碌、《秘すれば花なり》
1、
最終日たる明日を待たずして、決着の時は訪れた。
カナの前に、人影がひとつ。
遠く夕焼けが紅く燃えていた。修練場の木々の向こう、稜線の彼方に、じりじりと夕陽が落ちてゆく。まばゆい太陽を背にして、総司がこちらに向かって歩いてくる。
足下に長く伸びる影、表情も逆光となっていて見ることが出来ない。浮かべている表情は戦意溢れるものだろうか。それとも別の感情を抱いているのか。
地刀流を学ぶことを許されず、名字すら与えられなかった。カナは捨て子だった。石川家に拾われた身で、育ててもらった。だから家には何も望まなかった。代わりに剣の道を目指した。地刀流でなくとも構わない。ただ、自分の身ひとつで極められるかもしれぬものをと。
今でこそ折り合いを付けたが、カナの抱いた心情は複雑なものであった。
内心に抱えているものがあるのはカナだけではない。総司も同じだと、なんとなくではあるが知っていた。たとえばカナを見る視線、天音へ向ける眼差し、父への言葉。態度の端々に、ふとした瞬間に垣間見える本心。そこにはカナに対する敵愾心が覗いていた。
家を飛び出し、ほとんどを外で生活しているカナではあったが、ちょくちょく家には帰っているため総司と顔を合わせることは多い。あまり長く家を空けたりもしないから、家族としての関係は続いていると言える。少なくとも、天音や父を通して兄弟として振る舞ってはいた。
一方で、昔から兄らしいことも、弟らしいこともした覚えはなく、どちらが上なのかを決めたことも無かったように思う。
ある日、総司が己に隔意を持っていることに気づいた。気づいたからといって、どうすることもなかった。カナにしてみれば持たざる者は自分であり、総司はすべてを持っていたからだ。嫉妬や羨望するとしたらカナが総司に対してであり、逆はありえない。理由の分からない隔意は、いつしか深く沈んだ澱のようなものとなり、やがては敵意へと変質していったのかもしれない。
試しの儀。誰憚ることなく剣を合わせることが出来る。その結果一方が死んだとしても問題にならない。カナは挑戦者であると自覚していた。総司が天才であることに否やはなく、だがそれにどれだけ追いすがれるかをずっと考えていた。
総司にとっては、どうだったのだろう。この試しの儀は、いかなる意味を持っていたのだろう。カナは初めて、それについて思案した。おそらくは他の参加者たちを根絶やしにして、こうしてカナの前に立った恐るべき地刀流剣士、宗家にして師範代、石川総司という男について。剣の腕を争う。それだけで終わらないことは覚悟していた。
総司が発する気配は鬼気迫っており、殺意とも敵意とも、あるいは狂喜とも思える凄まじい感情の空気が彼を取り巻いていた。
カナの目に映った総司は、その剣に、腕に、顔に、身体に、全身にと、ありとあらゆる感情を渦巻かせ、今すぐカナを打ち倒さんとして飛びかかってきそうだった。口上を述べる程度の冷静さは残っていたようだ。
「カナ。やっぱり最後に立ちふさがるのは、君だった」
「もっと早くぶつかっててもおかしくなかったはずだ。……単なる偶然だろ」
「よく言う。君は負ける気なんて無かったはずだ」
「かもしれんが」
「僕はね、ずっとこの機会を待ち望んでいた。誰にも邪魔されず……カナ、君をこの手で斬りたいと。たぶん五年、もしかしたら十年以上……この日を待っていたんだよ」
カナには理解出来なかった。総司は、兄弟として育った石川総司は、こんな男だっただろうか。こんな風に狂気を全身に漲らせ、ただ剣呑な殺意を抑えることもなく噴き出させるような、獣じみた剣士だっただろうかと。
「総司。お前、何を言ってるんだ」
「そうか。そうだった。君は知らなかったんだね。僕としたことが」
「知らないって、何をだ」
「石川家の本当の子供は、君だよ。カナ。……捨て子は僕の方だったんだ」
今にも剣を抜きそうな感情の奔流を無理矢理押さえつけ、総司が語る。
カナは、その言葉の意味を吟味する。
「意味が分からん」
「父上……いや、当代石川添問こと、地刀流宗家石川真之介が拾ったのは、僕だ。彼は僕を実子として扱った。本当の嫡男たるカナ。君には剣気が無かったから」
「……取り替えた、ってことか」
「そうさ。地刀流として絶対に必要な剣気の才。カナはあまりにもそれが少なかった。剣気の量は生来のものだ。生まれた瞬間に分かっていたはずだよ。そして彼は直後、自分の家の前に捨てられていた赤ん坊を見つけてしまった。そこに人並み外れた剣気の才を見出したなら……」
「俺と総司とを入れ替えて、これが地刀流宗家の子でござい、とやらかしたのか」
「聞けば納得しただろう? なぜ名字を与えないのか、なぜ地刀流を学ばせないのか。彼にしてみれば苦悩の末の決断だっただろうね」
身体から湯気が立ち上るごとき炎熱の激情と反して、声と視線は凍てついている。
「待て。どうしてそれで総司が俺を敵視する必要がある」
「僕はさ、認められたかった」
「誰もが認めてるだろう」
「彼に、父上に、認められたかった。だけど、父上はいつも君のことばかり見ていた。常人以下の剣気しか持たず、地刀流を学ばせることもなく、なのに自由気ままに家を飛び出して、勝手に剣の修行を始めた君を。父上にとって、僕はただの道具だった」
総司は静かに語った。血を吐くような、低い声だった。
「地刀流を継がせるために運良く手に入った、都合の良い道具。父上にとって、天音と君は愛おしい我が子で、僕は手入れしなければならない道具だった……!」
「そんなことは」
無い、と告げようとして、カナは口ごもった。あの父と長年に渡って生活を共にし、カナより五倍も十倍も同じ時間を過ごした総司がそう感じていたのならば、もはや何を言っても聞く耳を持たないだろう。総司にとってはそれが事実だ。あるいは真実そうなのかもしれない。カナには論破することも、説得することも無理だった。
「だから、俺を殺したいと」
「そうだよ」
「たとえば、ここで俺が負けを認めたら?」
「それでも……殺すよ」
総司は微笑みながら、そう口にした。
「僕は二十一代目石川添問になる。父上がそう望んだからだ。宗家として育てられ、地刀流最強たらんとして今まで生きてきた。僕の存在価値はそこにしかなかった。負けるわけにはいかない。勝ち続けなければならない。そのためにカナ、君には死んで貰うしか無いんだ」
「つまり、俺が憎いのか」
「僕はね、ずっと君が嫌いだった。最初は守ってあげる対象だった。誰よりも少ない剣気の才しか持たない君。父上から地刀流を学ぶことを禁じられて落ち込んでいた君。僕はカナのことを守らなきゃいけない存在だと思って、自分が地刀流を学んで強くなろうって思った。でも」
「……総司」
「ある日、僕は教えられた。僕は君の代わりなんだって。カナの剣気の量がせめて人並みにあれば、捨て子だった僕はそのままどこか別の場所にやられていた。あるいは死んでいたかもしれない。もちろん感謝しているよ。僕はカナのおかげで生き存えて、石川家に貰われ、石川の名字を与えられ、石川総司としての人生を作ってもらった」
「総司っ!」
「でもさ、逆に言えば、カナのせいなんだ」
カナは、何も言わなかった。
「僕は君を殺さなきゃいけない。真の意味で石川家の宗家たるために。石川添問を名乗るために。父上の息子であり続けるために。僕は……君を殺すよ」
剣を構えるが、しかし、やりにくい。総司の想いは八つ当たりであり、逆恨みに近いものだ。それをカナにぶつけることは、ただ彼の気晴らしにしかならないだろう。
これは復讐なのだ。石川総司という男から、カナという人間に対しての。
カナの逡巡を見て取ったか、総司は不意に、言葉を漏らした。
「そういえば、復讐と称して天音を誘拐しようとしている一派がいるらしいよ。ダメじゃないか、カナ。ちゃんと天音のことを見てないから、そういうことになる」
「……待て。何の話だ」
「自分が無事に試しの儀から帰ってこない限り、天音の無事は保証されない。ここに来た彼は、だいたいそんなことを言ってたよ」
「総司、お前まさか」
「うん。その言った張本人は殺しておいた」
それが何を意味するのか、カナは一瞬理解出来なかった。
あるいは理解したくなかった。
総司は、妹である天音のことを、たとえ血が繋がっていなくとも、妹として一緒に過ごしてきたのに、大事には思っていなかった。
そういうことだ。
「ねえカナ。僕が何を言いたいか、分かるよね」
「さあ、な」
「察しが悪いなあ。それとも分からないフリかな。まあいいや。戦わずに逃げるのなら、僕はここから出たあと天音を殺すよ。いや、僕が何もしなくても死んじゃうかな。もしかしたら死なずに済むかもしれないけれど、その場合は純潔は無惨に散らされて、女性としての命は終わるだろうね」
カナは表情を消した。
「うん。ようやくやる気になったみたいだね。まったく……遅いよカナ」
「天音を助けようとは、考えてない、わけか」
「僕が勝者として修練場から出た時点で、天音はひどい目に遭わされるのかな。今は無事だと思うけど……そうじゃないと人質の意味が無いし。あるいは父上か、地刀流の他の弟子が未然に防いだり、助けに行っている可能性もある。それに賭けるのもいいね」
「分かった。もう黙れ」
「カナが万が一僕に勝った場合には、助けられる可能性はあると思うよ。ほら、君は石川家の一員であり、父上と血の繋がった息子だけど……地刀流じゃないからね」
「黙れと言った」
「ひどいなあ。天音が助かるかもしれない道を教えてあげてるんじゃないか」
カナは無言で剣を抜いた。
薄笑いを浮かべ、総司は剣を構えた。
「一応、言っておこうか。地刀流宗家、師範代、石川総司……参る」
2、
カナは総司が天才と呼ばれる所以を見せつけられた。試しの儀より前の時点で、総司の強さを象、自分を蟻と仮定していたが……それどころではなかった。
疾風斬は、風の刃を用いて剣の間合いの外に攻撃するための技ではなかった。相手を的確に追い詰めるための布石だった。
避けた場所に次の疾風斬の一撃が、さらに移動すれば先手を打たれている。直線で飛来する風の刃にも関わらず、総司のそれは自由な身動きを許さない。
雷神剣は、素早く飛躍し、単に振り下ろすだけの単調な技ではなかった。まさか天より降るはずの雷撃が突然横から来ると誰が想像出来るだろう。
斜め上、横、下、そして上。縦横無尽、どこに身体を向けても瞬時に雷神剣が跳ねてくる。地摺りから顔面目がけて高速の一撃が来たとき、カナはそれが雷神剣であることに気づけなかった。
懐に入ろうとした瞬間、紅蓮斬が使われた。直接当てられたわけではない。目の前の空気に叩き付けられたのだ。その途端、爆風がカナの全身に襲いかかってきた。
接近すら許さない、完璧な距離の操作。
カナは不動剣すら使わせることが出来ずにいた。地刀流の基本たる三つの技を総司に使われるだけで、ほとんど弄ばれていた。かといって総司は油断しているわけでも、カナを見くびっているわけでもない。的確に追い詰め、確実に捉えて放さない。
カナは直撃こそもらっていないが、かすり傷が増えてきていた。動きが見極められていると考えるべきだろう。
「カナ! どうした、攻撃をしてこないのかいっ!」
「うるさい」
「僕はまだ不動剣を使っていないんだ。今なら君でも勝てるかもしれないよ!」
こんなに嫌なヤツだっただろうか。カナは総司の声に含まれた侮蔑に苛立った。
挑発だと分かっている。声にそうした色を乗せているのも、わざとだろう。分かってはいるが、気にくわないのは事実だった。不動剣を使われる前に倒す、というのはカナもずっと考えていた対策のひとつだったが、総司の言葉で考慮に入れるべきか否かがはっきりした。無駄だ。総司はきちんと切り札を持っている。
不動剣は見せ札であり、本当の奥の手はさらにその先がある。
こういうときばかり、総司の性格から見抜いてしまう自分に嫌気が差す。
もはや壊れたと言っても良いが、少なくとも一昨日までは自分たちは家族だった。長い付き合いなのだ。どういう風にカナを追い詰めようとしているのかは、このやり取りだけで、おおよそ分かってしまう。
問題はカナに対抗する術が無い点だ。剣気を遣っている地刀流剣士は身体能力の底上げもされている。そもそもの地力が違いすぎる。
ありがたいことに、総司はカナを警戒している。
腐っても鯛とでも考えたか、それとも獲物を狩るために全力を尽くすのか。初っ端から不動剣を連発され、間合いから逃れる前に斬られていたら敗北が確定していた。
いきなり不動剣を使わず、様子見から始めたのは殺す殺すと良いながらも今日まで機会を待っていた総司らしい慎重さだ。
「僕の剣気が足りなくなるのを待っているなら無駄だよ。いくら使っても剣気が不足するという感じがしないんだ。もちろん少しは減っているけどね。……ああ、試しの儀はこのためにあったのかな。うん、それはありえるな。どういう仕組みか分からないけど剣気を増やすためにわざわざ……そうか。だから、呪符か。だから殺し合いなのか。これが。このために」
総司は独り言のように、自分だけで納得する言葉を呟き続けた。
「……カナ。君を生かして返すつもりは元々無かったけど、逃せない理由がもう一つ出来たらしい。僕は君を殺せば、この剣気がさらに増えるみたいだ。もう僕より剣気が上の人間なんていない気がするけどね……ヒノモトは広いから、どこかにはいるかな。まあどうでもいいか。呪符に溜め込まれた剣気と、君の命の分。それを僕は奪うだろう」
言葉は滑らかだった。溢れ出る言葉をただ吐き出し続けていた。
「ああカナ。つまりそれは、君のわずかな剣気がこれからも僕の中で生き続けるってことだ。……僕は本当に父上の息子として存在できるんだ。それは素晴らしい。とても素晴らしいことだ。うん。そういうことなら僕が勝った場合にも天音を助けるために少しくらい労力を割いてあげてもいいよ。君の命が僕の中に息づいているのなら天音も僕の本当の妹として扱ってあげなきゃいけない気がしてきたし」
カナは口を挟まなかった。総司には言葉は届かないのだと思った。まるで自分を納得させるかのような響きだった総司の独白は、だんだんと熱を帯びていった。だが向けられた視線に、カナの姿は映り込んでいなかった。
兄弟同然に育ってきたはずだった。真実がどうあれ、少なくとも家族としての体裁はあったはずだった。総司にとって、カナはもはや餌にしか見えていない。人間として扱うつもりも、無いのだろう。
そうだ、あれほど強烈な情念を向けていたカナに対し、総司はその剣に、視線に、何ら強い意志を込めてはいない。
先ほどまでは確かにあったはずの感情が、怒りが、悲しみが、何もかもが混沌とした狂気ですら、総司が浮かべた薄い笑みには残っていなかった。
笑みを浮かべながら、能面のような無表情だった。ひとしきり語り終えると、総司はゆっくりと構えた。
不動剣である。カナも見慣れたその動きには、しかし鋭さや恐ろしさが欠けていた。ぴたり、と剣を青眼に構える。
カナは、空疎な剣と一瞬でも感じた自分の愚かさに気づいた。鋭くはない。恐ろしくもない。空っぽの剣だ。そこに剣士の意思は存在しない。だが、そんなことはもはや関係ないのだ。何も無いその空虚の発露は、人間が見せて良い姿ではない。おぞましいほどの空白の剣。一切を吸い込み、ただ何もかもを消し去るだけの刃。虚無の剣だ。
カナの知る不動剣はこんな技ではなかった。まだ人間の振るう剣であると認識出来ていた。
これは、違う。違いすぎる。
総司は、誇るようにその技の名前を口にした。
「これぞ神妙不動剣……さあ、カナ。君はもう僕の間合いの中だ」
3、
これまで何度となく語られてきたように、不動剣は防御の技である。
その場に立ち剣を青眼に構え、剣気を周囲に網の目状に、あるいは蜘蛛の巣状に、立体的に、結界のごとき領域を作り出す。その領域が不動剣使いの間合いとなる。
どんな攻撃にも対してもその動きを察知して機先を制し、魔力、いやさ剣気による不可視の刃を望んだ位置に発生させることであらゆる敵を斬殺する。逃げることも防ぐことも許さない死の空間を、自分を中心に張り巡らせる恐るべき技だ。
しかし、神妙不動剣なるこの技には、単なる不動剣とは決定的に異なる部分がある。同じ不動剣によっては防げない、絶対的に攻撃の技である点だ。
総司は剣を構えてはいるが、あれすら本来不要な動きだった。総司が知覚できる範囲全てに、あの剣気による不可視の刃が突如として発生する。その場所も数も威力すらも自由自在。
本来の不動剣のように後の先、先の先を奪う反撃ではなく、自分の領域内に侵入した他者を殺すことだけを目的とした真の意味での必殺だ。カナがまだ殺されていないのは、あくまで総司が本気になっていなからに過ぎない。
宣言されたとおりに間合いの中にいるのだ。逃げれば首元に、足下から、頭上から、ありとあらゆる虚空から、無数に現出した不可視の刃がカナの全身を貫くだろう。
斬りかかりに行く場合でも結果は同じだ。身動きが取れない状態の、まさしく蜘蛛に囚われた蝶がごときカナを、捕食者たる総司が嬲っているだけの構図だった。
総司に声は届かない。分かっている。だから、これはカナの悪あがきだった。
「地刀流の言う剣気って、魔力らしいな」
「そうだね」
「知ってたのか」
「そりゃあ、ね。術師の剣気の多さを一度でも見れば、これがどういう性質のものかは分かるよ」
答えが返ってきたことに半ば驚きながら、カナは続けた。
「なあ、はぐれ妖魔がなんで人を襲うか知ってるか」
「……時間稼ぎかい? 無意味だと思うけど」
「外に出て、自分が生き延びるために、人間の魔力を狙ってくるんだと。で、何人も何人も殺しているうちに妖魔は強力になり、凶悪化して、名付きって呼ばれる性質の悪い大妖魔に変化する」
総司は口を閉ざした。カナが何を言いたいのか、分かったらしかった。
そこには動揺は全く見られなかった。
「この試しの儀ってのは、それと同じことをしてたわけだな」
「そうだね。そして君も参加者の一人だ」
「ああ。別にそのこと自体に文句は無い。が、総司。お前さ」
「……何かな」
「そんなに強くなって、どうするんだ?」
ぽかん、と総司は口を開けた。それまでの空虚さ、無表情な笑みからは考えも着かないほど、ひどく人間味に溢れた表情だった。
「君が……カナ、君がそれを言うのか」
「俺が剣に惹かれたのは、家族に……お前も含めて、認めて欲しかったからだ。途中から自分がどこまで出来るのか、どれだけ強くなればお前に追いつけるのか、そればっかり考えてたが」
「……僕は」
「分かってるんだろう? どこまで強くなっても、石川添問なんて名前を貰っても、結局お前は満足できない。強さの先に果てなんかないし、一番欲しかったものはそんな場所には無いんだから」
「分かったような口を利かないでくれ。君には僕の気持ちなんか、理解出来ない」
「……総司。お前だって、俺の気持ちなんか考えたことは無かっただろ」
よほど図星を突いたのか、総司ははっとした。
「カナ。こんな話を始めたのは、どうしてだい」
「ちょっと冷静になってもらおうかと思ってな」
「余裕ぶっても、手の震えは隠せていないようだけど」
「そりゃ死ぬのは怖いからな」
「あはは、よく言うよ」
渇いた笑いだった。それを見据えて、カナは静かに続けた。
「この期に及んで見逃してくれなんて言うつもりはない。殺し合いなんてゴメンだ、って言ったってもう聞かないだろ。だからさ、兄貴」
「いつの間に僕が兄って決まったのか、聞きたいところだけど」
「俺は総司……兄と違って人間が出来てるからな、こういうところで譲るのさ。で、だ。ひとつ賭をしようぜ」
「僕がそれに頷くとでも?」
「良い話を教えてやるよ」
「内容次第だね」
「俺が勝っても、当代……つまり親父殿は、俺に地刀流を学べとは言わんそうだ。絶対に無いとまで念押ししてくれたぞ。どうだ、良い情報だっただろ?」
「それのどこが」
「俺にその剣気とやらを集めさせて、人並みに地刀流を使えるようにしてから、実はこっちが実子でしたなんて親父は言わないってことだよ。安心しただろ」
総司は、長く息を吐き出した。それからカナを見つめてきた。
「……賭けの内容は?」
「俺はこれから負けを宣言する」
「カナ」
「勝負を捨てようなんて話じゃねえよ。俺の持ってるなけなしの剣気と呪符を、勝ち負け以前に先に譲渡してやるって話だ」
「カナ。それは賭の対象にならない。呪符に溜まった剣気は、敗北宣言ではなく、相手を殺すことでのみ奪えるからだ」
「そうなのか?」
「と、思うよ」
いつかのように、少しだけ気安いやり取り。
しかし互いに何を考えているのか分からないままに、会話は続く。
「まあ、それならそれでいいや。敗北宣言して呪符がそっちに移れば、その段階で総司の勝ちが確定するだろう?」
「……カナ。もしかして、規則をしっかり読んでなかったのかい。一度負けても、呪符を持っている相手に勝ちさえすれば、奪い返して勝者としての権利は発生するんだ。まだ明日の朝、日の出まで時間は残っているし……修練場の入り口まで戻らないと、勝者としては認められない。つまり、君を殺さない理由にはならないんだよ」
「そうだったか?」
「そうだよ」
少し困った顔で、カナは首を傾げる。
「参ったな」
「負けたことにして、天音だけ先に助けに行きたい、ってことかな?」
「まあ、そんなところだ」
「本心かな」
「好きに受け取ればいい」
カナを殺して得られる剣気の増大量などたかが知れていた。呪符にはほとんど溜め込まれておらず、勝ち抜いて来た相手も殺さずに終わらせたことが多かったからだ。
総司は少しだけ考えていた。
「カナ」
「俺の負けだ!」
総司に何か言われるより先に、敗北宣言をした。非難がましい目で見られたが、カナとしてはもはや剣気の増加云々などどうでも良かった。十六あった呪符の数字はカナの手の甲から失われ、総司の数字に加算された。胸元に覗いたその数字は四十九。呆れたように見つめられたが、カナはにやりと笑って勝ち誇った。
「殺し合う理由をひとつ減らしてやったんだ。そんな目で睨まれる理由は無いな」
「君は本当に……そのくらいで神妙不動剣から逃れられると思ったのかい?」
「……バレてたか」
さりげなく呪符を捨てたかった。押しつけたかった。これがカナなりの不動剣対策の一つであったことはしかし、呆気なく見破られてしまった。
地刀流がこの試しの儀において勝ち続ける理由のひとつが、これだった。
呪符には魔力が溜め込まれる。それは剣士や術師と繋がっており、常に起動しつづけている。ならば、それを目印として不動剣の精度を上げることは容易いはずだ。カナはそう推察した。それは正しくはあったが、もはや情勢に変化を与えるだけの意味は持ち合わせていなかった。
地刀流最強の剣士『石川添問』を作り出すための儀式。呪符の知られざる効力は、敗者から命と共に剣気を奪うだけではない。呪符を貼り付けていることにより相手の動きを盗み、不動剣使いをより一層の優位に立たせる仕組みなのだ。
呪符そのものに不正は無い。呪符には参加者に知らされている以外の効果は無い。魔力を溜め込み、数字を奪い合わせ、最も多く集めたものが最強の剣士と認められる。
だが、その仕組みゆえに呪符は魔力を発する。これを感知できるならば、それだけで相手の状況を把握出来るようになる。しかし、相手に呪符など無くても、不動剣の有用性は変わらない。優位たらしめるひとつが消えたところで、劣勢になるはずがないのだ。
「よく気づいたなとは思うけど、それだけだよ。……それで、カナ、ここから盤面をひっくり返す一手はあるのかな」
「情も理屈も意味がないなら、あとは実力行使しか無いな」
「長かったよ、君の話に付き合うのは」
「そうだな。俺たち、こんなに話したことが無いもんな」
「天音だったら勝手に話し続けて、気がつけば夜になっていた、なんてこともあるんだろうけどね」
どちらからともなく言葉を消し、互いに剣を構える。この最中も、ずっと神妙不動剣は発動されたままであったが、やはり総司の消耗の度合いは少ないと見るべきだった。
カナは嘆息した。破綻したとはいえ、総司は家族だった。死ぬか殺されるかしか道が残っていないというのは、ひどく馬鹿げたことに感じられた。だが、総司の望みである。たとえここを切り抜け生き延びたところで、わだかまりは残り続ける。相容れないと総司が感じていることは替えようが無く、問答のたびカナは諦めを強くしていった。
4、
随分と長く話し込んでいた気がする。互いに剣を構えてからの一瞬は、それと同じくらい長かった。総司が神妙不動剣なる技を使い、カナを殺そうとしている。一度も見たことのない技を避けるも防ぐも、カナには不可能であると思われた。
総司が動いた。そこには一切の躊躇はなかった。カナが防ぐ動き、避けようとする動き、その両者に対応した位置に不可視の刃が現出し、これを避ける術は無いはずだった。
だが、カナはその魔力による殺戮の刃を、見えないはずのそれを、まるで見えているかのように的確に躱した。紙一重の動きだ。その証拠に、躱しきれなかった僅かな刃がカナの肌を数カ所切り裂いていて、血が滲んでいる。
一歩、カナは近づく。総司は再び神妙不動剣の間合いにいるカナを殺すため、無数の刃を乱れ舞わせる。頭上から背後から斜め下から、何の脈絡もなく現れては死を振りまいていく斬撃は、カナが一歩を踏み出した先には届いていない。
カナは澄ました顔をして、当たり前のように。
逆に、総司は驚愕を顔に張り付かせていた。
「何故だ」
「凄まじい技だな。……だが、総司。お前が使い手なら、なんとかなるらしい」
「嘘だ」
「嘘じゃあ、ない」
また一歩。およそ六歩ほどの距離しか無かったが、カナは真っ直ぐに歩いてはいかなかった。ただ総司が振り回す危険な刃を、神妙不動剣が描き出す死の隙間を、疲れた動きですり抜けていく。見えていた。今こそ、カナには、すべてが見えていた。総司がどのように狙い、どのように殺そうとしているか。
それが完全に理解出来ている今、その斬撃に当たることはありえなかった。
「普通の不動剣に今からでも戻した方がいいんじゃないか」
「……カナ」
「まあ、どっちでもいいんだ。俺は」
半ば助言であった。あの総司がこんな無様を晒しているところは、カナは見たくはなかった。
本当は、勝ち目は薄いと思っていた。あるいはそんなものは無いのかもしれないとも。だが、勝敗なんて言葉だけのものだ。負けることと死ぬことは同義ではなく、生きることと勝つこともまた異なるとカナは知った。
死ぬ覚悟を決めた。しかし生き延びなければならないとも思った。カナが見ているものは勝ち負けではない。生死ですらない。その先にあるものを見つめている。
おかしなものだ。あれほど恐ろしかった総司の剣も、もはや絶対的なものではない。
神妙不動剣。それは完璧な技だった。最強の名に相応しい地刀流の秘奥。
だが悲しいかな、総司には大事なことが見えていない。天才と称され、勝者としての人生を送ってきた総司には、カナが見透かしているものの正体を掴めない。
ただの一撃でよいのだ。それだけで殺せる。なのに。どんなに凄まじい技も、どれほど完璧な術も、使うのは結局のところ人間だ。
だからこそ。
見よ、気づけばカナは総司の前に佇み、上段に構えている。火の構え。攻撃の意思をこれでもかと込めた、守りを捨てた攻めの動作。
だが、その攻撃に総司は頓着しない。本来の不動剣の要素もまた、この神妙不動剣は持ち合わせているからである。
すなわち防御のための感知と、半自動的に行われる反撃。不可視の刃が避けられ続けたが、カナがその剣を振り下ろす、そのときこそ勝負は決まる。
カナの首が跳ね飛ぶ光景。それを幻視したのだろう。
こみ上げた喜悦に表情が歪む総司の、神妙不動剣がもたらす絶対の守りは、しかし、カナが振り下ろした一閃により、丸ごと断ち切られた。
爆ぜるような一振り。構えた剣も脳天から股間までも肌に覗いた数字も何もかも一切合切を両断する、その秘剣。
隠し剣、火の粉。
空しいほどに、嫌な感触は無かった。肉を断つ瞬間のそれ。あるいは家族を斬る感覚。そうした一切は斬撃には何一つとして残らなかった。
「……弔うことすらしない弟で、すまん」
カナは独りごち、急ぎ修練場の入り口へと駆けた。総司の言葉にどれほどの本意と、正しさが含まれているかは判然としない。しかし、天音が窮地に陥っているのなら。まだ最終日の朝までは時間がある。急げば間に合うかも知れない。
勝者であることを隠し、町中を駆け回れば。
天音。どうか、無事でいてくれ。天音。カナは、走り続けた。あるいはまだ他の参加者が残っていたのかもしれない。しかし、脳裏からはすっかり消え去っていた。
5、
カナは修練場を駆け抜け、ようやく入り口へと帰り着いた。
修練場に入るときくぐった切通の狭い穴を境として、向こう側が白い靄によって遮られている。一瞬どう動くべきかを迷った。
精神的にも肉体的にも天音は強いとは言えない。急いで助ける必要がある。しかし、派手に動いてカナが天音の救助を目的としていることが知られてしまえば、今もし天音が無事であっても、その危険は格段に跳ね上がることは言うまでもない。
父に、当代石川添問に告げて大々的に探すべきか、それともまずは自分一人で隠れて調べるか。
二日目の晩である現在ならば、この入り口前で待ち構えている者はいないだろう。
だが、これもカナの勝手な希望に過ぎない。切通の向こうは靄のせいで見えない。天音を攫った連中の仲間が監視しているか、周囲に潜んでいるかを知る術は無い。
カナは躊躇したが、切通をくぐった。誰が待っていたとしても、すぐに動けるよう覚悟だけはして。白い靄を抜けた先には、果たして予想外の顔があった。
「お兄さまっ」
そこにいたのは、紛れもなく妹の天音であった。窮地にあったかもしれない天音が、修練場の入り口、その前で待っていた。カナは安堵の息を漏らした。
「……天音。無事だったか」
「はいっ……お兄さまも」
「ああ」
様子を見るに、怪我をしている様子は無い。カナを見上げる表情には深い不安が覗いていたが、さほど憔悴しているようにも見えない。杞憂だったか。あるいは父が動いたか。カナが疑問を口にするより早く天音がおそるおそる口を開いた。瞳は揺れていた。それを言葉にしてしまうことに恐怖を抱いているようだった。だが、問いは発せられた。
「その、総司お兄さまは」
「死んだ。俺が斬った」
「……そう、ですか」
この場所に戻ってきたのがカナだった時点で、予想はしていたのだろう。天音の瞳からは大粒の涙がいくつもこぼれ落ちた。天音にとっては、総司も大事な兄だった。カナは総司の残した言葉を胸にしまい込んだ。自分だけが知っていればいいことだ。
やがて天音が落ち着いた頃に、カナは気になっていたことを尋ねた。
「天音。どうして今、ここにいるんだ。まだ刻限には時間があるはずだ」
「それは」
「……襲われなかったか。地刀流に恨みがある連中がお前を狙っていると聞いた」
「お兄さま」
天音は表情を曇らせた。
「天音は助けていただいたのです。その、不思議なお姉さまに」
誰だろう。ふと思い浮かんだのは、あの巫女だ。狂死朗の友人であるという、呪符をカナに押しつけて参加を辞退した、あの。
だとすれば、これは偶然だろうか。いや、どこまでが。
「その方が仰ったのです。もう決着が着いている頃だと。ひどく傷ついているから、天音の顔を見せて慰めてあげなさいと。それで、その方が嘘を仰っているようには思えなくて……」
「そう、か」
「お兄さま。その」
「なんだ」
「どうして、そんなに泣きそうなお顔でいらっしゃるのです?」
カナは自分の顔を押さえた。そんな顔をしていただろうか。少なくとも笑顔ではなかった。
だが、天音の前で泣いてしまいそうな表情をしていたつもりはなかった。
「戦って死ぬことは剣士の習い、天音はそう教わりました。だから、カナお兄さまと総司お兄さまが戦うのも、どちらかが亡くなるのも、仕方のないことだと。でも……天音は悲しいです。どうして、こんなことに。どうして」
「天音」
名を呼ぶが、天音は嗚咽混じりの言葉を、ひたすら呟き続けている。
カナの声が聞こえていないように。あるいは、聞きたくないと示すように。
「天音がいけないんです。こんなことになる前に、天音がお願いすれば良かった。カナお兄さまに、戦わないでと。こんな危ないことをしないでと。総司お兄さまとカナお兄さまが戦うなんて。そんなの。剣士だからって。戦う必要があるからって。家族が……兄弟が殺し合うなんて、そんなの」
「天音!」
天音が顔を上げた。
「俺はたぶん、天音にそう言われても戦ってた。総司もそうだ。そうしなきゃいけなかったんだ。先送りは出来たかも知れない。だけど、それだけだ。悪い、天音。お前から兄を奪ってしまったのは、俺のせいだ。すまない」
「お兄さまが、どうして謝るんです」
「俺のせいだからだ。そうとしか言えない」
「……お兄さま」
カナの頬へと、天音がそっと腕を伸ばしてきた。知らぬ間に、涙が溢れていた。それを拭って、天音が悲しげに目を伏せた。すべては終わったのだ。
「帰りましょう、我が家へ」
「……ああ」
6、
決着より、いまひとたび、さらに時をわずかに遡る。
「……見られたぞ、殺せ」
ずた袋を被せられ、外の様子が何も見えなかった天音は、屋台の店主と客が口封じのために殺されてしまうことを心配した。不埒者が何を目的に天音を狙ったのかは、そのときは分からなかった。
ただ、自分のせいで巻き込んでしまった。そのことをひたすら申し訳なく感じた。
様子がおかしいことに気がついたのは、いつまで経っても縛られた天音がどこにも運ばれないことだった。道ばたに転がされたまま放置されている。何か状況の変化があったのかもしれないが、天音には知る術が無かった。
が、唐突に縄が断ち切られた感覚があった。開放されたと同時に、頭からずっぽりと被せられていた大きな袋からも抜け出した。周囲を見れば、覆面をした怪しい男たちが五人、地面に転がっていた。全員意識を失っているが、生きてはいるらしい。
自分の隣には片手に川魚の刺さった串を持った女性がいた。
先ほど見かけた屋台の客らしい。目撃者を消そうとしたところ、返り討ちにあった、ということだろうか。
天音が首を傾げると、巫女服を着た彼女は言った。
「……そこのアンタ」
「は、はい。天音ですか」
「他に誰がいるのよ」
「ですよね……。あっ、助けてくださり、ありが……」
「助けてあげたんだから、お礼としてあたしを家に泊めなさい」
天音は目を丸くした。感謝の言葉を言い切るより早く、お礼の要求をされた。こんな女性に出逢ったのは初めてだった。見た目こそ美人だが、どこか超然としている。天音の返答を待ちながら、食べかけの川魚の塩焼きにかじりついている。
じっと見ていると、こう聞かれた。
「なに、アンタも食べたい?」
「い、いえっ」
「遠慮しなくてもいいのに。まあいいわ。それで、泊めるの? 泊めないの?」
泊めなさい、という言葉だったはずだが、承諾するかどうかは天音に委ねられていた。天音は頷くより前に困惑していた。そもそも拐かされそうだったのだ。幸い、彼女に助けられたおかげで悲惨なことにはならなかったが、しかしわずかに遅れて、足や肩が震えてきた。申し訳なさで忘れていた恐怖が、今になってぶり返してきたのだ。
天音は幼くはあるが、そこまで無知ではない。自分が地刀流宗家の娘だから。そのために数多くの恩恵を受けていたことも、ちゃんと分かっていた。
天音は返答を待つ彼女に、頭を下げて答えを告げた。
「はい。どうぞ当家にご逗留くださいませ。天音を助けていただいたお礼として、ご招待させていただきます」
「うん。よろしい」
彼女はその答えに満足げに頷いた。
「これで首を横に振るようだったら、どうしてくれようかと思ったけど……なかなかちゃんとした娘じゃない。助けてあげた意味はあったわね。それとごめんなさい。試したわ」
「え、ええと。天音を、です?」
「そうね。アンタ、また狙われるわよ」
「……え?」
彼女はにやりと笑った。意地の悪い笑みだった。
「ちょっと待ってなさい」
そう口にして、気絶させられた男のひとりの、その頭を足でぐりぐりと踏みつけた。
やがて目が醒めた男は、激情をその目に滾らせていたが、全く動けずにいた。縄にすら縛られていない。にも関わらず、全身が凍り付いたように固まっているようだった。
「……な、なんだこれは! おいテメエ! 何しやがった!」
「ひ・み・つ」
「フザケてんのか!」
「目撃者まで殺そうとしたんだから、殺されても文句は言えないわよね」
声は静かだったが、反論を許さない響きがあった。
話しているうちに治まっていた天音の震えが、突然戻ってきた。
「まあそれはいいんだけど」
いいんだ。天音は彼女の性格がよく分からない。不思議な感じはする。巫女服なのに、あんまり神職の清冽さも感じられない。ただ、凄まじい存在には思えた。並外れた、桁違いの。そういう形容が似合う女性だ。
「アンタがこの娘を狙った理由はなに?」
「偶然だ」
「そう。地刀流……石川家が狙いなわけね。仲間がまだいるんでしょう」
「何の話だ」
「ふうん。十人ってところか。面倒ね。まあ、釣ればいいかしら」
会話になっていない。にも関わらず、彼女は男から情報を汲み取ったらしかった。激昂から一転し、強い恐怖を滲ませるほど狼狽えだした男に、彼女は微笑んだ。
天音もビクッ、となった。
「失敗したら今晩騒ぎを起こして、陽動。その隙に残り全員が襲撃をしかける。こんなところかしら。アンタ良かったわね、あたしを泊めなかったら悲惨なことになってたわよ」
「もしかして、最初から天音を助けてくれるつもりだったのです?」
「結果的にはそうなるわね。全部想定してたわけじゃないし、宿泊を拒否されたらそのままさようならのつもりだったけど」
「なぜ」
「特に理由はないわ。ただの気まぐれよ」
彼女はそう口にして微笑んだ。今度は、天音も安心できる笑みだった。
7、
彼女は名を名乗らなかった。だから天音はお姉さまと呼ぶことにした。特に気分を害することはなかったようで、彼女は、ん、と頷いただけだった。
家に帰ったとき、父が難しい顔をして座っていた。やはり試しの儀のことが気になるのだろう。普段は厳格な父も兄弟が争うとなれば平気な顔はしていられないのか。そう思うと天音は嬉しくなった。
普段の父は、総司とカナとを区別しすぎるきらいがある。カナは放任し、総司にはかかりきり。天音には、そんな印象だった。家族で揃って食事を取ることは少なくないが、どうにも最近はぎこちなさが見えている。そんな風にも思っていた。
ともあれ、そんな父に対し、天音は彼女を家に泊める許可を求めた。女性とはいえ、見ず知らずの余所者である。父は最初渋ったが、天音が襲われ攫われそうになったこと、そこを助けてもらったことを聞くとすぐさま態度を改め、頭を下げた。
彼女は鷹揚に頷いた。この町では誰もが頭を下げる地刀流宗家当代石川添問を相手に、恐ろしい態度を取るものだと、天音は戦慄した。年齢は父の方が上に見える。見えるのだが、しかしなんとなく彼女の方が余裕を持っている風だった。
彼女が見た顔である、と父は口にした。試しの儀で、始まる直前に参加を辞退した人物だと。その勝ち星をカナに押しつけた。数奇な偶然もあるものだと、父は苦笑した。
天音は黙っていた。それを偶然で片付けて良いものかと思ったが、これを口にしてしまえば無用な疑いが生じる。それは望むところではなかったからだ。
やがて今晩、襲撃があるかもしれないとの話になると、父も表情を険しくした。彼女の巧みな話術により、天音を攫おうとした連中から聞き出したことになっていた。実際にはもっと不可解なやり取りだった気はするが、それを指摘するのもおかしな話だ。
誘拐犯たちは聞くことを聞き出した後は全員トドメを差しておいた。身じろぎひとつ出来ず、抵抗も出来なくなった相手にそれは、と天音はわずかに顔をしかめたが、彼女からは当然の末路よと一言で切り捨てられ、それ以上は何も言えなかった。
まず陽動のために大きな騒ぎが起き、そのために父が動いたところで、天音が一人残ったこの屋敷に連中の仲間が襲撃を仕掛けてくる。誘拐が一度失敗した以上、次に狙ってくるのはなりふり構わぬ復讐であろう。放火や殺人も躊躇わないと見るべきだ、と彼女は忠告した。
父がどこまで信じたかは分からない。ただ、天音が誘拐されかけたのは事実なのだ。早速地刀流の関係者を呼び、その危険性については周知を徹底させた。
「暇ね」
「そうです?」
「ええ。正直、待つより仕掛ける方が好きなのよね。まあ、今回は追いかけても意味が無いみたいだからこうして待ってるわけだけど……」
天音の入れたお茶を啜りながら、彼女はちゃぶ台に肘を突いていた。
時刻はすでに夕刻。陽動の危険を知っても、何かあれば父は動かねばならない。そこに天音を連れて行くことも危険だし、かといってこの屋敷に一人置いていくことも難しい。
結果、屋敷で彼女と一緒にいるように言われた。外には哨戒のため、地刀流の弟子が数人、あたりを見回っている。
「お姉さまは……強いのです?」
「どうしてそう思うのかしら」
「だって、天音を拐かそうとした者たちを簡単に倒してくださいました」
「あれは雑魚よ。弱いヤツを倒したからって、強いなんて言えないでしょう?」
「では、強いとは何なのです?」
「そうねえ。何なのかしらね。どんな相手にも勝てれば強い、と言えるでしょうね。どんな相手にも負けなければ、これも強いんじゃないかしら」
「勝ち続けて、負けないのが、強さなのです?」
「でも、強いからって何でも出来るわけじゃないわよ。どんなに強くても、やっぱり、どうしようもないことはある。強さを追い求めたらキリがないもの。そうね、ほどほどの強さでいいのよ。自分の望みが叶えられる程度の強さ。それ以上はむしろ邪魔よ」
「天音のお兄さまがたは、どうして強さを求めるんです?」
「男ってのがそういう生き物だから。……ってのは極論だけど。まあ、大体そんな感じよ。自分の望みを叶えようとしたとき、どこまで強くなればいいのか。そのさじ加減が分からないんじゃないかしら。強さなんて手段よ。目的にしちゃったら、そこで間違える。間違ったまま進んだら、いつか引き返せなくなる」
「……そんな」
「人生の先達として、ひとつ教えてあげるわ。みんな……誰だって幸せになりたいって思ってる」
「お姉さま?」
「幸せっていうのは、不足が無い状態のことを言うのよ。そりゃ多少の不足は誰だってあるわ。身長が足りない。お金が足りない。愛が足りない。まあ、これこそ言い出したらキリが無いけどね。ただ、それを他のもので埋められれば帳尻は合うの」
天音は、ただ聞くしかない。彼女の言葉は淡々としていたが、不思議な説得力があった。今日初めて会ったのに、まるで旧来の友人が語るような響きに思えた。
「平均より身長がずっと低い。でも結婚して奥さんが綺麗で愛で満たされている。だから幸せだ。お金は山ほど有る。だけど誰も本当に自分を愛してはくれない。お金では満たされない。だから不幸だ。こんな調子にね」
こくり。天音は頷く。
「……ある意味、不足を感じながらも幸せなんてのは誤魔化しだけど、人間ってのはそういうものよ。足りない部分を他のもので埋める。裸だと寒いから服を着る。あるいは火を熾してそれに当たる。素手だと動物に勝てないから武器を使う、みたいにね」
言葉はしんしんと、降り積もる雪のように静かに重ねられていく。
「不足を埋めるために、他から持ってくる。そのための手段として、一番分かりやすいのが強さなのよ。強さにも色々ある。それこそお金で代替することもある程度は出来るわ。他人を雇って武力を行使する。強い武具を買う。身体を鍛える。不幸と一緒で、その方法や形式は人によって色々ね。強いってことは、自分の意思を押し通すための道具なの。他人に好き勝手されて、自分の不足が大きくならないよう防ぐことにも使える。何かを奪われる。これは不足が大きくなることでしょう?」
天音は頷く。
「そして逆に、強ければ、他人から奪うことできる。たとえば勝利を。財貨を。誰かに勝ったという事実は心の穴を埋めてくれることがあるわ。不足を感じるのは、誰かと比べてのことも多いから。そして他人から奪った財貨は金銭の不足を解消する。強ければ強いほど、不足を埋めるための代替手段としての価値が高まってゆくの」
そして、彼女は語る。
「でもそれは、所詮は代替手段でしかない。本当に足りていないものを埋めるには強さが邪魔になることもある」
天音は、二人の兄の顔を思い返した。強さを求める剣士たち。満たされていないから強さに縋る。それは、ひどく正鵠を射ているように思えてならなかった。
「世の中には負けて得るものもあるのよ。それを知っているひとがいれば、そのひとは強いと言えるんじゃないかしら」
「それで、だから、お姉さまは強いのです?」
「それなりよ。最強なんて名乗るのは、面倒を呼ぶからオススメはしないけどね」
彼女の言葉は、ひどく実感のこもったものだった。
深夜、剣呑な気配が周囲を満たした。
「来たわね」
彼女の言葉とほぼ同時に、町の方で爆発音がした。最初は花火か何かかと思ったが、どうもそんな穏やかなものではない。明らかに建物を破壊している爆音だ。そこに夜の帳を引き裂くような大量の悲鳴が上がり、夜更けの町がにわかに慌ただしくなる。
父は立ち上がった。
「すまんが、天音を頼む」
「いいのかしら。こんな怪しげな女に任せて」
「天音が信じた者をいつまでも疑っていても始まるまいよ。それより、本当に大丈夫なのか。これが真実陽動ならば、襲撃者たちはここを狙うんだろう?」
「さっさと屋敷から出て行きなさい、当代石川添問。アンタがいると連中が隠れたまま、いつまで経っても出てこないのよ」
「……天音は囮か」
「今日狙われるか、明日以降もずっと狙われ続けるかの差よ」
苦渋の顔をして、父は天音に目を向けた。
「すまんな」
「どうしてお父様が謝るんです?」
「地刀流宗家の家に生まれなければ、こうして天音が狙われることは無かっただろう」
「でもお父様。天音は、石川家の娘だから、今の天音なのです」
「……そう、だな」
「行ってらっしゃいませ、お父様」
「ああ」
父は家を出て行った。それから、天音は彼女と視線を合わせた。
「守って、くださるんですよね?」
「一応ね。ああ、安心なさい。一応って言っても、別に手を抜くわけじゃないわ。ただねえ、守るって言葉だとなんだか不似合いな光景になると思うの」
「それは、いったい」
「あいつら、ついでとはいえ、あたしを狙ったんだもの。……皆殺しよ?」
それからの光景は、天音にはあまりに刺激が強かった。彼女の言葉通りに、襲撃は実際あった。が、彼らは屋敷に一歩を踏み入れることすら許されなかった。
「悲鳴剣っ、悲鳴剣っ、もひとつおまけにひっめいけんっ!」
けらけら笑いながら、姿を現した黒ずくめの覆面男たちを、小刀程度の長さの、何やら青く煌めく不思議な刃を持ったそれで、彼女が斬りつける。
間合いの外、どころではない。彼女の視界に入っていれば、その技が必中するのだ。そう言わんばかりの距離の無視の度合いに、襲撃者たちは一斉に恐慌状態に陥った。
元よりこうして手段を選ばず地刀流に復讐しようという手合いである。地刀流剣士に一対一では正面から勝てない程度の実力なのだ。それが、疾風斬を遙かに超える理不尽な斬撃飛ばしに恐れをきたすのも当然である。意味の分からぬ攻撃に晒されて、動揺した瞬間には派手な血しぶきを上げて倒れてゆく黒い男たち。
「別にあいつの弟子ってワケじゃないんだけど……使える技だから勝手に使ってるのよね、これ。まあ、正直これだけ使えれば大抵の相手には勝てるわけよ。思った通りの場所をそのまま斬るんだもの。だから防いでも無駄」
剣を構えた襲撃者の、その剣をすり抜け、腕と腹を断ち切った。
「逃げても無駄。距離を取るなら一瞬であたしの目が届かない場所まで逃げないと」
背を向けた男の両足を断った。
「そう。突っ込んでくるのは一応正解。でも……」
一人だけ、血走った目で彼女に向かって剣を振り上げ駆け寄ってくる者が居た。
「残念。遅すぎるわ」
彼女の目の前で両断された男は、右へ左へとそのまま分断されてしまった。ここから片足だけで走れるはずもなく、剣も振り下ろせず、もちろん即死だった。眼前で真っ二つにしたくせに、彼女にはいっさい返り血がつかなかった。
現実離れした光景だった。天音は、自分の頬をつねった。痛かった。屋敷の周囲には陰惨極まりない、血塗れの死体が九人分散らばっていた。なるほど。これは確かに、天音を守っていると表現しにくい情景だ。
巫女服を着て、小刀を振り回し、死を撒き散らした彼女。天音はどうしてかもう恐ろしいとは感じなかった。ただ、違うのだとだけ思った。これが、強いということ。強すぎるとは、こういうことなのかと、胸がちくりと痛んだ。
「……あら、一人足らないわね」
「皆の仇ぃいいいいいい!」
「っと、お上手」
随分と上手に隠れていたものだ。乾坤一擲の一撃を、しかし彼女はあっさりと避けた。
急所狙いの突きは、さらに横から現れた木の棒でたたき落とされた。
「はい、そこまで」
割り込んだのは、見知らぬ男だった。襲撃者は、返す一撃ですでに事切れていた。
「……演技を忘れてるわよ」
「くくく、ワタクシの腕を持ってすれば、腐れ巫女を助けることなど容易いのです」
「そうそう」
そこに見えたのは、青白いほほ。やせこけた腕と足。炯炯と煌めく鋭い眼光。浮かべた表情は喜悦。何も知らず街中で出逢ったら、絶対に近づきたくない風体であった。
「くくっ……何をしているのです?」
「いたいけな少女を助けてあげてたのよ」
「くっくっく、嘘ですな」
「本当よ。ねえ」
「は、はい。天音は助けていただきました」
「……なんとまあ、悪いものでも食べたのですか。拾い食いは止めろとあれほど」
「失礼ね」
「まあ、そんなことはどうでもよろしい! 腐れ巫女よ、ついにワタクシにも弟子が出来たのです! 弟子が! 貴様があれほど出来ないと言い続けたにも関わらず、我が天外無情流についに弟子が!」
「あっそう。良かったわね」
奇妙な剣士は、しゅんとした。
「……それだけですか」
「はいはい、おめでとう。で、弟子と言うからには悲鳴剣くらい使えるんでしょうね?」
「……」
「なに、まさか技も使えるようになる前から弟子扱い? うっわ」
「……く、くくく。そう言われると思っていました。が、我が弟子は、たった一日で秘剣を使えるようになったのです。あの秘剣です」
「そりゃ良かったわね。で、悲鳴剣は?」
「……ぐ」
「アンタ、悲鳴剣を使えない者に天外無情流は名乗らせないって前に言ってたわよね」
「ぐ、ぐぐ」
「他の技がたまたま使えるようになったから調子に乗って弟子認定しちゃったんだろうけど、天外無情流の基本は悲鳴剣でしょ。どうなのよ。多少は使えるようになったの?」
「そ、それはっ」
「はいはい。ダメだったのね。そりゃそうよね。悲鳴剣なんて、アンタ以外に使える剣士が一人もいないんだもの。それともなに、弟子認定は妥協の産物でいいの? ねえ? 天外無情流を世に広めるって大口叩いておいて、未だに一人にすら基本の技を教えられていない開祖さん? ねえねえどうなのよ?」
天音は先ほど彼女が使った技が、その「悲鳴剣」だったのではないかと思ったが、口にしようとした瞬間に彼女から視線で釘を刺された。黙ってなさい。言葉にされなくても一瞬で理解して、天音はこくこくと頷いた。逆らえるはずもない。
「わ、ワタクシは……ワタクシは……」
「まぁ、他の技が使えたってんなら、多少は見込みはあるわね。秘剣っていうと……焔よね。ははあ、なるほどねえ。うんまあ、狂死朗にしては頑張ったんじゃないかしら」
追い詰めすぎたと感じたか、彼女は少し言葉の風向きを変えた感じだった。
天音にもそれが分かったが、狂死朗と呼ばれた男はそれで立ち直ったようだった。
「ま、まあ、今後に期待ということで!」
「とりあえずアンタも目的は果たしたってことでいいのね?」
「ええ、よろしいでしょう」
「じゃあ、狂死朗。あんたは一人で宿に帰ってなさい。今晩までは、あたしはこの娘の家に泊まらせてもらうから」
「ほーう、そうですか。お優しいことで」
「違うわよ」
「……くっくっく、ではワタクシはこれで」
謎の剣士は素直に頷き、そのまま去っていった。
天音には何が何だか分からなかったが、とにかく、危機が去ったことだけは理解出来た。
「お姉さま」
「なにかしら」
「……また、天音を助けていただいて、ありがとうございました」
「よく出来ました。お礼がきちんと言える子は嫌いじゃないわ」
「はいっ」
「ところで、お姉さま」
「なに」
「今の方とは……もしかして、恋人同士、だったりするのです?」
「違うわよ。あいつ、あれでも妻子がいるし」
「……えっ?」
天音は耳を疑った。冗談ではないらしかった。世界は広いと思った。
彼女はうーんと伸びをして、それから何事もなかったかのように歩き出した。
「さあ、そろそろ屋敷の中に戻りましょうか。ああ、安心して寝てていいわよ」
「で、でも」
「アンタの父親も無事よ」
「どうして、分かるんです?」
「さあ、どうしてかしらね。まあ……巫女だからってことにしておきなさい」
「……はい」
そして翌日、彼女は屋敷から出て行った。天音としてはもっと長く宿泊してもらって構わなかったのだが、彼女はこの町に来た理由が無くなったからと言っていた。
詳しいことは教えてくれなかったが、彼女は去り際にこんな言葉を残した。
「アンタのお兄さんが、今日の晩、戻ってくるわ」
「で、ですが修練場から出て来るのは、明日の朝になるはずで……」
「別に信じなくてもいいわよ。ただ、アンタのお兄さんは、ひどく傷ついているわ。顔を見せてあげなさい。それだけで、ずいぶんと気が楽になるだろうから」
それは。どちらかの兄が負けて早々と戻ってくるということだろうか。それとも。天音はその意味を考えたくなかった。そんな天音を見つめ、彼女は微笑んだ。
「勝っても負けても辛いなら、最初から戦わなきゃいいのにね」
「それ、は……」
「でも、戦わなきゃいけない。そういうものらしいわよ、剣士ってのは」
「……お姉さま」
「帰ってきたことをせいぜい喜んであげなさい。アンタに出来るのは慰めくらいよ」
天音は、もう何も言えなかった。ただ彼女が去っていくのを、その背中を、呆然と見送ることしかできなかった。そしてその晩、修練場の入り口に立ち、帰ってくるはずの兄を待った。
父には何も言わなかった。だが、きっと気づかれるだろう。そして天音は、悲しみを知った。
家族を一人失い、もう一人を失わなかったことを、正しく理解した。