おわりのはじまり
迷宮の暗い通路にあって、床に散った大量の鮮血は暖かみのない魔術の光に照らされ、ぬめった赤の輝きを返している。
己の斬り飛ばされた手首、その鋭利な切断面から滴る血の色はみなの身体から流れ出すべきそれと等しい。
首を刎ねられた魔術師、その振りかざした杖の先端の宝石が空しく光を映し込む。大男は構えた大盾ごと身体を斜めに両断され、信じがたいと言いたげな表情のまま事切れている。小男はナイフ片手に回り込もうとしたその姿勢のまま、心の臓を一突きされて絶命していた。剣を持った女は凄まじい術によって全身を灼き尽くされており、ただ一人無事な――いや、致命傷を負っていないだけで多くの傷を負い、今にも泣き出しそうな顔をしている――彼女は守り刀を手に、最後の抵抗をするために身構えている。
剣を持つ手を奪われた彼は、そんな彼女の前に一歩踏み出した。逆手に持っていた小盾を前に出し、こちらを傲然と見つめてくる二つの人影を睨み返す。ああ……と幼さを残した彼女が呆けたように、そしてどこか嬉しさの乗った安堵の息を吐き出すのを、背中に聞いた。
相手の一人に、斬られたのだ。彼の右手首から先は無い。そこから血は止めどなく流れ続けている。叫び出したくなるほどの痛みは、しかし普段通りに声を発することすら邪魔する激しさだ。じくじくと焼け付くような激痛はそのうちに麻痺してくる。痛みが強すぎて感覚の一部が壊れたのかもしれない。そう遠くないうちに意識を失い、やがて為す術もなく死ぬだろう。
だが、彼女を守るために、彼は遠くなりつつあった意識を引き留め、庇うように前に立ち続ける。
ふらつく足を踏みしめる。おぞましい怪物の爪牙、悪竜の口より吐き出される火焔、亡霊どもの虚ろな嘆きと対峙するのとはわけが違う。
見知った顔の二人に襲われたのだ。
油断していたわけでは、なかった。襲われる理由に心当たりはなかったが、立ち塞がるように現れたあの二人に挑み掛かっていったのは仲間の方が先だから、そうされるだけの理由があったに違いない。突然の戦闘に驚きはしたものの、彼は仲間たちの動きに咄嗟に制止の言葉をかけた。が、無視された。仲間たちは躊躇しなかったし戦闘を続行した。あの二人もまた当然の帰結として反撃してきた。
だから彼と彼女だけは攻撃に参加しなかった。
相手の力量は知っていた。
全員でかかっても勝てないであろうことは、彼にも想像できていた。
意味が分からなかった。なぜこんなことになったのか。
仲間たちがいかなる理由で彼らと戦い――殺し合いを始め、当然のように殺されたのか。
そしてあの二人は、彼の仲間達四名を殺した動きのままに、彼女を狙ってきた。
戸惑ったように動きを止めていただけの、彼同様、攻撃に参加しなかった彼女を。
盾で止めることは無理だと彼には分かっていた。あの大盾ごと切り裂かれた場面を見たばかりだ。どう足掻いても止める術はない。だから剣を用いて弾こうと試みた。わけのわからぬままではあったが彼女が殺されることを見過ごすことなど出来るはずもなく、彼は動いた。決死の覚悟だった。全身全霊を賭けた、生涯でもっとも素晴らしい一撃だった。
その渾身の一閃ですら、敵の剣閃をわずかに逸らすのが精一杯だった。
今の動きがなければ、彼女が斬り殺されていたことは自明だった。そして残ったのは、剣ごと手首を切り裂かれた彼と、続けて撃ち出された相手の魔術を何らかの手段で防いだ彼女。完全に防御出来たとは言い難い結果であったが、それでも致命傷は負わずに済んだ。
ただ彼の脳裏に過ぎる疑問。
そんな方法があるなら、どうして皆を守ってくれなかったのか。
彼も初めて見た、彼女の術。
これまで行動を共にしてきて、一度も見せてくれたことのなかった見知らぬ手法。
不意に生まれた彼女に対する疑念を飲み込んで、相手に向けて彼は叫ぶ。
「なぜ……なぜ、こんなことを……っ!?」
「……」
「俺はっ、俺は、あなたたちのこと……尊敬していたのに……っ」
二人の敵は憐れむように見つめてくる。
その視線に憎悪はなく、敵意も見えない。それは彼を見つめる視線においてのみ、だ。
目線が動き、彼女を見据える。そこに浮かぶのははっきりとした嫌悪と、彼に向けられた憐憫の欠片もないただひたすらに冷徹な眼差し。
眼前の二人のうち、赤い少女が口を開く。
「その娘を、庇うの?」
「何を……!」
「そう。……何も知らないのね、君は」
「だから、何を……っ!?」
「詳しい説明をしてあげたいところだけど……そうもいかないようね。まあ、切羽詰まってるのはそっちも同じか。これだけ力量差が明らかな相手に立ち向かう姿勢は嫌いじゃないけど、邪魔なのは確かだし……。そうね、ひとつだけ質問に答えてくれたら見逃してあげてもいいわ」
言い返そうとした瞬間、冷たい気配がぴたりと肌に突きつけられた。
鋭利な刃物が触れているような、そんな感触。
実際には一呼吸分の距離がある。にも関わらず、二人のうち男の方が向けてきた殺気が、まるで今にも斬り殺されそうな気配を首筋に浮かび上がらせていた。
そして助かるかも知れない。その言葉にすがりつきたくなる自分に気づいて、彼は愕然とした。
この二人は仇なのだ。
一緒に苦労を重ね、絆を深めてきた仲間達。そして幼なじみの。
彼らと仲間たちとのあいだに、殺し合うほどの何があったのかは分からない。
しかし、殺されたのは事実だ。
みなは死んだ。この二人に、みなは殺されてしまったのだ!
まるで藁のごとく、たやすく、鮮やかに、為す術もなく……。
身を焦がすほどの怒りを感じながら、後ろに守るべき彼女の存在が脳裏を過ぎる。
理由こそ不明だが、彼女もまた二人から狙われている。
短慮を起こしてはいけない。問答無用で殺しにかかってきてもおかしくない状況なのだ。
今は、少しでも状況の把握に努めなければいけない。
可能な限り、守り抜くための最善手を探さなければ。
冷酷、なのだろうか。怒りに身を任せて戦いを挑むべきなのだろうか。
逡巡のあと、彼は唇を噛み締め、相手の提案を呑んだ。
「庇っているその娘のこと、好きなの?」
「……何を……」
「いいから答えなさい。仲間の仇討ちを諦めるほどに、自分の命を呈してまで庇うほどに、その娘を愛しているの?」
「……ああ。愛してる」
後ろで息を呑む声が聞こえた。
身を竦ませた彼女に、ひどく冷たい声がかけられた。
「聞いた? ……良かったわね、せいぜい幸せを噛み締めるがいいわ」
「わ、わたしは……」
彼が咄嗟に振り返る。彼女の声には深い悲しみがあった。
恐怖ではなかった。それは悲鳴に似ていた。声ならぬ声が、彼女の喉から漏れていた。
「……帰るわよ」
「いいのか」
「仕方ないでしょ。もう、問答する意味すら無いみたいだし」
ずっと無言で居た相手の男は、剣を鞘に収めた。赤い少女は肩をすくめた。
二人は現れたときと同じように、迷宮の闇に溶け込むように消えていった。
彼と彼女が残された。
四人の死体が転がる床を見下ろしながら、彼は混乱と、それ以上の安堵に包まれていた。
少なくとも命は助かった。見逃された。それ以上のことを考える余裕はなかった。
冷たくなった仲間達の亡骸が横たわったまま、どこか空々しく彼と彼女を取り囲む。
彼は震える彼女を安心させるように手を伸ばすが、しかし彼女は触れられた瞬間、ひ、と息を漏らし、呻き、その場で泣き崩れた。
血で濡れた床に手を着いて、悲痛な声で泣き続けたのだった……。