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彼と彼女の迷宮えれじい  作者: 三澤いづみ
第二部 『ソエモン秘剣抄』
13/62

序、《勝ち残るのはただ独り》



1、

 人影は大小ふたつ。薄暗い林の合間にあっていくらか開けた場所だ。玲瓏な気配を漂わせる剣士と、無精髭の目立つ筋骨隆々たる大剣使い。戦場には場違いなほど線の細い美男子と、むくつけき大男。絵面こそ対照的な二名の剣士が、相争っていた。

「さて、君。降参はしないのかい」

 あるいは争っていたとするのは間違いかもしれない。一方による蹂躙を争いとは呼べまい。

 それは作業に過ぎなかった。優位に立った剣士は汗一つかかず、静かに佇んでいる。顔立ちは優しげで、どこか穏やかな表情。しなやかな肉体に、わずかに目にかかる前髪。

 目を惹くのは、若い娘が囃し立てそうな、いかにもな黒髪黒瞳の美形であること。

 美少年と好青年、どちらで呼ぶか迷うほどに整った容姿と裏腹の、剣気とも呼ぶべき気配は他を寄せ付けぬ強者のそれである。

 振り下ろした剣は喉元に突きつけており、大剣使いに逆転の目はもはや無い。

 これは試合にあらず、まごう事なき殺し合いである。相手の降参を待たずして、そのそ素ッ首を刎ねてしまって構わない。

 構わないのだが、この麗人は悠長にも声を掛けている。

 石川総司。

 地刀流師範、二十代目石川添問が実子にして、宗家の跡取りである。

 剣先を喉元に置かれたまま男は手を挙げた。降参の意を表している。総司が眉をひそめた。大剣を手放していないからだ。まだここから反撃の手段があるのかと疑念を抱いたその瞬間、大剣使いの男は獣じみた咆哮を発し、瞬時に身体を翻した。

 油断はしていなかった。していなかったが、切っ先を喉元に突きつけた以上、それを外されれば、次の動きに移るまでに予備動作が必要と思われた。

 否。予備動作など不要。刹那、総司は大剣使いの動きをすべて把握し、一秒にも満たぬ空隙を縫い、彼の者が握りしめていた大剣、その半ばから断ち切った。

 恐るべき一閃であった。その腕、その強さ。まさしく次代の石川添問の名を継ぐに相応しい、石川家の麒麟児。この一撃で彼我の実力差をようやく理解したか、大剣使いは使い物にならなくなった剣を放り投げ、ため息混じりに告げた。

「……参った」

「良かった。正直、素直に負けを認めない相手って嫌いなんだ」

 総司は微笑んだ。得物を失った大男は諦めを滲ませながら脱力した。

 音の消えた場面より、小さな影ひとつ、その場から軽い足取りで立ち去りゆく。

 参加者は五十余名。

 試しの儀、その本戦が始まった直後のことであった。



2、

 石川添問。これは地刀流の開祖、石川宗右衛門がその秘奥を開眼した際、自ら改名したものである。

 地刀流はヒノモトと呼称するこの島国において最有力の剣術流派であった。ヒノモトには主流の剣術道場はいくつかあるが、剣士としては最強の座を冠するものがこの地刀流であると言われている。無論、そう言われるには理由がある。

 石川添問の名は世襲ではない。二十代続く地刀流の歴史を紐解けば、そのほとんどが開祖の系譜たる石川家の宗家出身、それも継嗣が添問の名を受け継ぐことが多かった。しかしこの名は与えられるものではなく、戦って勝ち取るべきものである。

 つまり先刻、総司が眼前の大剣使いを己の力ひとつで下したように、襲いくる無数の挑戦者を退け、最後まで勝ち残らなければならない。これは試しの儀と呼ばれている。

 勝敗を決めるだけの試合形式ではない。普段は封印された、閉ざされた修練場と呼ばれる無数の妖魔が跋扈する山林地帯で、最後まで生き残った者が選ばれる。

 参加者が地刀流である必要は無い。剣士である必要すらない。時期によっては呪術師や方術使い、狩人や槍兵などが参加することもある。最強剣士の座を争う闘いにも関わらず剣士以外の参加も許されるのは、石川添問の名を受け継ぐべき者は、いかなる敵を相手取っても勝ち抜くことを期待されるからである。

 剣士以外もこぞって集うのは「石川添問」の名前以外に景品があるためだ。

 地刀流に代々受け継がれてきた秘宝たる「カタナ」。時代の添問にはこれの所有権が預けられる。

 とはいえ開祖より今まで、地刀流以外が勝ち残った例は無い。

 石川家の継嗣が勝てなかった場合でも、勝ち残り添問の名を受け継いだのは、地刀流が輩出した参加者であった。

 これがヒノモトにおいて地刀流が最強と名高い理由である。どんな相手にも地刀流の剣士は負けなかったと歴史が証明しているのだ。

 さて、試しの儀には三つの規則がある。以下の通りである。


一、参加者は証しとして身体のどこかに「呪符」を身につけねばならない。

  これは強力な呪いの品で、試しの儀の最中、常に肌に張り付いている。

  自ら降参を口にするか、死亡した場合を除き、勝手に外れることはない。

  また、敵から奪った「呪符」は勝ち星として扱われる。

  「呪符」を奪われたとしても、何らかの手段で奪い返すことは許される。


二、勝者は独りのみ。

  開始より三日目の日の出を刻限とし、速やかに出発地点に帰還すること。

  帰還を果たした時点で、もっとも多くの「呪符」を持つものを勝者とする。


三、いかなる武器、技を持ってしても、勝者たれば、これを認める。

  ただし必要な物資、武器、その他は自分で用意すること。

  参加による生死は自らの判断により、地刀流は一切の責を負わない。


 この三つの規則は、初めて試しの儀が行われた頃より変わっていない。

 また、開始の半年前よりいくつもの経路でヒノモト全土に流布している。



3、

 試しの儀、その開始より数日前。旅装をした二人の剣士が、試しの儀の規則を書き記した立て看板を眺めている。兄弟であろうか。そっくりな顔立ちと、背格好であった。手にしている武器だけが全く異なっており、それが双子とは思わせない差異であった。

「スケ……この呪符ってのは、どんなもんだ」

「道士に頼んで作った特別製の御札らしい。手の甲に貼り付ける。すると御札が肌に吸い込まれて、そこに数字が出る。こうなるとちっとやそっとじゃ外れない。外すには……そこに書いてある通りに負けを認めるか、殺されるかの二択ってことになる」

 男の一人が、首をかしげた。

「道士に頼むって、地刀流が? 呪符に仕掛けを作られたらどうするんだ」

「呪符って響きだと怪しいが、ちゃんと毎回、第三者の術師に確かめてもらっているから大丈夫らしい」

「書いてある以外の機能や効果は一切無いと」

「みな疑うからな。そこはきっちりしてるそうだ。但し……術者も参加するから、そっちに悪さされないよう、呪符は弄れないくらい強力にしていると聞く。で、数字は最初は一から始まって、相手から奪うたびに二と三と数字が増えていくわけだ」

 勝ち星は見れば数が分かるようになっている。たとえば数字が七の者が、四しかない者に負けた場合であれば、前者の数字は奪われ、後者の数字は十一と変化する。呪符を貼る場所は自由だ。敵に見えない位置に隠しても、それは個人の判断である。

「おいおい、詳しいな」

「情報は大事だ」

 スケザブロウは、静かに答えた。

「こうでもしないと勝ち星の把握が難しいのと、……物品にすると手癖の悪いのが盗んでくらしい。最強を決める試しの儀で、盗みの腕を競ってどうするって話だ」

「ああ、参加者同士が戦わないことにはそもそも目的が果たせないわけか」

「次は二十一代目だな。前回から、もう二十年以上経ってるが……おそらく、勝つのは宗家の若君で決まりだろう。あれは先代よりも才能があると言われているからな」

「でもよ、スケ。お前も参加するんだろ? 死ぬ可能性はあるぜ」

 にやりと笑って返した。彼が腰に差している二本の剣は、使い込まれた風格がある。地刀流なにするものぞ。我も剣士、彼も剣士。なればこそ、最強などという見果てぬ道の先に、自分以外が易々と手が届いているなどとは思えない。

「勝つために参加するんだ。死ぬつもりはない」

 カクリャンは、ふんと鼻息荒く頷いた。

「カタナは気になるが、なぁ」

「太っ腹というか、地刀流が勝つことを全く疑っていないというか……遺物には変わりない。俺が勝ったら、売る前に一度くらいは使ってみるかね」

「いくらぐらいで売れるんだ?」

「さて。普通のカタナでも、十年豪遊出来る値段が付くとはよく言われるが……地刀流秘蔵との触れ込みなら、それこそ一生遊んで暮らせる額だろうさ」

「……そんなにか。なら、俺も出るぜ」

 ぴくり、とカクリャンの眉が動いた。少し考え、スケザブロウがこう口にした。

「待て。我らが最後まで勝ち残った場合は、どうする」

「そんときゃそんときだ。なんなら勝ちを譲ってやってもいいぜ。最強の名誉は、スケが持って行けばいい。その場合、カタナは俺がもらうがな」

「……いいのか」

「金さえありゃあ、俺はいいぜ。最強なんて面倒くせえがな」

 面白い、とカクリャンは剛毅に笑った。スケザブロウは口元を歪めた。不意に、カクリャンが呟いた。

「ところで……そのカタナはどのような謂われがあるんだ?」

「よく分からん」

「……おい、スケぇ」

「地刀流の連中がありもしないカタナを存在すると触れ回ってるわけではない! そこは安心しろ! ちゃんとカタナが振るわれたって話は何度も出ている!」

 カクリャンは首を捻った。カタナはカタナ。遺物ではあるが、剣の一種だ。

 それがよく分からない、と表されるのは何か不可解である。

「そのカタナを使うのは当代の石川添問――つまり、最強の剣士なわけだ」

「うむ」

「そいつがカタナを抜いて、振って、斬る」

 スケザブロウが苦笑しながら説明してくれた。

「光が奔るんだそうだ。剣閃が、キラリと眩しく輝く。すると敵が全員死んでいると」

「……なんだそれは」

「わけがわからないだろう。これだけ聞くと。その石川添問の腕がとんでもないのか、カタナがとんでもないのか、あるいはその両方か。カタナを抜くときは、敵を殺すときだって話だ。どんなものか、わざわざじっくり見させてくれるわけでもない」

 スケザブロウは難しい顔をした。カタナとは、いかなるものであったか。失われた武器である。遺物である。だが、それ以上の知識を持ち合わせていない。

「真実が知りたいってことなら勝つっきゃねえんだろうな」

「そうなる」

 二人は参加を申し込むため試合の儀の予選会場に向かった。彼ら以外にも大量の剣士が各地より集まっており、それを減らすための予選なのだった。



4、

「お兄さまっ。どこにいらっしゃいます、お兄さまっ」

「天音か。わざわざどうした」

 天音が精一杯声を上げながら探していると、道場の裏手から兄が出て来た。

 兄の手には木刀が握られており、額には玉のような汗が浮かんでいる。日課の素振りがちょうど終わったところだったらしい。

 敷地内でも、ひっそりとした寂れた一角だ。用がなければ誰も来ない場所である。

「ああカナお兄さま! こんなところに!」

 カナが眼を細めたのは、落ち着きのない妹を愛らしく思っているからだろうか。

 可愛らしい容姿に、まだわずかに幼さを残す声。天音の瞳は黒曜石の輝きで、よく手入れのされた艶やかな黒い髪は切り揃えられている。着ている服はヒノモト特有の山吹色の着物に、紅の帯。一見すると派手な装いだが、天音の雰囲気によって色合いの鮮やかさはすっかり抑えられ、清楚な娘の佇まいだけが残っている。

 人形めいて整った顔立ちに比して、その表情はころころ変わって子供っぽい。

「お兄さま、今日は天音と一緒に出かけるお約束だったはずです。お忘れです?」

「……ん?」

「もう!」

 頬を膨らませ、拗ねた天音にカナが頭を下げてくる。妹に甘い兄である。

「美味しい甘味処を見つけたんです。お買い物にも付き合っていただけるって」

「俺は言った覚えはないが」

「言いませんでしたけど、頷いてくださいました」

「……眠たかったからだな」

 先日天音が話を切り出したのは、カナが眠る直前だった。こっくりこっくりとしたところ勝手に了解として受け取ったのだ。カナに嘆息された。それを目敏く見つけた。

「お兄さまは、天音と一緒に街へと行くことはお嫌です?」

「そんなことはない」

 天音が顔を輝かせると、肩をすくめられた。カナに対し昔からずっとお兄さまと呼んではいるが、兄妹同然に育ったとはいえ、カナと天音とのあいだに血縁は無い。家族であることは否定されない。妹とは思ってくれているはずだ。

 しかし越えられない一線があることもまた事実である。

「……おや、カナ。天音とお出かけかい」

 珍しく、天音にとってはもう一人の兄、総司が顔を出した。立場上いつでも道場が使える彼は、こんな寂れた場所に足を伸ばす必要は無い。何か用があってカナを探しに来たのか、それとも天音の姿が見えなかったためか。

「そっちこそどうした。大事な時期だろう。明日は予選があるんだぞ。……こんなところで油を売ってる暇があるのか、宗家殿?」

「そうだけどね。僕としては、カナがどうするのかを聞きたかったんだよ」

「さて」

 カナははぐらかした。天音は不思議そうな顔を隠さなかった。

「カナお兄さま。出るって……試しの儀に、です?」

「そうさな」

「そうさな、ではありません! カナお兄さまが、どうして試しの儀に参加するなんて話になるのです? 総司お兄さまも変なことを仰らないでください! 総司お兄さまが勝つのでしょう?」

「ははは、僕が勝つとは限らないよ」

「みながそう仰ってますもの。総司お兄さまが次の石川添問だって、誰もが」

 総司は透き通るような笑顔を浮かべた。ゆっくりとカナと天音を交互に見て、ちらりと道場の敷地の先、山林の方角を眺めた。無数の妖魔が蔓延り、普段は誰も足を踏み入れない禁地。封印された修練場を。

 視線を戻し、天音を諭すように告げてくる。

「勝負に絶対は無いよ、天音。カナは僕より強いかもしれないじゃないか」

「えっ!? カナお兄さま、そうなんです?」

「さあな」

「参加、するんだろう? 予選の名簿に、名前があったよ」

「おいおい、参加者は当日まで秘密なんじゃなかったのか」

「予選の内容を決めるのは僕だからね。役得じゃなくて、お役目さ」

 何とも言えない空気が三人のあいだを支配していた。天音は聞いたことがある。こんなに慕っている兄で、掛け替えのない家族なのに、カナは捨て子だったのだという。

 道場の前に置き去りにされていたところを、石川家の当主である父、すなわち当代たる二十代目石川添問に拾われ、長子たる総司と共に家族同然に育てられた。

 総司とカナは同い年であり、その四年後に天音が生まれた。兄妹として育てられはしたが、カナは地刀流を学ぶことを禁じられた。そして石川の名字を名乗ることも許されなかった。

 石川家は、代々地刀流を受け継いできた家系である。開祖たる石川宗右衛門の系譜。地刀流を扱えぬ男児には、石川の性は与えられぬ。

 おかしな話だと天音は思う。天音だって地刀流を習っているわけではない。

 女だから、剣士には向かない。そんなのは理由にならない。いつか結婚して家を出ることになったとしても、あるいは婿を迎えるとしても、石川天音は地刀流宗家の娘であることに変わりはない。血のつながりが問題ではないのだと、父は口にした。

 どうしてカナには名字を名乗らせてはくれないのかと天音は何度も尋ねたけれど、地刀流を使えない者には石川の名字は与えられないの一言だった。

 当主の決定は絶対だった。後で聞いたことだが、無論、地刀流を学ぶことを禁じられたのには理由がある。カナには才能が無かった。単なる剣士の才ではない。欠如していたのは地刀流を扱うために絶対に必要な才だ。その一方で、総司には当代を優に超える才が見て取れた。地刀流において、カナが完全な落ち零れであるとすれば、総司は天才の名をほしいままとする。それほどの差が存在していた。

 誰もが噂した。カナが地刀流を学ぶことを禁じられたのは、当主による優しさゆえと。家族同然に育った二人なのに、あまりに大きな才能の差が露呈してしまえば、カナが石川の家に居続けることを嫌悪するに違いないと。同じ道を歩ませ、しかし絶対に越えられない壁を見せつけることが、どれほど非道な行為であるのか。それが分からないほど天音は愚かではなかった。

 天音は知っている。それでも、カナは剣士を志したことを。

 地刀流を学べないだけで、剣の道を閉ざされたわけではなかったからだ。道場にこそ入れなかったが、やたら広い敷地を使って稽古することは許された。

 天音は見ていた。幼い時分からカナは毎日素振りを欠かさなかったことを。戸が開いているときは、道場の中を覗き見ていることもあった。

 天音にはとても優しく、総司には崇敬の念を持って接してくれる他の弟子たちから、カナは無視された。彼らにとってカナは石川家の子供、宗家の系譜でもなければ、天音のように気を遣うべき関係者でもない。微妙な立ち位置だったのである。

 十歳を過ぎた頃からカナは時折ふらっと街に出ては、傷だらけになって帰ってきた。家族として育ったのだ。父も、総司も、天音も、すでに亡くなった母も、カナが街で何か危ないことをしているのではないかと、みな心配していた。

 何をしているのかと尋ねれば、修行だとぞんざいな返答。

 地刀流を学ぶことを禁じた父と、その薫陶を受け目覚ましく実力を伸ばす兄、二人からすればカナの外出が鬱憤晴らしか何かに思えたのだろう。喧嘩に明け暮れているのか、あるいはどこか別の剣術道場に出向いているのか。

 天音も含め、家族全員、詳しく聞くことはしなかった。カナ本人が修行と口にしている以上、それを疑うのも、根掘り葉掘り聞くのも何か奇妙な感じがしたからだ。

 していることが喧嘩であれ、なんであれ、石川家に訴えが届けられたこともない。

 問題になっていないのであれば、好きにさせてやるべきだ。暗黙の了承が出来ていた。

 本当は父も学ばせたかったのかも知れない。天音はそんな風に思った。

 父の胸にあったのは失望か罪悪感か、どうであれ、カナには地刀流を教えられないことは絶対で、その代わりとして外では自由にさせていたのだろう。

 そんなことが数年続けば、誰も気にしなくなる。幸い、傷だらけとはいっても命に関わるような大怪我をこさえて帰ってきたことはなかった。

 最初ははらはらしていた天音も、毎回なら、いつものことかと気にしなくなる。

 何年も、外で遊びほうけている子供。ゆえに、カナは放蕩息子の扱いとされた。十五歳を過ぎた頃だった。ふらっと家を出て行ったカナが、数日帰って来ないことがあった。多少の傷は男の勲章ということで、天音以外は気にもしなかったが、一度だけ、盛大に骨折した状態で帰宅したことがあった。当時、十二歳だった天音は泣いた。血は繋がっていなくとも、同じ名字を名乗れずとも、天音にとっては大好きな兄である。泣きついた。しがみついた。それから散々に叱った。

 カナお兄さまは弱いんですから、危ないことをしてはなりません! そんなことも言った覚えがある。弱いと言われても、カナは傷ついた顔はしなかった。そうだな、と一言返しただけだ。天音は、そんなカナの当たり前の表情を見て、自分が何を口にしたのかをすぐ悟った。血の気が引いた。地刀流を扱う才がないと断じられ、家族から見えない場所に向かっては修行と称して何かに打ち込む。そんな兄の傷を抉る一言を、いともたやすく吐き出してしまった。

「ご、ごめんなさいお兄さま。天音はそんなつもりじゃ……!」

「いいんだ。俺が弱いのは事実だからな」

 本当に修行をしているのだ。そして天音は強く感じた。カナの言葉に込められた寂しさを。大好きな兄の空虚を埋めるのは、何だろう。自分が一緒にいることで、少しでもその寂しさを和らげられるなら。家族と共にあるより、独りでいる時間の方が長いなんて、悲しすぎる。それ以来、天音は時間を見つけては、なるべくカナの傍にいる。天音は理解していた。いつかカナは家を出て行く。拾われて育てられた恩以外に彼を縛り付けるものもなく、家に残る理由も持ち合わせていない。すぐにどこかに姿をくらます兄だから、見つけたときは目一杯甘えて、はしゃいで、べったりな妹として振る舞うのだ。

 そうすることしか出来ない自分が、天音は少し嫌いだった。



5、

「カナは、試しの儀に出られると思うよ」

「剣を合わせなくても分かるのか」

「見れば分かるさ。……頑張ったんだね」

 総司には、そんなカナの苦労が分かっていたのだろう。地刀流を学べなくとも、知らぬ間に自力で一介の剣士を名乗れるだけの実力を得ていた、カナの強さをも。

 分かり合っている様子の二人のやり取りに、不満を見せるのは天音である。

 二人の兄、どちらにも危ないことはしてほしくない。しかし地刀流の師範にして、当代の嫡男たる総司が、次代の石川添問の名を受け継ぐのはもはや義務である。

 試しの儀に参加しないという選択肢はありえない。

「天音。そろそろ行かないのか」

「はいっ。では、総司お兄さま。また後ほど。カナお兄さま! ほらっ、早く早く!」

 何か言いたげだった総司に、カナは顔を向けた。

「……カナ。すまないね」

「何を謝ってるんだ。俺に対して何か謝らなきゃならんことをしたのか」

「そういうわけじゃないけどさ。……天音をよろしく。まだまだ子供だからね」

「むっ。総司お兄さまだって、子供っぽいところはあります!」

 総司は頷いた。カナも頷いた。言った本人だけが、目を丸くした。

「あ、あれ。お兄さまがた、そんなしみじみと頷かれるなんて」

「負けず嫌いだもんな、総司」

「そうだね。カナも似たようなものじゃないか」

「……まあな」

「明日の予選、遅れないようにね。それと……剣は自分で用意しなよ」

「分かってる」

 天音は、どうしてか二人のあいだに流れる不穏な空気を感じ取っていた。明日の予選、数日後に始まる試しの儀。

 天才と呼ばれる総司の約束された晴れ舞台であり、落ちこぼれと呼ばれながらも一人どこかで鍛えていたカナが無茶をするかも知れない死地でもある。

 甘味処に誘ったり、買い物に同行させたり、そんな風に不安を和らげようとしたが、そんなささやかな楽しさでは拭いきれないほどに、ひどく嫌な感じが胸のあたりをいつまでも占めていた。試しの儀が終わったとき、何かが致命的に変わってしまうかのような息苦しさを、感じていた。

「あっ、お兄さま! 向こうに出店が出てますよ!」

「そりゃ稼ぎどきだもんな。衆目に晒される以上、予選は見世物になるだろうし」

「あれは、チョコレートです?」

「串焼きもあるぞ。おっ、あれは符術遊びか。珍しいなぁ。天音、やってきたらどうだ」

「えと……天音はいいです。それよりお兄さま、古着屋に行きましょう!」

 二人は一緒にあちこちを回る。天音は楽しくて、はしゃいで、普段と違った人混みを抜けていく。街がなんだか浮かれている。久々の試しの儀の開催が原因だ。

 奇妙なくらいに楽しげな喧噪のなかに、天音は寒々しい予感を見いだす。

 予感?

 いいや違う。確信だった。生死を問わない、最強の剣士を選ぶ争い。そんなもの血なまぐさいに決まっている。二人の兄が争い、死闘を繰り広げる危険性を、ちゃんと分かっている。

 天音が泣いて頼めば、参加を取りやめてくれるかもしれない。総司は優しい顔をしているが、決して首を縦には振らないだろう。けれどカナは、一度は渋面を見せても、なんだかんだ言って甘いところがある。

 天音には分からなかった。力を示すこと。カタナを得ること。それは命と引き替えにするほどのことだろうか。強いことは、そんなにも大事なのだろうか。

 剣士ではないから、二人の考えが理解しきれない。

 生ぬるい風が吹いていた。その吹き付ける風を肌に感じながら、天音は願った。どうか何事も無く、無事に終わって欲しいと。



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