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第1話:泥水の味と貸借対照表(バランスシート)

木製の粗末なスプーンを口に運んだ瞬間、舌先を刺したのは、冷え切った塩水と泥のえぐみだった。


「……っ」


思わず喉が引き攣りそうになるのを、ルチア・フォン・グラナートは細い喉を鳴らして懸命に飲み下した。

視線を落とせば、ひび割れた深皿の底に沈んでいるのは、ちぎった雑草が申し訳程度に浮いた灰色のスープ。その隣には、乾燥して石のように硬くなり、青緑色の斑点――青カビがびっしりと胞子を咲かせたライ麦パンの欠片が、無残に転がっている。

暖炉には薪の代わりに枯れ枝がわずかにくべられているだけで、晩秋のすきま風が容赦なく薄暗い食堂を吹き抜けていた。建国期から続く由緒正しきグラナート子爵邸は、いまや天井の漆喰が剥がれ落ち、名画の飾られていた壁には無様な四角い日焼け跡だけが残る幽霊屋敷と化している。


「すまない……すまない、ルチア……! 私のせいだ。すべて、この愚かな父のせいなんだ……!」


テーブルの向かい側で、頭を抱えて机に額を擦り付けているのは、父であるルーファス・フォン・グラナート子爵だった。

かつては温厚で優雅だったはずの四十代半ばの貴族は、見る影もなくやつれ果て、作業着同然のほつれた上着を震わせて涙を流している。

没落の理由は、あまりにも陳腐で、救いようのないものだった。

領民を飢えさせまいと奔走していたルーファスは、王都の旧友を名乗る貿易商から「新航路の開拓資金」として頼み込まれ、善意百パーセントでお人好しにも事業の連帯保証人の書類にサインしてしまったのだ。

結果は絵に描いたような計画倒産。友人は行方をくらまし、残されたのはグラナート家が背負う義務のない天文学的な負債だった。

元本にして金貨百枚。それが悪質な高利貸しの法外な複利計算によって、わずか半年で『金貨三百枚』へと膨れ上がっていた。

金貨三百枚――この王国の相場にして、平民の家が優に百軒は建つ額であり、前世の日本円に換算すればおよそ三億円に匹敵する大金である。


「お前やクラリスを学校にも通わせてやれず、こんな泥水をすすらせて……。近隣の鉱山主からは、ルチアを妾に差し出せば借金の利息だけは待ってやると言われた。だが、娘を売るくらいなら……私が、私が首を吊って保険金を……!」

「お父様、落ち着いてくださいまし。命を担保にしたところで、免責条項に引っかかって一銭も下りませんわ」


無意識のうちに、ルチアの口からそんな言葉が滑り落ちていた。

自分でも驚くほど冷淡で、無機質な声だった。

――その瞬間。

ずきん、と頭蓋の奥で何かが爆ぜた。


(……保険金? 免責条項? 私、今……何を口走ったの?)


視界がぐにゃりと歪み、胃の腑から込み上げてきた激しい吐き気とともに、脳裏に奔流のような光景が雪崩れ込んできた。

それは、この剣と魔法のファンタジーめいた中世風の世界の記憶ではない。

まばゆいネオンサイン。高層ビルの最上階から見下ろす東京の夜景。冷徹なキーボードの打鍵音。高級ホテルのラウンジで傾けたドン・ペリニヨン。警察庁の捜査二課に追われながら、数々の会社経営者、資産家、傲慢な成金男たちを手玉に取り、一代で数十億円もの金を動かした女――。


一条、玲奈(いちじょう れいな)。


それが、彼女の前世の名前だった。

男の袖口のほつれ一つ、靴底の減り方一つからその懐事情と自尊心の飢えを看破し、相手が自ら望んで全財産を差し出すように仕向けた稀代の結婚詐欺師。

絶対に尻尾を掴ませず、法的な契約書面の不備を突いて完全な合法性を保ち続けた怪物は――最期、タワーマンションの冷たいフローリングの上で、心臓発作により誰にも看取られず過労死したのだった。金だけを抱え込み、誰のことも信じられず、一人きりで。


(……思い、出した)


ルチアは荒い息を吐きながら、自分の白く細い指先を見つめた。

十八年間、おっとりと大人しく、没落の運命に怯えて泣くだけだった子爵令嬢の肉体に、前世の冷徹極まる思考回路が完全にインストールされたのだ。

脳内のキャッシュフロー計算機が、凄まじい速度で弾き出される。


(……は? ちょっと待ちなさいよ。たかだか金貨三百枚ごときで一家心中? 青カビのパンをかじりながら首を吊る相談? 冗談でしょう。資産の査定も、債務の組み替えも、貸借対照表(バランスシート)のオフバランス化すら試みていないじゃないの)


怒りにも似た冷徹な情熱が、ルチアの全身の血液を急速に温めていく。

前世で一代の帝国を築いたプロフェッショナルとして、この杜撰極まりない財務状況と、善良なお人好しを食い物にする悪徳業者のやり口は、美学的に到底許容できるものではなかった。


ドォォンッ!!


思考を遮るように、屋敷の正面玄関から暴力的な轟音が鳴り響いた。

蝶番が悲鳴を上げ、金具が吹き飛ぶ音。続いて、泥まみれの革靴が廊下の絨毯を踏みにじる下品な足音が、食堂へと急速に近づいてくる。


「ひぃっ……! き、来た……! バルツァー商会だ……!」


父ルーファスが悲鳴を上げ、ガタガタと椅子ごと震え上がった。

勢いよく開け放たれた食堂の扉の向こうから現れたのは、下卑た笑みを顔中に張り付けた小太りの男と、棍棒を手にした二人の大男だった。


「ようよう、グラナート子爵閣下ァ! 今日も今日とてみすぼらしい食事をご堪能中かい?」


先頭に立つ男――王都の悪徳高利貸し『バルツァー商会』の代表、カール・バルツァーが、顎をしゃくりながら食堂へ踏み込んできた。三十代後半の脂ぎった顔に、豚のような小さな目が嘲笑の色を浮かべている。


「か、カール殿……! お待ちください、あと半月……あと半月待っていただければ、領地の冬小麦の収穫が……!」

「あぁん!? 寝言は寝て言えや! てめえの領地の枯れ草なんざ全部刈り取ったところで、利息の十文字にもなりゃしねえんだよ! 今日が期日だ。金貨三百枚、耳を揃えて耳から血を流してでも払ってもらおうか!」


カールは手にした書類――グラナート家の署名が入った借用書をピラピラと見せびらかしながら、ルーファスの胸ぐらを掴み上げようと手を伸ばす。

だが、その濁った視線が、テーブルの端に静かに佇んでいたルチアの姿を捉えた瞬間、下卑た歓喜に歪んだ。


「……ほう。噂には聞いていたが、こいつはたまげたタマだ。没落貴族の娘にしちゃあ、上玉どころの騒ぎじゃねえな」


カールはルーファスを突き飛ばし、ぬめるような足取りでルチアの前へと歩み寄ってきた。

粗末な麻のドレスを着ていようと、ルチアの透き通るような白磁の肌と、夜空を切り取ったかのような深い黒髪、そして意志の強い紫紺の瞳は隠しようもなかった。

カールは豚のような息を吐きながら、脂ぎった指先を伸ばし、ルチアの顎を乱暴に持ち上げようとする。


「おい、子爵。話を変えてやろう。この娘を差し出せ。王都の高級娼館に話をつけてやる。三年も客を取らせりゃあ、借金元本くらいは相殺してやってもいいぜ? なに、貴族の血筋を喜ぶ変態貴族どもなんざ腐るほどいるからなァ!」

「や、やめてくれ! ルチアに触るな! 頼む、私を殺してくれ……!」


床に転がったルーファスが泣き叫び、取り立て屋の大男たちに取り押さえられる。

絶体絶命の危機。

世の令嬢であれば、恐怖に泡を吹いて失神するか、誇りを汚されて涙を流す場面だろう。


だが――ルチア・フォン・グラナートは、微塵も動じなかった。


彼女の紫紺の瞳は、至近距離に迫ったカールの顔を見つめながら、氷のように冷たく、機械のように精緻に、その全身を『スキャン』していた。


(――はい、プロファイリング開始)


ルチアの脳内で、前世で培った超一級の観察眼(コールドリーディング)が火花を散らす。


第一に、身なり。

羽織っているのは東方シルクの高級な外套だが、右の袖口がほつれ、糸がみっともなく飛び出している。さらに襟元には昨日のものと思われる油染み。

(上等の服を着て見栄を張っているけれど、日常の細かな手入れが完全に滞っているわね。つまり、身の回りの世話を甲斐甲斐しく焼いていた『本命の愛人』に、ごく最近逃げられた。家政婦を雇う余裕もないほど、プライベートが荒れている証拠)


第二に、手元。

左手の薬指に、くっきりと残る白い圧迫痕と、鬱血したような赤み。

(つい数日前まで、身分不相応に太い金の指輪を嵌めていたわね。それを外した……いいえ、外さざるを得なかった。愛人に持ち逃げされたか、あるいは急ぎの現金を作るために質屋へ放り込んだか)


第三に、靴と泥。

磨き上げられたエナメル靴のコバと靴底に、こびりついた赤黒い粘土質の土。

(このグラナート領の土は灰色の砂地砂利よ。この独特の赤粘土は……王都の歓楽街、それも地下水路に近い『非合法裏カジノ』の裏口に敷かれている赤土レンガの削り粉ね。靴の泥を落とす暇もなくここへ駆け込んできたということは――昨夜、カジノで派手に大穴を開けたわね?)


第四に、匂い。

漂ってくるのは、刺激の強い安物のコロン。それも、貴族のサロンでは誰も使わないような、下町の娼婦が好む安価なムスク系。

(貴族社会の仲間入りをしたくて必死に背伸びしているけれど、本物の貴族が愛用する柑橘やハーブの香調を知らない。成金特有の強烈な劣等感(コンプレックス)と、社交界の有力者に取り入りたいという飢餓感)


――カチリ、とパズルの最後のピースが音を立てて嵌まった。


この男の貸借対照表(バランスシート)は、現在進行形で債務超過寸前の火の車だ。

愛人に逃げられ、裏カジノで商会の運転資金を溶かし、手元のキャッシュが完全にショートしかけている。今日中にまとまった現金を回収するか、あるいは王都の有力貴族に泣きついて新しい後ろ盾(パトロン)を得なければ、破滅するのはこの高利貸しの方なのだ。


(ふふ……。あはははっ! なんだ、そういうことじゃない!)


ルチアの胸の奥底から、暗く獰猛な愉悦が湧き上がってきた。

獲物は、飢えた狼などではない。罠にかかって足を引きずり、死に物狂いで暴れている哀れなブタに過ぎない。


ルチアは、自らの顎に向けられていたカールの指先が触れる直前、ふっと力を抜いて儚げに首を傾げた。

そして、怯える可憐な少女の瞳から、一瞬にして『絶対零度の捕食者の光』へと眼差しを切り替えた。


「――っ!?」


カールが息を呑み、不気味さに指を止める。

ルチアは音もなく立ち上がり、わずかに背伸びをすると、カールの耳元へと唇を寄せた。

甘く、熟れた果実のように滑らかな声で、しかし鼓膜を凍りつかせる毒を含ませて、そっと囁く。


「……バルツァーさん。愛人に手切れ金ごと逃げられ、昨夜は裏カジノの地下ダイスで商会の運転資金をごっそり溶かし……今まさに、貴族院のパトロンに泣きつこうと喉から手が出るほど焦っていらっしゃるのに」


「な……な、んだと……!?」


カールの顔から、一瞬で血の気が引いた。

脂ぎっていた額から、今度は本物の冷や汗が滝のように吹き出し、顎を伝ってボタボタと床に落ちる。


「な、なんで……てめえ、誰からそれを……!」


ルチアはふふっと妖艶に微笑み、すっと一歩身を引いた。

背筋を凛と伸ばし、汚れた麻のドレスをまるで最高級の宮廷衣装であるかのように優雅に翻す。

その佇まいは、もはや借金に怯える没落令嬢などでは断じてない。人の心の隙間を縫い、巨万の富を意のままに操ってきた、本物の『怪物』の姿だった。


「こんな王国の最果てのみすぼらしい屋敷で、チンケな小銭を回収している暇がおありですの? ――そんな端した金で、あなたの開けた大穴が埋まりますこと?」


「ひっ……!」


喉の奥でカエルを押し潰したような悲鳴を上げ、カールはよろよろと二歩後ずさった。

取り立て屋の大男たちも、ボスの異常な動揺と、目の前の少女から放たれる説明のつかない覇気に呑まれ、棍棒を構えたまま棒立ちになっている。

床に座り込んだ父ルーファスだけが、何が起きているのか理解できず、ただ口を半開きにして娘を見上げていた。


青カビの生えたパンと、泥水のスープ。

けれど、目の前に立つ男の顔は、極上の絶望に彩られている。

ルチアは舌先で小さく唇を湿らせ、冷徹な微笑みを浮かべた。


「青カビのパンは喉を通らないけれど――焦燥感で脂汗をかいた男の顔は、極上のアミューズ(前菜)ですわね」


さあ、商談の時間だ。

この哀れな高利貸しを、骨の髄まで美味しく料理して差し上げなくては。

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