第一話:ギフト
駅まで歩いて十五分、コンビニまでなら二十分。一畳二間、家賃の安さだけが自慢の薄汚れたアパート、そのニ階。
黒いペンで『富永』と書かれた表札の部屋から、微かなピアノの音が漏れ聞こえて来る。
「ん……こうか? こんな感じ……か?」
鍵盤の上を滑るゴツい指先。すると電子制御され、小さく絞りこまれた旋律がスピーカーから流れ出る。
大きな身体を安っぽい椅子に預け、その図体に似合わぬ繊細な動きでキーボードを操る男性。彼の名は富永昴、三十六歳、独身。どこにでもいる、くたびれた中年サラリーマン。
「よし。今の感じで、もう一回やろう」
「はい! お願いしますっ!」
昴の言葉に応えて、元気の良い明るい声が狭い室内に響く。彼が弾くキーボードを挟んで向かい側に立つ少女の声だ。
年の頃は十代中頃といった所だろうか? 人懐っこそうな顔立ちの、可愛らしい少女だ。しかし、あまり服装には気を使わない性格らしい。少々大き目のシャツとジーンズ、肩口までの黒髪を軽くピンで止めただけという飾り気無い服装は、お世辞にもオシャレとは言えない。
「すぅっ、はぁ。すうっ、はあぁ……」
キーボードの音にあわせて深呼吸を繰り返す彼女の名前は、白地鈴音、十七歳。人よりもちょっと可愛い、そして人よりもちょっと歌うのが好きな女の子だ。
「あいうえあぉ……ん、オッケです」
鈴音の言葉に黙って頷く昴。指先でカウントを刻みながら、逆の手で器用にキーボードを弾いてリズムを作り始める。やがて滑らかな音の波がスピーカーから流れ出し、それに乗るようにして鈴音が声を重ねた。
「……〜、去年の今頃〜……」
少女の小さな口から溢れるのは、深みのある、優しい声。歳若い娘特有の高い音域でありながら、聴いた者の心に染み渡り、落ち着きを与える不思議な声。誰もが『天性の才能』という言葉で表現したくなる、そんな歌声だ。
そして彼女が歌うのは誰も聞いた事の無い歌詞。流れるのは誰も聞いたことの無いメロディー。鈴音の為に作られた、鈴音の為の歌だった。
「……〜見てる、から〜…………」
と、その歌声が不意に途絶える。同時にピアノの旋律も小さくフェードアウトした。
マイクから顔を背け、そっと息を吐く鈴音。昴も同様に、ゆっくりと鼻から息を抜く。
「よし、このフレーズはこんなモンだろ。後は編集で繋げるよ……お疲れ、鈴音ちゃん」
「はい、お疲れ様でしたっ!」
昴の言葉に鈴音の顔が綻ぶ。緊張の抜けたその表情はとても自然で、歌っていた時の不思議な魅力はどこへやら。鈴音はごく普通の、どこにでもいる、ちょっと可愛いだけがとりえの娘となっていた。
「いつアップするんですか?」
「今夜中にざっくり編集して……仕事中に細かいトコ考えて……明日の夜になるかな?」
録音機材の片付けを手伝いながら問い掛けた鈴音は、昴の回答にフンフンと鼻を鳴らして目を輝かせた。自分の歌が、自分たちの曲がどのような形を成すのか楽しみで仕方ない……そんな様子がありありと窺える。
「あ、でもダメだ。曲名考えて無いや」
「ええぇぇぇっ!?」
頭を掻きながらポツリと溢した昴に、明らかな不満の声をぶつける鈴音。先程まで見せていた明るい笑顔から一転、その表情はオモチャを取り上げられた幼児が見せる泣き顔に近いものとなる。
「もぉっ! なにやってるんですかぁ! そういうのって普通、最初に考えておくモノじゃないんですか!?」
「いや〜、一応考えてたんだけどさ。ホラ、途中で歌詞を変えただろ? だからちょっと曲名もいじりたいな、と思って」
悪い悪い、と適当になだめる昴に、未だ不満気な様子の鈴音。
「そうむくれるなよ鈴音ちゃん。ちゃんと明日までには考えておくから」
「……絶対ですよ? 期待してますからね?」
そんなやり取りを交わしながら、部屋の片付けを続ける二人。
彼らはいわゆるアマチュア音楽家だ。昴が作詞、作曲と編集を。鈴音が歌を担当し、作った曲をインターネットの動画共有サイトに投稿するといった活動をしている。
だが活動といっても、二人は本気でプロを目指しているわけでは無い。趣味としてオリジナルの曲作りを楽しんでいる、どこにでも居る音楽好きの一般人なのだ。
時には、自分たちの曲が口コミで有名になって運良くメジャーデビュー! 多くの人に絶賛されてミリオンセラーに……などという妄想をしなくも無いが、それが叶わぬ夢である事は重々承知している。アマチュアの曲がポンポン売れるようでは、本気で曲を作っているプロの立場が無いではないか。
特に三十半ばである昴は、そういった現実的な思考を主とする傾向が顕著だ。
今だって本当なら一晩中でも曲の編集をしていたいのだが、明日も当然会社がある。生活の基盤である仕事を疎かにする事は出来ない。となると、一銭にもならない趣味に割ける時間は少なく……。
「ふぅ、現実は厳しいな」
叶わぬ夢を、遠まわしな愚痴で表現するのが関の山だ。
「ほらスバルさんっ! たそがれてないでアンプ動かすの手伝って下さいよぉ!」
「ん? あぁ……」
鈴音の声によって我に帰った昴は「そうだった」と、贅沢過ぎる自分の環境を思い出し、考えを改める。
自分は、まだ恵まれている方なのだ。
世の中に溢れる素人作詞家、作曲家による楽曲たち。だがその多くは脚光を浴びる事無く、そして誰にも歌われる事無く消えて行く。
それを思えば、昴には鈴音が居る。曲に魂を吹き込んでくれる歌姫が。
「悪い悪い。その辺りの重たいヤツは僕がやっとくよ」
昴は少しだけ軽くなった気持ちと足取りで鈴音の元へと歩み寄り、彼女が引き摺っていたアンプの移動を引き受ける。そして様々な言葉を飲み込むと、勢いを付けて重たい荷物を持ち上げたのだった。




