第十話:言葉より大切なもの
音が、広がる。
これまでの何倍も、何十倍も。拾い草原を撫でる風がどこまでも走り抜けるように、力いっぱいの声が曲の中へと吸い込まれて行く。
「……ん、よしっ! 良い感じだよ鈴音ちゃん!」
キーボードから手を離し、昴が笑顔を見せる。軽く握られた右手は、彼のガッツポーズ。どうやら確かな手応えを感じているようだ。
そして同じ手応えを鈴音もまた感じていた。のびのびと気持ち良く歌える。スローテンポの曲なのに、全力で空を飛ぶような爽快感が身体を突き抜けるのだ。
「この曲、なんだか凄く歌いやすいです。思い切り声を出せるって言うか……」
鈴音の意見に満面の笑顔で頷く昴。
久しぶりに見る彼の嬉しそうな顔に、鈴音のテンションも自然と上昇する。
「スバルさん、次っ! 次の所もやりましょうっ!」
「よし、わかった」
キーボードへと手を戻し、伴奏を始める昴。
――やっぱり、これが正解だったんだ。これまでの僕は、間違ってた。
今までの自分は、まだどこかで自分の曲を引き摺っていた。鈴音ちゃんの曲を書いているつもりで、昔のままの……鈴音ちゃんが居なかった頃の曲を書いていた。
それじゃ駄目だ。
彼女が……鈴音ちゃんが僕へ信頼を示してくれたように、僕も鈴音ちゃんを……僕の、僕だけの歌姫を信じて、本当の意味で彼女へと贈る曲を作らないと!
「……どうですか、スバルさん!?」
「うん、完璧! 凄く良い声が出てる」
額に滲んだ汗を拭い、満足げに微笑む鈴音。この瞬間の為に息をしている。そう表現しても差し支えない、満ち足りた表情だ。
「よし、この辺で飲み物でも飲んで少し休憩にしよう……ポカリで良い?」
頷き、鈴音は少し温めのスポーツドリンクで喉を潤す。その間に昴は録音した曲を編集、保存して曲を完成へと近づけて行く。その楽しげな横顔に見惚れながら、鈴音は思った事をそのまま口に出してみた。
「ねえ、スバルさん。この曲……良いですね。私、これまでで一番だと思います」
「そっか、それなら僕も嬉しいよ。これまでの曲は鈴音ちゃんの広い音域に甘えてた部分が多かったから、この曲は得意な音域で歌えるように調整を……」
昴が今回の曲について、専門的な話を始める。彼の薀蓄を聞くのが嫌いでは無い鈴音だが、その内容は半分も理解できない。
「……ふぅん? そうなんですね?」
「あ~……えっと、まぁつまり……本当の意味で鈴音ちゃんの専用曲って事。鈴音ちゃんが良くわかんなくても、思い切り歌えば曲が合わせてくれるから」
良くわかって無い事に気付かれてたかとテレ笑いを浮かべる鈴音に微笑み返し、昴は手元のノートに新たな符号を書き込む。
昴のノート。鈴音がそう呼ぶ薄汚れた大学ノートは、作曲や音合わせの際に昴がメモ帳のようにして使うノートだ。表紙に使い始めた日付だけが書かれたシンプルなノートは、ざっくりとした曲の流れや、その場で思いついた事を書き込んでおく為の物。いわば昴のネタ帳である。そうしておいて、後でパソコンを使って曲へと反映させるのだ。
「ところでこの曲、いつ頃アップするんです?」
「う~ん……本当は、もう少しノンビリと作るつもりだったんだけど……」
腕を組み、椅子の背もたれに体重を預ける昴。以前はこのポーズを取る度にギシリと鳴っていた椅子が、今はもう鳴らない。随分と体重が落ちたのだ。
歌フェスで実力の違いを突き付けられ、そこから半年。態度にこそ出さないが、失意の中から抜け出すのに相当なエネルギーを使ったのだろう。そして鈴音は知らなかったが、仕事においても理不尽な理由で努力を水泡に帰された昴。その気苦労は計り知れない。
「もう少しすると、例の『愛が宇宙を救う』の関連動画でニロニロが溢れると思うんだ。んだから、全体の投稿数が少ない今の内に完成してる一番だけでも投稿して、ちょっとでも注目されようと目論んでる」
「あぁ……毎年、凄いですもんね」
愛が宇宙を救う――毎年の恒例行事に近い扱いとなっているこの大規模チャリティーイベントでは、全国各地で公開生放送がほぼ同時に行われる。それらを個人的に撮影する者は多く、時期が来ると投稿動画サイトはそういった個人撮影動画で溢れかえるのだ。
「宇宙を救う、スバルさんは見るんですか?」
「……見ない。司会がキライ」
今年の総合司会は島山昭助。彼のお陰で自分の企画が抹消されてしまった昴にとってすれば、顔も見たくない相手だ。
「ふぅん? そうなんですか」
昴が人の好き嫌いを言い出すのは珍しい。事情を知らない鈴音は意外に感じながら、何気なくテレビのスイッチを入れる……と、音楽室の隅に置かれた小さな液晶画面に渦中の人物、島山昭助が映し出された。
『ガハハハハ、なんでや! ンな事あるかいなぁ!』
親しみやすい笑い声と、独特のイントネーションを持つ関西弁。合成で追加されたガヤもあり、彼が司会を務める番組は盛り上がっているようだ。
面白みの無いゲストをスキャンダラスな話題で弄り、自分へと向けられるコメントには素早く切り返してシニカルな笑いを取る。名ばかりの大物とは一線を画す実力者の姿が、そこにはあった。
『彼はな、そういう事やねんて。オレにはわかるねん。辛かっ……』
突然、ブチッと液晶画面が暗転した。
「あ、スバルさん何するんですかっ! 私、見てたのに!」
「こいつ、キライだもん」
昴がテレビを切っていた。テレビの向こう側、手の届かない存在であるキライな芸能人への、小さな反抗である。
「休憩中くらい好きなテレビ見せて下さい! 大人でしょう!? ガマンすれば良いじゃないですかっ!」
「ヤダ。ヤツからは毒が出てる。危険だから見たくない」
喚きながら、テレビのリモコンを奪い合う二人。
そんな昴と鈴音、二人の会心作がニロニロ動画で波紋を呼ぶのは、この時から一週間後の事である。