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彼と彼女の迷宮えれじい  作者: 三澤いづみ
第二部 『ソエモン秘剣抄』
18/62

誤、《蜘蛛の巣でもがく蟲たち》



1、

 クローネ・エスト・クレッシェンド。彼女は黒い僧服を身に纏っている。肌は病的なまでに白く、ただ唇だけが血を塗りたくったかのように鮮紅である。

 クローネは、西方大陸より渡ってきた術師だ。屍術と呼ばれる、極めて特殊な術を扱うことを得手としている。クレッシェンド家は魔術を伝える家系としては平凡であり、『赤の門』や『青き歌』などの高名な魔術師集団とは一切伝手がない。

 が、そんな家に生まれたクローネだったが、幼い頃から彼女には特殊な才があった。一般的な魔術ではなく、体系としては『黒』と称される術が使えたのだ。

 大抵の場合、魔術師には得意な属性というものがあり、大別して色で言い表される。たとえば『赤』であれば炎、熱、攻撃であり、『青』ならば水、冷気、癒しなどだ。もちろん実際にはもっと細かな才能の振り分けが存在するし、あくまで大別だ。個個の事例としては様々に過ぎる。

 クローネは『黒』と呼ばれる系統に希有な才能を持っていた。『黒』は色の印象が示すとおりに呪いであるとか、死そのもの、あるいは影を扱うなど、あまり一般的な魔術ではない。やがてクローネは個人として、『黒の鍵』と呼ばれる秘密結社に招聘される。あまり世間から好まれない魔術に傾倒した連中が、僻地に引きこもって好き勝手やるために作った秘密結社だ。

 当然、黒い噂が絶えなかった。ただ拷問するための呪文や魂を傷つける呪い、他者を洗脳したり記憶を改ざんする術式、その一方で死者蘇生のための技術蒐集などにも力を入れていた。詰まるところは悪用が可能、というかまず悪用しか出来ないような術式ばかりが研究されていたのである。が、実際の所、研究が上手く行っていた者は数少なかったはずである。

 大破壊による資料の散逸や、それ以前に抹消された場合を除いて、再現出来るものは『黒の鍵』に限らず、魔術師集団全てがこぞって取り組んだし、存在しなかったと思われる術は不可能か不便か無用であったと考えられるからだ。

 つまり『黒の鍵』で研究される術は基本的に、使い物にならないか、利用するにも条件が厳しすぎて誰もが匙を投げたものばかりだったのだ。

 では、なんのために『黒の鍵』なる秘密結社が結成されたのかと言えば、そこには後ろ暗い連中が手を組んだ、という背景がある。たとえばクローネは屍術師である。術を試すにも、改良するにも、人間の死体か魔物の死体が大量にいるのだ。

 さすがに、そこらにいる一般人に死体になってもらうわけにもいかない。一人二人ならともかく、人数が増えれば必ず露見する。西方大陸には冒険者ギルドと称する半公的機関があり、それこそ無辜の一般人を襲って死体にして操る真似をすれば、あっという間に賞金首扱いとされる。

 では罪人ならどうか。山賊や冒険者崩れの、殺しても誰も咎めない相手なら。最初はそれを狙っていたが、回数が増えるにつれ、クローネも有名になってしまった。クローネ自身は犯罪者だけを狙っていたつもりだが、どうやら表ではまっとうな冒険者のフリをしていた連中も混じっていたらしい。

 賞金を掛けられ、クローネは逃げた。『黒の鍵』から招聘されたのは、そんな時である。逃げ場所にも困っていたころだから、クローネは一も二もなく縋った。『黒の鍵』に入ってクローネは知った。

 そこは楽園だった。構成員に課せられるのは、研究成果のある程度の共有。これのみだ。そして構成員の大半が賞金首や、危険人物として追われている術師か、あるいは表では有名な魔術師たちだった。『赤の門』や『青き歌』の幹部も混ざっていたことにクローネは驚愕を禁じ得なかった。

 そこでは人身売買も普通に行われていた。使い減りしない罪人が、死刑にする代わりに、研究のための人体実験材料として送り込まれていたのだ。さすがに研究費の支給は雀の涙だったが、追われる心配だけはほとんど無かった。

 無法地帯というよりは、独立国家のような有様だった。楽園が終わりを告げたのは、いつだっただろう。クローネはその日のことをよく覚えていない。ずっと冒険者ギルド、それも迷宮都市にある本部の連中からは睨まれていたらしい。『黒の鍵』の本拠地を探っていたようで、ついに調査の手が及んだ。

 冒険者ギルドにも『黒の鍵』の構成員は入り込んでいた。情報を得たクローネたちは、一時的に各地に散らばって隠れることにした。研究施設が潰えるのは惜しいが、大事なのは自分たち『黒』の術師であり、研究成果の方である。

 ほとぼりが覚めた頃にまた集まればいい。幸い、クローネは数年に及ぶ『黒の鍵』での活動中に、いくつもの独自ルートを入手していた。たとえば禁制品の入手であり、人身売買の組織であり、逃がし屋などの人脈である。およそ一ヶ月後に手入れがあるとの報告を受けたその日から、逃げるための準備を始めていた。

 情報は誤っていた。冒険者ギルド本部が動いたのは、ギルドで密偵をしていた構成員の報告の翌日だった。早めに動こうとしていたクローネや数人を除き、大半の『黒の鍵』構成員である術師たちが、乗り込んできた数人の冒険者によって捕殺された。『黒の鍵』に所属していた術者たちは、大半が実力者たちだった。にも関わらず、たった数人の冒険者によって、壊滅的な被害を受けたのだ。

 クローネは逃げた。

 脇目もふらず、研究成果の大半を置き去りに、ただひたすら逃げて、逃げて、大陸を渡ってここまで逃げ切った。西方大陸の冒険者ギルドと東方、それもヒノモトには交流はあるにはあるがそれほど親密でもないし、賞金首の引き渡しなども行われていない。だからこそ潜伏するならばヒノモトであると、クローネは決めていた。

 さらに数年が経過した。追っ手はありうるとは思っていたが、可能性は低く、風の噂で『黒の鍵』は消滅したとの話が流れていた。クローネは安心した。消滅宣言した後で、わざわざ残党を探しに大陸を渡るような物好きはいない。

 安堵した頃に、不意に、この試しの儀の話を知った。剣士たちが殺し合う、まるで蠱毒がごとき呪術の形式である。クローネは笑った。これは使える、と。


 クローネは綿密な計画を立てた。最終的な勝者になるつもりはない。なるべく勝つに越したことはないのだが、死ななければ早い段階で負けたって構わない。最後まで勝ち残ってしまうと無駄に目立ってしまうため、そこは上手く調整する必要がある。

 参加する剣士は、西方の冒険者で言えば……最低ラインでも中堅パーティーの前衛、場合によってはトップクラスの戦士と考えていい。下手をするとワイバーン一匹より、予選で戦わされた悪鬼一体のほうが危険かもしれない。それほどの強さだ。

 クローネの知識にあるワイバーンは熟練パーティーが六人で挑む相手だ。

 そのクラスの魔物に一対一で、それも正面から勝利する。そんな剣士だ。どれほど使い出があるだろう。スペックだけで考えても垂涎ものだ。ともあれ、死んでくれないことには屍術の対象とはならないが、修練場に入ってしまいさえすれば後は勝手に殺し合ってくれる。死体の数だけ戦力が増えていくことになる。死体はあくまで死体だ。生前の動き方で戦ってはくれるが、術師の死体を操っても術を使ってくれたりはしない。何度か試みたことがあるのだが、どうにも上手く行かなかった。

 彼らの技は魔術の一種だ。地刀流を使って戦わせることは出来ない。

 それでも構わない。

 強い剣士の肉体は、クローネが扱えば、それだけで強力だ。


 クローネは参加者の中に、暗い輝きを見つけた。

 五十歳ほどの、壮年の男性。シドウと呼ばれていた。地刀流の師範代なのだろう。渋い男だ。自分のような女には決して靡いてくれないであろう男性だ。その瞳の中に暗い炎を見つけた。視線が向けられていたのは、石川総司という地刀流宗家の若君。

 シドウの瞳は錆色だ。表情こそ好々爺のそれだが、視線に混じった剣呑な輝きは、見る者が見ればそうと悟ることが出来るものだ。まるで首輪に繋がれた老いた狼のよう。老人と呼ぶにはまだ早く、しかし若さからはすっかり遠ざかってしまった精神。

 クローネは自分の身体が疼くのを感じた。

 ああ、あんな男を飼いたい、と。クローネは屍術を好んで使うような悪趣味を自覚している。また自分の言葉に素直に従ってくれる男が好みであった。顔の美醜はあまり気にしたことはない。

 付き合った男はだいたい一年と経たずに皆死んでしまって、そのたび再利用したが、どれも長く保たなかった。一番長く一緒にいた男は西から逃げるときに研究施設に置き去りにしてきてしまったから、もはや影も形も残っていないに違いない。

 残っていたとしても腐敗しているはずだから、そこまで損傷が激しくなった死体では使い物にならない。

 生きているまま飼い慣らしたいと思ったのは、その男が初めてだった。

 使える死体集めのつもりで参加した試しの儀だったが、どうせならと目標がもう一つ出来た。あのシドウという男を生きたまま捕まえて、首輪でも付けて飼い慣らして、自分の下で喘がせたいと。最悪、死んでしまってもそれはそれで構わない。新鮮な死体であれば色々と使えるのだ。その場合は自分の命令に従順な人形になってしまうから、あまり燃えないのだけれど。

 クローネは、自分の胸の中に初めて生まれたこの気持ちについて、一番ぴったりな言葉を聞いたことがあった。

 これは恋だ。この甘く疼く、とろけてしまいそうな想い。これが恋なのだ。

 初めてだった。

 胸の中に燃え上がるのは情欲よりも強い、甘やかな幸福感。達してしまいそうなくらいの快感が股間から背筋までを一瞬で駆け抜けていった。

 シドウ。ああ、シドウ。シドウ。シドウ。シドウ。二十歳以上は年上の男。がっしりとした肉体。鋭い眼光。それらを取り繕う微笑み。

「シドウ……」

 名前を呼ぶだけで、幸せな気持ちになれた。死体にするのがもったいないと思った男は生まれて初めてだった。その一方で、石川総司という青年は好みに合わなかった。

 あれは自分と同類だ。化け物のたぐいだ。

 あれは生きていては絶対に使い物にならない。身を捩るような情念に炙られながら狂わずにいる者が欲しいのだ。狂っている男で好ましいのは死体だけ。ともあれ、クローネは無事修練場の中に入った。

 予想通りというか、計画通り、相争う剣士のうち一人、その死体を見つけると、これを屍術で操ることに成功した。二人、三人と死体を見つけて、戦力を増やしていく。正面から戦うのはまだ早い。死体が七つになったところで、ようやく勝負に出た。

 魔力を使った技は使えないとはいえ、身体能力はそのままである剣士七名で、名も知らぬ一人の剣士を襲うのだ。これで勝てないはずがない。従える数を八名に増やし、その合間合間に襲ってくる妖魔たちにも屍術をかける。戦力が充実してくればあとはどうにでもなる。八が九となり、十となり……流石に強敵もいた。三体ほど剣士が使い物にならなくなったが、それだけの実力有る剣士だ。引き替えにしても惜しくはない。

 こうして初日が終わる頃には妖魔と剣士の軍勢が出来上がっていた。すでに死んでいるからこそ不死身の剣士たち。偶然にも遭遇した剣士は、一人も逃がさなかった。

 逃げに徹された場合は、多少無理をして、自分が出張っていってでもその逃走を阻止した。情報を漏らされるとまずいのだ。誰にも対処出来なくなる量と状況になるまでは。

 本体であるクローネが死ねばこの軍勢は維持できないからこそ、万全の守りを用意してから攻勢に出るのだ。これだけの数がいれば、当初の目的は充分果たされたと考えても良い。二日目の昼過ぎではあるが、ここでリタイアするのも有りだ。

 嬉しい誤算もあった。

 呪符は、屍術で操った剣士はクローネの武器として捉えてくれた。つまりクローネの剣士たちが参加者を殺した場合、クローネの数字に加算されるのだ。このとき魔力が増強されたのを自覚した。この試しの儀が何を目的として開催されたのか、それでクローネも理解したのだ。

 実のところ、屍術で操れる数には限度がある。これだけ大量の剣士や妖魔を従えたことは、クローネの記憶には一度も存在しない。禁地たるこの修練場に満ちた異常な量の魔力がそれを可能にしている。

 平時であれば五人が限度だったはずだ。増えた最大魔力量のおかげで、おそらくは外でも七人までは操れると考えられた。

 修練場の外に連れて帰るお気に入りを選別しなければ。そんなことを考えていたとき、ついにシドウを見つけた。計算外の要素としては、無骨な大男と石川総司が彼の側にいたことだ。三人は決して互いに友好的な様子ではなく、今にも誰かが暴発するのを待っているようだった。そこにシドウがいなければ、クローネはさっさと修練場の外に出て行っただろう。

 行くか、退くか。

 その選択肢が手の中に生まれたとき、クローネは迷わなかった。恋のために。

 ただ、恋のためだけに!



2、

 風鳴師ファン・ホアンは虚空をにらみつけた。

 込み上げてくる苛立ちを隠さなかった。二日目も昼を過ぎた。おおよその雑魚の命は全て刈り取られ、残るはまごう事なき強者のみ。しかし、呪符の数字は未だ八だ。

 積極的に剣士を狙うため方々彷徨っていたが、どういうわけか敵に出逢えない事態が続いていた。

 他の参加者が順調に戦闘を重ね、殺し合い、魔力そのものたる数字を溜め込んでいるのなら、それでも構わない。相手が呪符に魔力を溜め込んでさえいれば無駄足にはならないからだ。

 敗者から魔力を奪うためには殺害が必須だが、幾度も殺さずに相手を見逃すような甘い剣士がこの試しの儀に参加しているとも考えにくいし、参加していても早々と返り討ちに遭っているに違いない。

 何にせよ、残っている参加者を早く見つける必要がある。この仕組みに気づいた者が勝ち星を確保したまま一抜けされてしまえば、その分だけ自分が増やせる魔力量が減ることを意味するからだ。数人の術師が参加していたことは予選の際に確認していた。術を用いるとしても、地刀流のような剣士であれば気づかないかもしれないが、魔力を術として扱う者ならば数人殺した時点でこの仕掛けに確実に気づく。

 不意に、空気の微妙な変化に気づいた。どこかに争いの気配がある。近くはない。が、自分が感知出来るほどの魔力のうねりだ。おそらくは参加している術師が禁術でも使ったのだろう。邪法使いでもいたのだろうか。ホアンは風の臭いを嗅ぎ、顔をしかめた。腐敗臭がする。これは唾棄すべき亡者の臭いだ。死というものを玩弄せしめた愚か者がいる。

 この修練場に死霊が現れるとは聞いていない。

 とすればこれが邪法の正体か。術の中身に見当が付くと、ホアンは途端に興味を失った。醜い術だ。こうした術を好んで用いるようなものは、名家には存在しない。

 死体を操るくらいなら土塊の人形でも作れば済む話だ。

 待てよ。ホアンは数分、その場に立ち尽くした。

 あの予選で開陳された不動剣の動き、術理の記憶がありありと蘇った。

 不動剣は地刀流の奥義ということもあって、極めて攻略の難しい技だ。なるほど、あそこまで完成した技があれば、開祖たる石川添問という男が最強の剣士であったことは頷ける。この試しの儀が求める最強の剣士たる条件、すなわち相手がどんな敵であろうと、どんな手段を取ってこようと決して負けぬ者、それを体現する技なのだ。

 修練場で何度か目にした地刀流の他の技はともかく、あの不動剣だけは、この風鳴師ファン・ホアンであっても容易く打倒することが出来ない。認めよう。だが。

 地刀流師範代が使う奥義をいかにして攻略するか、暇があれば考えていたのだ。今ここに来て難攻不落の奥義を打ち破る術について、ひとつの光明が差した。

「〝エン〟」

 むくむくと雲が膨れあがっていく光景に似て、足下の土がぐねぐねと蠢きながら膨らみ、普通の人間の二倍ほどの身長がある人型を作り上げた。巨大な土人形だ。額の部分にいくつかの呪文を刻み、相当な量の魔力を注ぎ込む。さらに周囲にある魔力を使って非常識なまでの強化も試みる。

 さすがは禁地、おぞましいほどの魔力があちこちに噴出している。まるで魔境だ。これだけ濃密な魔力を潤沢に扱えるのなら、死霊使いだか死体傀儡師だかは、さぞかし好き勝手出来るだろう。

 ホアンは知っている。場と他者に頼り切った術は、窮地にあって自ら裏切ると。恃むのは自らの力のみ。真の強者は、強さの理由を自分の他に置いたりはしないのだ。

 不気味な土人形は、しかし土で出来ているとは思えない圧迫感を見る者に与える出来だった。素材の元は土だが、固さは鉄と同等にしてある。魔力によって表面を覆い尽くしてみたのだ。普段はこんな魔力の無駄遣いはしない。が、この修練場であれば、さほど問題にはなるまい。

 風鳴師が土に関わる術を使うなど何の冗談だ。ホアンは自嘲した。場に頼った術などまったくもって好みではない。しかし、場に任せるのではなく利用するのだ。自分の支配下に置くのだ。この土人形はホアンの意思に完全に従う。ありとあらゆる動きに即応し、己がもう一人いるような感覚で操作することが出来る。

 これだ。これで不動剣を破ることが出来る。おそらくは最後の数人になるまで残っているであろう、地刀流の師範代たち。そいつらを殺す算段がようやく付いたのだ。これを喜ばずにいられようか。ホアンは自分の顔が喜悦に歪んだのを知った。

「さあて、景気づけだ。まずはあいつから殺すとしようか」

 邪法特有の魔力の胎動を感知した方角とは逆になる位置に、人間の気配があった。

 進行方向が重なっている。待っていれば、ほどなくしてぶつかるだろう。

 妖魔はしばらく見ていない。修練場には山ほどの妖魔が飛び交っているはずだが、五十名以上の参加者が手ずから殺し回っていたようなものだ。

 その五十余名もそろそろ十人以下に減っているはずだが、刈り尽くされた妖魔たちが数を戻すのには数日掛かるだろう。

 いくら無尽蔵に近い魔力の吹きだまりたる禁地とはいえ、妖魔の発生頻度にも消費された魔力の回復速度にも限度があるのだ。それに、妖魔とて知能の低い者ばかりではない。今生き残っている妖魔の多くは、昨日早朝より足を踏み入れた剣士どもが化け物揃いであることは理解したはずだ。隙を見せたなら話は別だが。

 木々の向こう側に顔を出したのは、まだ若い剣士だった。ホアンの目にはその剣士が地刀流ではないことが読み取れた。予選で観察していた中にはいなかった顔だ。しかし現時点まで生き残っている以上、油断して良い相手ではない。それでもホアンの顔が笑みの形を崩さない。

 餌がのこのこと自分の前に首を差し出しに来たのだ。これが喜ばずにいられようか。不動剣使いすら敵ではなくなった今、このホアンに勝てる者は修練場には存在しない! 余裕を持って、ホアンは名乗る。

 誰に殺されるかを教えてやるのは、強者の義務だ。

 ただ、見れば分かる。分かるのだが、ここまで勝ち抜いて来た割りには、眼前の剣士の魔力量がひどく乏しいことだけが不可解だった。

 ただ殺しながら勝ち進むだけでも、呪符に相当な量の魔力を溜め込んでいなければおかしいのだ。なのに眼前の若い剣士の魔力量は、この状況にあって凡人一人にも劣る。

 つまらないことになった。これを殺せば多少は魔力を奪えるが、正直なところ旨味など無いに等しい。ここまで勝ち残ってきた剣士なのだ。最高級の金剛石を拾ったかと思いきや、単なる水晶だったこのガッカリ感。

 無論、目の前の剣士に何か責任があるわけではない。わざわざホアンに殺されるためにこの修練場に足を踏み入れたわけではないのだから。

 喜びに打ち震えていたホアンに水を差したのは間違いなかった。呪符で嵩ましされた状態でこれなのだ。

 よくよく考えれば、これは水晶ではなくガラス玉だ。ただ飾りに銀や金の装飾があるから手に取る価値がある程度の。しかしホアンに彼を見逃してやる義理はない。呪符という金銀の装飾さえあれば、拾う労力には見合った価値となる。

「風鳴師、ファン・ホアンだ」

「……カナ」

「流派は名乗らぬのか?」

 ホアンはこの剣士をどうやって殺してやろうかと思案しつつ、尋ねた。

 最強を決める試しの儀にあって、流派を名乗らない剣士がいるとは思えなかった。術師であれば自分の系統や得意な術の方面を隠すために、名乗らないことや嘘を吐くことは考えられたが、相手は剣士である。奇妙に感じたのだ。

 カナと名乗った若者は渋面を隠さなかった。

「どうした」

「基本的には我流だが、一応、天外無情流門下、ってことになる……のか?」

「なぜ吾輩に聞くのだ」

「俺にもよく分からんからだ。まがりなりにも技を教えて貰った以上、対外的には師事してることになる……のかね? こういう場合」

 嘆息された。この剣士にも何やら複雑な事情があるようだが、ホアンは斟酌する必要性を感じなかった。

 天外無情流は、ホアンより先に予選を抜けた男の掲げていた流派である。奇矯の極みのような謎の剣士と、目の前の若者とでは、あまりに空気が違いすぎる。これから餌として命を奪う相手だというのに、ホアンは会話を続ける気分になった。

「あの、木枯狂死朗という奇っ怪な剣士のアレか」

「……それだ」

 ふむ、とホアンは考えた。すっかり意識の外に置いていたが、よくよく考えてみればあの男も警戒に値する剣士だったと気づいたのだ。悲鳴剣なる技。そこに魔力は一切使われていなかった。不動剣とは違う意味で、術師にとっては致命的な技かも知れぬ。

「あのオッサンは初日の深夜に帰ったけどな」

「……負けたのか」

「目的は果たしたからって俺に勝ち星を押しつけていったというか」

 深い事情を説明してはくれないようだった。ホアンは問い詰めることを諦めた。すでに試しの儀において敗北し、修練場から去った男であれば危険視する意味が無い。よく顔を見てみれば、巫女からも勝ち星を押しつけられた男である。木枯狂死朗の話といい、ほぼ偶然で勝ち上がったか、あるいは相手に恵まれたか。

 運だけで勝ち残った剣士。魔力量の少なさ、名乗る流派の中途半端さ、何より風格で、ホアンはそう捉えた。もちろん再三意識しているように、この試しの儀に参加している剣士には最低限の実力は備わっているだろう。

 勝ち残った剣士が、名実共に最強になるように仕組まれた儀式だ。ならば、このカナという剣士が最強になることも、ありえぬとは言い切れまい。考えれば考えるほど、ホアンは目の前の若者が憐れに思えた。相手に同情してしまうのはホアンの悪い癖だ。弱い者いじめは好きではないのだ。

「ファン・ホアンとか言ったか? そろそろ戦わないか。こうしている間にも時間はどんどん過ぎていくんだ。アンタも会話するために参加したわけじゃないんだろ?」

「そうさな小僧。お主、死ぬことが恐ろしくないのか」

「俺がアンタに殺されるってことか?」

「見たところ、お主には吾輩に勝つ手段が無いと見た。吾輩としては、なるべく苦しまぬよう殺してやるのが優しさだと考えたのだが……お主、抵抗するだろう?」

「そりゃするよ。負けるつもりは毛頭無いが」

「身の程を知らぬのは仕方ないとはいえ、お主のような若者をいたずらに苦しませるのはあまり好きではないのだ。こう、頭を垂れてくれたなら、痛みも感じないまま殺してやれるぞ?」

「アンタが俺のことを本気で見下してるのは分かった」

「理解してくれたか! ならば……!」

 すっ、と剣が振られた。安物の剣である。ホアンの前髪がはらりと散った。

 カナは真剣な表情でホアンを見据えてくる。そこに弱者の気配は見当たらなかった。

「これが答えだ」

「そうか。では、後悔しながら死ぬが良いッ!」

 ホアンは、自分の優しさが受け入れなかったことに、ただ激怒した。



3、

 風鳴師がいかなる種類の術師かは知らない。知らないが、そもそも術師というものに馴染みがないカナにとっては、どんな術師も厄介な存在であると認識していた。

 ここまで勝ち残っていた相手である。実際に目の当たりにせずとも、ファン・ホアンという術師が凄まじい実力者なのは重々承知だった。だからといって、苦しまないよう殺してやるから頭を出せ、なんて妄言はカナに受け入れられるはずもない。

 そもそも負ける気もしなかった。ファン・ホアンがどれほど凄かろうが、カナには関係ない。斬れなければ死ぬだけだし、斬れないとは思えなかった。

「これが答えだ」

「そうか。では、後悔しながら死ぬが良いッ!」

 ホアンは笑みから侮蔑、さらに憐憫と表情をころころと入れ替えていた。血の臭いのする術師だ。殺し合いになることは分かりきっていた。カナが益体もない会話に付き合っていたのは、このホアンという男が何を考えているのかが分からなかったからだ。

 一目見た瞬間に感じた。この男は他人の命に露ほどの価値も見出すことはないと。会話している隙に仕掛けてくるとばかり考えていたのだ。不意打ちに身構えていたのに、いつまで経っても攻撃してこないから逆に拍子抜けした。

 言葉を額面通りに受け止めれば、カナを蟻のように思った、といったところか。自分は象のつもりかもしれない。己を象として考えているこの術師は、本当にそれだけの大きさを備えているのかどうか。自分を蟻のように見下してくるぐらいだ。最低でも総司と同等の実力があるに違いない。

 たった一日だけの、天外無情流の稽古。あれでどれだけ差を埋められたか。だが、試しの儀に参加する前の総司とカナとの実力差は、それこそ象と蟻じみた寸法の差だったはずだ。カナには分かっている。地刀流師範代がどれほどに強大な敵なのか。我流に過ぎない自分は、特定の師を持たず、町の外へ出ては、ひたすらはぐれ妖魔狩りや基本の素振りや型などを修練していた。

 修練場の封印も完全ではない。カナは十歳を過ぎた頃から、独自の修行と称して、山林の向こう側に出現する妖魔を探しては追いかけて叩きのめしていた。

 無論、我流である。実戦こそ強さへの近道、などと嘯いてはいたが、子供の小遣いで替える剣など使い物になるはずもない。最初の頃は逃げ帰ることの方が多かった。段々と実力は拮抗し、やがて妖魔を叩き殺せるようになって、ようやく斬れない剣を買い換えることが出来たくらいだ。そんなことを何年も続けた。

 強さというものがどこを目指せば手に入るのか、カナは知らぬ。

 知らぬばかりに、ただ妖魔を倒し続けた。十匹殺せば自信が付く。百匹殺せば実力になる。千匹殺せば称賛を得る。ならば、一万匹を殺したなら。

 カナが妖魔狩りを行っていたのは、誰かの依頼でもなければ、他者の目がある場所でもない。彼の住む町から少し離れた場所にある、小さな村の外れのあたりだ。

 どういうわけか、修練場から抜け出してきた妖魔はまずそこに顔を出す。経路があるのだろう。抜け道か抜け穴か、そういうものが村はずれに繋がっているのだ。つまりそこで待っていれば、後から後から妖魔が湧いてきて、延々戦い続けることが出来る。カナにとっては幸いというか、不思議なことに封印は中途半端に意味を成しているらしく、妖魔はその場所からさらに外には出て行かなかった。

 大量の妖魔がここから外に出たなら、早いうちに穴を潰されていたことだろう。その小さな村では近づいてはいけない場所として常識だったが、カナを除いてはそこの村人以外誰も知らなかった。つまり修練場の出張所のような場所となっていたのだ。

 カナは壁にぶつかった。ある程度、自分の腕が分かるようになれば、同時に地刀流の強さについても理解が及ぶ。カナが強さを量る場合、基準にするのは戦ってきた妖魔の強さだ。子鬼なら倒せる。悪鬼なら倒せる。妖鳥ならば倒せる。

 一匹ずつ自分が勝てるかどうかを見極め、それを倒すだけの算段が付いてから挑む。

 勝てたら、今度は二匹同時に、三匹同時に。質と量を少しずつ増やして、自分の腕を少しずつ上げていく。そうやって修練した彼だったが、技のひとつでも使える地刀流剣士であれば、その程度のことは容易く成し遂げられると気づいたのだ。

 数多い門下生のなかには疾風斬を一年で習得する者も多かった。つまりカナの五年以上の修練は、才能有る地刀流剣士の一年にも及ばないことを意味する。いわんや天才と称される総司とは、どれほどの差が存在しているのか。目の前にいるファン・ホアンという術師は、果たして総司のように、象の大きさなのか。それと比して、カナは蟻に過ぎないのか。それとも。

 もはや蟻ではない、とカナは自己評価を引き上げた。あの木枯狂死朗と天外無情流の存在がカナに大きな影響を与えた。ぶつかっていた壁のひとつは越えたのだ。だが、蟻でなくなったからといって、蝶や蟷螂が象に勝てるだろうか。せめて蜂の一刺しくらいは出来ねば、勝ち目など無いに等しい。

 ファン・ホアンの存在は都合が良かった。風鳴師なる耳慣れぬ術師について、全く知らないこともまた、カナにとってはありがたい。未知の相手と戦うことは、既知の相手と戦うよりずっと困難である。総司と戦うより早く、自分がどれだけ強くなったかを、あるいは自分の限界を見極めることが出来る。負ければ死ぬ。それは分かっていた。覚悟もしていた。だが、カナは自分が負けるとは思えなかった。慢心ではない。油断でもない。カナはただ、事実としてそう捉えていた。

 風鳴師ファン・ホアンとの戦いは長くは続かなかった。錫杖による攻勢は受け流した。放たれた術はすべて避けた。脇に控えていた土人形は何度か打ち合って両断した。だんだんと焦るホアンの表情と声にカナは取り合わなかった。

 確かに強い。強いのだが、この程度なのかという気持ちになった。あの木枯狂死朗は別格としても、これで地刀流師範代と同格と見たのは間違いだったと嘆息した。象と思い込んだ蟷螂がいいところだ。たとえ己が蟻であっても、なんとか巨大な象を打ち倒そうとしていたカナである。可哀想だが、蟷螂の斧には、当たってやれない。カナは静かに見据えた。安物の剣が、鈍色に輝いた。

「わ、吾輩を憐れむな! なぜだ、なぜ当たらぬ!? お主のような無才に、どうして吾輩の術が避けられるッ! クソ! こんなことがありえてたまるか……ッ!」

 風鳴術。読んで字の通り、風を使う術だ。より正確には風と音を操っている。

 疾風斬よりも高度に複雑な術を用いて、相手の全方位からかまいたちのような攻撃を発生させる。これが基本だが、音を利用することで相手の脳や感覚を攪乱し、行動を封じたり、距離感を狂わせたり、あるいは音そのものによって攻撃することも可能となる。

 対抗手段を持たない者、それこそカナのような生粋の剣士には、天敵であろう。

 さらには地刀流剣士が基本とする疾風斬、雷神剣、紅蓮剣では対応が難しい。地刀流のそれらの技は攻撃が主体だ。間合いを広げる疾風斬であっても、ホアンの使う風鳴術には太刀打ちできまい。言うなれば全方位から、直線的な動きではない疾風斬が、さらに遠い距離から複数で襲いかかってくるのだ。まさに上位互換と言って良い。

 だが、不動剣には防がれる。

 これは他の技と異なり、不動剣が防御を主体とした技だからだ。より正確には攻撃、防御、更に反撃の性質を併せ持った攻防一体の奥義だからである。

 カナはこれまで何度となく不動剣の振るわれる姿を見てきた。これまで、そこに弱点を見つけることは出来なかった。しかし、狂死朗から剣気についての解説を受け、天外無情流の技をいくつか見せてもらった結果、自分なりに不動剣の術理を理解した。

 あれは周囲に魔力を張り巡らせ、何らかの動きが発生した瞬間、その場所目がけて魔力で生み出した斬撃を放つ技なのだ。この斬撃は防御にも使える。自分の意思で狙った場所に打ち込むことも出来る。

 何より重要なのは、半自動的に発生する反撃の斬閃だ。自分の魔力を広げ、まるで蜘蛛の巣のように周囲に張り巡らせ、その中にいる敵を打ち倒す。

 欠点は、名前の通りに本人が不動であることだけだ。防御と反撃のための技だから、その魔力を広げているあいだは自分から動いて相手を追いかけることは出来ない。しかし、蜘蛛の巣状に広げた魔力はそのまま不動剣の間合いの中だ。一度間合いの中に入り込んでしまえば、逃げようとした時点で魔力による刃が敵を襲うことだろう。

 どう攻略すれば良いのか。ファン・ホアンが慣れぬ土人形を使ったのは、不動剣対策の意味合いが大きかった。このことに、戦っている最中にカナも気がついた。どのように不動剣を打ち破るつもりだったのかは分からないが、彼なりに確信があったはずだ。

 カナとの戦いでは使わなかった術もあるのかもしれない。

 なんにせよ、ファン・ホアンはそれなりに強かったが、カナよりは弱かった。それが結論だ。この分では、地刀流の師範代と戦っても勝てたかどうか疑わしい。そもそもカナからすれば阿呆にしか見えない。術師なら術師らしく、剣士と正面から戦うべきではなかったのだ。

 遠距離から狙撃されるような意地の悪いやり口で、半日以上付かず離れずで狙われ続けたなら、カナとて無傷ではいられなかっただろう。そう、カナは無傷だった。ファン・ホアンは未だ自分の敗北を信じられない顔でいた。

「悪いが、……あんたは見逃してやれない」

「嘘……だ……吾輩の、わが」

 ざしゅ、とホアンの胸を切り裂いた。一拍遅れて、大量の血が噴き出した。そしてホアンは倒れた。カナの手の甲に、ずしりと重さがのし掛かった気がした。

 カナは空を見上げた。

 修練場の空は、まだ夕刻には早いにも関わらず、紅く染まった。

 カナは自分の目と感覚が正しかったことに胸をなで下ろした。ホアンに負ける気はしなかった。他の地刀流師範代であれば、まだ勝負になる気がする。だが、未だ総司に勝てる自分の姿は見えてこない。

 不動剣を攻略する手段はいくつか考えてはいるが、上手く行くとは考えにくい。

 そういえば、天音はどうしているだろうかと、ふと気になった。



4、

 困ったことになった。誰かが口火を切らねばなるまい。そして、その役割は自分が負うことになりそうだ。シドウは三すくみの状況に、苦虫をかみつぶしたような顔をした。カクリャンと総司。二人にはあって自分に無いものがある。剣の技量は五十近くになりますます磨かれて来たが、代わりに体力の衰えは日増しに感じた。

 地刀流の基本に、剣気を体内に循環させ、身体能力の底上げを図る技術がある。シドウはこれを用いて、若い連中より先に体力が尽きぬよう工夫をしていた。が、使える剣気には上限がある。これは生来のものであり、総司のそれは桁違いに多い。一方のカクリャンは疲労など微塵も感じさせない動きだ。元より体力が無尽蔵にある男なのだろう。どれほど鍛えても才能の差は如実に表れる。特に身体能力や剣気の量については、彼らが羨ましい限りであった。

 嫉妬はある。焦燥もある。だが、何よりシドウは、石川添問の名に未練があった。いつか石川真之介に敗北し、手に入れることが叶わなかった地刀流剣士の夢。あと一歩で手に入るところまで来て、しかし敗北を喫した苦い記憶。

 石川添問の名に焦がれるシドウは、あの亡者を操る術師にも、この場にいる若き剣士二人にも、後れを取りたくなかった。参加した時点では総司に勝てぬかもしれぬと考え、半ば諦めてもいた。だが、あと少しでその名に手が届くのだ。我こそが地刀流最強と、二十一代目石川添問であると、名乗れる時が近いのだ。負けたくない。ここまで来て、絶対に負けたくなかった。

 本来はカナと総司をぶつけ、その隙を狙うことを良しとしたシドウである。この状況にあってすら次善の策を練っていた。総司はカナほどにはカクリャンと術師に対して隔意は無いだろう。勝ちたいと思う気持ちの強さも薄いだろう。

 しかし負ける気は微塵もない。それは隣にいて様子を窺うシドウには、あまりにも理解出来た。誰が相手であろうと勝つべくして勝つのだ。それが地刀流宗家、石川総司の意思であるとありありと感じ取れた。とすれば、剣気を消費しながら体力を保たせているシドウが、もっとも早く無様を晒す可能性が高いと言える。負けるとして、それは術師に対してか、あるいは傍らにいる二人の若き剣士に対してか。

 どちらにせよ、このまま長期戦になってしまえば不利を被るのは自分である。この先に待つのは勝利か、それとも死か。もはや敗北は死と同義である。少なくとも、このまま負けることは生き恥を晒すことだ。

 古くは餓狼と呼ばれたシドウである。何も無し得ぬまま結末を迎えては、おめおめと生き存えるには及ばない。シドウは決断を迫られた。消極的な判断ではあったが、しかし妥当と言える。動くしかあるまい。勝機のあるうちに。

「若様」

「何でしょう、シドウさん」

「ワシが不動剣を使います。若様は元凶の元へと」

「……分かりました。ああ、シドウさん。後ろから狙わないでくださいね」

「分かっておりますとも。若様とは正々堂々戦うつもりでしたから」

 石川総司は愚鈍ではない。こうして顔を合わせれば、シドウの企みなど聡く読み取っていることだろう。だが、構わぬ。どの道誰かが動かねばならなかった。その役をシドウが行うことに否やはあるまい。カクリャンがどう動くかが不穏な要素だったが、しかし少なくとも決定的な場面までは、シドウにも総司にも剣を向けることは無いだろう。無能な味方ほど恐ろしい者はない。であれば、有能な敵にはそれなりの信頼を置くことも吝かではない。

 全員、敵だ。

 この機に乗じて互いを出し抜こうとしている。ならばこそ、一時の不利に臆してはならない。次の一手への布石と考えるべきなのだ。地刀流は師範たる当代石川添問を頂点とした流派だが、実際に流派の顔であり、内部をまとめあげているのは師範代である。この師範代は完全な実力主義であり、当代師範及び、他の師範代全員に認められる相応の実力が必要とされる。

 不動剣を最年少で会得した総司の天才は凄まじいものだが、シドウには長い歳月があった。それは経験であり、工夫であり、不動剣を使い続けてきたこれまでの彼の人生の厚みである。青眼の構え。そして、剣気の放出。これぞ不動剣である。

 不動剣は使用中その場から動けないという欠点があるが、他に目立った弱味はない。大量の剣気を放出し己の周囲に散りばめ、これを網目状に敷き詰めてゆく。慣れないうちは数秒かかるこの溜めも、シドウほどの腕前であれば一瞬で完了する。この薄く広がった剣気の距離が、そのままシドウの間合いとなるのだ。

 たとえば遠距離から矢が打ち込まれたとしよう。この間合いの中に異物が入り込んだ瞬間、シドウの剣気ははっきりとした斬撃と形を変え、飛来する矢を切り落とすことだろう。これが何らかの術による火炎や氷弾であっても結果は同じだ。

 間合いの中に入った瞬間、シドウは半自動的に剣気を振るう。疾風斬は剣気をかまいたち状の鋭い風として飛ばす技だが、不動剣の間合いにおいては風の刃ではなく剣気そのものが見えない剣となって振るわれる。

 不動剣は防御を旨とする技だが、遠距離攻撃だけを防ぐものではない。今カクリャンがシドウに斬りかかってきたとすれば、シドウはその動きの一切を把握し、攻撃の意思に機先するだろう。

 本来は観察して得るべき初動の情報が手に取るように分かってしまう。このため、不動剣の間合いの中であれば、いかなる攻撃に対しても完璧な先の先を取れるのだ。

 相手が警戒して動かずとも、自分から攻撃することも出来る。相手の攻撃を察知し、瞬時に先の先を取ることに比べると若干精度は落ちるとはいえ、それでも敵の動きはすべて知覚し丸裸にしてしまう。

 どう避けるか。どう反撃してくるか。どう防ごうとしているのか。不動剣の間合いの中にあって全てを見抜いている地刀流剣士に抗える者などはありはしない。

 但し、例外はある。同じ不動剣使いだ。

 師範代並の実力有る地刀流剣士二人が戦うと、お互いに不動剣を使うことになる。こうなると千日手となり、先の先の奪い合いか、あるいは様子見によって消耗戦となりがちだ。自分が相手を分かっているのと同じだけ、相手も自分の動きを把握している。

 大きな実力差があればそれでも力押しで勝負を付けることはあるが、似通った力量の場合は極めて厄介な事態となる。


 そして言うまでもないことだが、不動剣は消耗が大きい。

 剣気が自然回復するとはいえ、その量はたかが知れている。また周囲に剣気を張り巡らせる以上、他の技に比べても格段に操作が難しい。いくら工夫を重ねたところで、不動剣という技の特性上、生来持っている剣気の量が多いほど有利なのは否定できない。

 これらのことから、シドウは出来ればカナと総司をぶつけ、その上で不動剣を長く使わせ、消耗が激しくなった時点で追い込むことを考えていた。

 今であれば、力量は同等。自分が不利な要因である剣気の量で勝ったのならば、シドウにも充分勝ち目があると判断したのだ。だが、その策は成らなかった。今、不動剣によってカクリャンと総司の両者を、あるいは片方を殺そうとしても、思い通りには行かないだろう。それでもシドウには勝ち筋が見えていた。

 か細い道だ。ひとつ間違えれば谷底に真っ逆さまに落ちるような、そうした危険な道のりだった。

 シドウの知覚には石川総司とカクリャン、さらにもう一人が引っかかっていた。術師ではない。おそらくはこれまでずっと隠れ潜んでいた者だ。

 三人のうち誰か、あるいは全員の隙を窺っていたのだ。

 消耗を抑えるため、総司は不動剣を使わなかった。だから彼の存在を見抜けなかった。カクリャンの縁者かもしれない。そんな素振りは一度も見せなかったが、彼にも奥の手はあるはずだ。この四人目が鍵かもしれない。なんにせよ、カクリャンはその男の存在を露呈させることはないだろうし、シドウが気づいていることを知らない。

 シドウ。総司。カクリャン。その男。そして術師。

 計五名がこの場に集まっている。術師一人だけが不動剣の間合いの外にいる。襲いかかってくる亡者の群れと妖魔の軍勢、その包囲に大きな穴を開け、一度に突っ込み、三人で散らばるのがシドウが口にした予定である。

 不動剣を使う以上、シドウはすぐには動けない。

 包囲の中に取り残される可能性も高い。いくら地刀流師範代といえど、これだけの数の剣士と妖魔に取り囲まれれば死は免れない。

 たとえば総司とカクリャンがシドウを見捨て、そのまま離脱しこの場から離れれば、シドウの命はそう長くは保たない。そしてそれに文句など言えようはずもない。それでも、上手く流れを操れば、シドウが望む展開になるだろう。

 失敗すれば……いや、それはもう考えるべきではない。後は野となれ、だ。



5、

 そして事態は動き出す。地刀流の剣士シドウが技を使い、その場に立ち止まった。カクリャンは妙な雰囲気を感じた。まるで自分が何かの中に取り込まれてしまったような、すっかり自分のことが見透かされているような、気色の悪い感覚だった。

 シドウが何かを目論んでいるのは分かっていた。自分が言いように動かされかねないことも。だがカクリャンは考えることを止めた。自分に不向きなことばかり起きている。思考するのは面倒だった。周囲の警戒をしながら防戦一方の展開も気にくわなかった。亡者の剣士どもや、妖魔の群れを相手に全力で戦えないことが一番腹立たしかった。

 直感は叫んでいる。戦うより逃げろと。それは獣の本能にも似ている。だが、いつかフマリガを殺したときにも似たような感覚を味わった。危険を身体が察知しながらも、実際には相手をぶち殺せることは昔の自分が証明していた。

 南流鬼角剣は暗殺剣を元にした剣術一派である。妖魔相手に暗殺というのもおかしな話で、とすれば対人間のための武技であったと考えられる。

 北流と根幹を同じとするが、南流においては過程ではなく結果を重視することが多い。つまり勝てば、敵を殺せれば、なんでも良いのだと。

 カクリャンが南流鬼角剣を習ったとき、師匠からは三つだけを考えよと言われた。相手の攻撃に当たるな。自分の攻撃を当てろ。そして当てたなら確実に殺せ。

 技も教えて貰ったが、細々とした動きを習ううちに面倒さが勝り、自分なりに勝手に改良した。師匠は怒らなかった。元より南流は鬼角剣を好き勝手に改良した結果出来たものであり、流派としてはそれなりに体裁を整える必要はあるが、個人としては上手く活用出来るなら好きに弄れと許しを得たのだ。

 カクリャンが強かったからこそ、師匠はそれを許してくれた。足運びや、剣の振り方突き刺し方、どこを狙えば殺せるか。強敵を相手にした場合の逃げ方なども、師匠は真面目くさった顔で語ってくれた。死ななければ勝ちだ。殺されそうになったらまず逃げろ。そして後日殺せ。つくづくカクリャンにはありがたい師匠だったと思う。

 そんな師匠が生きていれば、あの町から旅立ったりはしなかっただろう。フマリガを殺し英雄扱いされ遊び暮らしていたあの町。師匠が死んでしまったから、半分くらいは死んでもいいやと思ってフマリガに挑んだのだ。強い妖魔殺しが南流皆伝の条件だった。それを師匠に見て貰う前に死なれた。だから、カクリャンとしては投げやりな気分で名付きの大妖魔との殺し合いに向かったのだ。

 南流鬼角剣の道場は、数少ない弟子の一人が引き継いだ。しかしそいつを師範と呼ぶ気にはなれなかった。カクリャンはつまらなかった。

 自分より弱い兄弟子が師匠面をして道場でものを教えていることも、自分より弱くてもなんだかんだで尊敬していた師匠があっさり病で死んだことにも、好き勝手やった結果町の連中に持て囃されている自分も何もかもがつまらなかった。多少楽しんでいた部分もあるが、とにかくカクリャンは倦んでいた。

 だから町を追い出されたときは、素直に出て行った。楽しいだけの生活に飽きていたからだ。遊んで暮らしても満たされない生き方にうんざりしていたからだった。

 カクリャンは旅をして、妖魔を殺しながら路銀を稼ぎ、あちこちを彷徨ううちに、何か目標のようなものが欲しくなった。それはたとえば誰からも認められる強さであり、誰であっても殺せるという自信だった。勝者となれば、カタナが手に入る。売り払って金にしたいと思ったのは事実だ。だが、本当に欲しかったのは、最強の称号の方だった。

 スケザブロウには本心を語らなかった。理由は言うまでもない。最後の最後で殺すためだ。どうせスケザブロウも同じことを考えているに違いない。カクリャンとスケザブロウはとてもよく似ていた。

 顔つきや背格好。生き様こそ異なったが、その割りに現状はどうだ。両方ともが妖魔狩りをしながら全国を放浪している。そして地刀流の試しの儀に興味を抱いた。欲しいものは、最強の剣士の名。カクリャンがそうである以上、スケザブロウも同じであろう。

 自分たちはよく似ている。

 カクリャンがスケザブロウを殺してでもそれを欲しがっているのだから、スケザブロウもカクリャンを殺すことを躊躇わないに違いない。カクリャンたち三人が亡者の剣士に襲われている状況にも、スケザブロウが身を隠したまま助太刀ひとつしなかったのは、機を窺っているからだ。

 最優先の目標は地刀流の天才、石川総司。無理ならばあのシドウという壮年の剣士。カクリャンが対峙したり隙を作ったところに、スケザブロウが北流の技で奇襲を仕掛ける。この試しの儀ではそうやって戦ってきた。正面から戦うことを得手とするカクリャンと、隙を盗み殺すスケザブロウ。これこそが役割分担である。

 しかしカクリャンは油断しなかった。機を窺っている。その狙いには自分も含まれていると疑っている。いや確信している。状況は混沌としていて、全てが信用ならない。だからこそカクリャンは、疑念の全てを捨て去ることにした。

 殺しに来たら殺し返せば良い。

 まずはあの亡者の群れ。妖魔の軍勢。そして術師を殺し、それが終わったら地刀流の剣士たち。最後にスケザブロウと決着を付ける。

 これでいい。

 もはや難しいことを考えるのは止めた。殺そう。全員殺そう。

 シドウが不動剣なる技を使い、一呼吸のあと、無数の斬閃を解き放った。カクリャンと総司の脇を得体の知れない力が走り抜け、今まさに目の前で剣を振り下ろしてきた死せる剣士どもを薙ぎ払った。

 一度ではない。二度、三度と凄まじい威力の斬撃が、あるいは衝撃波が、器用にカクリャンと総司とを避け、命無き敵どもを吹き飛ばしていった。

 今だッ! カクリャンは駆けた。手にした骨剣を縦横無尽に振り回し、波状で襲いかかってきた巨大な妖魔に身体ごとぶつかって、そのまま突き抜ける。狙うは術師のみ。

 妖魔の向こうに控えていた、黒い服を着た女が見えた。

 まずはあいつを殺すのだ。返す剣で併走している石川総司の首を狙う。

 狙う……

 どうしてだ。

 カクリャンは今、視界の片隅に映り込んだものに気を取られた。

 前のめりに倒れていく姿。

 なぜだ。なぜだッ!?

「どうして、そこで死んでいるんだ……スケ……」

 術師を殺そうという瞬間、カクリャンは驚愕によってその動きを鈍らせた。

 刹那のあと、血しぶきが飛んだ。



6、

 石川総司は把握していた。全員の思惑と動きのすべてを。シドウもカクリャンももう一人の男も全員互いの命を狙い合っていたことを。

 当然の帰結である。利用し合うことはあっても、協力するなどありえない。

 試しの儀は勝者一人を決めるための殺し合いなのだから。

 この石川総司を勝者たらしめるために、無数の剣士たちが礎となるのだから。

 亡者を操る術師だけは意図が掴みきれなかったが、問題は無い。

 どの道死ぬのだ。

 シドウが不動剣を使い、亡者の剣士たちと妖魔で作り出された包囲網に穴を開けた。その瞬間、三つの出来事が同時に起きた。カクリャンは術師へと向かった。不動剣の間合いの外、妖魔の壁の向こう側にいる術師だ。辿り着くには距離があり、術師を守るためにさらなる亡者の盾がある。

 シドウは即座に不動剣を止め、総司の後ろにぴったりと付いてきた。死者の剣士と妖魔たちの反応は早かったが、それより先に包囲から抜け出せたのだ。これは運だろう。カクリャンが術師に向かうのと逆に、別の方角からカクリャンと似た男が迫っていた。

 目に映っているのに気配が感じられない。

 地刀流ではなく、別の流派の技であろうか。

 足音さえ消し、目のも止まらぬ早さで飛び込んできたその男は、しかし総司を狙うことを一瞥して諦めたらしく、背後に着いたシドウへと狙いを替えた。総司はその一切を把握していた。

 周囲の状況を把握するためには、不動剣を使う必要など無い。ただ剣気の放出と操作さえできればよい。シドウには思いも寄らなかったのだろう。ただ剣術として地刀流を学んできたシドウには。

 その程度だから父に勝てなかったのだと、総司は内心で嘲笑する。才が足りぬ。研鑽が足りぬ。覚悟が足りぬ。そして何より執念が足りぬのだ。もしシドウに勝機があったとすれば、さっきまでだ。

 あの不動剣を使って以降、一度たりとも構えを解いてはいけなかった。亡者の剣士と妖魔に包囲されたから何だというのだ。ひたすら堪え忍び、それでもなお不動剣を使い続けてさえいれば、一縷とはいえ勝利への道筋が残ったであろうに。

 シドウが餓狼と呼ばれていたことは聞いている。だが、あれは飢えた狼ではない。昔はどうだったかはともかく、今は敵失を望むことで勝ちを拾おうとする、老いた剣士に過ぎない。

 おおかたカクリャンともう一人の男が総司を狙ったところで、その混乱に乗じようとしたのだろう。

 甘い。甘すぎる。自信の腕だけを信じて戦いを挑んでさえいれば、総司とてシドウの命を取ろうとまでは思わなかったのに。

 これから二十一代目石川添問の名を継ぐのは、この石川総司だ。

 ならば地刀流から人材が、腕の立つ剣士が減りすぎると組織の維持が面倒になる。そう考えたからこそシドウは殺すに値しないと見逃すつもりだったのに。ともあれ、総司を除いた三人の剣士は動いた。ここが正念場と見越して。

 総司はゆっくりと剣を振った。疾風斬の動作であったが、風の刃は放たれなかった。代わりに現出したのは魔力の刃。不可視にして唐突な斬撃。

 本来、不動剣を使い、その間合いの中で発生するはずの透明な刃が、カクリャンの背中へと突き立つところだった。

 名付けて、無風斬。単なる風の刃ではなく、剣気を凝縮させ、鋭い斬撃として狙った位置に発生させる。通常、地刀流には無いはずの技である。

「なっ!?」

 驚愕の声は、シドウか、カクリャンか、それとも。あるいは、我知らず総司の挙げた声であったかもしれない。カクリャンは無傷だった。代わりに、この一瞬でいかにして動いたのか、もう一人の男が、カクリャンとそっくりな顔をした剣士が、代わりにその斬撃を背中に受けて、前につんのめるようにして倒れた。

「何故だ! 何故、俺を庇ったんだ、スケッ!?」

「カク……あとを」

 辛うじて声を発した彼が何を言い残したかったのか、分かる者はもはや存在しない。返す刃でもう一度、カクリャンの首もとを無風斬の刃が切り裂いたからだった。呆気ない幕切れだった。

 スケと呼ばれた男の動き。あの速度、あの一瞬での移動法。それを使って戦いに持ち込まれていたら、総司でも苦労したかも知れない。

「無駄な作業、お疲れさま。……兄弟だったんですかね、彼ら」

「……若様」

「それとシドウさん」

「ええ、分かっておりますとも。ですが、最後まで抗わせていただきますぞ」

「僕はさ、素直に負けを認めない相手が嫌いなんだ」

 シドウは不動剣の構えを取ろうとした。が、そのままの体勢で後ろに倒れた。

 即死だった。この瞬間、迫りくる妖魔と亡者たちも足や首などを断ち切られ、一瞬で行動不能になった。

 十数体による波状攻撃だったが、総司を狙ってきたこれら全ての敵に対し、ほぼ同時に透明な斬撃が襲いかかったのだ。まさに一蹴という言葉が相応しい光景だった。

「故人にこんなことを告げるのはなんなんですが……不動剣を使うのに、本当は構える必要なんて無いんですよ。それどころか、実は剣に手を掛ける必要すらない」

 応える声はない。あるはずがない。

 息絶えたシドウは、何が起きたのか分からぬ表情のまま、目を見開いていた。

「地刀流の奥義、初代が最強と言われたのはこのおかげです。どんな状況でも、どんな相手であっても、たとえ剣を失った状態ですら剣士として戦い、これに勝利できる。剣術なのに、剣を使わないでも構わないなんて……おかしな話でしょう」

 まるで独り言だ。しかし、まだ一人残っている。亡者を操っていた術師が。石川総司が一瞬で三人を斬り殺した手腕を見てか、あるいは別の理由でか、黒い服を着た女術師は狼狽えていた。即座に自衛のための戦力をすべて総司の打倒のため向けていた。

 悪くない判断だ。しかし、もう遅い。

「同じ不動剣使いに優劣がないなんて、多少は変だとは思いませんでしたか。不動剣に対抗するためには不動剣を使えるようになればいい。それで対処出来るなら、地刀流は最強だなんて呼ばれません。ましてや石川添問の名がこれほど残り続けたはずもない。不動剣を極めた先に、この技はあるんです」

 総司は誰に語っているのか。もちろん、術師に対してだ。

 死者を操る術師を通せば、死んでしまったシドウの耳にも届くのだろうか、などとくだらない考えも無くはない。

 何にせよ、逃すつもりはない。そのために退路を断っているのだ。これは宗家が他の師範代に隠し続けている秘奥であり、宗家を宗家たらしめている根幹でもある。

「では、死んでもらいましょう。地刀流宗家が奥義、神妙不動剣ッ!」

 シドウのそれとは比べものにならないほど広く濃密に複雑に編み上げられた、総司の領域。

 その間合いの中から術師の女は逃れることは叶わなかった。

 反撃を許さず、まず胸を抉り、首を断ち、腹を裂き、確実に殺してやった。

「これで呪符の数字は二十八。勝利が確定したとはいえ、カナはどこにいるのやら」



7、

 石川総司がどこかへ去ったあと、クローネは立ち上がった。

 血みどろの腸が外へと飛び出しており、首は自分の手で支えねば落ちてしまいそう。胸にはぽっかりと穴が空いている。

 クローネは死んでいる。

 死んでいるが、屍術を使って己の身体を無理矢理動かしている。修練場に満ちた異常な量の魔力がそれを可能にした。といっても、凄まじい勢いで失われてゆく体内の魔力が尽きた時点でこの屍の活動も終わるのだが。死んでいるクローネに意識はない。思考も出来ず、心もない。

 魂はあるのかもしれないが、クローネ自身にも他人にも知覚できない以上、その存在を確かめることに意味は無く、確かめる術も無い。

 クローネが操っていた亡者たち。剣士と妖魔の軍勢は悉く動かなくなった。

 動く死体が動かない死体に戻っただけである。クローネはそれを悲しむ感性を持っていなかったし、今のクローネは自動的に動いているだけの死体である。見た者に悲哀を感じさせることはあっても、己の内部には動くものはない。血液も心も感情も、何もかもクローネからは失われている。

 しかしクローネは動いている。魔力が続く限り、動き続けようとしている。生前の自分の従順な下僕たちを踏み越えて、たったひとつの死体の前に歩いて行く。剣を構えようとした姿のまま、仰向けに空を見つめている壮年の剣士の姿。その死体に、クローネは近づいていく。

 死体のそばに辿り着いたそのとき、クローネを動かしていた魔力は尽きた。その魔力に指向性はなく、誰の指示があったわけでもない。どうしてクローネを少しの距離歩かせたのかは分からない。分からないが、動くことを止めたクローネの死体は、下にあったシドウに覆い被さるようにして、うつぶせに倒れた。

 完全に動きを止めた死体たちは、もはや二度と動くことはない。後に残ったのは無数の死体の山だけであった。



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