を掛けた。流石に気を抜いて良い相手ではないと見たからだ。

 杖ではなく、抜き放ったナイフを両手で差し出すように構え、その刃先をハウルベアに向けたアーシャが、魔術の詠唱をするような面持ちで、しかし一言だけを強く口にした。


「〝エジアラ〟」


 刃が飛んだ。ソエモンの目にそう見えた。

 錯覚である。実際にはナイフの刃は動いていない。

 ただ、切っ先の部分から何か鋭い刃のようなものが、ハウルベアに向けて真っ直ぐ射出されたのは確かだ。


 ハウルベアは凄まじい勢いで近づいてきたが、突然、弾かれたように頭を後ろにそらした。何かがぶつかって、それによって吹き飛ばされたように目に映った。

 疑問を口に出すより早く、アーシャはさらに声を紡いだ。


「〝エジアラ〟〝エジアラ〟もいっかい〝エジアラ〟!」


 いっそ憐れなくらいに、ハウルベアはその場から後方に連続で吹き飛ばされた。巨体が沈む轟音が遅れて響く。頑丈なのが取り柄なのだろう。それでも立ち上がろうとしたハウルベアの顔面に向けて、アーシャが狙いを済ませていた。


「〝エジアラ〟〝エジアラ〟〝エジアラ〟〝エジアラ〟ッ!」


 一方的で容赦のない連打が、身動きの取れないハウルベアの、その凶相に、その狂おしいほどの怒りと苦痛に染まった瞳目がけて、鈍い音を立てて突き刺さる。

 ぱしゃん、と目玉が弾けた。荒く重苦しい呼吸音だったハウルベアのうなりは、深く殺意に満ちた、劈くような絶叫へと変じた。


 ハウルベアの叫び声を耳にして、アーシャは煩そうに顔をしかめたが、ナイフを両手で構えた姿のまま再び声を発した。


「〝エジアラ〟」


 ざしゅ、とそれまでとは違う音がして、ハウルベアはついに動かなくなった。

 狙った場所は眼窩の奥だ。頭蓋にまでその一撃が及んだに違いなかった。

 アーシャの構え方を見ていると、ソエモンは何かに似ていると思った。


「銃の撃ち方に似てるな」

「かもね。モンスター相手に鉛玉撃ったって、あんまり利かないけど」


 銃が存在していないわけではない。迷宮内では魔力があるかぎり半永久的に発生するモンスターを相手取るのに弾切れしたら無力化する装備品は向いていない点、火薬や弾代も馬鹿にならない点、そしてスライムを初めとして衝撃に対して強いモンスターが結構な割合で存在している点などがネックで、使えなくはないが、最優先にはなりえないのだ。


 魔導技術の最盛期、すなわち古代文明の前後を境目として、それ以前に存在していた銃のほとんどが廃れ、嗜好品や骨董品としてのみ残存していた。

 現在使われている銃は、それらを模したもの、再現したものだ。


「で、そのナイフは?」

「風の塊を撃ち出す遺物よ。魔術師でなくとも、簡単なキーワードで魔術が使えるわ。上手く使えば、手間のかかるモンスターを寄せ付けないで迷宮を進める便利な品ね」


 ソエモンは疑問を口にした。


「エジアラ、ってのは?」

「魔術を使うときの呪文よ。力ある言葉。銃で言うなら、詠唱を紡ぐのは弾を込める一連の作業、呪文を唱えるのは引き金を引く行為ね。このナイフは、前半をそのまま内部機構で代行してくれるわ。応用が利かないのが問題なんだけど……早口ならすごく便利よ、これ。距離を開ければ、ひたすら連打で相手の反撃を封じ込めるもの。ただ」


 そこで言葉を止め、


「エジアラ」


 とアーシャが呟く。ナイフはハウルベアの死骸に向けていたが、何も起きなかった。


「普通に口にしても起動しないわ。正しい発音が、安全装置の解除ってところかしら。結構面白いタイプの遺物よね。これひとつあれば迷宮内での戦闘が楽になるし。魔術師いらずって勘違いしてもおかしくないけど、相手が大量にいる場合にこれだけに頼ると……詰むわね」


 具体的にはシルバーウルフが大量に湧いてくる場合だ。

 六人パーティーで、他の五人が守っているうちに、この遺物のナイフの効果を行使して敵の数を減らしていく、というのが分かりやすい定石だろうか。


 ソエモンは、あの男にこれを使われていたらと考えた。狙いを定める必要がある点、不意打ちは難しい点を鑑みれば、対処は難しくなかったと結論付けた。

 接近戦で斬り合っている最中、突然これを使われたならば回避は難しかった。だが、きっぱり逃げを決断した性格からも、直接剣を交わすリスクは嫌ったはずである。

 あの男にとって、逃げに徹したのは正解だったが、逃げる途中で地下六階のモンスターを振り切れなかったのは不運だった。


「ハウルベア相手だと結構厳しいわ。距離があって、狙いが逸れなければ完封出来るけど、身体にぶつけても体勢は崩せないし、頑丈な筋肉を打ち抜けるほどでもない。……弱点を執拗に狙い打ちするか、精々牽制に使うくらいかしらね」


 アーシャの様子からすると、試し打ちの機会をずっと窺っていたらしい。

 ソエモンは肩をすくめたが、遺物であっても、名品のナイフである。


「銘はあるのか?」

「エリアルナイフって呼称よ。空気の名前を冠された遺物で、そんなに珍しいわけじゃないわ。一撃で倒せるほど強力でもなければ、戦況を一変させるほど重要でもない。便利だから、手に入ったら手放さないひとが多いけどね」


「そんなに便利か?」

「魔術師には一手間省くだけ、それ以外の冒険者には手軽で使い減りのしない遠距離攻撃よ。離れた場所のスイッチを押したい、衝撃を与えて向こうに見えるトラップを確かめたい、なんてときに使えるもの。これに頼り切りになっちゃうと問題だけど」


 ソエモンは軽く頷くに留めた。



 ハウルベアを撃退した後、指示に従ってソエモンは心臓部分を切り裂いた。

 会話しているうちに体内の核が魔石化していたらしく、動かなくなった心臓が花開くようにぱしんと軽い音を立てて弾けた。


 真っ赤な血の中に、透明な結晶が覗いていた。取り出してみると、大きさはアーシャの親指ほどだった。形状はいびつな丸だ。角張っている部分もあるから、宝石の原石のようにも見える。

 魔術の灯りに翳して、ソエモンが覗き込んでみると、内側は液体で満たされているように不思議な輝き方をしている。


 振っても音はしない。空洞があるという感じでもない。

 血の匂いが漂っているが、拭いてしまえばほとんど気にならない。

 道を塞ぐように伸びきったハウルベアの巨体と比べると、非常に小さく感じられる。魔石としてはかなり良いものらしい。

 アーシャが横から説明してきた。


「へえ、透明なんだな」

「たまに色の付いた魔石もあるけど、普通はこんな感じね。あたしみたいな魔術師が魔石から魔力を取り出した場合も、どんどん曇って濁って汚らしくなるわ。で、使い切ったら最後は塵みたいになってそのまま消滅」

「どれだけ使ったか、分かるもんなのか?」

「魔石の中、液体みたいに揺らめいているでしょ? それが魔力よ」


 ふうん、としか言えなかった。


「腐るものでもないし、勝手に爆発するわけでもない。売れるし、取引材料にもなる。魔術師じゃなくても、なるべく集めておくに越したことはないわ」

「待て、爆発ってどういうことだ」

「大丈夫よ。手も触れずに爆発させるのは、いくら腕の良い魔術師でも無理だから」


 ソエモンが嫌そうに魔石を摘んでいると、アーシャがからから笑った。


「安心していいから。火薬よりずっと安全よ」

「本当か」

「じゃあ、鞘の中にある刃みたいなものよ」

「まあ、それならなんとか」


 アーシャの目がなんだかなあ、と言いたげに笑っていた。


「鞘ごとぶん殴る達人も世の中にはいるでしょうけど、ね」

「安心させたいのか、不安にさせたいのか、どっちなんだ」

「お金だって、情報だって、言葉ですら使い方で危険なのに、一手間以上かけないと使いものにならない魔石に怯える理由はない。違うかしら」

「……分かった」


 それもそうだ。得体の知れないもの、という気分は消えなかったが、ソエモンは腰に下げた袋に、この魔石を放り込んでおいた。



 散策するような気軽さで、二人は地下五階を練り歩く。

 ハウルベア以降、巨大なハチ型モンスターであるスティングビーや、クモ型モンスターのヒュージスパイダーなど、大きめのモンスター群によく出くわす。


 合間を縫うようにボーパルバニーや、弓矢、剣、槍などを持ったスケルトンの集団なども出て来るが、特に合図もなくソエモンが前に出て軽く切り伏せて、残った相手はアーシャが炎の矢を撃ち、それだけで地下五階でのほぼ全ての敵を撃退した。


 ソエモンにせよ、アーシャにせよ、一人でも普通に対処出来る敵しか出てこない。

 連携が上手く行かない場合や、後ろから攻撃される心配がある場合を除いて、まず苦戦する理由がない。

 二度目となるヒュージスパイダーに、ソエモンがうんざりした顔でぼやく。


「虫相手になると露骨に嫌そうな顔をするわね。そんなに嫌い?」

「虫は何を考えてるのかがいまいち分からんから、あんまり相手にしたくない」

「え、スケルトンの気持ちなら分かるの?」


「訂正する。単純に気持ち悪いからだ」

「……ゾンビと虫型モンスター、どっちがより気持ち悪いのかしら」

「そりゃ虫だろ」

「あたしはゾンビだと思うけど」


「肉を剥いだら残るのは骨だ。スケルトンと似たようなもんだろ」

「クモもハチもイモムシも、毒さえ無ければ最終的には食べられるのよ? ゾンビもスケルトンも食用には出来ないじゃない」

「待て。もしかしなくても、判断基準は食えるかどうかか」


「生理的嫌悪感を否定するワケじゃないわ。慣れておいたほうが後々楽よ?」

「お前って見た目だけなら美少女なのにな。なんかこう、残念だ。そのでっかいクモの足をむさぼり食ってる場面を想像したら……」

「ムシ系のモンスターなんか、あたしだって好んで食べたいとは思わないわよ」


 拗ねたようにアーシャが言った。間髪入れずに突っ込んだ。


「味がそんなに好きじゃないからだろ」

「……さて、ソエモンが核を外して斬ってくれたし、魔石を回収しないと」


 冷たい視線を感じてか、アーシャは目を合わせなかった。



 地下六階への階段がある小部屋、その隠し扉の前で立ち止まる。

 振り返ってみると通路は吸い込まれそうな暗さで空気が澱んでいる。


 見通しにくい順路である。結構な割合でモンスターが往来していることもあり、戦闘に時間を掛けると増援が来る構造だ。当初は最下層と思われていただけのことはある。

 何か恐ろしい雰囲気があちこちから漂っている。隠し扉の場所以外はすべて地図に記されていたため、ハウルベア以上の強敵がいるわけではない。

 確認済みなのだろうが、妙な気配はわずかに感じる。


「このまま地下六階まで行くのか?」

「今日はこの辺で帰りましょうか。だいたいは分かったし」

「このペースならまだ行けるが」


「まだ行ける、はもう危ない。冒険者の鉄則でしょ」

「そうか?」


 ソエモンの疑問顔に、アーシャは答えた。


「大胆なものは勝利するが、慎重なものは敗北しない。見栄の剣は道連れを増やす。三十六計逃げるにしかず。玉石混淆なれど、磨くべきものを間違えてはならない。まだ行けるはもう危ない。訓練は本番のごとく、本番は訓練のごとく。どれも金言よ。この手の基本原則をたたき込むべきなのかしら」

「良いことを言ってるな、とは思うが」


 ソエモンがあまり納得していない顔をした。自分たちの技量や疲労度、その他を鑑みても充分以上に余裕を感じているためだろう。

 アーシャの感覚でも、似たものである。だが迷宮を甘く見ない。


 ここで帰還は無駄が多いと承知している。しかし最初の目的が連携の練度、互いの技能の確認なのだから、それを果たした段階で切り上げるべきだ。

 先に進んでも問題無い。ここまでの敵は、ソエモンを推し量るには弱すぎる。


 だから、もう少し強いモンスターと戦闘して、アーシャの認識よりも更に上であるかもしれないと、その実力と限界までを把握しておくべきだと、理性が囁く。


 それは欲だ。何かを握りながら、さらに別の何かを同じ手で掴もうとする行為だ。

 一度帰還して次の機会にすべきだ。アーシャは己の理性でも感覚でもなく、ただ先人の戒めに従って、採るべき行動を定めた。


「実感しないと受け入れがたいのよね。失敗しないと身につかないことってあるし。ただ迷宮の中だと……最低限の運がなかったら、気をつけても結局みんな死ぬけど」

「運があろうと無かろうと、それこそ迷宮に潜らなくても、人間最後には死ぬだろ」

「それもそうね」


 無情である。が、それもまた真実だ。


「とにかく帰りましょう。無事に町へと戻るまでが迷宮探索よ」


 ソエモンはもう何も言わず、頷いた。

 空気を読んでいるようには見えなかった。

 代わりに、迷宮の空気を感じているのだと、アーシャには思われた。




「来た道を帰るだけの簡単なお仕事です、っと」


 表情一つ変えず、アーシャが皮肉混じりの口調で呟くのを聞いた。


「さっさと帰るんじゃなかったのか」

「そのつもりだったわよ」


 ソエモンはすでに剣を抜き放っている。

 地下三階へと昇る階段、その手前だった。見たことのないモンスターが階段までの道を塞ぐように通路に立っていた。

 物理的には、すり抜けるのは可能だ。数メートルの隙間がある。


 そのまま通り過ぎることを許してくれるとは、どうしても思えなかった。人間で無い以上、それは敵である。ソエモンはこう認識しているのだが、敵の見た目が認識を大きく裏切っている。

 暗く深い地下迷宮には相応しくない、真っ白な翼を持った人型。


 言うなれば、天使だ。

 約五メートルほど先で、祈りを捧げるように両の手を胸の前で組んでいる。宝石のような澄んだ目は、きたばかりのソエモンたちを捉えた。

 小さく首をかしげただけで、他の動きはしなかった。面相は人間そのものだ。あるいはそれ以上だ。整いすぎた容貌は人間離れして、精巧な人形の造形である。


 翼は純白であり、血にも埃にも油にも汚されていない。服装は真っ白な薄絹を羽織っているかのようで、いやに扇情的な肉体がその衣の隙間からこぼれ落ちている。

 太ももは蠱惑的で、肌は光に照らされて白く、まばゆく輝いている。

 腕は細く、胸は出ており、身体のラインは、あまりに女性的だ。


 しかし殺意を感じない。即座に襲いかかってくるわけでもない。そんな敵が待ち構えているのだ。

 ソエモンは困った。攻撃してくる相手であれば、即座に反撃出来るというのに。

 天使は、微笑みをそのままに、口を開いた。


「〝ラニクド〟」


 悪寒を感じて、ソエモンは天使に向かって駆けだした。

 一息で剣を振り上げた。

 遅かった。およそ五メートルの距離を一瞬で詰められるはずもない。


 反応は素早かったが、間に合わない。天使との中間地点に唐突に雷球が出現し、破裂して膨れあがった。凄まじい音を立てながら、電撃が、通路を、縦横無尽に暴れ回る。

 面となって迫る雷撃に回避の望みはなく、しかしソエモンは足を止め、これより振り下ろす剣を握った両の手を絞り、どれだけの力を込めたのか、みしりという音が鳴るのを気にもせず、いざその一切を斬り尽くさんと――


「〝マバ・フラバ〟」


 アーシャの声が、呪文が、張り巡らされた雷撃を、一気呵成に押さえ込んだ。

 今にも触れるほどに接近した雷撃は、ぱしんと気の抜けるような音を立て、その一切がかき消えた。蝋燭の火を吹き消したかのような容易さだった。

 的が減った。すでに彼我を隔てる壁はない。あとは剣を振り下ろすのみ。


 気勢を上げていたソエモンは、半ばで止めた足を踏み込み、さらにもう一歩を進み、今だ微笑みを絶やしていないあの天使へと斬りかかる。

 ザシュ、と肉を切る音がして、天使は斜めに断たれた。内蔵は存在していない。身体の内側には、ただ空洞があるだけだ。所詮は、人間を模した姿でしかなかった。

 呆気なく、天使の残骸がその場に崩れ落ちた。


 周囲を探ってみると、地下三階への階段、その上方に死体があった。周辺を探索していたパーティーが下の階に降りようとして、その瞬間あの雷撃を受けたのだろう。焼け焦げて黒く炭化した死体が四つほどある。六人パーティーなら二人は逃げられた計算だ。

 不意打ちだ。地図の情報を鵜呑みにしていたパーティーでは、いや、鵜呑みにしていなかったとしても、この奇襲に対応するのは難しかったはずだ。


 迷宮内では何が起きるのか分からない。

 とはいえ地下三階、地下四階など、すでに調べ尽くされたはずの階層である。

 死者は戻らない。もはや、どうしようもない。


「攻略済み地図のメリットは消え失せた、と。余力を残しておいて良かったわ」

「出来過ぎな気もするが」


 口調こそ軽かったが、表情は硬かった。迷宮に絶対はないと分かっていた。それでも普通は起こりえない状況が発生してしまった。


「やることは変わらんな」

「そうなんだけど。もう少しこう、別の感想は無いのかしら」

「見た目は良い女っぽかったのになあ。もったいない」

「そっち?」


 ため息を吐かれた。


「殺気を感じなかったのはちと驚いたな。何かやるかもとは思ってたが、あそこまで容赦のない攻撃が飛んでくるとは……そういや、さっき詠唱を飛ばしてなかったか?」

「何となくやり口が予想出来たから、先に小声で詠唱して準備を済ませて状況が動くのを待ってただけ。あとは呪文を一言口にすれば対応出来るよう、後の先を取れるタイミングを計ってたのよ。ソエモンがいきなり飛び出したときは焦ったけど」


「ヤバイ感じがしたんでな」

「あんまり慌ててなかったけど。あのラニクド、自力でなんとか出来たの?」


 天使の口にした〝ラニクド〟は呪文、つまり力ある言葉だった。印象としては空間に罅が入るような感じで、強烈な雷が弾けて一定距離を埋め尽くす効果だった。


「さあな」

「斬ればなんとかなるとでも思ってたんでしょ」

「よく分かったな」

「……はあ」

「俺もひとつ聞きたいんだが。詠唱ってのは無視出来るもんなのか?」


 あの天使は、たった一言であれだけの魔術を行使した。

 アーシャがエリアルナイフを用いてやったのと同じように、呪文を唱え続けるだけで連発できるとしたら、それこそ近づくことすら出来なかったはずである。


「ものに拠る、としか言えないわね。さっきも銃に喩えたけど、詠唱は弾込め、呪文は引き金を引く行為よ。エリアルナイフなら、最初からその機構が組み込まれてる。だから弾込めまでは自動的にやってくれる。もちろんデメリットもあるけど」

「……あるのか」


「あるわよ。まず、魔力の運用効率が悪いわ。既製品の服みたいなものね。本職の魔術師からすると、必要なときに必要なだけ使えないのは……あんまり嬉しくないわ。コップの水を飲みたいときに、バケツでコップと同じ量の水を運んでこられたら、どう思う?」

「ふむ」


「あと、アレンジも効かない。あたしのよく使うフラメロ……炎の矢の魔術は、外皮に火の耐性があっても突き破れるように弄ってあるわ。あのナイフにはその手のアレンジが出来ない。腕の良い魔術師ならエジアラの魔術の応用で……そうね、任意の場所の空気を爆発させるとか、真空刃にして敵を切り裂くとか、理屈の上ではそこまで出来るはずよ」


 アーシャ先生の魔術講座が始まってしまいそうなため、話を戻した。


「人間には出来るのか?」

「出来なくは無いわね」

「歯切れの悪い答えだな」


「詠唱を省略して魔術を使うことは、理論上、出来るわ。ただ、あくまで省略ね。遺物みたいに内部にそのための機構を作る、というのはひとつの解答よ」

「体内に、そのための回路を作る、ってことか」


「あの天使もどきは、そうやって魔術を使ったんでしょうね。会話する機能を魔術のための回路で上書きして、口を開いて喋る。そのとき力ある言葉として、ラニクドを正確な発音で自動的に発音する。ある意味、ひとを殺すための機械みたいなものかしら」

「もしかして、殺気が無かったのは」


「本人……ヒトじゃないけど。悪意とかは無かった可能性はあるわね。普通に話しかけようとしたら人間が丸焦げになる雷撃が飛ぶ。趣が違いすぎる気はするわ」

「誰かに作られたとか、か」

「ありえなくはないわ。天使の姿をしたモンスターなんて聞いたことないし。でも、そんな技術のある人間がいるなんて。……いえ。それこそまさか、ね」


 ソエモンは側に転がっている半分ずつの天使を眺めた。

 動かなくなった天使は、どこか悲しげに微笑んでいる。


「たぶん核は無事だろうけど……魔石、回収しておく?」

「いや、やめておこう」


 アーシャは何も言わなかった。ソエモンも口を噤んで、階段を昇り始めた。

 炭化した四人分の輪郭の周囲には、肉の焦げた臭いが強く漂っていた。

 何かが起きる。あるいは、すでに起きてしまっている。

 その薄気味の悪い感触は、迷宮の奥から、ひたひたと這い寄ってくるようだった。




 幸い、と言うべきか。

 あの天使以降、イレギュラーは地上に帰還を果たすまで、もう起こらなかった。


「で、どうするんだ」


 アーシャは思案した。ここがもし迷宮都市で、二人が冒険者免許を持っていれば、冒険者ギルドに異常の報告をしなければならない重大な事案である。

 ここは地方であり、ギルドの管理下にない。加えて言えば、報告義務もなければ、報告すべき相手もいない。宿の多い区画の近くに、ラスティネイルと看板の掲げられた酒場がある。この町に何軒かある盛り場の中でも一番広いのがそこだ。


 暇を持てあました冒険者たちが昼間から入り浸り、カードで遊んだり、飲んだくれたりしている。夜には迷宮から戻ってきたパーティーが集まり、食事を取ったり、休息を取ったり、情報を交換したりもする。

 ギルドほど形式張ってはいないが、これもまた互助の一種だ。

 うらぶれていても冒険者を名乗るからには、そして一攫千金を目指すからには、それなりに知恵を駆使して動こうという気概がある。


 自然とそこの酒場のマスターは情報通となる。人材交流と称して実力と性格の合いそうな連中同士を紹介して、少ないながらも紹介料を得ているし、腕利きがいれば個別に声を掛け、傭兵や用心棒、護衛や運び屋の仕事を斡旋したりもしている。


 顔役だ。このひとを通しておけば間違いがない、という立場にいる人物である。

 天使については酒場のマスターに伝えておくくらいか、と考えをまとめた。

 顔を出した迷宮の出口で、近くにた数名の冒険者が集まってきた。


「い、いま、あんたら、迷宮から戻ってきたよな」


 声が震えていた。数名とまとめてしまったが、どうにも様子がおかしい。

 一人だけ蒼白な顔だった。残りの三人はどこか困惑した様子で、どうやら別パーティーの人間らしい。

 すでに陽は落ちている。空は暗く、月はほの明るく輝いている。大体の冒険者はすでに迷宮からの脱出を果たしており、これから、この四人も町に戻るはずである。


 どういった理由か。まず、アーシャは相手の装備と雰囲気から、どの程度の実力かを見極めてから答えようとした。

 何が起きたのかは分からないが、あまり良い空気ではない。

 先駆けて、ソエモンが口を開いた。


「そうだが。それがどうかしたか」

「て、て、天使に、あ、会わなかったか……?」


 がたがたと震えている。アーシャはソエモンと顔を見合わせた。


「それらしいのは見たけど」

「俺、俺の仲間が、あいつに殺されたんだ。凄い音がして、い、一瞬で」

「……地下三階の階段?」


 炭化した四人分の死体が脳裏を過ぎる。

 偶然生き延びたのが彼だ。そのまま脇目もふらずに逃げてきて、なんとか地上に辿り着いたところで、別のパーティーに保護されたといった顛末か。残りの三人も、困った表情を隠さない。生き延びた彼の話を知って、与太話と信じずにいるか。それとも、信じたところでどうしようもないと考えているのか。


「あんな、あんなことになるなんて。俺、俺は、俺はッ」


 肩を抱きしめるようにして、震え続けている男は、縋るような目をしていた。


「天使、そうだ。なんで天使が。そうだ。復讐しないと。みんなの仇を取って、取ってやらないと。俺が。俺がやらないと。で、でも、あ、あんなヤツ、どうやって倒せば。あ、ああ。一瞬で。一瞬だったんだ。シャーレイも。ヴィガーのやつも。リズも。スネスも。ロランだって。みんな、死んじまった。死んじまったんだ。俺。俺、行かないと。あいつを殺さないと」


 ぶつぶつと断片的な言葉をいくつも吐き出して、しかし足は動かない。

 アーシャたちが出て来た、いつも通りの迷宮の入り口を眺め、男は震えている。


「シャーレイが言ったんだ。ほら見て、天使サマよ、って。ヴィガーは怪しんでた。こんなところに天使なんかいるはずがねえって。リズは疑い深くて半信半疑だけど、みんなの意見が分かれると、いつも最後にはロランの味方をするんだ」


 言葉を遮るのは悪い気がした。彼の口を突いて出たのは、抑えきれない何かが別の形を取ったものだった。


「で、でも、スネスのやつが仕掛けるんだ。俺は違うと思うね! って、あいつはそうやって話を混ぜっ返すのが大好きで、ロランが大喝して、いつの間にかしっかりと話をまとめていて、俺はいつもそんなロランにくっついてて、ロランの言うことは大体正しいんだ。最後にはロランの判断に従うんだ。スネスが顔を見てやるぜ、なんて息巻いて、すごい形相でロランが逃げるぞって叫んで、俺は足をもつれさせて、リズが悲鳴を挙げて、それで」


 声が。声が聞こえたんだ、と男は小さく呟いた。綺麗な声が。


「そしたら、みんな死んだ。死んだんだよ。なのに、天使は、あの天使はにっこりと笑って、俺を見たんだ。俺はどうして生きてるのか分からなくて、たまたま当たらなかったんだって気づいて、周りはすごい臭いがしてて、黒い塊になってて、ロランの顔なんかもう、分からなくて、俺は、怖くてただ逃げたんだ」


 男が吐き捨てるように口にした。


「必死に逃げたんだ。頭が真っ白になって、なのに死ななくて済んで良かったって思って、あそこから地上まで逃げて、そうしたら、あいつらのことを置き去りにしたんだって、俺はただ逃げただけで。気づいたんだ。それで、俺は、生きてて良かったって、ほっとしたんだ。俺はクズなんだ。一人で生き延びたことを喜ぶクズなんだよ。俺、あの天使を殺さなきゃ。顔向け出来ないんだよ。リズのこと、リズを守ってやるって言ったのに」


 絞り出すような声だった。すすり泣いていた。その足は動かない。今にも迷宮に飛び込もうとしているけれど、彼はそれ以上動かなかった。

 アーシャは表情を消した。ただゆっくりと口を開いた。


「あの天使もどきなら殺したわ」

「……え?」

「殺した、って言ったの。もう仇は取れないわよ」


 男は怯えたように、アーシャの顔と、空中の何も無い場所とを交互に見て、震えの止まらない自分の手に視線を落とし、それからもう一度、え、とこぼした。


「そ、そんな。俺。俺は。どうしたら」

「知らないわ、そんなこと。……とりあえず、落ち着くまで町で休んだら? こんな場所にいても意味がないでしょ」


 うめき声が返事の代わりだった。


「あんたたち!」

「お、おう」


 三人の男たち。この生き残った男に縋り付かれていた彼らは、アーシャの冷静を通り越して冷徹に聞こえる言葉に、引いた表情を隠さなかった。


「暇なら、そいつを宿まで連れて行ってあげなさい」

「いや、俺らに命令されても……」

「陽も落ちてきたし、どうせもう帰るだけでしょ? ついでよ、ついで」

「おいおい、俺らにだって都合ってもんが」


 アーシャを窺う眼差しで見ていた一人が、仲間たちに声をかけた。どうやら町までは運んでくれることになったらしい。二人は少し不満げだったが、その一人の判断には逆らうつもりはないようで、歩くこともままならない男に肩を貸してやった。

 疑い深そうな男は、少しだけ立ち止まった。


「ふうん。なァ、後で聞かせてくれるんだろうな」

「そうね」

「オレもあいつから聞いて、天使についてはちょっとは気になってた。場所は、ラスティネイルでいいか」

「……明日でもいい?」

「ん? ……ああ、そうか。分かった。明日な」


「名前は」

「マイセンだ。そっちは」

「アーシャ」


「……そっちの兄さんは」

「ソエモンだ。何か二人でわかり合ってるみたいだが、俺も話した方がいいのか?」

「後で話してあげるから」

「そうか」


 怪訝そうな顔をしたマイセンに対し、営業用の笑顔を向けてやった。


「言っておくけど。天使もどきを斬ったの、ソエモンだから」

「へーえ」


 探るような目つきはソエモンにも向いた。動じた様子は全く無い。


「なるほど。お二人さんともスゲーお人らしい。でもな、あんまり他人に手を差し伸べてやっても……見合った見返りなんか戻ってこないぜ」


 嫌味っぽく言われた。アーシャは冒険者に成り立ての頃、この手の性格には結構な割合で遭遇していた経験がある。だから笑顔で返した。


「忠告どうも。じゃあ、よろしくね」

「チッ、オレのアドバイスは高いぜ」

「はいはい。後で奢ってあげるわ」

「うし」


 軽薄な笑い声を上げて、マイセンは去った。

 四人の男が町の方角へと遠ざかるのを見届けて、充分以上に離れたのを確認してから、アーシャは今のやり取りを説明した。


「あたしとマイセンの話、……どこが分からなかった?」

「後で情報を渡すから、今はさっきの男を町まで運んでくれ、って聞こえた」

「なんだ、分かってるんじゃない」

「マイセンってヤツが割とお人好しだってのもな」

「冒険者やってる男って、素直じゃないひとが多いのよね。こう、微妙にひねくれ癖があるっていうか。親切を言えないまま、警告や忠告が嫌みったらしくなったり、恩着せがましくなったりして、それで感謝されるとうぜえ死ねとか言い出すのよ。もう、ね」


 ソエモンが何か言いたげに口を歪めた。しかし何も語らなかった。


「なによ」


 ため息を吐かれた。


「男相手にはやらんだろ、それ」

「そうかしら」

「そうだ。やる側も、やられる側も、気持ち悪いだけだしな」

「……覚えておくわ」


 アーシャは眼を細めた。男の意地は見ていて微笑ましい。


「で、潜るのか」

「もう死んでるかもしれないけどね。今からは、やっぱり反対する?」

「行くなら急ぐぞ」

「どう考えても、お金にはならないわよ」

「分かってる」


 ソエモンは沈みきった空を見上げた。星は数多く煌めき、月は明るい。しかし輝くそれらを除いたすべては闇に染まっている。遺跡も影に包まれる。夜がどこまでも広がっている。


「他人に言葉以外を差し出す冒険者は、だいたい長生きできない」

「また、先人の言葉か」

「お金でも、命でも、手のひらでも、誰かに差し出すなら失うことは覚悟しないと」


 死ぬつもりはない。しかし、あの天使がいた。イレギュラーがあったのだ。無用のリスクを背負い込むことになることは自覚している。

 今日の目的はすでに果たされた。誰に頼まれたわけでもない。これは欲だ。時間制限があるために、あえて抑えることを放棄した欲だった。

 生き延びてしまった男には意図的に伝えなかった。五人のうち、死体は四つしか無かったということを。


 最後の一人。その生存の可能性を。その生存が、極めて困難である可能性を。

 マイセンは、アーシャの反応から読み取った。目敏いというか、抜け目がない。だからあの男を連れていってもらった。


 再びアーシャたちが迷宮に潜ることを知らせず、知られないために。

 帰路の中途にそれらしき死体はなかった。地図を持っていないために迷っているか、モンスターと遭遇してどこかの小部屋に逃げ込んだか。あるいは逃げ惑った先で、抵抗虚しくモンスターに殺されて死体となっているか。


 なんにせよ、放っておけば死ぬ。自力で帰還を果たす可能性はあるが、状況を考えると詰んでいる。問題は誰が逃げ延びた人物か分からない点だ。

 生き残りが居るかも、という思考は生き残った男にはなかった。

 すでに心が折れている男に、より残酷な事実を突きつけて何になる。


 力ある者の義務なぞくそくらえだ、とアーシャは割り切っている。しかし一方で、先達は後続に対して一定の優しさを向けるべきだとも思っている。

 自分がそうされたからだ。優秀な冒険者ほど、互助の精神の有用性を語る。与えられた親切を他者に再分配することで、継続性を作ろうとする。


 本人に返せぬ恩を、別の誰かに分け与える。

 普段は手など出さない。差し出すのは、言葉だけだ。実感という篩に掛けられ、経験によって磨かれた言葉だけが、自らを削ることなく他者に多くを与えうる。

 人間は学ぶものだ。学ぶとは真似ることだ。

 誰かに学ばせたいのであれば、まず率先して見本を見せなければならない。


「ま、なんとでもなる。行くぞ」

「よろしく、ソエモン」

「おうよ」


 そして二人は、虎口のごとき迷宮の入り口へと、再び足を踏み入れた。



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