第六話:明日があるさ
オレンジ色の夕焼けがビルの間へ、挟まるようにして沈み行くオフィス街。
とあるビルの、とあるフロア。たくさんの事務机が並び、企業戦士たちが鎬を削る最前線。あるサラリーマンの通勤カバンの中で、携帯電話のベルが必死になって自分の主を呼んでいる。
だが肝心の主は上司との打ち合わせに忙しい様子で、携帯の悲痛な叫びには全く気付く事なく声を荒げていた。
「冗談でしょう? ウチが全面協力してる企画ですよ!? それが無くなった、ってどういう……」
半ば怒鳴るような口調で上司に食って掛かっていた携帯の主こと富永昴は、フロア中の注目が自分に集中している事に気付き、バツが悪そうに言葉を途中で途切れさせた。
「ごめんなさいね。ずっと頑張ってくれてた富永君には悪いのだけど……」
その間隙を狙い澄まし、知的なイメージ漂う眼鏡の女性が口を開いた。昴の上司にあたる女性だ。
「知ってるでしょう、島山昭助……そう、芸能人の。あの人がチャリティー企画をやりたいから、ウチの枠をくれって強引に押し込んできたの」
いわゆる大物芸能人と呼ばれる人物の名前が出た事に、多少の動揺を見せる昴。
昭助といえば、テレビで見ない日は無いと言われる程の売れっ子芸能人。芸暦も長く、その影響力は計り知れない。
その彼からの要望で、ここ数ヶ月に渡って昴が携わり、九分九厘まで決定していた企画が潰れてしまった。上司がしたのは、そういう報告だった。
「……もう、決まった事なんですね?」
「そうね、残念だけど」
表情一つ変えずにそう言った女上司に頭を一つ下げ、昴は踵を返す。そして真っ直ぐデスクに戻ると、カバンを手にして退社のタイムカードを押した。定時は、とっくに過ぎている。
「お疲れ様でした、先……失礼します」
淡々と言ってフロアを抜け、エレベーターに乗って階下へと降りる。ガラス張りのエントランス出口で社員証をかざしてビルを抜け出すと、そこには自分と同じように疲れた顔をして、安らぎの我が家を目指し歩を進める社畜たちで溢れていた。
そう、自分だけでは無い。みんな疲れているんだ。
「はぁ……」
溜息を一つ。
わかっている。みんな苦労しているのはわかっているのだ。しかし、振り払った筈の「どうして自分だけ?」という思いが後から後から湧き上がって来る。
以前からずっと構想を温め、三ヶ月以上の時間を掛けて完成させた渾身の一曲は箸にも棒にも掛かる事無く歌フェス落選。そして今日、自分が中心となって半年以上も関わってきたプロジェクトは、鶴の一声で抹消。
睡眠時間を削り、友達との飲み会を断って、自分は一体何の為に頑張ったんだろう? 残ったのは、無力感だけだ。
「はあぁ……」
再度の溜息。
だが昴はすぐに顔を上げた。
帰りにスーパーへ寄ろう。そこで安ビールとおつまみの一つでも手に入れて、今夜は少し飲もう。そうだ、それが良い。ついでに何かDVDでも借りてノンビリと見れば良い。
そうしてまた、明日から精一杯……?
「あ、あぁっ! スバルさん……スバルさぁん!!」
夜の予定を考えていた昴の耳に、聞き覚えのある明るい声が割り込んできた。
「こっち、こっちですっ!」
声のする方向へと目を向けると、人の波を掻き分けながらこちらへと駆け寄ってくる女の子の姿が見えた。あれは誰かと考えるまでもなく、思い当たるのは一人しか居ない。
「へ? あれ……鈴音ちゃん!?」
昴の声に輝くような明るい表情を見せる鈴音。見つけてもらえたのが相当嬉しかったようで、彼女は手をブンブンと大きく振って、一息に昴の元へとやって来る。
「どうしてこんな所に!? 学校、確か逆方向だよね?」
「ちょ……はぁはぁはぁ……ちょっと、待って下さいね……」
質問への答えを保留させ、小さな肩を上下させて息を整える鈴音。学校帰りであるらしく、手には黒の学生カバンを持ち、こなれたブレザーを着ている。基本的に普段着の鈴音しか見た事の無い昴の目には、その制服姿が新鮮に映っていた。
そんな昴の視線に気付く事なく、息を整えた鈴音は心底安心したような表情で、少しはにかみながら口を開く。
「近くまで来る用事があったので……スバルさんの会社、前に場所を聞いてたから、ちょっと行ってみようと思ったら……ま、迷っちゃって」
「あ~、確かにこの辺りって似たような場所多いからなぁ」
同じような形、同じような大きさのビルが立ち並ぶオフィス街。土地勘が無ければ迷うのも無理は無い。
「スバルさん、携帯に連絡したのに出てくれないんですもん」
「えっ? あぁ……ゴメン。ちょっと打ち合わせしてて……で、僕に何か用事でもあった?」
目線を合わせるように少し腰を傾げ、何気なく聞いた昴。特に意識して言ったわけでは無かったのだが、その質問は多いに鈴音を困らせた。
「え? いえ、えっと……その……な、なんとなく? みたいな……」
硬直し、目を泳がせる鈴音。
「……そっか、じゃあ鈴音ちゃん、この後って何か予定あったりする?」
「? いえ、別に……」
「お、丁度良かった。僕、帰りにDVD借りようと思ってたんだけど、最近の映画って全然わかんなくてさ。どうしようかと思ってたんだ。一緒に来てオススメ教えてくれると助かるんだけど……」
何か、この場では話し難い話題があるのかもしれない。鈴音の様子からそれを察し、場所を変える事にした昴。三十六という年齢は伊達じゃないつもりの彼だ。
案の定、あっさりと話に乗ってきた鈴音。嬉しそうに頷いて応える。
快諾を得た昴は、上機嫌の少女を伴って他のサラリーマンたちが歩くのと同じ方向へ歩き出す……と、スーツの袖がくいっと引っ張られた。
「ん? 鈴音ちゃん、どうしたの?」
「や、その……はぐれて、迷ったら嫌だから……」
ボソボソと小声で恥かしそうに囁く鈴音に、自分の姿を重ねる昴。
そう、心細い物なのだ。拠り所が無くなるというのは、他人が思うよりも、ずっと……。
「そっか、じゃあこうしよう」
スーツの袖から鈴音の小さな手を取り、ぎゅっと握って手を繋ぐ昴。
「鈴音ちゃんが嫌でなければ、だけど」
「い、いえっ! だいじょうぶ……デス」
少し恥かしそうに、だがとても嬉しそうな顔で、鈴音は目を伏せた。昴はそんな彼女の手を引いて、家路を急ぐのだった。