第6話 ロイヤルセレスティアホテル
高級で、エレガントな雰囲気のレストラン。
シャンデリアの光が柔らかくテーブルを照らし、低く流れるピアノの旋律が空気を包んでいた。
磨き上げられたグラスや銀器の煌めきが、否応なく「特別感」を演出している。
「休日に、わざわざお呼び立ててしまいすみません」
丸いテーブルの正面で、両膝をついて手を組んでいる司がにこりと微笑む。
ゆりは落ち着かない気持ちで背筋を張り、固い表情を浮かべていた。
こういう場と、桐生司相手にふさわしい服装なんて、ゆりにわからず結局リクルートスーツ。
きっちりしすぎて逆に浮いている気がして、居心地が悪い。
「…いえ」
呟くように返す声は、自然と小さくなった。
慣れない場の緊張と、目の前に座る圧倒的な権力者の存在感に、胸の鼓動は落ち着いてくれなかった。
「…ワインはお好きですか?ここのはとても上質ですよ」
ワインリストを片手に、余裕の笑みを浮かべる司。
だが返ってきたのは、短く、はっきりとした声だった。
「いいえ、お水で」
その瞬間、ページをめくる司の手がピタリと止まった。
煌びやかな赤や金の文字で並ぶ銘柄の数々が、急に色褪せて見える。
「……水、ですか」
冷たく、透明で、余計なものを一切含まない水。
それは、真っ直ぐな瞳で自分を押し返し、キャストとしての誇りをぶつけてきた彼女の姿そのものに思えた。
虚飾を拒み、冷たく、どこまでも純粋で、混じり気のない光。
この場に不釣り合いなほど正直で、強く、他人の期待に合わせようとしない。
誰もが「ワイン」を頼むのが当然の場で、迷いなく「水で」と言う。
そのアウェイな精神の在り方が、司の目にはたまらなく眩しく映った。
司の胸に、ふっと熱いものが広がる。
ワインの芳醇な香りよりも、その一言の方がずっと彼を酔わせる。
「……あなたにピッタリですね」
冷静を装って口にしたその言葉。
けれど、心の奥では抑えようのないワクワクが静かに脈打っていた。
やがて、テーブルに二つのワイングラスが並ぶ。
スタッフが深紅のワインボトルを傾けると、司の前に置かれたワイングラスの中へ、艶やかな液体が静かに流れ込んでいった。
深いルビーのような色合いが、照明を受けて揺らめき、芳醇な香りがふわりと漂う。
ゆりの前には澄んだガラス瓶が運ばれてきた。
スタッフが恭しく栓をを抜くと、そこから透明な水がゆりのグラスへと注がれていく。
きらめく水面は清流のように澄み渡り、赤ワインの妖艶な輝きとは正反対だった。
「乾杯しましょう」
司がグラスを軽く掲げる。
その手の中の赤は、落ち着いた色気を帯びながらも強烈な存在感を放っていた。
「何にですか」
「そうですね……和解に」
その一言に、張り詰めていたゆりの胸は、わずかに緩んだ気がした。
「……乾杯」
ゆりはグラスを小さく掲げ、ミネラルウォーターを口に含む。
冷たい液体が喉を滑り落ちていき、ざわめいていた心を少しだけ静めた。
司はその様子をじっと眺めながら、自らの赤ワインをゆったりと傾ける。
澄みきった水と、濃厚な赤。
ゆりと司を象徴するかのような正反対の二つが、同じテーブルの上で並んでいることに、奇妙な高揚感を覚えずにはいられなかった。
食事は静かに進んでいた。
煌びやかな皿の上で芸術のように盛り付けられた料理は次々と運ばれるものの、フォークやナイフの音はやけに大きく響き、二人の間を包む沈黙はますます濃くなっていく。
この男は何を考えているのか、何を企んでいるのか。
この沈黙の中に居続けるよりも、その答えを知りたくて、胸の奥に膨らむ疑問がゆりを核心に触れさせる。
「本日はなぜお呼びになられたのですか」
真っ直ぐに司を射抜く視線。
揺るぎない強さの裏には、震える心が隠れている。
司はナイフの動きを止め、わずかに口角を上げた。
「……あなたはすぐにそうやって用件を急かすんですね」
「それは…気になるので」
答えた声は冷静を装っていたが、張りつめた糸のようにか細く震えていた。
「お詫びですよ。先日、怒らせてしまったようなので」
「お詫びなら結構です。私も失礼を働きましたので」
返す言葉は、さらに冷たさを増していた。
その氷のような声色を耳にした瞬間、司の胸が小さく高鳴る。
拒絶しながら、全身から熱が滲み出ている。
グラスの赤ワインを口に含みながら、司はその冷たさの奥に潜む火種を見逃すまいと、鋭い視線をゆりに向けて言った。
「ではなぜ、あなたは今日来られたんですか?」
司の低い声が、赤ワインの色と同じくらい濃くゆりに絡みついた。
ピタリと、ゆりの手に握られていたフォークが止まる。
「…………断っても………私の立場は平気だったのでしょうか…」
震える声。
胸の奥に渦巻いていた疑問を、恐る恐る、それでも勇気を振り絞って本音を吐き出した。
「平気じゃありませんね」
即答。
絞り出したゆりの勇気に容赦なく突き刺さる言葉。
その瞬間、テーブル越しに「立場」という見えない壁が高く聳え立ったように思えた。
「……抗えなかったんですね」
ゆりの視線が揺れる。
それは理解していたこと。
けれど司から改めて口にされると、まるで逃げ場を塞がれるようで。
司は一切目を逸らさず、彼女の沈黙に追い討ちをかけた。
その瞳には冷徹な理性と、どこか愉しむような光が同居している。
「それが権力だよ、ゆりさん」
追い詰めるような司の言葉に、ゆりの瞳が鋭さを増す。
司をキッと突き刺す視線。
その瞬間、司の胸がドクンと鳴った。
喉奥に熱が走る。
彼女の睨みは拒絶のはずなのに、司にとっては抗えない魅力の針だった。
「…………言ってる事、最低なのわかってます?」
静かに。
けれど深く怒りを滲ませて。
その声は刃のように冷たい。
あぁ…これだ
この目だ
もっとだ…
司の心拍数は上がり、頬の奥がわずかに火照っていく。
「最低か……」
唇に冷笑を浮かべながらも、声は少しだけ熱を帯びる。
「しかし、君の代わりはいくらでもいる、という事は紛れもない事実だ」
怒りがじわじわと、ゆりの胸を満たしていく。
全身を熱が駆け巡り、視界の端が赤く染まるような感覚。
「これ以上そんな話を続けるのでしたら時間の無駄です。…私が今日ここに来たことも無駄です!」
ゆりの声は低く震え、しかし鋭さを帯びて会場の空気を切り裂く。
対する司は、その強さへ逆に心を燃やした。
怒りを浴びているはずなのに昂ぶる。
その反応こそが欲しかったのだ。
「それでも君は来た。結局、君たち底辺は権力には逆らえない」
ゆりは深く息を吸い、冷静さを失うまいと必死に自分を繋ぎ止めていた。
司の中で興奮が膨張する。
あと少しだ──。
目の前の女を苛立たせ、怒らせ、そしてその奥の感情まで引きずり出そうとするように。
司は畳みかけるように続けた。
「巨大組織の中では履いて捨てるだけのコマだ。いくら必死でもがこうと、客に誠実で、仕事に真面目だろうと、権力に逆らえば何もかもが全ておしま──」
バシャッッ!!
冷たく透き通った水が、ワイングラスから弧を描き、司の顔とスーツに勢いよく降りかかる。
レストランの柔らかな照明を受けて、水滴が宝石のように散り、テーブルクロスや床に落ちるたび、小さな音を立てた。
ゆりの頭の中でプツンと何かが切れた音がした。
胸の奥で燃え盛っていた怒りが、とうとう制御不能になる。
血管が切れたように、ゆりの内側で抑えきれなかった衝動が弾けたのだ。
震える手に残るのは、空になったワイングラス。
透明な滴がゆりの指先を伝って落ちる。
司は濡れた前髪を揺らしながら瞬きをした。
そして静かに唇が──吊り上がった。
「黙って聞いてりゃ上司気取って好き勝手言いやがって…偉い人ってこんなに軽率なの?自分がどれだけ滑稽かわかってんの!?」
思わず声を荒げた。
その一言一言に、胸の奥からこみ上げる怒りが混じる。
だが水を浴びせられ、罵倒されているはずの司は違った。
ゆりを射抜く視線は、怒りでも憎しみでもない。
むしろ酔うようにうっとりと、陶酔すら滲ませていた。
「動くな」
突然低い声がゆりの背後から響いた。
ゆりの両サイドを、屈強な男が挟み込む。
首元に冷たい硬質の感触。
警棒が突きつけられていた。
続けて吐き出そうとしていた司への言葉が咄嗟に詰まる。
制服でもなく、見るからに私服だが、眼差しと動きには隙がない。
「……私服の…セキュリティ…?」
声に出した瞬間、全身に血の気が引いた。
常時こんな護衛を従えている?
自分が水を浴びせたのはただの上司なんかじゃない。
この人は、ほんの些細な行動ひとつで、平凡な自分の未来をどうとでもできる「世界の上の住人」だ。
遅れて押し寄せる恐怖が、怒りで熱くなった体を冷たく覆い尽くしていく。
「桐生様、このままつまみ出します」
屈強な男たちの手が、ゆりの両腕を容赦なく掴んだ。
乱暴に拘束され、思わず身を捩る。
「触れるな、下がれ」
司の声は、驚くほど冷めていた。
熱の欠片もない、氷のようなトーン。
胸を高鳴らせていた司は、その昂ぶりを乱された不機嫌を隠しもせず、その言葉ひとつで、男たちは反射的に手を離し、後方へと下がる。
「さぁ…困りましたねぇ、服が濡れてしまいました。」
びしょ濡れになったジャケットの襟を、両手で軽く引っ張る。
不敵な笑みを浮かべながら、濡れた布地をわざとらしく強調してみせた。
「一旦部屋に上がって、乾かしにいかないと」
クイ、と指先で眼鏡の位置を正す。
その仕草すら、ゆりを値踏みするようにいやらしく。
光を反射したレンズの奥で、猛獣のような視線がゆりを絡め取って離さない。
「当然、あなたが濡らしたのですから、あなたが責任を持って乾かすんですよ?ゆりさん…」
司の声は柔らかく笑んでいるのにその裏には絶対の圧があった。
逃げ道を塞ぐ檻のよう。
部屋に上がったら、終わりだ。
直感が全力で警鐘を鳴らす。
屈強なセキュリティに警棒を突きつけられた瞬間に、ゆりは見てしまった。
これはただの権力じゃない。
雲の上の、想像を超えた“絶大な力”。
現実を目の当たりにしてしまった。
背筋を這い上がる恐怖に、唇が勝手に動き、観念した声が漏れた。
「……わかりました」
断ったら、人生が終わる。
そんな確信が、胸の奥に突き刺さっていた。
司は、びしょ濡れになったジャケットの襟を軽く整えると、何事もなかったかのように椅子を後ろへ引き、音ひとつ立てずに立ち上がった。
丸テーブルを離れると、一度も視線を振り返らずに、そのまま真っ直ぐに出口へ。
ゆりがついてくるに決まっていると確信しているかのように、背筋を伸ばし、自信に満ちた足取りでレストランを後にした。
ゆりはその背中に、抗う間もなく吸い寄せられるようについて行くしかなかった。
やがてスイートルームの扉が開き、重厚な静けさが二人を包む。
高級ホテル特有の重苦しい空気。
閉まるドアの音が、逃げ道を塞ぐ合図に聞こえた。
司はゆっくりとジャケットのボタンに指をかける。
ひとつ、またひとつ。
ボタンを外す動作は不自然なほどに緩慢で、布が擦れる音をわざと響かせるかのようだった。
その背中からは、見せつけているという確信めいた余裕が漂っている。
脱ぎ落とされたジャケットが、無言のままゆりの方へ差し出される。
受け取らざるを得ない。
目を逸らしながら両手で受け取り、ハンガーに掛ける。
金属フックが枠に触れて「カチリ」と鳴る音が、緊張で張り詰めた空気をさらに強調した。
今度は、ワイシャツ。
司はわざと、ゆりの視界に入る角度でボタンを外していく。
胸元が、肩が、次第に露わになっていく。
再び、伸ばされた衣。
ゆりは拒むことも出来ず、下を向いたまま受け取り、また掛ける。
ドライヤーで乾かしやすいように、壁際のハンガーラックへ腕を伸ばしてジャケットとワイシャツを掛けたその直後──
背後から不意に、強い腕がまわった。
逃げ場を塞がれるように無言で抱きしめられる。
そこに込められた支配の意図は、言葉以上に鮮明だった。
「服を乾かすんじゃなかったですか」
冷たく吐き出したゆりの声は、司の神経を擽る。
「………あなたに触れたいのです」
低く甘やかな囁きが耳元を撫でる。
背中越しに伝わる体温と呼吸が、肌に絡みつくようだった。
(いくら必死でもがこうと、客に誠実で、仕事に真面目だろうと、権力に逆らえば何もかもが全て──)
先ほど叩きつけられた言葉が、無情に蘇る。
悔しい、悔しい。
無力な自分に、胸の奥で燃え上がる苛立ちを必死に押し殺す。
「……どうしたんですか?もうセキュリティはいません…怒ってもいいですよ」
囁きながら、司はゆりの髪に顔を埋める。
髪の香りを吸い込み、荒い吐息をゆりの首筋へと零す。
プッツン──。
胸の奥で、今まで必死に抑え込んできた感情が一気に噴き出す。
恐怖も、無力感も、悔しさも、すべてが一瞬で混ざり合い、熱となって弾けた。
震えるように芽生えたのは、逆らえないという諦めではなかった。
「権力に屈してしまう自分」への嫌悪感が、逆に力へと変わった。
私は私のやり方で、全てを叩き潰してやる。
どうせ抗えないのなら
私は──
権力には屈しない。
グイッ!!!
その瞬間、ゆりの両手は司の腕を掴んでいた。
自分でも驚くほどの強い力が宿っていた。
抵抗する間もなく、司の身体はフカフカの大きなソファへ乱暴に放り投げられる。
バサッ、と音を立ててソファに沈んだ司の身体に、迷いなくゆりが覆いかぶさった。
司の顔のすぐ横で片手をソファの背に強くつき、もう片方で髪を耳にかける。
視線は、すぐ下にある男を冷酷に射抜いていた。
挑発でも甘さでもない。
氷のように澄んだ、容赦ない眼差し。
「……私に触れたいの?」
その声音には、恐れも戸惑いも一切なかった。
ただ冷ややかで、強い。
その乱暴なゆりの行動に、司の背筋を、稲妻のような戦慄が駆け抜ける。
これまで幾度となく女を抱いてきたはずなのに、こんな感覚は一度もなかった。
ゾクゾクゾクゾクッッッッ──。
自分の奥底をかき乱すような昂ぶりに、司は声にならない吐息を漏らした。
「…あぁ…ふ、触れた…い……です」
司の声は、掠れて震えていた。
権力を纏う男の言葉とは思えない。
「そう…それなら……」
ゆりはゆっくりと顔を近づけ、司の耳元へと唇を寄せた。
「ちゃんとお願いしないと……」
低く落とされた声が、すぐ耳元で響いた。
逃げ場のない距離に、司の呼吸がわずかに乱れる。
先ほどまでの冷ややかな支配の声色から一転、あまりにも甘美な響きに、司の心臓は爆発しそうなほど跳ねた。
「…あぁ…っ!」
吐息が触れた耳から全身をくすぐり抜けていく感覚に、思わず司の口から甘い声が零れる。
理性の壁は、ひとつ、またひとつと剥がれ落ちていく。
屈辱ではない。
むしろ陶酔に近い。
男として、上司として、すべての立場を失ってなお、ただひとりの女の囁きに溶かされていく。
ゆりは耳元からゆっくりと離れ、ソファに突き立てている手とは反対の手で、わざと滑らせるように司の頭から頬、そして顎へ──
まるで子供をあやすかのような甘すぎる撫で方でなぞり、掌で司の顎を優しく支えた。
「……ねぇ…ちゃんとお願いして…?」
伏せた睫毛の下から落とされる視線は冷たさと甘さをない交ぜにし、完全に司の自制心を溶かしていく。
その瞬間、彼の中で最後の防波堤が崩れた。
「……っはぁ…はぁ…お、お願い…します……」
声は掠れ、言葉の端々が震えている。
権力の鎧を纏ってきた男が、ひとりの女に哀願している。
その屈辱すら、今の司にとっては快感でしかなかった。
荒い呼吸の合間に、搾り出すように漏れた司の声。
その必死さに、ゆりはフッと笑った。
ゆっくりと顔を近づけ、司の顔に自分の影を落とす。
唇が触れる──寸前で止まった。
あと数ミリ、その距離を埋めるだけで触れられるのに、触れさせない。
「…なにを…お願い…?」
熱を帯びた吐息が司の唇にかかる。
欲しくて、欲しくて仕方ないのに、与えられない。
焦燥が全身を駆け巡り、司は理性の残滓を振り切るようにわずかに顎を持ち上げた。
「はっ…はぁ…ゆり…さんに……はぁ…触れる事を…許して……く…ださ…い……」
必死に懇願しながら、目の前のゆりの唇を追いかける司。
その顔は、威厳ある幹部でも冷徹な権力者でもない。
ただ、目の前の女に許しを乞う、一人の弱い男だった。
ゆりはその惨めで哀れな姿に、胸の奥を満たす征服感を覚える。
権力に押さえつけられた自分が、今こうして逆に立場を覆している。
なんて爽快なんだろう。
「よくできましたっ!」
甘やかすように、しかし支配する声音で言い放つ。
次の瞬間、ためらいを断ち切るように距離が詰まり、視界がふさがれた。
そちらが権力を振り翳して支配しようとするならば。
こちらは“女”を振り翳して支配してやる。
貞操心など、あの日にとっくに壊された。
権力という名の暴力に強制服従させられた。
私は
私の方法で。
私の意思とこの身体で。
私の全てを壊した男達に必ず復讐してやる。
どんな手を使ってでも。
全て、私の思い通りにしてやる。
私は絶対に、権力に屈しない。
二度とひれ伏さない。
それが、私のプライドを守る唯一の術だから。




