第三話:土曜日の恋人
平日の午前中。
社会人の多くは汗水垂らして必死に働き、学生の多くは机に齧りついて勉学に励んでいるであろう時間帯。
社会人であるはずの富永昴はエアコンの良く効いた喫茶店の一席で、優雅にアイスコーヒーなど口にしながら柔らかなソファーに身体を預けていた。
「羨ましいだろう?」
ニヤリ、と頬の端を歪めながら言い放つ昴。彼は別に、真面目に頑張る社会人や学生にケンカを売っているわけではない。アイスコーヒーの乗ったテーブルを挟んで彼の正面に座る、スーツ姿の男性に対して言ったのだ。
「いンや、別に」
スーツの男性は事も無くそう言って、タバコを一服。そして何気ない仕草でそれを揉み消し、細く長く紫煙を吐いた。
どこか優雅で洗練された動き。シワ一つ無い高級スーツと高級ブランドの革靴が嫌味無く似合っている。手足はスラリと長く、身長も高い。細面の整った顔立ちはテレビで見る俳優を思わせる。
その男性の事をざっくりと言ってしまえば、相当な美形という事になるだろう。
「お前さあ、ちょっとは羨ましがってくれよ。仕事の合間に、打ち合わせと称してサボり放題の、この僕を!」
昴が面白く無さそうに言って、コーヒーを啜る。彼も決して出来の悪い顔では無いのだが、スーツの男性と並び立つと荒が目立つ。ざっくりと言ってしまえば……数段劣る。
「ははっ、そんなだから出世できねぇんだよスバルはさァ。昔っからだ」
笑顔を見せるスーツの男性。彼の名は、白地健太郎、三十五歳。昴とは小学生時代からの長い付き合いだ。
「ケンタの癖にうるさい。一般のサラリーマンは、お前と違ってサボるのも仕事の内なんだ。これは休憩時間なんだよ」
「はは……それ服務規律違反じゃねぇの? まぁクビになったら俺の事務所で雇ってやっから、心配すんな」
昴の台詞に余裕の表情で応えるケンタこと健太郎。
彼の高級スーツ、その襟で光る小さなバッジ――ヒマワリの中心に天秤が描かれた、それこそが彼の職業、弁護士の証だ。
肩書きだけでなくそれなりに腕も良いようで、独立し、小さいながらも自分の事務所を構えている。
「ま、俺にとっちゃスバルの仕事なんざぁどうでも良いんだ。ンな事より……」
何気に酷い事を言われて不満気な昴の前に、一枚の紙を置く健太郎。安っぽいコピー用紙に印刷されているそれは、何かの告知ポスターであるようだった。
「なんだよこれ。『ニロっと歌フェス』? ウェブの音楽イベントか?」
ポスターに目を通し、怪訝そうに友人の顔を見返す昴。新たなタバコに火をつけた健太郎は、意味ありげな笑みを見せて顔を寄せ、小声で話し始める。
「ソレな、ニロニロ動画の主催でさ。ネットで歌とか募集してコンテストしようぜ! ってイベントらしい」
さらに声を小さく絞る健太郎。更に顔を寄せて先を続ける。
「んで、優秀作を集めてアルバムCDを発売する、って流れ」
「へぇ……CDになるのか」
CDという言葉に、昴がぴくりと反応する。
アマチュア音楽家にとって、自分の曲がCDとなって一般の流通ルートに乗る事は一種の憧れであり、目標の一つであると言える。自費製作では無い所がポイントだ。
「そこまで言ったらもうわかンだろ? スバル、お前コレに応募しろよ。今から曲作ってさぁ」
募集締め切りは三ヶ月後。今から本腰を入れて曲作りを始めれば、完全新作であっても間に合うだろう。
「そうだな……せっかくだし、ちょっと気合入れてやってみようかな」
昴の台詞に、嬉しそうな表情を見せる健太郎。
「おぅ、やってみろやってみろ。あ、でもこの話はオフレコで頼むな。まだ一般には告知されてねぇから」
え? と疑問に首を傾げる昴に、健太郎は「良く見てみろ」と顎の先でポスターの端を示す。
そこには鉛筆による走り書きで、一ヶ月先の日付が告知開始日として記されていた。それによくよく見れば、このポスター自体が未完成であるようだ。
「ソレ、クライアントから校正刷りを貰ったんだわ。だから未発表ってワケだ。誰から貰った、とか聞くなよ? 言えねぇから」
ポケットから小銭を出してテーブルに置き、釣りはいらないと断りを入れて立ち上がる健太郎。そんな彼へ、昴は思わず声を掛けた。
「良いのかよケンタ、お前一応弁護士だろ? マズいんじゃないのか?」
若干、心配そうな声色でもって尋ねた昴に、健太郎はヒラヒラと手を振って気楽に応える。
「構う事あるかよ。凄ぇヤツなんざぁわんさか居るんだ、お前みてぇな出来の悪いヤツにゃハンディも必要だろ? どうせ一次選考にも残らねぇとは思うけど、やる気あんなら頑張ってみろよ」
言いたい事は概ね言い終えたのか、健太郎は最後に「んじゃ、またな」と言い残し、席を後にした。
そんな友人の背中と、手元のポスターを交互に見やる昴。
既に次曲の構想はある。制作に費やす時間は、健太郎のお陰で三ヶ月を確保できた。大多数の者よりも多い期間だ。これだけの時間があれば満足の行く新曲が作れるだろう。
想像が膨らむ。
他の作品を蹴散らして優秀作品に選ばれる自分たちの曲。そして、その曲が収録されたアルバムが堂々とショップに並ぶのだ。そのパッケージには作曲:富永昴。歌:鈴音と書かれていて……。
「うぁ、何想像してんだよ」
昴はブルブルと頭を振って、都合の良い妄想を振り払う。
三十六にもなって、どれだけ想像逞しいんだ自分は! こういうのが許されるのは精々中学生までで……いや、三十代でも想像するくらいは許して欲しくもあるのだが……。
「ま、それはともかく」
残っていたコーヒーを飲み干し、勢い良く立ち上がる。今日は早めに仕事を終わらせて……作曲だ!
友人の置いていった小銭を集めて支払いを……と考え、ふと思う。
「ケンタ……足りないんだけど」