第一話 起の舞・2
そんな事はどうでもいいとでも言いたげに、橋聖は踵を返して歩き出した。煉瓦を踏み締める硬い音が狭い路地裏に反響し、土地勘のない者はすぐに方向感覚を失ったことだろう。硬質な足音だけに満たされた世界は、時すらも止まっているような錯覚を与える。
「あ―――…くそ!やっぱ、ほっときゃよかったんだ。ちょっかい出されているのが美人じゃなきゃ、助けなかったのに」
いや、普通に男がナンパするといったら美人だろうと、そんな真っ当な突っ込みを入れてくれる相手は、生憎いない。
複雑に入り組んだ路地裏を慣れた足取りで歩いていた橋聖は、やがて表通りに出た。瞬間、静寂に満たされていた自らの世界に音が戻ってくる。
「しかも、せっかく助けてやったってのに、一人でさっさと逃げるしさ。その所為で、俺の逃げる間がなくなっちまったじゃねーか」
つうか、助けておいて逃げる事考えるなよ、と突っ込む相手は、やはりいないわけで。
ぶつぶつと独り言にしては些か大きい愚痴を零す橋聖に通行人から怪訝そうな視線が投げかけられているのだが、当の本人は他者の視線など興味がないのか、気付いていない様子で人混みを歩いていく。
「だいだい、俺はタダ働きは…」
「橋聖!」
雑踏の賑わいを縫って届いた呼び声に、橋聖は足を止める。それと同時に、放っておいたらいつまでも続いていたであろう愚痴も途切れた。
道の真ん中で立ち止まるのはどう考えてもはた迷惑極まりなく、事実行き交う人々の無言の非難を一身に浴びているのだが、完全無視で己を呼んだ声の相手を捜して赤の双眸が彷徨った。
「こっちこっち!」
やがて、燃え盛る炎のような瞳に浮き沈みする一本の手が入る。耳に入ってくる声の高さからして自分を呼んだ相手が誰なのかを既に予測済みの橋聖は、人混みに消えたり現れたりする手の原因に思い当たって笑みを洩らした。往来する人々を掻き分けて進めば、視界があけてずらりと並ぶ露店を視認する。
「よう、アゲハ。景気はいいか?」
所狭しと並んだ店の一つ、薬草を扱っている店の前でぴょんぴょん飛び跳ねていた少女は、そばかすの散った顔に満面の笑みを浮かべた。