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彼と彼女の迷宮えれじい  作者: 三澤いづみ
第二部 『ソエモン秘剣抄』
15/62

似、《大鬼殺しと老いたる餓狼》



1、

 早朝である。

 当代石川添問と数人の術師を含んだ六十名弱は、地刀流の道場を抜けた先、傾斜の緩やかな山道に入った。修練場へと続く入り口は切通で、山を切り開いて作った狭い道を進んで行った。岩の間をくり抜いたような形になっており、そこに見えない半透明の壁が存在していた。

 白い靄が半ばに立ちこめ、先を見通すことが出来ない。三人の術師が、前と左右に陣取り、不思議な呪文を唱え出す。十分ほどそうしていただろうか。何やら冷たい空気が切通の向こうから流れてきた。

 参加者たちの中にははっきりと顔を青ざめさせている者もいる。顔色を悪くした者は割合として剣士には少なく、術師にはやたらと多い。とすれば充満していると言われる、ひどい濃度の魔力を感じ取ったのかも知れない。まだ白い靄は消えていない。が、術師は道を空けた。当代石川添問が大きく頷き、その先を指し示した。

「これより試しの儀を始める。三つの規則は皆、すでに読み込んだものと考えるが……何か質問があるものは?」

「カタナがもらえるってのは本当ですかい」

「事実だ。勝者には二十一代石川添問の名と、開祖の持っていたカタナが引き継がれることになる。無論、名もカタナも勝者がどう扱おうと自由だ。地刀流宗家の名に置いて、それは保証しよう」

「つまり、売り飛ばしても?」

「構わん」

 当代の言葉に、ざわめきが湧き起こる。実際にそんな真似をした者がいなかったとはいえ、明言までは期待していなかった質問者が逆に焦った。

 一方で地刀流を修めている剣士たちは、絶対に他派他流に渡してなるものかと気炎を吐く。彼らのうち、総司のみがどこか面白げにこの問答を見守っている。

「勝っても、その名前を名乗らないことは、可能ですか」

「勝ち残った者に石川添問の名を与える習わしだが、名乗ることは義務ではない。ただし地刀流出身者はこの限りではない。勝ち取ったなら名乗ることを、地刀流宗家として要請する」

 まだ質問はあるか、と当代が尋ねると、木枯狂死朗が手を挙げた。

「規則の一について質問をば。呪符……つまり、この浮かび上がった数字は、殺した相手に加算されていくと考えてよろしいか」

「そうなる。無論、敗北を認める発言をしても、数字は移行するわけだが」

「たとえ一度負けて呪符を失っても、期間中に数字を持っている相手を打ち負かしさえすれば、勝者の権利は復活すると考えても?」

「うむ」

 全員が聞いているこの場で、それを問い質した。この男は、勝った者は負けた者を確実に殺せと言い放ったに等しい。言葉の裏を理解していなかった少数が、ぎょっとした顔で狂死朗と当代の顔を見やる。

 釘を刺したことで、試しの儀は、いっそう凄惨さを増すだろう。試合気分で居た者たちもこれから殺し合いをすることを自覚させられたのだ。

「まるでコドクね」

「孤独?」

「虫の毒と書いて、蠱毒。古くから伝わる呪術の一種よ。狭い器の中に無数の虫を押し込めて互いに食らい合わせて、一番最後まで生き残った一匹を使う呪い。さて。最強の剣士を決めるためといっても、殺し合いまでさせる必要があるのか……」

 不意に聞こえた呟きにカナが聞き返し、返答までもらえた。そこにいたのは、紅白の巫女服を着た少女だった。もしかしたら天音と同年代かもしれない。この少女の瞳に浮かんでいたのは疑念の色、あるいは冷徹な光だった。黒髪は長く艶やかで、腰までかかっている。背丈はさほど高くない。立ち振る舞いは柔らかく、見る者がはっと息を飲む美少女であるが、違和感があった。そもそも殺気立つ剣士たちの集団に混じっていても、決して見劣りしない風格まである。ふむ、と彼女は唸った。

「あたしは抜けるわ。この呪符、どうやって剥がせばいいかしら」

「……いいのか」

「興味本位の参加だったけれど、どうやらそれだけじゃ済まなそうだからね。どうにもきな臭い。別に地刀流が気にくわないわけでもないし、この儀式がろくでもないと言っているわけでもないのよ。あんまり楽しい結末にはなりそうもないのよ。勘だけどね」

 巫女はすたすたと当代の前に出て行って、参加の取りやめを申し出た。

 先ほどの狂死朗の言葉もあってか、この時点で抜ける参加者がもっといるかと思われたが、彼女以外には出なかった。よくよく考えれば、悪鬼と戦うことで、すでに命の危険をくぐり抜けた者ばかりなのだ。今更であろう。

 カナには彼女の顔に見覚えがなかった。悪鬼を撃退した一人ということになる。それほどの実力者でありながら、言葉はひどく軽い。やけに投げやりな口調で、術師の一人に声を掛けた。呪符を引きはがすことは、容易くなかった。

「死ぬか、負けるかしないと外れないと?」

「規則通りです。下手に弄れないように勝者が確定するまでは、強固さは持続します」

「面倒な。……ああ、分かった。負ければいいのね?」

 するりと術師から離れ、他の参加者の視線を気にした様子も無く、カナの前に戻ってきた巫女服の少女は、言った。紅白の上衣をはだけ、自分の数字を眺めながら。

「あなたに負けたわ。……これでいいかしら」

「おい」

「良かったわね。何もしなくて一勝よ。……幸運かどうかまでは知らないけど」

 何かが入り込んでくる感覚があった。カナは手の甲の数字が、二と変化したのを見た。少女は自分の数字が消えていることを確かめると、手をひらひらと振りながら、来た道を引き返していった。誰も止めなかった。止められなかった。

 どこか唖然とした空気のなかで、当代が再び声を張り上げた。

「まだ質問がある者はいるか?」

「あれは、有りなのか?」

 カナに押しつけた行為か、それとも開始前に勝ち星が増えたことについてか。

「構わん。勝ち星がひとつ増えた程度では有利とは言えぬし、むしろ狙われやすくなったとも言える。ついでに言えば、勝者が確定するまでは、あらゆる手段が認められる。交渉もまた、手段のひとつだ」

「数人で組むことも?」

「好きにすればいい。しかし、勝者は独りだ。これは揺るがない」

 あらゆる手段の一声に、周囲の殺気が増したようだった。

 カナは口元を歪ませた。あの巫女服の少女は、この状況も予見したのか。

「他にはいないな? では、これより開始とする。この切通を抜け、修練場に入った時点から試しの儀が始まる。三日目の日の出を刻限として、ここに帰還するように」

 全員の顔に理解の色があるのを見て、続けた。

「ああ、あまり例のないことだが……一人を除いて参加者が全員死亡した場合、刻限を待たずして勝者が確定する。これも言うまでもないことだが」

 今日、明日、明後日。この三日間が試しの儀の期間となる。つまり、明後日の朝を迎えた時点で、過半数の勝ち星を得て期間を果たせば、勝利が確定する。

 どれだけ勝ち星を稼いだとしても、最後に負けたら無意味になる。初日は様子見が多いとカナは考えた。相手を選び、勝ちやすい相手から呪符を奪っていく。それがもっとも合理的だ。だが、最強の剣士とは、そんなものだろうか。勝てない相手からは逃げ、勝てる相手とばかり戦って、最後まで生き残る。それでいいのか。

 迷っている隙にも、いつの間にか参加者たちは我も我もと修練場に入っていった。早く動けば動くほど地形の把握は容易くなる。敵が少ないうちに、自分が動きやすい場所を探すのも戦略か。



2、

 気づけば、カナの他に人影は無くなっていた。残っているのは参加者ではない当代と、術師たち。最後になってしまったらしかった。

「カナ、いつまでここにいるつもりだ」

「……親父」

「馬鹿者が。せめて父上と呼べ、父上と」

「総司は?」

「とっくに行った。後はお前だけだ。……どうした、怖いのか」

「いや」

 カナは自分があまりにも落ち着いていることに、逆に驚いた。これから向かうのが死地と知りながら、怖くはなかった。これまで何度となく敗北は味わった。修行と称した無茶で死にかけたことも数多くあった。天音には言えないが。なのに、総司に勝つ自分の姿と同じくらい、負ける姿も想像が付かなかった。

 安物の剣を腰に差し、凄腕の剣士たちと相争う。どう言いつくろったところで、これから始まるのは殺し合いだ。負ける気は毛頭無い。

「死ぬなよ」

「分かってる。なるべくそうする」

 父の言葉は、淡々としていた。総司にもこんな言葉をかけたのだろうか。

 いや、この父だ。総司に懇々と、殺すなよ、くらいは諭しているかもしれない。地刀流がどれほど恐ろしい剣術かは重々承知だ。

「万が一、お前が勝ったなら……」

 そこで口ごもった父を、地刀流の当代師範を、カナは笑い飛ばした。

「まさかとは思うが、地刀流を学べとか言わないよな。今更」

「それは無い。絶対に言わんから安心しろ」

「だよな。ああ、びっくりした」

 剣気と呼ばれる地刀流の要諦、それをカナは理解出来なかった。その剣気なる不可視のものが、地刀流の技の全てに必須だった。感じ取れず、理解出来ぬそれを、どうして扱うことが出来ようか。

「いや、いい。忘れろ」

「ん。分かった。……まあ、俺も言っとくけど。万が一、俺が死んだら」

「天音のことか」

「絶対に泣くからな。上手く言い訳してくれ」

「ああ」

 術師たちに促され、カナは歩いた。封印の向こう側、殺意に満ちた修練場へと。



3、

 当代石川添問、石川真之介は、息子たちが二人とも修練場に入ったことを見届け、踵を返した。

 さて、帰ってくるのは誰か。総司か、カナか、それとも他の者か。

 誰でも良いとは思わなかった。

 地刀流の恐ろしさを誰よりも知る真之介だからこそ、総司の勝利を疑えない。もう一人の息子に語ることこそ無かったが、もしカナが総司と戦うのであれば、試しの儀の期間だけは外すべきだった。今この時でさえ無ければ、まだ勝ち目はあったものを。

 妖魔との戦い方は言うに及ばず、地刀流はこの修練場においては平時よりよほど優位に立てる。定期的に行われる妖魔狩りの際、師範代はここで何度も戦っている。すでに地形を把握している点もそうだし、この禁地に充満する魔力を先だって肌に感じたことがあることもだ。感覚に優れた術師であれば、この場所がどれほど濃密な魔力で満ちているか明白だ。普段感じることなどありえない量の魔力である。まるで水中のように、慣れない密度の魔力によって終始息苦しさを感じるに違いなかった。

 この禁地においては、地刀流を扱えること。たったそれだけの差が、他の参加者に比してひどく有利に働く。しかし、そんなことは過去の試しの儀において、勝者が地刀流の者ばかりであったことからも容易く推察できる。多少の不利は承知で、最強の座を奪いに来ているものばかりだ。

 勝つのは総司であると、真之介は確信している

 あれには才がある。カナが一切持ち合わせなかった、地刀流を十全に扱うだけの才が。総司ほどとは言わない。そんな贅沢は望まない。ただ、カナの才が、せめて人並みであれば、真之介も喜んで地刀流を教えていただろう。

 だが、それはもしもの話だ。剣気。地刀流ではそう呼称されるものが、カナには乏しかった。あまりにも少なかった。それが真之介には分かってしまった。いや、地刀流を扱う者であれば、一見して理解出来てしまう。それほどに欠如していたのだ。

 カナが最初から地刀流に向かないことが確信出来てしまった。だからこそ、もう一人の息子である総司は手塩に掛けて育てた。総司は天才だった。予想よりも、期待よりも、真之介の想定をはるかに上回る逸材だった。あらゆる技を教えた。総司は全てを吸収した。真綿が水を吸うよりも、底なし沼が人を飲み込むよりも、ずっと素早く静かに完璧に。

 真之介は、石川添問の名を総司が受け継ぐことを知った。すでにして奥義をものにした総司は、真之介が四十過ぎになってようやく会得した秘奥すら、形にしていた。これほどの才を認めないわけにはいかない。試しの儀は、当代の石川添問が死ぬか、あるいは自らの意思でその座を退く場合に開かれる。真之介はもはや総司が自分を越えるのが時間の問題であると把握していた。もってあと数年。あのカタナを使ってすら、十年後には勝ち目が無くなる。時期を、そう読んだ。だから、早めた。

 最強の座を明け渡すならば早い方が良い。そう考えた。誰に為に。それを真之介は答えることが出来ない。二人いる息子たちは、互いのことを嫌ってはいないはずだ。

 軋轢がないわけではなかった。かたや地刀流の期待の星、かたやそれを教えてもらえぬ落ち零れ。名字すら与えぬ真之介の厳しさに、カナが、幼な心に未来に暗い影を感じたのは理解出来る。

 総司が理解したように、真之介も分かったのだ。カナには剣才があった。剣とは究極的には棒振りである。いかに振って、殺されるより先に相手を殺すか。突き詰めればそこに行き着いてしまう。他はすべて些事だ。先に振れなかった場合には、仕方なく相手の攻撃をいなし、守り、避け、その中で生まれた隙を見いだして、上手く棒を振る。

 しかし地刀流はそれだけではない。剣の才も必要だが、それだけでは足りない。

 雷神剣という技がある。相手より上に飛び上がり、脳天などに剣を振り下ろす。言ってしまえばそれだけの技だ。だが、これに剣気を用いたとき、その跳躍は加速し、その一撃は岩をも砕く。他者の目に求まらぬ速度で動き、斬撃の威力を倍増させる。これが剣気の力のひとつだ。

 疾風斬という技がある。剣には長さがあり、本来、間合いはそれを越えることはない。しかし剣気を用いたならば、間合いの外から、かまいたちのごとき風の刃によって遠くにいる敵を切り裂くことが可能となる。ただの棒振りでそんなことが可能だろうか。いや、不可能だ。

 剣気を用いた数々の技こそ、地刀流を最強たらしめる術理である。

 逆に言えば、この剣気を扱えぬ者には地刀流をいくら教えても無意味だ。そして剣気の量は生来の才能である。

 カナにはこの剣気が不足していた。自らのそれを理解出来ぬほど、他人のそれを感じ取れぬほど、あまりにも欠落していたのだ。総司にも、他の門下生にも、カナになぜ地刀流を学ばせないのかは理解してもらえる。無意味どころか、残酷に過ぎるからだ。使えもしない技を教えるだけ、より一層苦しむことは決まり切っていた。

 しかし、それでも。

 真之介は後悔している。いみじくも総司が見抜いていたように。叶うならばこの手で教えたかった。禁じたがゆえに、カナが諦める機会さえ奪い取ってしまったからと。

 真之介は、首を横に振った。己は、当代石川添問である。最強の名を冠する剣士が、いったい何を恐れているのか。三日後、二人は生きて帰ってくるだろうか。

 不安はぬぐい去れなかった。修練場からの音は聞こえてこなかった。もう試しの儀は始まってしまったのだ。止めることは誰にも出来ない。出来ないのだ。



4、

 鬼角剣とは、ヒノモトの隣にある大陸より伝えられた流派である。

 一子相伝とまでは行かないが、しかし使い手は極めて少ないことで知られている。北流鬼角剣継承者スケザブロウと、南流鬼角剣継承者のカクリャンが出逢ったのは偶然だった。北流、南流の名が示すように、二人はヒノモトの両端から旅をしてきたのだ。

 彼ら二人に血のつながりはない。少なくとも、近しい血縁で無いことは事実である。だが、彼らの背格好や顔はそっくりだった。雰囲気すらひどく似ていた。それは血と暴力にまみれた匂いだ。まるで鏡映し。双子か兄弟と見紛うほどである。

 ふらりと立ち寄った場末の居酒屋で飲んでいる最中、カクリャンが隣りを向いた。

「おう、なんでこんなところに鏡がありやがる」

「鏡が喋るのか、お前の故郷は」

「んなわけねえだろ」

 そこにいたのがスケザブロウである。おそらく祖先が同じだ、と二人は考えた。南北に別れた鬼角剣の使い手である。どちらが亜流本流かは分からぬが、同じ流派が元になったことは間違いない。ならば我らは兄弟も同じ。あっという間に意気投合した二人はお互いをカク、スケと呼び合う仲になり、行く当てのない旅の道連れとなったのだ。

 しかし、顔立ちに比べ、二人の生き様はまるで異なるものだった。

 双剣を扱うスケザブロウは武者修行のため自ら出奔した。彼の持つ双剣は、黒白剣と呼ばれる北流伝家、二振りでひとつの宝剣である。

 故郷において、スケザブロウの実家は知らぬ者がいない名家であった。つまり、彼は上流階級の御曹司という立場にあった。

 北流鬼角剣を学び、次代へと伝えることが長男の義務ではあったが、必要以上に剣術にのめり込んでしまったせいだろう。故郷で並ぶ者無しとの名声を得た彼は、しかし満足にはほど遠かった。自分より強い者がいることは聞いていた。

 ヒノモトには各地に武芸者がいる。有名無名に限らず、強者は様々な場所に存在している。地刀流を始め、禁地を守る術師や、大妖魔を狩った男、あるいはかしこきところを守る近衛など。そうした者たちの実力が、常人と隔絶していることを旅人に聞かされた。スケザブロウは強い。

 強いが、しかし常人のくくりに過ぎないと。調子に乗るなと。

 賢しらに語った旅人は、その日のうちに出て行った。すべての宿で宿泊を断られ、一切の物品を買うことすら出来なくなった。殺されなかっただけでもありがたいと思え、とはその旅人の背中に町民から投げかけられた言葉だった。しかし、その日以降、スケザブロウの胸の裡にはしこりが残った。

 自分は強いと思っていた。だが、井の中の蛙だったのではないか。あの旅人の言葉は正しかったのではないか。

 剣を振れど、迷いは晴れず。スケザブロウは自分の強さを疑った。ひとたび確信が欠けると、あとは崖を転がり落ちるだけだった。振るう技の冴えが失われた。腕が重い。足が重い。早さが足りない。虚空に恐るべき強者の影を見いだしては、それを打ち負かせぬと嘆く日々。

 数少ない北流鬼角剣の兄弟弟子を、半ば無意識に叩きのめし、殺し掛けたところで我に返った。周りには敵になる者はいない。しかし、ここにいては己は腐ってしまう。これだけ鍛え上げた剣の腕が、凄まじい早さで錆び付いていってしまう。

 彼は恐れた。家に留まっていては、絶対に、この剣の道は極められない。

 そんなわけで、物見遊山のつもりで地刀流を眺めに来たのだが、自分の方が強いと、地刀流ごときに負けるわけがないと示すには、丁度良い機会であると考えたのだ。

 一方、骨剣を持つカクリャンは家を追い出されて仕方なく旅路に出た身である。彼の持つ骨剣には、スケザブロウの双剣のような謂われはない。カクリャンは人並み外れた怪力が自慢だった。南流鬼角剣を扱うにあたり、この長所は他の誰をも寄せ付けない力となった。南流は印可を受けるそのとき、一匹の妖魔を殺す。

 これは、どんな妖魔でも良い。

 良いのだが、推奨されるのはやはり鬼である。

 子鬼、悪鬼、赤鬼。妖魔のなかでも、鬼には種類がいくつか存在する。カクリャンは予選で戦った妖魔よりずっと恐ろしい、身の毛もよだつ大鬼を相手取った。フマリガと呼ばれる大鬼である。やつを殺すことは、あんな悪鬼と争うこととは比べものにならない大仕事であった。

 名付き。すなわち、他とは異なる外見や特性を持った特別凶悪で強力な大妖魔だ。フマリガとはカクリャンの故郷で、巨大な棍棒を持った災厄を意味する。いずこの禁地より抜け出してきたのか、人里に降りてきたフリマガによって、三十人近くは殺されていた。

 人間を殺せば殺すほど強さを増すのが妖魔の特性である。血塗られた巨大な棍棒を振り回し、何もかもを殺し尽くして壊し尽くす。そんな最悪な大鬼だった。

 しかしカクリャンは三日三晩の死闘の末、これを一人で殺した。そしてこのフマリガの死骸から素材を選び、一本の無骨な剣を作ったのだ。

 英雄である。カクリャンの家族は言うに及ばず、近隣の住民、特にフマリガによって家族や恋人を殺された者はカクリャンに称賛と喝采を惜しまなかった。それまでのカクリャンは町の暴れん坊であり、鼻つまみ者でしかなかった。南流を教えてくれ師以外、カクリャンを認めてくれる者はいなかった。そんなカクリャンが、これほどに褒め称えられたことが今まであっただろうか。

 気分を良くしたカクリャンはその日以来、長らく努めた稽古もせず、妖魔狩りにも足を伸ばさず、ひたすら遊びほうけた。町の者は英雄様から御代を取るだなんてとんでもないと、食事代も酒代も向こうでもってくれる。

 女を取っ替えひっかえし、毎日のように賭け事に大金を注ぎ込み、注意してきた父には骨剣を突きつけて追い返し……一年以上そんな生活を送っていたら、町の連中が手のひらを返しやがった。

 いいかげんにしろ! と家からは追い出され、その血の気を余所で発散してこいとばかりに町民からも拒絶された。いくら町の英雄と呼ばれても、ひたすら怠惰と享楽に耽っていた結果がこれである。路銀はたっぷりもらった。これはもう、全国を回ってほとぼりが覚めた頃に帰って来いと言外に言われている。そう感じて、カクリャンは素直に出て行くことを決めた。

 気の向くまま風の向くままの旅路である。

 金が足りなくなった。はぐれ妖魔を狩って報奨金をもらうことも多かったが、偶発的に過ぎる。いつでも仕事があるわけではない。禁地ほどではないが、魔力溜まりは各地にある。そこでは妖魔がぽこすか生まれてきたりする。定期的に討伐隊が結成されたり、村単位で傭兵として雇ってくれたりもする。

 これだ、とカクリャンは思った。妖魔を殺せば大抵の場合、魔石やら素材やらが手に入り、ものによっては高値で売れる。これで食いつないでいた。

 スケザブロウと出逢ったのはその頃だ。懐が暖まったために、居酒屋に立ち寄って……そこで顔を合わせたのだ。こうして二人は、同時に己の半身を見いだした。

 技量においてはスケザブロウが勝る。剛力においてはカクリャンに長がある。しかし、剣士としての実力は伯仲であり、どちらが上回るかは難しいところであった。



5、

 ここに一人、地刀流師範代の男がいる。

 今や齢五十を数え、当代よりも歳は上である。撫でつけた髪は黒く、その眼光たるや鷹のごとく。深い皺の刻まれた顔には、年輪以上の鋭さが見え隠れしている。早朝の涼しげな気配のなか、修練場に広がっていく剣士たちの気配を感じ取る。

 この男、シドウは地刀流師範代である。道場のひとつを任されている。

 実力は充分と言われながら、しかし前回の試しの儀において、順当に宗家たる石川真之介に敗北を喫した。

 修練場は山林地帯である。傾斜こそ緩やかな山であるが、行くも帰るも決して楽な道程ではない。木々のあいだには散り積もった枯葉と土が敷き詰められ、林の奥は薄暗く見通しは常に悪い。樹木の裏側から小柄な人影が飛び出してくる。妖魔である。子鬼と呼ばれるそれは、体躯の小ささに油断するとひどい目に遭う強敵だ。

 悪鬼ほどの膂力を持っていない代わりに、機動力に優れており、一度見失えば死角から奇襲されることもありうる。また、細かな柴や小石を拾い投げつけてくることもある。

 何より恐ろしいのは、不意に複数の子鬼が襲いかかってくることである。いつの間に仲間を呼び寄せたのかと驚愕しているうちに、そこらに転がっている岩の投擲により狙い打ちされることになる。悪鬼ほどの怪力ではないだけで、これも恐るべき妖魔だ。人間が持ち上げるには苦労する岩ですら、彼らにとっては武器になりうる。

 もちろん修練場にあるのは足場と視界の悪い場所だけではない。開けた場所、周囲に障害物などが存在しない地点まで上手く誘導すれば、地刀流にとってはさほど苦戦する相手でもない。

 シドウは慌てずに対処する。飛び出してきた小さな影に、即座に疾風斬を当てた。どさりと地面に落ちた小鬼は、肩から腰までを袈裟切りの形で斬られていた。

 試しの儀、初日のことである。まだ目立った戦いは発生していないのか、遠く近くに剣戟の音は聞こえてこない。地刀流からの参加者は割合としては多いが、決して負けられぬ重圧もある。おそらくは宗家、石川総司が勝利に終わる。が、シドウは手を抜く必要は無い。地刀流の誰が勝っても構わぬ。石川添問の名は、我らの者だと考えている。叶うならば、自分の手につかみ取りたいとは思っている。

 修練場に足を踏み入れると、すでに枯れた情熱がシドウの身体を満たした。

 あの小僧。天才と持て囃されている石川総司を打ち負かして、自分が二十一代目石川添問を名乗る。しかし、シドウに残った冷静な部分が、その未来をあっさりと否定する。総司の技を見たことがある。総司と剣を合わせたことがある。

 あれは地刀流だ。地刀流が目指す境地そのものだ。

 当代にして旧友たる真之介よりも、よほど恐ろしい。

 情熱がシドウの心を揺さぶる。否、それは情熱を騙る欲望だ。同門の剣士を見続けてきたことで脳裏にこびり付いた強かな計算が、同じ師範代たる総司に勝てないと諦める心を巧みに誤魔化していく。あれは未熟だ。あれは拘っている。今ならば。今この時ならば勝てるかも知れない。

 あの無能者。石川家の落ち零れ。カナ。地刀流を学ぶことが出来ぬ、剣気を持たぬもう一人の小僧。

 総司はあれにご執心だ。多少剣の才があるからといって、地刀流の敵たり得ぬ。剣気無き者がいかにして疾風斬を攻略する。剣気無き者がいかにして不動剣に打ち勝つ術を持つか。利用が、出来る。シドウはそう考えた。

 総司はカナと剣を合わせることを望むに違いない。直に戦い、雌雄を決することを求めているのは明白だった。

 ならば、その隙を突けないか。己の想像ににんまりと笑みが浮かんでくる。カナでは総司に勝つことは不可能だ。しかし。自分ならば、餓狼と呼ばれた自分ならば、あの天才の喉笛をかみ切ることが出来るのではないか。

 シドウは昔、餓狼と呼ばれていた。

 真之介と争い、負け、その牙を抜かれた。それ以来師範代の立場を与えられ、二十年以上ずっと真之介の下に置かれている。

 地刀流最強の座を、石川添問の名を、あいつに持って行かれたんだ。だからこそ、息子から、そろそろ奪い返してもいいんじゃないか。

 本当は俺のものだったんだ。前回の試しの儀。あのとき俺は見逃された。真之介に負けたにも関わらず殺されなかった上に、わずかに生き残った強者として他者から評価はされたが、しかし栄誉も勝利も何もかも失ったままだった。

 忘れていた渇望が、シドウの腹の中で膨れあがる。どんな剣士も勝った瞬間、油断することがある。

 長年の目的が精算された瞬間ならば、その恍惚に抗えないに違いない。

 疾風斬。雷神剣。紅蓮剣。不動剣。

 地刀流を修めた者の多くが、これ以外の技は不要とする基本にして究極の四つ。使い手たるシドウならば、その弱点もまた知り抜いている。カナと戦っている最中、総司は決してその弱点を晒さないだろう。

 だが、勝った直後ならば。決着が付いた瞬間ならば。蟻の一穴までも防ぎうる者はいない。

 もしそんなことが出来る者がいるとすれば、それは人間ではない。

 シドウは、一瞬だけ考えた。総司が、もしその隙さえ消し去っていたのなら諦めるしかない。それは人外だ。剣の魔物だ。そんなものに触れるべきではない。

 さて、と彼は動いた。修練場の気配はまだ静かだった。妖魔が蠢き、熾烈な争いが始まろうとしているにも関わらず、そうした剣呑な空気を未だ感じなかった。



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