第一章 結の舞・1
控え目に扉を叩く音に、書物に落としていた視線を上げた。入室の許可を出せば、やはり恐る恐るといった様子で扉が内側に開かれる。
顔を覗かせた相手に、橋聖は苦笑を浮かべた。
「アゲハ。入って来い」
椅子に腰掛けたまま手招きすれば、数秒の逡巡を見せながらもアゲハは室内に入ってくる。左手に提げたバスケットの中身は、彼女が入室すると同時に室内を満たした芳醇な匂いに予想がついた。
「華蘭か」
「うん。華蘭の匂いは邪を退ける効果があるから」
早くよくなってくれるようにと、机の上に置いたバスケットから取り出した、乾燥させた華蘭を潰して固めた魔除けの香草にマッチで火を点けた。
くゆる薄桃色の煙が片方だけ開けられた窓から流れ込んでくる空気の動きに乗って狭い部屋を流れると、爽やかな匂いが辺りに漂った。
「まだ…目を覚まさないんだね」
ふっと息を吹きかけてマッチの火を消したアゲハは、傍らのベッドで眠るその顔を眺めた。
その哀しげな呟きに、橋聖は組んだ膝の上に置いた書物を音を立てて閉じる。
「お前の所為じゃないと、俺は言ったと思うけど?」
「でも…ッ」
「アゲハ」
振り返ったアゲハの、涙の浮かんだ黒い瞳に、橋聖は言葉を遮った。伸ばされた手が彼女の腕を掴む。
あれから二日が過ぎた。度重なる地震による街の被害は比較的小規模なものであったが、震源地の近くにある銀鉱山は大打撃を受けた。
掘り進められていた坑道の幾つかは落石によって完全に行く手を阻まれ、何よりも鉱山働者達を落胆させたのは、源命水の源であった地底湖が天井の落下によって完全に消失した事だった。
迷信深い者は言う。神の怒りに触れたのだと。
まるでそれを証明するかのように、毎日のように訪れていた地震は、源命水を失ってからぴたりと止んだ。
「取り戻せない時間を悔やむ奴を、俺は好きじゃない」