第一章 承の舞・8
部屋の扉を控え目に叩く音が、橋聖を過去から今へと引き戻した。急かすように先程より些か強く戸を叩く音に、椅子から立ち上がった橋聖は扉を開けてやる。
「あぁ、なんだい。無事だったんだね、橋聖」
「女将も。怪我がなくて安心した」
いつもは笑顔を絶やさないその顔に浮かべていた不安を安堵へと換えた女将へと、橋聖も労いの言葉を掛ける。
「おや、起きたんだね」
扉の隙間から見えた室内のベッドで体を起こす凪を視界に入れた女将は、彼を押しのけるようにして入ってきた。
「橋聖が怪我したあんたを連れ帰ってきた時は驚いたけど」
女将の足は凪の前を通り過ぎても止まらなかった。先程の地震によって床に落ちて割れた花瓶を慣れた手付きで片付けながら、この宿屋の主は言葉を続ける。
「意識が戻ってよかったよ。何せ、あたしの香水をおじゃんにしてまで橋聖が追いかけた娘だからね」
女将の口から香水という単語を聞いた橋聖は、しまったという顔をした。あまり記憶にないが、そういえば、宿屋の入り口で女将愛用の香水の入った紙袋を落とした覚えがある。
「女よりも三度の飯が大事な橋聖が昼食もろくに摂らないで傍にいた理由が分かったよ。確かに、同姓のあたしから見てもあんたは美人だ」
「女将!」
床に散乱した花瓶の欠片を水を引き取った布にくるみ、ベッドの傍らに立って凪の顔をまじまじと見つめた女将の素直な感想に、橋聖は非難の声を上げる。しかしそんな彼など綺麗に無視した女将と、彼女の言葉の意味を酌まなかった凪との間で会話は進んでしまう。
「では、貴女が私の手当てを」
橋聖との遣り取りで自らの身に刻まれた裂傷の手当てをした相手が誰なのかを知った凪は、深々と頭を下げた。
「有難うございます。ご心配をおかけしました」
「礼儀を知っている子は嫌いじゃないよ」
快活とした女将の声は些か大きく部屋に響いたが、耳に心地よい。