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彼と彼女の迷宮えれじい  作者: 三澤いづみ
第二部 『ソエモン秘剣抄』
16/62

惨、《焦がれた剣は》




1、

 周囲に自分以外の剣士がいる気配は無い。修練場の入り口にあたるあの切通からさっさと離れ、山林の奥へと足を踏み入れておいた。巨大な樹木があり、その周囲に妖魔の姿も見当たらない。人心地つける、と息を吐いた。

 他の参加者たちに比べ、彼は重装備をしていた。鎧を着こんでいるわけではない。盾や兜を持ち込んだわけでもない。着ているものは着流しで、青白くこけた頬からするといかにもな装いなのだが、そんなものを差して重装備と言うはずもない。

 荷物が山のようにあった。寝袋でも入れておくような背丈と同じ長さの筒袋に、三日分の食料と水、さらには毛布と燃料を持ち込んでいたのだ。

 試しの儀は三日間行われる。最終日は朝までだが、それでも二度の夜を越えなければならない。だとすれば準備が必要だと彼は考えた。それも相当に念を入れた準備だ。

 山林地帯に剣一本を持って踏み込む馬鹿がどこにいる、と。

 妖魔溢れる危険な地域である。まともな小動物が生き残っているとは考えにくい。つまり食料を確保するのが困難である。妖魔の中には食えるものもいるが、運良くそれらと遭遇できるとは限らない。修練場の中に店があるはずもなく、井戸や清流があることを期待するのもおかしな話だ。この時点で水が必須であることに気がついた。

 雨風をしのげる場所も探さねばならない。顔色の悪さと裏腹に体力に自信があるとはいえ、三日は長丁場である。睡眠を取らないわけにもいかない。

 考えれば考えるほど必要なものは増えていった。こうした準備をまともにしていた参加者は案外少なかった。狂死朗の方が驚いたくらいだ。

 いや、まともそうに見えない狂死朗がこの手の準備を怠らなかったことに、他の参加者たちは驚愕していたのかもしれないが、知ったことではない。

 木枯狂死朗、これは本名を木村史郎と言い、狂死朗は適当にでっち上げた名だ。そもそもこんなふざけた名前を子供に付ける親がいてたまるか、と狂死朗は考える。

 なにしろ一児の父である。郷里に帰れば身重の妻も居る。二人目の名前はどうしようかと、緊張感の欠片もないことを彼はいま考えている。くくくとおかしな笑い方をしていたのも演技である。

 腐れ縁の友人に言われたのだ。もっとハッタリを聞かせた方が受けが良いと。

 彼女に言われるまま外連味のある名前を付けたのは、ふと開眼してしまった天外無情流なる流派を世に知らしめようとする一心だった。

 後悔している。何が木枯狂死朗だ。こんな恥ずかしい名前はそうはない。

 何が悲鳴剣だ。

 本当はもっと響きも美しい、格好良さ溢れる技のつもりだったのだ。

 だが彼女が「悲鳴剣でいいんじゃない? ほら、相手がビビって勝ちやすくなるかもしれないし」と口にした。

 天啓だと思った。

 翌日、頭を抱えた。

 やはり酒に酔っているときに技の名前など付けるべきではない。狂死朗は自分の愚かさに深く深く落ち込んだ。

 が、ひとたび付けた技の名前である。

 これを変えようと思うと、どうもしっくり来ない。三日三晩考え続けると、一周して完璧な名前ではないかと考えるようになった。

 一種の現実逃避である。天外無情流にはいくつかの技があるのだが、どういうわけかその腐れ縁の友人と一緒にいるときにばかり編み出してしまい、酒を飲み交わしているうちに名付けられ、なし崩しのうちに最終決定となることを繰り返している。

 ああ、なんということだろう!

 木枯狂死朗は天外無情流開祖にして、真なる剣の天才であったが、どうにも間が抜けていた。悲鳴剣の他にも業はあるが、どの名前もこれまたひどい。

 まず、暗黒斬である。

 次に、無惨撃である。

 この上に、姑息剣である。

 まさに狂死朗の心情は暗黒の一言である。無惨にもほどがある! 何の恨みがあるのかと叫びたくなるが、酔っ払った自分はその名前に大満足しており、友人の一言を天祐であるとばかりに諾々と受け入れたのだ!

 奥義にいたっては友情無情残酷剣などとけったいな名称になってしまった。いかなる流派にこんな奇妙奇天烈、不格好に過ぎる技、それも奥義の名称があろうか。あるはずがない。

 奥義だぞ奥義。こんな名前の業を誰が好んで使うというのか!

 しかし!

 しかし、である。この名前が奥義にそぐわないかと言えば……そんなこともないのである。腐れ縁の友人は、腐れ縁だけあって狂死朗の心情や趣味、性格や嗜好にいたるまでよく知っている。これが奥義と全く無関係な、つまり不似合いな名称であればさっさと別のものに切り替えるのだが、しっくり来てしまうのだ。

 しっくり来てしまったのだ。

 恐ろしいことである。かくして木枯狂死朗が興したる、この天外無情流なる精妙神髄を究めた剣術は、当然のごとく世に憚ることになってしまった。もっと実態に即して、且つ格好の付く名前が思いつくまで、技の名称は変えられない。

 ついに妻子を儲け、とうとう第二子が生まれようとする今になってさえ、狂死朗が開いた道場には弟子の一人もいないのであった。まあ、誰が悲鳴剣なる技を使いたがるか。誰が姑息剣など使いたいと思うのか。

 天外無情流がいつまで経っても無名なのは、この悲惨な技の名前が多分に影響しているに違いないと考えるのも無理からぬことであった。

 いや、もちろん弟子志願の者はいた。あの悪鬼をただの一撃で殺したるその技量! あれひとつ見ても狂死朗の腕がただならぬことは一目で理解できよう。だが、どの弟子も最初の一歩に躓き、気づけば道場から去っていってしまった。

 ただひとりとして奥義はおろか、悲鳴剣すら使いこなせたものがいない。悲鳴剣さえ使えたならば、弟子として認めるに吝かではないというのに!

 かくして、狂死朗は喧伝をせねばなるまいと決意した。友人に誘われ、数十年に一度開かれると言われる試しの儀に参加するのを決めたのも、それが理由だった。

 不遇をかこった天外無情流だが、世に知らしめるには丁度良い機会である。

 今こそ飛翔の時! ……なのだが、腐れ縁の友人は開始直前になって参加を辞退してしまった。困ったのは狂死朗である。問題の友人は身一つで参加予定であった。若作りのくせにひらひらとした紅白の巫女服なんぞを身に纏い、未来ある若者を惑わしているところを眺めていたが、いったい何の心変わりか。というわけで、二人分の食料と水と毛布その他を持ち込んだ彼は、なんとも言えぬ気分のまま地刀流管理の修練場をさまよい歩いている。

 友人がこの場に来なかった以上、ひとり分は捨ててしまっても良かったのだが、昨日わざわざ買い出しに行った品物である。ただ捨てるのも惜しい。

 むむむ、と彼は唸った。だが、繰り返そう。


 木枯狂死朗は、真なる剣の天才であった。


 不意を打って現れた妖魔がいた。ただの妖魔ではない。平時の修練場でもっとも恐ろしいと言われる巨大な骸骨の化け物だ。

 無数の骨の集合体である。しかし一切の音もなく、彼の背後で堆く積み上がり膨れあがって、ひとつのかたちを取った。がしゃどくろと呼ばれるそれは、のっそりと、ゆっくりと、しかし確実に、狂死朗を殺そうとその身体を動かした。

 気づいたときにはもう遅い。山ひとつがのし掛かってくると考えれば、それがどれだけ恐ろしい攻撃か分かるだろう。すなわち、逃げ切れない面積と、防ぐことを許さない大質量による潰撃である!

 ただの人間には、ましてや単なる剣士では、どうしようもない。

 が、狂死朗はただの人間ではあったが、決して単なる剣士ではなかった。

 彼はがしゃどくろに気づいた瞬間に悲鳴剣を用い、無理矢理こじ開けた隙間へと身体を滑り込ませて左手のみで無惨撃を放ち、この須臾を奪い姑息剣による一撃を残した。

 刹那、がしゃどくろの動きが止まった。

「いざ受けてみよ、我が奥義!」

 そこに振るわれたるは、あの友情無情残酷剣である!

 ああ! 誰か一人でもその光景を見ていた者がいたのなら、彼に惜しみない称賛を送ることを厭わなかったに違いない!

 そうだ、憧れゆえに弟子入りを志願した者は後を絶たなかったはずなのだ!

 がしゃどくろは、地刀流の者ですら、ほとんどが複数名で戦いを挑む大妖魔である。その巨体、その質量。あまりにも強大であるがゆえに、一人では手に負えないとされているのだ。まさに山に挑むがごとき無謀なのである。

 しかし! 遠からんものは音に聞け、近くば寄って目にも見よ、木枯狂死朗はその必殺で、大妖魔がしゃどくろの四肢を奪い、返す刃で巨大な頭蓋骨へと最後の一撃を食らわせたのである!

 さらに続けて見よ、狂死朗が振るった剣は、まさに今、爆発したのだ!

 そう、

 爆発、したのだ。

「し、しまった……!」

 友情無情残酷剣はあまりに恐ろしい奥義であるが、そのあまりの恐ろしさゆえに武器にも相応の負担を掛けてしまう欠点がある。

 狂死朗は、この秘剣に至ったそのとき、友人が大事にしていた高価な剣を一本借りていたのだが、その名剣を一度でお釈迦にした。

 これぞ、まさに友情無情なり。がしゃどくろを倒したものの、剣を失った狂死朗は、呆然とした。なんたることか。これでは戦い抜いても意味が無い。狂死朗がこの試しの儀に参加したのは、自身が編み出した剣術である天外無情流の強さ、素晴らしさを世間に知らしめるためである。

 剣がないまま勝ち残って、これが我が剣術でございと言えるのか、という問題だ。

 もちろん天外無情流には無惨撃を始めとして、いくつか体術で使える業がある。あるのだが、剣術を名乗るのならば剣が無ければ格好が付かない。いっそ他の参加者から剣を奪ってしまおうかとも考えたが、狂死朗はそこで思案した。

 よし。最初に遭遇した参加者の腰のものを見て結論を決めよう。

 木枯狂死朗。やはり、間の抜けた男であった。



2、

 狂死朗が出逢ったのは、あまりにも貧相な剣士だった。

 体格ではない。腰の物が、である。

 釣り合いが取れていないのだ。剣士はカナと名乗った。

 少年と呼ぶか、青年と呼ぶか、なんとも微妙な年齢であった。狂死朗はいきなり襲いかかられることも考慮していたが、そういう動きは見られなかった。もちろん油断していても即座に反応することは難しくない。未熟であるし、どうとでもなる。

 狂死朗にとっては、カナは、その程度の剣士であった。

「くくく、ワタクシは天外無情流、木枯狂死朗」

「天外無情流?」

「うむ。……見てなかったのですか?」

「ええと、なにをだ」

 ふむ。狂死朗は考え込んだ。どうやらこのカナなる剣士、予選は乱戦を勝ち抜く方を選んだ側らしい。不思議そうに尋ねられてしまうと、説明が難しい。

 見れば分かる、が狂死朗の説明方針である。だからこそ弟子が皆逃げてしまったのかもしれないが。

「くく、君はワタクシを殺そうとは考えないのですか」

「どうしてだ」

「見ての通り、ワタクシは今、無手だ。持ち込んだ剣はさきほど壊れてしまった」

「……いや、意味が無いだろ」

 カナの言葉は本心のようだった。

「ほう。その心は?」

「勝ちやすい相手に勝ったところで胸を張れないのがひとつ」

「くくく。良い心がけです。もうひとつは?」

「アンタは俺を殺そうとはしていない。だから、戦いにならない」

「よろしい!」

 くっくっく、と笑いが込み上げてきた。狂死朗はカナの顔を思い出していた。あの腐れ縁の友人が絡んでいた相手だ。いきなり勝ち星を譲られて戸惑っていた。

 彼女に振り回された者同士、若干の共感と同情を覚えなくもない。

「君、あいつと何か話していなかったですかね」

「あいつって」

「あの巫女服を着たババアですよ。くくく、若作りのババア」

 彼女の実際の年齢は、実のところ狂死朗も知らなかった。だが、十代でないことだけは確かだった。すでに二十年以上の付き合いがあるからだ。いきなり意識していなかった内容について尋ねられ、カナは怪訝そうな顔をしたが、素直に答えてきた。

「ああ、コドクとかなんとか。呪いがどうとか」

「ふむ、彼女が避けたのはそれが理由ですか」

 あの友人は剣も使うが、巫女服なんかを着ていることから分かる通り、術師としての側面も持っているのだ。何かの呪術に知らぬ間に巻き込まれては叶わないと、予防的に待避したのなら理解は出来る。理解は出来るのだが、それならば自分で誘った狂死朗にも一応一声かけておくべきではないのか。いつもそうだ。あいつは無責任に過ぎるのだ。

 狂死朗は嘆息した。いつものことか。

 いや待て。どうしてこの若い剣士に声をかけ、どうして狂死朗をここに残した? あの腐れ巫女は無駄なことを嫌う。未来が見えるなどと嘯くこともあるが、それが嘘であることは狂死朗はよく知っている。しかし、勘の鋭さは人一倍あるし、何かを導くような真似をすることもある。唐突に、狂死朗の脳裏に閃くものがあった。

「くくく。なるほどなるほど。ワタクシがここにいるのは、そういうことですか。君は我流ですね? そして今、壁にぶつかっているところに違いない。それは誰かに師事しなければ容易くは越えられない巨大な壁です。自力で乗り越えることも出来るが、そのためにはあと数年の猶予が必要でしょう。そして君には今、壁を越えるための力が必要だ」

「な、なんだいきなり」

 狂死朗の青白くこけた頬は喜悦に歪んでいた。いやさ、狂喜していると言っても良い。天外無情流を世に知らしめる方法は、何もひとつではなかったのだ! まさに天啓であった。こういうことがあるから、腐れ縁と知りつつも付き合いを絶てないのだ。

「ワタクシが稽古を付けてあげましょう」

「……は?」

「このワタクシ自ら、天外無情流を手解きして差し上げようと言うのです!」

 今は試しの儀の真っ最中である。ここは修練場であり、他の参加者や妖魔の群れがいつ襲いかかってくるかも分からない状態である。しかし、そんなことは関係なかった。

 カナも困惑した顔であったが、面倒くさそうに狂死朗の前に立った瞬間、怖気が奔ったようだ。即座に剣を構えた。目の前にいる者が、どれほど凄まじい存在なのかを肌に感じたらしかった。恐怖に打ち震えるかと思いきや、獰猛に笑う。そうだ。それでいい。狂死朗には目の前の若者が、その荒削りの剣の才が、ひどく貴重なものに感じられた。

「俺には剣気なんてもんは無いが、それでもいいのか」

「剣気?」

「そのせいで、地刀流を学ぶことを禁じられたんだよ」

「地刀流はアレをそう呼称しているのですか。ワタクシにしてみれば、剣士がそんなものに頼るのは間違いと言いたいところですが……君のそれは、確かに乏しい。無いよりはあった方が良いのでしょうが、まあ、無いなら無いでなんとでもなります」

 あまりにあっさりと言ったせいだろうか。言われたカナが、唖然としていた。

 余程の衝撃だったのだろう。狂死朗は普通のことを口にしたつもりだった。こういうところが余人に理解されないと、友人たちから注意される部分なのだ。こほん、と咳払いひとつ。面倒くさくなったため、くくく、と含み笑いするのを取りやめた。

「見たところ、君には剣の才がある。もちろんワタクシに比べればまだまだですが、磨けばそれなりになるでしょう。それひとつあれば、まあ大抵の剣士には負けませんよ。あんなものを剣気と呼んでいるようでは、地刀流も思ったより大したものではないのかもしれませんが」

 そこまで言って、狂死朗は口を閉じた。カナの雰囲気が変わったからだ。何かがカナの琴線に触れたことは理解したが、狂死朗は謝らなかった。

 間違ったことは言っていなかったからだ。

「では、ひとつお見せしましょうか。天外無情流、悲鳴剣を」

 カナの剣を借りると、するりと現れた小鬼の群れへと向き直った。通常、禁地では、七名以上の集団で行動していると、周辺から集まった妖魔の群れが次から次へと絶え間なく襲ってくる。

 が、今ここにいるのはわずか二名である。ここに小鬼の群れが飛び込んできたのは、単なる偶然だろう。手頃な獲物だ。狂死朗は悲鳴剣を使い、小鬼たちを一瞬で殺した。あまりにも鮮やかな手際に、カナは声を上げる暇すら無かった。

 間合いの外にいた小鬼たちは、皆死に絶えていた。

「今のは、疾風斬……?」

「違いますよ。悲鳴剣です。一緒にしないでもらいましょうか」

 嘘は言っていないと分かった。カナはその目で見た。疾風斬は風の刃を撃ち出すものだが、悲鳴剣は小鬼たちの内側を切り裂いたのだ。確かに違う。これは、いかなる神技によるものか。

 聞いたこともなかった天外無情流なる流派に、カナは目を見開いた。にしても狂死朗は悲鳴剣の名前を変えたがっていたはずなのであるが、やはり他流の全く違う技と間違われるのは業腹だったらしい。

「カナ君と言いましたか。君には今日一日だけ、天外無情流を習ってもらいます。もちろん拒否権はありません。よろしいですね?」

 とんでもないことになってしまったと、カナの目が語っていた。

 狂死朗は、矮躯に吹き上がる気力を充填し、炯炯と輝く眼光をなお煌めかせ、この即席の弟子をいかにして開眼させるかに没頭していた。



3、

 そこかしこから悲鳴が聞こえてくる。何かが近づいてくる。妖魔か、人か。

 地刀流の若き精鋭が一人、シンタは剣に手を掛けた。

 まだ距離がある。場所を移すか、この場に留まり疾風斬により敵を寄せ付けぬまま斬り殺すか、それとも懐に呼び込んで紅蓮剣で打ち負かすか。来た。

 あれは……剣士だ! 地刀流の同輩ではない。同門の剣士ならば、なるべく殺し合いは避けたいところだからだ。それだけ確認すると、我が身の剣気を振り絞り、一呼吸の溜めを作る。人影は決して良くはない足場の山道を滑るように動き回り、恐ろしい速度で接近してきた。

 シンタが選んだのは紅蓮剣である。シンタにとっては最も長けた技である。

 地刀流に不向きな間合いは存在しない。剣の間合いの外であれば疾風斬、中距離からは雷神剣、そして密着状態や鍔迫り合いともなれば、紅蓮剣の出番となる。奥義たる不動剣はこの三つとは趣を異にするが、シンタはそれを未だ会得していない。

 疾風斬も雷神剣も強い技だが、シンタは紅蓮剣を愛していた。

 偏愛と言っても良い。

 前者を練習する時間の十倍、紅蓮剣を極めんとして修練に打ち込んでいた。だからこそ奥義たる不動剣の会得には遠ざかったのではあるが、シンタは満足していた。

 紅蓮剣だけは。我が紅蓮剣だけは、あの宗家石川総司にも確実に勝るのだと。

 敵の剣士はすれ違うようにしてシンタの脇腹を切りつけてきた。すでに青眼に構えていたが、敵の狙いがぎりぎりまで分からなかった。殺気の動きは袈裟切りであり、狙われたのは首筋だった。

 しかし実際の剣の軌跡は、駆け抜ける速度に任せた横薙ぎだった。

 動きから見て取れた。

 手に力はほとんど込められていない。剣は軽く握られているだけだ。

 余程良い得物なのだろう。鋭い刃が煌めく長剣である。ただ触れて引くだけでやすやすと骨まで到達しそうな美しい斬撃だった。そこに余計な時間など一切かからない。

 なるほど、先ほどの悲鳴はこれにやられたのか。通り魔のような斬り方だ。戦場で出くわしたなら、乱戦の最中には絶対に近づきたくない相手である。敵味方入り乱れる中に飛び込み、無数の傷を残しながらすり抜けていく戦術。

 争うのではなく、一方的に攻撃して逃げる攪乱の手口だ。紅蓮剣を使うシンタ相手にそれは悪手だった。シンタは己が剣気を充分に剣に纏わせていた。

 体内で練り上げた剣気は剣の根本から切っ先までを覆い、まるで炎が揺らめくような灼熱の輝きを生み出していた。敵の剣が自分の脇腹を切り裂いていくより早く、シンタの振り切った剣はその素早い人影を捉えていた。剣が当たった部分から、紅蓮の炎が噴き出した。すれ違う形ですり抜けるつもりだった敵の身体は、突然発生した爆風によって、逆方向へと強く弾かれたようだった。ゴムマリのごとく高く跳ね上げられ、二度、三度と山道を弾み転がっていく敵の身体は、やがてその動きを止めた。

 当然だが、即死である。紅蓮剣が当たった時点でか、あるいは空高く跳ね上げられ落下した瞬間か、どちらにせよ致命傷であった。名も知らぬ剣士を屠ったことを確認し、シンタは大きく息を吐き出した。服の袖をめくり、数字の変化を確かめた。数字は四になっていた。勝利の昂揚か、どういうわけか身体に剣気が充溢している。静かな興奮が、シンタの精神を高みに運ぶ。あるいはこれならばあの天才、石川総司が繰り出す不動剣にすら打ち勝てるかもしれぬ。我が紅蓮剣は最強である。不動剣は確かに凄まじい。普段であれば為す術もなく、打ち破ることなど不可能である。

 だが、流派が同じであれば、あとは剣気の量と技量の差が物を言う。宗家たる総司の才には遠く及ばないが、シンタの剣気も同年代では飛び抜けている。師範代ですらないシンタが試しの儀に参加することを薦められたのも、その実力を買われたからだ。

 他では無理だが、紅蓮剣の打ち合いに持ち込みさえすれば、勝機は、ある。

 あの済ました顔を驚愕させてやる。この紅蓮剣のシンタに対し、まったく注意を払っていなかったことを後悔させてやる。シンタは、ふと、倒したばかりの剣士の死体を見つめた。力を入れずとも敵の骨まで断つ、恐るべき切れ味の名剣を持っていた。

 当たり前だが、相手より良い武器を使えば、それだけ優位に立てる。

 倒した敵の剣を奪うのは、まるで山賊か何かの真似事のようであまり気分は良くなかったが、これほどの剣だ。ここに捨て置くことはむしろ可哀想であると考えた。

 シンタは地面に転がった名剣と素早く取り替えた。いやに手になじむ剣だ。こんなに良い剣ならば多少腕が悪くとも敵を殺せたに違いない。なら腕の良い自分ならば、紅蓮剣のシンタならば、他の地刀流で大きな顔をしている馬鹿どもを駆逐するのは容易い。この剣で紅蓮剣を使えばどんな相手も一刀両断出来る。勝てない相手はいない。殺すのだ。ここにいる者を皆殺しにして最強の名を手に入れるのだ。シンタは歩き出した。抜き身の剣をぶら下げたまま敵を求めて、ゆっくりと、ゆっくりと。



4、

「疾風斬!」

「実に疑問なのだが、そうやっていちいち名前を叫ぶ必要はあるのか」

「くっ、避けられたかっ!」

 風鳴師、ファン・ホアンは錫杖を手に右へ左へと避ける。師範代でもない地刀流の剣士を相手取るのは難しいことではなかった。

 要は間合いの広い武器を持っているだけだ。風鳴師に限らず、一流の術師と相対するにはあまりにも拙い。目の前の若者は、地刀流というだけで調子に乗っていた。

「はぁ、はぁ……くそ、剣気が足りないっ」

 疾風斬なる技をすでに十度近く乱発している。地刀流の戦い方を把握しようと、まずは弱そうな相手と考えて戦いを挑んでみたのだが、これは外れだった。が、剣気。妙な単語が出た。地刀流特有の用語であろうか。ホアンは目を懲らした。

「なるほど。地刀流は魔力を剣気と呼称しているのか。気と魔力は別物なのだが、妙な用語を使うから勘違いするところだった」

「魔力だと?」

「知らなかったのか? ……術師でも無ければ魔力について知る機会も無いか。仕方あるまい。風鳴師たる吾輩が教授してやろう」

 ホアンは目の前の若者を憐れんでいた。予選で悪鬼を殺していた他の地刀流剣士に比べても、実に無駄が多い戦い方だった。

「魔力とは、呪力、法力などとも呼ばれるが、人間なら誰でも持っている目に見えない力の一種だ。術師の使う力と同じなのだ。ほれ、この修練場に蠢く妖魔ども。あれらの原料でもある」

「それが、何だってんだ」

 地刀流の剣士は、ホアンに剣を向けたまま話を聞く体勢になった。会話に付き合うのは時間稼ぎのつもりだろう。いじらしいというか、可愛いものである。

「妖魔が人間を襲う理由は知っておるか」

「……魔力を奪うため?」

「なんだ、知っておるではないか。つまり人間なら大小はともかく必ず魔力を持っているのだ。生きている限り魔力を体内で自然に生み出し続けるのだ。この魔力を術として使うものを術師と呼び、まあ方術やら呪術、道術や仙術として形成するわけだ。どうだ、ついて来ておるか」

 剣士が頷く。ドン、と錫杖を土に深々と突き刺し、ホアンは呵々と笑う。

「西の大陸では魔術師なんてのが幅を利かせておるが、まあ術の形式と名称の違いだな。一般的には魔力と総称されるそれは、お主ら地刀流が言う剣気そのものだ。西の定義に当てはめれば、魔法剣士という扱いになろう」

「魔法、剣士?」

「杖の代わりに剣を使っているわけだな。剣技主体だが、剣気……魔力を使うことによって様々な事象を引き起こす。違うのは動きそのものが呪文の役割を果たしていることか。魔術師は詠唱を持って術を放つが、お主らは剣技という形の中に術を発生させる」

 ホアンは意地悪そうに剣士の反応を覗き見た。混乱気味だが、案外素直に話を聞き入れていた。これだから若い連中をからかうのは楽しい。

「ほれ、あの疾風斬という技があっただろう」

「あ、ああ」

「吾輩の手をよく見ておけ。〝フェイ!〟」

 ホアンは腕を振った。剣士は目を見張った。腕の振った動きのままに、向こうにある樹木が真っ二つに断ち切られていた。疾風斬とそっくりだった。

「主らの言う剣気……もう面倒だから魔力で通すが、魔力の総量は生まれたときにほとんど確定する。器の大きさよな。主ら地刀流は確かに強いだろう。魔術や方術などと同じようなくくりで、〝剣術〟を作り出してしまったのだからな。魔力を使う術を知らぬ、単なる剣士相手には無敵なのも当然よの」

 ホアンは大げさに笑い出した。剣士が顔をしかめたのを気にせずに、というか、分かっていてわざとらしく大笑いしたのだ。

「あの御曹司、あれは凄まじいな。石川総司とか言ったか。あの不動剣なる術もまた、容易くは破られぬ必殺と見た。なるほどなるほど。開祖の石川添問が最強を謳ったのも分かるというものだ。あの不動剣を極めれば、いかな術師であっても近づくことすら出来ぬであろうさ」

「分かったのか……あの技を」

「吾輩くらいの術師ともなれば、その術理は分かるとも。が、破れるかどうかは別問題だの。三日のうちにあの不動剣を攻略するのは……不可能とは言わんが、極めて困難と言わざるを得んな」

 剣士はとうとう恐怖を顔に浮かべた。自分がどれほど恐ろしい術師に勝負を挑んだのかを初めて理解した。自分が仰ぎ見る師範代たち。それが使う不動剣なる奥義を、一目で把握してしまったこの男。

「気にすることはないぞ。吾輩は風鳴師。術理に通じておるのは当然ではないか。しかしあれほどの魔力を張り巡らせ、剣によって操作する。なんとなれば、吾輩にも再現は難しい剣術ぞ。さあ誇るがいい地刀流の。お主の学ぶ地刀流は、確かに最強の剣士を産むに足る土壌よ!」

「そうか、そうだよな。地刀流は、強いんだ」

「が、悲しいかなお主は弱いのだ。吾輩が憐れんでしまうほどに弱いのだ」

 スパン、と首が飛んだ。

「色々と教えてやったのは、冥土の土産だ。もう聞こえていないだろうがな」

「……」

「おっと、この場合は、こう言うべきだったか。地刀流、破れたり! ……まあ、弱い者いじめはあまり好きではないのだが、仕方あるまいな。吾輩が、この仕組みに気づいてしまったのだから」

 しかし呪符は正常に働いていた。ホアンは自分の身体に何かが入り込むのを知った。数字が六になっていた。呪符そのものに不正は無かった。それは間違いない。しかし、呪符は寄生虫のようなものだ。呪符が機能するにあたって魔力が常に消費されている。そして勝敗の結果として、呪符の数字は勝者に移行するのだ。呪符に蓄えられた、敗者の魔力と共に。ホアンは自分の魔力の器が広がったのを感じた。聞くともなしに聞いていたが、あの参加を辞退した巫女の言葉は正しかった。

 これは蠱毒だ。勝てば勝つほど他者の魔力を取り込み、器の上限を拡大させてゆくための儀式。地刀流が魔法剣士であることも、その傍証であった。

 最強の剣士が勝ち残るのではない。

 勝ち残った者が、最強の剣士と変質するのだ。

 単に負けを認めただけでは魔力の移動は感知できなかった。相手の魔力を、それも器の中身ではなく、器そのものを奪い取る。試しの儀に自ら参加した者にしか効果がない呪法なのだ。その証として呪符を自らの手で、自らの肌に貼り付けることが必要だ。

 魔力を奪うためには負けを宣言させるのではなく相手を殺す必要がある。これだけ大規模な仕掛けを使うことで、ようやく意味のある儀式となるに違いない。

「さて、次は誰を狙うべきか。ふふふ、くだらぬ争いかと思ったが、何にでも興味は持ってみるものだな……」

 風鳴師、ファン・ホアンは血だまりを気にせず、死体の脇を通り抜けた。彼が去ってしばらく経ったあと、思考力を失った身体は、ようやく首の側へと倒れていった。



5、

 カナは、まさか本当に稽古を受けさせられるとは思っていなかった。しかし途中で切り上げることだけはしたくなかった。

 狂死朗の教えは、確かに今のカナには必要なものと信じられた。

「……なぜです」

「なにがだよ」

「地刀流で言う剣気が必要な姑息剣はともかく、悲鳴剣は完全に技術のみの業。カナ君。君ならすぐに会得すると思っていたのですが……なぜこんな時間になるまで失敗するのですか。まったく。ワタクシの完璧な計算が狂ってしまったではないですか!」

「前提がおかしいんだよ!」

 疲れ切ったカナは現在までのやり取りで、木枯狂死朗の天才だけは確信していた。カナは石川総司という天才を知っている。家族として、兄弟として育った、地刀流の星。開祖の再来とまで言われる凄まじい才能。狂死朗の天才は、それとは違う。高く見上げた場所ではなく、全く異なる地平にあるものだ。

 最初の一声からして、こうであった。

「悲鳴剣ですが、まず木刀で斬鉄をするときの要領で」

「待て」

「大丈夫。……剣気なんて要りませんよ」

「いや、だから」

「ああ、木刀はないと。大丈夫です。慣れればそこら辺に落ちている木の枝でも」

「おい!」

「本来、天外無情流はカタナを使う流派ですが、剣術である以上基本は同じです。別の武器でも割となんとかなります。ほら、ワタクシも今はカタナなんて持ってませんから」

「そういう話じゃない!」

 総司の天才は理解出来るものだった。また、狂死朗の説明で、地刀流が魔力を用いる剣技であることも、自分にはそれを扱うための魔力が決定的に欠けていることも、きちんと把握した。

 狂死朗に見せてもらった悲鳴剣。これには魔力など不要と言い切られた。これまで独力で積み上げてきたカナの我流の剣でも、習得のための修練は十分だとも。ひたすら剣を振る。素振りをする。その果てにある技のひとつなのだと。

 何度見せてもらっても、悲鳴剣がいかなる技なのかが理解出来ない。

 刃は飛翔しない。しかし間合いの外からでも切れる。

 地刀流の疾風斬とは明らかに違うが、どうやれば再現出来るのかが、見ているだけではどうしても掴みきれない。

 悔しかった。あるいは地刀流を学ぶことを禁じられたときよりも余程。

 狂死朗はカナには出来ると断言したのだ。そこに嘘はなく、ならばこそカナは自分のふがいなさに肩を震わせた。

「ワタクシの方針ではないですが、いつまでもここで躓かれては次に進めません。……ううむ。言葉で説明するのは面倒なのですが」

「面倒だから見れば分かるで済ませようとしてたのか」

 カナは頭を抱えたくなった。

 狂死朗はうーん、と数分考えて、言葉を選び出した。

「いくらカナ君でも、斬らないことは出来ますよね?」

「剣を振っても、斬れないように斬れと?」

「斬れないのではなく、斬らない。それだけ剣を振っている様子なら出来ないはずが無いんですが……ううむ。やはり見せた方が早いような」

「待てって。それじゃ分からんってさっきから言ってるだろ」

 狂死朗が首をかしげた。ひどく難儀な表情である。カナも同じ気分だった。常識が隔絶しているとこうなる見本だった。はっと狂死朗が顔を輝かせた。嫌な予感がした。

「そうでした! ワタクシはトーフを持って来ていました。実演しましょう。カナ君、剣を渡してください」

 剣を渡した代わりに、豆腐を持たされた。両手を揃え、自分の目の前に豆腐を捧げ持つような形だ。

 殺気が全く無かったから、頭に振り下ろされることはないだろう。そうは思ったが、実際に目の前で説明もなくこんな動きを見たら咄嗟に逃げたくなる。

 しかし、内心の不安や恐怖とは裏腹に、カナは剣の動きから目が離せなかった。

 上段の構えから繰り出す単なる一閃の流れ。だというのに、あまりにも美しい動きだった。無駄がない。理想だ。現実にそんな剣を振れるものなどいないと思いたくなる。素振りを何十万回繰り返せば自分もこんな風に剣が振れるのか。気が遠くなるような修練の果ての先にあるもの。惚けて魅入ってしまう、完全で完璧な振り下ろし。

 こんな剣閃であれば、斬られても惜しくないと。そんな馬鹿なことを考えた。

 その瞬間、目を疑った。カナが両手で捧げ持ち、顔の前に置いていた豆腐に、剣が振り下ろされた。触れれば崩れそうな柔い絹豆腐である。しかし斬れなかった。剣は豆腐に触れた部分でちょうど止まった。剣の重みだけで豆腐の中に沈み込んでいくはずだ。僅かにでも触れれば斬れるなり潰れるなりするはずだ。そして、カナの目には豆腐の上の部分に剣がぴったり触っている。

「こうです」

「……斬れないんじゃなく、斬らない。……斬るも、斬らないも、自由自在と」

「斬らないように出来れば、次は斬る場所を動かすだけです」

「だけ、って」

「斬る場所を少しだけ向こう側に持って行くんですよ。空気を斬らないように、その先にあるものを斬ったり、身体の外を斬らないように、内側だけを斬ったり」

 カナの視線をどう捉えたのか、狂死朗は安心させるように頷いてくれた。

「大丈夫。魔力も気も不要です。見ての通り、ただの技術ですから」

 このオッサンは甲高い声で、いったい何を言っているのだろう。カナは目眩がした。さも簡単なことのように言うが、とんでもないことをしている自覚もないのか。

「さすがに奥義、友情無情残酷剣を習得するのは難しいでしょうが……カナ君が悲鳴剣を使えるようになれば、とりあえずは弟子として名前を出せますから」

 カナがどうという問題ではなく、業を会得できた弟子が必要らしかった。

「これでついにワタクシにも、我が天外無情流にも弟子が! ええ、ワタクシがまともに教えられないから誰一人技が習得できないなどと言われ続けてはや数年……! 弟子に逃げられたのは彼らの物覚えが悪かっただけだと……これで、ついに証明できます!」

 天才なのに、残念さがひしひしと感じられるのは何故だろう。カナの剣を握りしめたままだった狂死朗が、不意に上を見て、一度剣を振った。直後、巨大な怪鳥が落ちてきた。様子からすると、上空からこちらを狙っていたらしかった。片方の翼が根本から斬り飛ばされていた。

「邪魔ですねえ。さあ、カナ君。そろそろ悲鳴剣を使ってみてください」

「アレを相手に、試せと」

「丁度良いでしょう?」

 狂死朗はさも当たり前のように、そう口にするのだった。


 修行は続く。

「……カナ君」

「言うな」

「いいえ。ワタクシ、そろそろ堪忍袋の緒が斬れそうです。どうして悲鳴剣が使えないのですか!」

 狂死朗には、カナが手を抜いているようにしか見えなかった。足りぬ部分はある。それは仕方のないことだ。

 しかしカナが悲鳴剣を使えないことだけは我慢ならなかった。出来ない理由がないのである。少なくとも、狂死朗の感覚では条件は十分整っているのだ。

 どういうわけか寄ってくるのは妖魔ばかりで他の参加者は近づいて来ない。丸一日遭遇しないのは流石におかしい。単なる偶然にしては都合が良すぎることもあって、狂死朗は腐れ縁の友人が何かしたのかと疑っている。


 この時、あらぬ疑いをかけられた巫女姿の彼女がくしゃみをした。くしゅん。完全に冤罪であった。


 さておき、それこそ悲鳴のような声を上げた狂死朗は、自分の目が間違っているとは考えなかった。実力を読み間違えることなどありえない。彼にはそれだけの自信がある。

 足りているはずだ。夕陽が落ちたあたりで、狂死朗は自分が何か重大な思い違いをしている可能性に気づいていた。足りているのは間違いない。間違いないのだが、もしや足りないのではなく多すぎるということはないか。

 ガラス玉ではないことを確かめ、水晶と思って磨いていたが、実は金剛石だった。そんな見間違いがあるはずがない。そんな見分けがつかないほど己の目が節穴であるわけがない。しかし一瞬、腐れ縁の友人が狂死朗を指さしてせせら笑う姿が見えた気がした。その幻が不意に過ぎったのだ。


 この時、あらぬ疑いを掛けられた巫女服の彼女が再びくしゃみをした。彼女は「どっかの馬鹿がまた馬鹿やってる頃かしら」と呟いた。今度は冤罪ではなかった。


 目の前でカナがなんとかして悲鳴剣をものにしようと必死になっているのを尻目に、狂死朗はつらつらと考えた。

 無言で考え込んでしまった狂死朗に、カナはちらちらを視線を向けてくる。

「カナ君、ワタクシは君に悲鳴剣を教えることを諦めました」

「……そうか」

 薄々とは感づいていたのだろう。狂死朗に出来ると断言されて、その気になっていただけで、自分には出来ないかも知れないと不安を感じていた頃だった。カナのその一日の修行がすべて無為に終わったことを嘆くような顔を見下ろして、狂死朗は続けて言った。

「代わりに、ひとつ試してください」

 半ば投げやりに、カナが頷く。

「まず火の構えを」

「……上段だよな」

「それから、悲鳴剣のことは忘れて……斬らないことをまず頭から消し去り、一切を斬ることのみを考えて。今から小枝を一つ投げ込みます。ただそれを斬ることを、完全に両断することだけを考えて、振り下ろしてください」

「アンタみたいにか?」

 豆腐で実演したときのことが念頭にあるのだろう。狂死朗は、静かに告げた。

「ワタクシのようにやろうなどとは考えず、ただ斬ることだけを考えてください。勝つとか負けるとかも頭の中から追い出して、純粋に斬る行為そのものに。そうすれば」

「そうすれば?」

「もしかしたら、使えるかも知れません」

 悲鳴剣ではない。もうひとつの技。詳しいことは聞かないままに、カナは狂死朗の言葉に素直に従った。凄まじい集中。そこに機を見計らって小枝が飛ぶ。

 斬った。火の構えより振り下ろされる一閃は、狂死朗のそれより僅かに乱れていた。乱れてはいたが、しかし見劣りすることはない。

 狂死朗は見た。カナがそれに触れるのを。剣の真髄、そのひとつに指先までがかかるのを。

 カナもまた、気づいた。振り下ろした剣の冴えは、かつてない恐ろしさを秘めていた。自分が繰り出した一閃に、まるで知らない出来事が起きていた。おそらくは、見本を見たからだ。

 斬るという行為の完成形。狂死朗が先ほど見せた、完璧な斬撃を。だから、カナも近道が出来た。

 きっと、そういうことだった。

「なんだ、今の」

 声が震えていた。狂死朗は、静かな声で伝えた。

「秘剣、焔」

「それがこの技の名前」

「……の未完成版です」

 ずっこけた。カナが怒鳴ろうとしているのを手で制止、狂死朗は話を続けた。

「焔と呼ぶには微妙ですね。せいぜい火の粉と言ったところでしょう。火の構えより繰り出す、一切を両断する技。そうですね……隠し剣、火の粉とでも名付けましょうか」

 しかし、それでも、と狂死朗は手を叩いた。拍手を惜しまなかった。

「ですが、お見事! これが使えるなら悲鳴剣は後回しでも構いませんし、天外無情流の弟子として認めるに吝かではありません。君を我が弟子として認めましょう!」

「いや、稽古してやるとか強制的に言われた話だったはずだが」

「君はもう我が弟子です。何か文句がありますか」

 カナは手を挙げた。お手上げ、と言いたいらしかった。今日一日の稽古という約束もこれで守られた。狂死朗は、ご満悦であった。もう一度試したところ、今度はむなしく失敗した。希に成功することもある。だが、極めて深い集中と、完全な機の捉え。その両方が揃っている場合にのみ、一応は形になる程度だった。

 使うには練度不足。

 そもそも一瞬とはいえ溜めが必要になる以上、実戦向きではない。どれほど強力な一撃であっても、致命的なまでの間合いの狭さが問題だった。

 当たりさえすれば防げないが、敵からすれば避けてしまえば済む話なのだ。



6、

 丸一日悲鳴剣の練習に明け暮れる羽目になったせいで、かなりへとへとになっていたカナだったが、弟子という扱いになった段階で狂死朗が見せた技の数々に、随分と長いあいだ呆然としていた。

 天外無情流が奥義、友情無情残酷剣だけは今は理解しきれまいと狂死朗は見せるのを避けた。が、他の技については大盤振る舞いで見せてくれた。悲鳴剣、暗黒斬、無惨撃、姑息剣、孤高剣、煉獄刃、地獄突、忘却閃無謬、乱れ血花……他にもいくつかあった。どれを見ても、カナには剣の理が奈辺にあるのか分からなかった。しかし、ただひとつ理解を示した。先ほどカナが開眼しかけ、その片鱗を見せた、あの秘剣である。

 秘剣焔。これを狂死朗はあまり使わない。見栄えとして地味だからである。さらには秘剣である。普段は使わないのである。火の構えより斬るだけの技である。それだけを突き詰め、修練の果て、あらゆるものをも両断する必殺となった。あらゆるものだ。斬れぬものなどなし。それがこの秘剣の極地にして真髄なのだ。

「奥義以外、天外無情流の大体の技はもう見せましたし、修行を怠らなければやがて使えるようになるでしょう。何しろ我が弟子です。それくらい出来て当たり前です」

 カナが何言ってんだこのオッサン、という顔をした。

「ワタクシの用事はこれで終わりましたから、帰ることにします」

「……狂死朗、さん」

 ずっと、アンタとか、名前を呼ばないようにしていたと思しきカナが、言いづらそうに狂死朗の名を口にした。

「ワタクシのことは、師匠と呼ぶように」

「いや、それはちょっと」

「何故に」

「何故もなにも」

 色々な意味で、カナは、天外無情流を名乗るのには抵抗があるようだった。

「最後まで残らないのか。狂死朗さんなら、たぶん、総司にも勝てるだろ?」

 剣が無いなら奪えばいい。たとえば今、目の前にいるカナからでも。実際、それを理由に敗退する必要は無いのだ。

「地刀流の師範代が相手であっても……アンタが負ける姿が想像できない。あんな技を見せられた後だと尚更なんだが」

 やはり師匠と呼ぶには抵抗があるのか、狂死朗と名前で呼ぶのも元に戻った。

「天才と言われてるあの総司を相手取っても、あっさり勝利を奪っていく気がする。実際にはそこまで容易くことが運ぶとは思いがたいけど」

「ワタクシは引き際を分かっている男なんですよ。意味のない戦いに興じている暇もありませんし、妻子がワタクシの帰りを待っていますからね」

「奥さんと子供、いたのか」

 驚かれた。狂死朗は、たいてい妻子がいると話すと驚かれるのだ。

「ええ。それと……カナ君、思い違いをしないように」

「なんだ」

「剣士であろうと、ワタクシたちは所詮人間です。勝敗に拘りすぎぬよう」

 それだけ言うと狂死朗は青白い頬、その凶相に精一杯、はなむけの笑顔を浮かべた。去り際、自分の肌に張り付いたままの呪符に気がつき、狂死朗は勝ち星をカナに譲ることにした。野営の装備や食料、水などと一緒にまとめて引き渡した。

「ワタクシはカナ君に負けました」

 一方から呪符がはがれ、もう一方に移っていく。実態とはまったく関係なく、その敗北宣言により数字が移行する。カナの手の甲にある数字は三となった。狂死朗は続けた。

「敗北なんてこの程度のことです。言葉ごときに振り回されるのも馬鹿らしい」

「分かった。覚えておく」

「ワタクシはこれにて。カナ君、今後も研鑽を怠らぬように」

「ああ。いつかまた。……師匠」

 狂死朗は闇に包まれた修練場を、まるで躊躇無く歩き去っていった。夜闇のなか、静寂が周囲を満たしていた。そのせいで静まりかえったなかに、遠く離れた先で漏らされた呟きがいやに大きく響いた。

「くくく、これでついに弟子がッ! 腐れ巫女にデカイ顔をされなくて済む!」 

 情念の籠もった独り言であった。カナは何も聞かなかったことにした。



7、

 血の匂いがしている。しかし、人間の姿はどこにも見当たらない。

 南流鬼角剣の使い手、カクリャンは、その血の臭いがある方角に足を向けた。先だって身の程を知らない間抜けを二人殺したが、どうにも遭遇率が悪い。

 こんなことなら修練場の入り口近くで張っているんだった、と今更に後悔していた。

 鎖帷子を捲り上げ腹を出す。呪符を張った部分を見ると、数字は四だ。二人殺したうちのどちらかが、一度は勝っていたらしい。その割りには弱かったと思い、いや、自分が強いだけなのだと思い直した。そろそろ夕刻である。

 舌打ちし、カクリャンは山道を登る。鬱蒼とした林の中で二十匹以上の妖魔を叩き殺したが、魔石だけを拾い集める。妖魔はもういい。剣士を連れて来い。言葉が通じるわけもなく、またぞろ学ばず襲いかかってきた間抜けな妖鳥を骨剣で串刺しにした。

「食えるかね、こいつは」

 元々全国行脚をしていた身である。格好も旅装だし、荷物には野宿のために必要な道具は揃っている。干し肉も食うに困らない程度には持っているし、三本ある竹筒は水と酒と毒とで満たされている。不意に立ち止まる。血の臭いの原因を見つけた。首の落とされた死体が土の上に倒れている。戦っている最中に殺されたとは思えない、間の抜けた表情をしていた。切り口からすると、敵は妖魔ではない。しかし剣士相手にこんな油断をするだろうか。術師か。参加者の中に数人いた手練れの顔を思い浮かべ、どれが難敵かを思索するカクリャン。そこに、ざっざっざと枯葉を踏み越えてやって来た一人の男。すでに剣に手を掛けている。

「貴様、そこで何を」

「おいおい。何をってお前……俺たちはここに殺し合いに来てるんだぞ。分かってんのかよ。あーやだね地刀流の連中は。もう一度言ってやるよ。俺たちは、ここで、殺し合ってるんだっての。分かるか? 分かってねえよな」

「なに?」

「分かってたら喋ってる隙に殺しに来ないと」

 カクリャンはにやにやと笑い、自分の足下にあった首を蹴り上げた。狙いは新しくやってきた地刀流の剣士である。咄嗟にその首を剣ではたき落とし、彼は身構えた。

 場慣れしていないのは見た瞬間に分かった。人間相手の殺し合いはしたことがない。そんな甘ったれた小僧だ。ガキ、ガキ、ガキ。金にならねえ連中だ。

 カクリャンは笑いながら、悲しげな嘆息を混ぜた。

「どいつもこいつも甘ったれてやがる。お前らは腕試しのつもりだろうが、他の連中は殺しに来てるんだって。地刀流の誰それが最強って言いふらすのは構わんさ。でもよ、お前はそうじゃない」

「……イツキ」

「おう? どうした」

 カクリャンが挑発するように鼻で笑うと、眼前の剣士は自分がはたき落とした首を見つめた。呟いたのは首の名前に違いない。わなわなと震える唇に、怒りに燃える瞳。

「おうおう。可哀想じゃねえか、友人の首をそんな無碍に扱っちまうなんてよ」

「き、ききき、貴様ァッ!」

「俺にとっちゃ邪魔だったから蹴り飛ばしただけだが、お前には大事な首なんだろ。折角だから取っておけよ。なァ」

「……すまん。イツキ。すまん」

 拾い上げるかと思いきや、目の前の剣士は最後に一瞥し、カクリャンに向き直る。睥睨された。この間、隙だらけだった。この隙にさっさと殺しても良かったのだが、どうやらやっこさん、地刀流の若手らしい。己の怒りを見事飲み込んで、カクリャンという敵に相対することを決めたのだ。いいぜいいぜと口には出さず、内心で面白がるカクリャン。

「地刀流剣士、小塚」

「いいね。名乗りか。名乗りは良い! 剣士の華だ! 妖魔相手に名乗るほど馬鹿らしいこたぁ無いが、剣士相手にゃ多少は気が乗る。俺はカクリャン。鬼角剣が南流、カクリャン様よ! ところで名前はなんだっけな。ええと、お前がイツキくんだったかな?」

「……殺してやる」

「一応教えておいてやる。そこの首と胴体を親切に切り離してあげたのは、残念ながら俺じゃないんだ。ああ残念だ残念だ。そんなに怒っても俺は仇なんかじゃないんだ」

 ゲラゲラ笑った。カクリャンはこういう男であった。敵には容赦はしない。苛烈というよりは、性格の悪さ、根性のねじ曲がり具合が表に出る。

 小塚はカクリャンの言葉を無視した。嘘と考えたか、事実であっても関係ないと思ったか。どちらにせよ不倶戴天の敵である。殺す以外の選択肢は無いに違いない。

「さて、お前に我が鬼角剣がどれほど凄まじいのかを教えてやる予定だったが――」

「黙れ」

「もう、遅かったな」

「……は?」

 ざく、と胸から刃が生えていた。ざく、と首からも刃が伸びていた。なにを、と声を出すことも許されなかった。即死だった。その絶命を運んできたのは、カクリャンによる鬼角剣ではなかった。

「そもそも鬼角剣は、暗殺剣なんだ。不意打ち闇討ちなんでもござれ、っと」

「カク。あまり遊ぶな。首が転がってきたときには、出て行くかどうか少し考えた」

「悪い悪い。いや、ああいう純粋なヤツをからかうのって楽しくてな」

 スケザブロウは、苦笑した。だが、言うべきことは言ってきた。

「……それと、鬼角剣は暗殺剣ではない。暗殺剣を元にして作られた流派だ」

「だったな。悪い悪い。スケは気にするタチだったか」

「南流ほどではないが、正面から戦う術は無数にある。あまり卑下するものではない」

「まァ、俺の殺り方は殺される前に殺せ、だからなぁ。印可は受けちゃあいるが、きちんと殺せればなんでも良いって教わったんだよ。スケほどかっちりはしてねえの、俺」

 やれやれ、と肩をすくめられた。夜になろうとしていた。妖魔が活発になり、人間が動きを阻害される時間帯だ。二人で殺した場合、どっちに数字は行くのやら。気になってカクリャンが確かめると、自分の数字は四のままだった。トドメを差した側の戦果として扱われるようである。参加者は五十人ちょっと。一人が一人を殺せば、それだけで数は半分になる。自分の数字は四。スケザブロウの数字は三だ。

 案外、とっくに残り二十人以下になっているのかもしれない。

 カクリャンはふと、そんなことを思った。



8、

 平地を歩くような滑らかな動きで、修練場を端からゆっくりと歩き回っていた石川総司だったが、不意に立ち止まった。すでに陽は落ちていた。夜闇が空のみならず、彼の周囲にも立ちこめていた。総司は振り返った。その表情は涼しげだった。

「……僕に何かご用ですか?」

「ご用だって? そりゃ用はあるさ。何のためにこんな場所まで来たと思ってるんだ。こちとらお前さんを探して延々歩き回ったんだ。見つからねえかと焦ったぜ」

「なるほど。挑戦者ですか」

「ふん、そのすました顔をぐちゃぐちゃにしてやるよ」

 知らぬ顔である。初日の日中、地刀流の門下生は誰一人総司に挑み掛かってはこなかった。目の前の男も他流の者であろう。なにやら恨みを買っている風だが、総司には心当たりはなかった。こんな面相の剣士であれば記憶に残っていてもおかしくない。傷痕が目立つ。その傷は、まるで三日月のごとく額から鼻の脇を通る形で刻まれている。

「ふむ。その傷、地刀流の者が?」

「分かるか」

「ええ。まったく。……下手な疾風斬を受けたようですね」

 総司は冷ややかに見つめた。美麗な面相は崩れなかった。総司の言葉に含有された毒を、三日月傷の男はしかと理解した。本物の疾風斬を受けたのなら、今頃お前は生きてはいない。総司は言外にそう匂わせたのだ。地刀流に受けた傷を、宗家の者に返す。

 その理屈は分からぬでもない。当代石川添問は総司の父である。総司もまた、次代を担うと期待されている立場である。地刀流の責を負うのは自らの、いや、石川家の役目であると自任している。

「ああ、クソ。何が地刀流だ。地刀流のやつはどいつもこいつもお高くとまりやがって。いけ好かねェヤツが多すぎるが、てめえはそんなヤツらの中でもとびきりの高慢ちきだな。自分が死なないと思ってやがる。自分が負けねえと思ってやがる。そんな顔を歪ませてやろうってずっと思ってたんだ」

「……その程度の腕で?」

「ああ、この程度の腕で、だ」

 三日月傷の男は、馬鹿にされたことを知りながら、不敵に笑った。勝ち目のない戦いに挑もうとする男の表情ではない。かといって死を覚悟した剣士の恐ろしさも感じない。薄気味悪さがあった。総司は油断していても負けることは無いと確信していたが、しかしいかなる術技にも即応出来るよう、構えを取らぬままに身構えた。

 三日月傷の男はくつくつと笑った。悪意たっぷりの笑みだった。

「天音、とかいったか。お前みたいな美形とよく似て、可愛い妹だな」

「……貴様」

「ひ、ひひひ」

 総司はすでに剣に手を掛けていた。今すぐ斬り殺そうと考えたが、この男が何を口走るのか聞き届けなければならぬとも感じた。込み上げてくる笑いを抑えきれないのか、男は言葉の先を続けるより、しばらく笑い続けた。が、男は突然真顔になった。

「本当はよう。一昨日、攫ってやろうと思っていたわけだ。あんな可愛い妹だ。どんな味がするのか、試してやろうじゃないかってな。ああ、もちろん殺しはしねえぜ。あっさり殺しちまったら人質の意味がねえからなあ。でもよ、あの娘にくっついてるヤツが邪魔でなあ。そんな隙が無かったわけだ」

 一昨日と言えば、天音はカナと一緒に祭りを回っていたはずだ。なるほど、それでは手出しが出来なかったことにも頷ける。男は口元を釣り上げた笑みを深くした。

「けどな、てめえもあの野郎も、今日はどっちもここに来てるわけだ」

「……何が言いたい」

「ひひ、ひっ、ひひひ。地刀流に恨みがあるヤツってのは俺だけじゃねえんだぜぇ。分かるだろ。なあお坊ちゃんよう。地刀流のお偉い宗家様ってヤツなんだ。こういうことがあるってのは、アンタみたいな立場なら分かってなきゃいけなかったはずだぜ。なあ。そうだろう。なあ!」

 総司の顔から感情が抜け落ちた。総司が動くより先に、男が言い添えた。

「おっと! 勝手に動くなよ。そう、そこまでだ! 俺を殺したらあの可愛い可愛い、しゃぶりつきたくなる大事な大事な妹ちゃんがどうなるか分かんねえぞ。俺が無事に帰って来なかったら……分かるだろ。なあ? つまりお前さんは俺を守んなきゃいけねえってことだ。俺を傷つけず、この試しの儀なんつーくっだらねえ茶番の終わりまで」

「言いたいことはそれだけか」

「ひ、ひひ。そうさな。ご理解いただけたってことだよな。なあ、石川の若様よう!」

 男が勝ち誇って、哄笑を上げた。しかし、その笑いはだんだんと消えていく。男は何やら奇妙な感触を得ていた。ずっと総司の表情を観察していたからこそ、その違和感に気づけた。総司は薄く笑っていた。怒りが限度を超えておかしくなったわけではない。それなら男にだって理解出来た。かといって侮蔑ゆえに浮かべた笑みでもない。あえて言うならば、総司は何の意味も無く笑っていた。

「てめえ、何がおかしいッ」

「いや、馬鹿らしくなってね。よく考えたら天音は僕にはあんまり懐かなかった。赤ん坊の頃からカナにばっかり寄っていって、僕がいくらお菓子を与えても、遊んであげようとしても、必ず最初はカナの方に向かっていったんだ。それを思い出してね」

「何を言ってやがる」

 総司は剣に手を掛けていた。潮目が変わったことに気づいて、三日月傷の男は、ひ、と息を漏らした。だがそれは笑いではない。恐怖ゆえ漏れた息だった。

「そう。天音の面倒を見るのはカナの役目だったんだよ。つまり僕としては、そう躍起になるほどのことじゃないんだ」

「は? 待て、待てよ。お前の妹だろう。石川家の大事な娘なんだろう!?」

「天音がどうにかなったとして、……違うな。君たちみたいなゴロツキにどうにかされてしまったとして、その責任はカナが負うんじゃないかな」

 ここに来て、男ははっきりと恐怖を顔に浮かべた。ハッタリじゃない。総司は本気だ。本気でそんな言葉を口にしている。

「お、お前。お前」

「それとさ。僕はそんな話を聞かなかったということで」

「な」

「修練場の封印は強固だからね。ここを出るまでは、外部との連絡なんか取れないようになっているんだ。つまり君は僕に脅しをかけるより先に、妖魔なり他の参加者に殺されたということで」

「だ、だが! 俺が無事にここを出なきゃ……」

「さっきも聞いたけど、天音はカナが助けるべきだよ。まったく、自分の妹を守らずにこんな場所に来ている時点で、カナも無責任だよね」

 近づいて、斬った。地刀流の技を使うまでもない。動揺と混乱で打ち震えている男だ。この試しの儀に参加出来た以上、剣士としての腕も多少はあったのだろうが、その実力は何ら発揮することなく人生を終わらせてやった。

「後顧の憂いは断った。これでよし」

 総司は何事も無かったかのように、深い闇のなかに歩を進めた。一瞬のあと、男の死体が力なくくずおれた。振り返る価値も無い男だった。



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