第一章 転の舞・5
「やれやれ…。これでは、観光もままならない」
腕を組み、盛大に溜め息をついた凪からは緊張というものが見受けられない。黒装束に身を包んだ十二の刺客達は既に己の得物の切っ先をこちらに向けているというのに、彼女は決して焦る気配を見せなかった。
湖底の瞳がゆっくりと影達を眺め遣り、しばし、互いに相手の出方を窺うような沈黙が落ちる。が、それも刹那の間。脆い均衡を崩したのは、果たして何であったのか。
微かに砂利を踏み締める音が響き、頭上を仰ぎ見た深緑の双眸が陽光を弾く刃の眩しさに細められる。振り下ろされた短剣はしかし、標的を捕らえることは叶わなかった。
風もないのに波紋を刻んだ池から、突如として水の龍が出現する。それはまるで何かの意志に導かれるかのように空を切り、十二の影の動きを封じた。
「正当防衛。だから、謝罪はしませんよ」
自らの体に巻き付く水龍に為す術もない刺客達へと、凪は穏やかな微笑みを向ける。組んでいた腕をほどき、軽く掲げられた右手が握り締められた。
呻き声一つ上げることも叶わず、巻き付かれた水龍の圧迫により潰されるその体躯。鮮血は水に溶けて周囲に飛び散る事はなく、水龍が霧散すれば躯が地に落ちる鈍い音がする。既にそれが何であったのかわからない、ただの肉塊へと姿を変えたそれから流れ出す大量の血が、所々に出来た水溜りを赤く染め上げた。
『その力に頼らなくとも、お前の力量ならば腰の短剣一つで殺せただろうに』
「返り血を浴びたくなかったものだから」
忘れ物を取りに行き、血に染まった姿で戻ったら怪しまれるだろうと、無造作に散らばる肉の塊を避けるようにして凪は街へと足を向ける。
『けれど、その力は…』
「この程度なら大丈夫ですよ、結良。体に影響はない」
諌めの言葉を遮れば、不貞腐れたように左肩に結良は丸くなってしまった。揺れる二本の尻尾が頬を叩き、無言の抗議に凪は苦笑を浮かべる。
本当に大丈夫だと、細い指が柔らかい毛を撫でる。それでも結良の機嫌は直る気配はなく、諦観した凪は時の流れに解決を委ねた。




