第58話 狂気の魔法
日本とロンドン──。
その九時間もの時差は、まるで二人を引き裂くために存在しているかのようだった。
どちらかのオフタイムは、もう一方の稼働時間。
自分が起きている時間帯、相手は睡眠中。
ゆっくりと会話を交わせる時間など、ほとんどなかった。
仕事の合間に、ほんの数十秒だけ交わす挨拶程度の短い電話。
LINEの既読がつくまで、何時間も空くこともある。
それでも、たった一言でも返ってくるそのメッセージが、心の支えだった。
日本では、職場も自宅もいつも一緒だった。
同じ空間にいて、同じ時間を過ごし、眠るとき以外はほとんど片時も離れずにいた二人。
休日は、朝から晩まで一日中ベッタリ寄り添い、笑い合って過ごした。
長い間、そんな日々が当たり前だったからこそ、一週間という、たったそれだけの距離が、永遠のように感じられた。
それは、愛し合う二人にとってあまりにも残酷で、過酷な時間だった。
一人きりの、この広大な邸宅は。
あまりにも広くて、あまりにも静かだった。
どんなに高価な調度品が並んでいても、今夜のゆりには、ただの冷たい影にしか見えなかった。
庶民育ちの私には、蓮がいないこの家が大きすぎて、息が詰まりそう。
まるでこの屋敷そのものが、蓮がいない私を拒んでいるように感じる程、居心地が悪い。
夜の静けさが、胸に重くのしかかる。
カーテンの隙間から漏れた月明かりが、白いシーツの上でゆらめいている。
その光の中で、ゆりはひとり、膝を抱えてベッドにうずくまっていた。
ゆりの頬を、一筋の涙が伝い落ちる。
過去は色んな人に恋をしてきた。
でも、この広い世界中で、たった一人のあなたと出逢って、たった一人のあなたと恋に落ちた。
沢山の回り道をしてきたけれど、何度も壁にぶつかって来たけれど。
それでも、たった一人のあなたと人生を共に歩んでいくと決めたの。
もしもそれが、運命だったなら。
あなたが、私の運命の人ならば。
この苦しみは、いつかはきっと報われるのかな。
この先の人生、五十年先も六十年先も。
何があってもあなたの側にいたい。
あなたと笑って、あなたと一緒に、歳を重ねたい。
だけどもしも、五十年先も六十年先も。
ずっとこの苦しみが、永遠に続いていくのだとしたら?
いくらお互いを想っても。
どれだけ好きでいても。
どれほど心で抱きしめ合っても。
もう二度と、決して繋がる事が出来ないとしたら。
抑えきれない気持ちは、行き場を失い。
私は一生このまま、誰とも一度もセックスをする事はなく。
セカンドバージンのまま、この生涯を終えていく。
でも、そんな未来は、自分の中でどうしても現実味を帯びてくれない。
「……ぅ……ぐす……っ…ふ….う…ひっく……」
蓮が旅立つ前夜。
蓮が、二度と自分を抱いてはくれないと悟った夜。
そして、蓮を傷つけてしまった夜。
胸が張り裂けそうだった。
痛くて、苦しくて、辛くて、悲しくて、気を失いそうな程、止めどなく涙が溢れた。
私は蓮に、こんな身体にさせられた。
だけど蓮を、そんな身体にさせたのは……
誰でもない私だ。
私があの時、あんなところで転ばなければ。
私があの時、恐怖で足がすくんで動けなくならなければ。
私があの時、素早く蓮の手を引いて走り出せていれば。
時計は、戻ることなんて出来ない。
あなたを好きでいればいる程苦しくて。
それでも私は、絶対にあなたと離れたくなくて。
もしもこの先、私が壊れてしまい、あなたまで壊してしまったら。
あなたの心が、私から離れてしまい、私の心も、あなたを見失ってしまったら。
「…ひっく…っはぁ….っうぅ…っ蓮…っぐす…っ」
嗚咽を抑えきれず、枕を濡らしながら、ゆりは震える手でスマホへと手を伸ばした。
そんな結末になるくらいなら──いっそ。
その瞬間、蓮の熱を求め続けていたゆりの心は、限界の境を越え、壊れた。
「…ふ…っひっく…….蓮……….愛してるよ……」
まるで自分へ言い聞かせるように。
蓮への愛を囁きながら、震える指先は…………
「桐生司」への発信ボタンを押した。
3回目のコール音に差しかかったところで、その音を断ち切るように、いつもの穏やかで優しい声が響いた。
《……はい。》
その一言を聞いた瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
張り詰めていた糸がぷつりと切れて、喉の嗚咽が込み上げた。
「……ひっく…っはぁ…うっ…うぅ…っぐす……」
電話口の向こうで、司は息を呑む。
彼女が泣いていると悟るのに、時間はかからなかった。
《……大丈夫ですか?早瀬さん?》
静かな声。
けれどその声の奥には、確かに焦りが滲んでいた。
「…ふ….っう…ひっく…桐生さ…っはぁ…っひっく……」
言葉にならない。
声にならない思いが、嗚咽と一緒に零れ落ちていく。
喋るのもままならない程、彼女がこんなに号泣するほどの事とは、一体何が起きているのだろうか。
何が彼女をこんなに泣かせている?
司の胸がざわめいた。
理性の奥で警鐘が鳴る。
《……何が……あったんですか?》
心配そうに問いかける声。
けれど、優しさがそのまま刃のように胸を刺した。
ゆりは、息を詰まらせながらも、
必死に声を絞り出した。
「…ひっく……桐生さんに…………っ会いたいです…………」
一瞬、司の思考は停止した。
短く、震えるゆりの言葉。
そのたった一文が、司の中で、すべての理性を揺さぶった。
《………………………後悔は……しませんか……?》
怖気づく最後の理性が、喉の奥から漏れた。
それは、願いでもあり、祈りでもあった。
「……する…かもしれません……ぐす…それでも……ひっく……会いたいです……桐生さん……どこですか……誰かと…ひっく…一緒ですか……」
嗚咽混じりの声。
震えながら、それでも真っ直ぐに縋りつこうとするその言葉に、拒む事など到底出来るはずもなかった
その響きの中に「今すぐ会いたい」という切実な衝動が滲んでいた。
《…西町の“Moonlight”というバーです。……今はもう一人です。》
短い沈黙。
電話の向こうからは、彼女の鼻を啜る音と、しゃくり上げる息だけが聞こえる。
迷っているわけではない。
この電話を掛けた時点で、彼女の決意はとっくに固まっていたはずだ。
司は悟る。
彼女が今、自分に伝えようとしていることが何なのかを。
彼女は、言葉を探している。
どうすれば、この衝動を許してもらえるか。
ならば、それを先に差し出すのが、大人の役目だ。
彼女が傷つかないように。
彼女が歩みやすいように。
それでいて、逃げ道を残してあげられるように。
《……人目が気になるようでしたら…部屋を取ります。》
短く、落ち着いた声だった。
単刀直入でありながら、どこまでもスマート。
直接的な意味を、丁寧に包み込みながらも一切の回りくどさがない。
まさに司らしい百点満点の言葉だった。
ゆりの胸が、大きく鳴った。
その響きに呼応するように、心の奥で何かが決壊した。
「……お願いします。」
静かに、けれど確かに。
決意のこもった声が漏れた。
その瞬間、つい先ほどまで凍えるように冷たかった全身が、一気に熱を帯びて燃え上がるのを感じた。
《部屋が決まりましたら、改めて連絡します。一緒には入れませんので、こちらで先にチェックインを済ませて……室内で待っています。》
一言ひとことを確かめるように。
司の声は、穏やかで、どこまでも理性的だった。
通話が切れると、ゆりはしばらくスマホを見つめ、そしてベッドから静かに立ち上がった。
司に指定されたホテルへ向かう道中、ゆりはコンビニへ立ち寄った。
何が良いのかも分からず、ただ“司に見合うもの”を、と商品が並ぶの棚の中から、一番値段の高いものを、パッと手に取った。
そしてパッケージもろくに確かめずそのまま箱を持ってレジへ向かった。
無人のセルフレジが普及している時代に生まれてよかった──
こんな事で、そんなことを思う自分が情けなくて、思わず呆れる。
病院は、もう長いこと通っていない。
あの“事件”のあと、司と距離を置いてからずっと。
今夜は、自分の意思で、彼の元へ行く。
それは静かな、けれど揺るぎない決意だった。
ゆりは、その覚悟を鞄の奥にそっとしまうと、外の冷たい夜風の中へと歩き出した。
ホテルのエントランスに足を踏み入れた瞬間、全身に緊張が走った。
それでも、ゆりは立ち止まらない。
風を切るようにヒールの音を響かせ、まっすぐエレベーターへと向かう。
余計なことは考えない。
迷ってしまうから。
ここまで来たのなら、もう引き返したくはない。
蓮と、この先も一緒に生きていきたいから。
蓮を、私の狂気から守りたいから。
エレベーターが最上階へ向けて上昇するたびに、
ゆりの体温も、ぐんぐんと上がっていくようだった。
電話越しに慰め合うことしか出来なかった日々。
触れられない距離で求め合った、その熱が今、再び胸の奥で、鮮やかに蘇る。
下半身から競り上がってくるような熱に、ゆりの胸は激しく高鳴り、呼吸が浅くなっていく。
やがて、エレベーターが静かに止まった。
スイートルームのプレートが光る扉の前に立つと、
心臓が一際大きく脈打った。
──さぁ。
司に鎮めてもらおうか。
ゆりは、迷うことなく部屋のチャイムを押した。
ピンポン──。
短い電子音が、静まり返ったホテルの廊下に溶けていく。
数秒の沈黙のあと、ガチャリと音を立てて、重厚な扉が静かに開いた。
「…………」
目の前に、こんなに近くで司が立っている。
それだけでもう我慢が出来なくなりそうだ。
ほんの僅かに眉を寄せたまま、司を見上げるゆり。
潤んだ上目遣いの瞳が、まっすぐに司を射抜く。
司は、思わず息を呑んだ。
一瞬、すべての音が消えたように感じる。
二人の切ない視線が重なった、その短い一拍。
張り詰めた空気の中で、互いの体温だけが確かに伝わる。
そして司は表情を変えず、冷静を装ったまま一歩下がり身体を傾け、扉を押さえる手を横へと伸ばした。
ゆりは、部屋へ足を踏み入れると、そのまま真っ直ぐベッドルームへ向かった。
鞄から先ほど購入した箱を取り出し、ボスッとベッドに投げ置く。
続けざまに鞄をソファへ放り投げ、ロングコートのボタンを外して肩から滑らせる。
そのままゆりはセーターの裾に手を掛けると一気に捲り上げ、頭を抜いて投げ捨てる。
ゆりが鞄から投げた箱と、その一連の動きに、司は息を呑んだ。
無言で、まるで何かを決意した人間のように、彼女は淡々と服を脱ぎ始めていた。
「…早瀬さん、何があったんですか?」
下着とキャミソール一枚になったところで背後から司の声が響くと、ゆりの動きがピタリと止まる。
振り返ったその姿は、電話口で壊れそうなほど泣いていた面影は微塵もなく、決意と壊れた激情の境目にいた。
「……司。早くしようよ」
その瞳は、焦点を失い、赤い光を宿していた。
まるで何かに取り憑かれたように、狂気の魔法にかけられた催眠状態のようで、理性の輪郭が静かに溶けていく。
理性を越えた、夥しいほどの欲望。
それは、哀れなまでに──愛の欠片を探している瞳だった。
今、自分の目の前に居るのは“早瀬さん”ではない。
「……ゆり……さん……………」
その呼び名が司の喉から溶け出ると、瞬く間に全身を服従心が覆い尽くした。
次の瞬間、ゆりは躊躇なく司の腕を掴み、強く引いた。
反射的に身体が揺れ、司はベッドの端に倒れ込む。
その勢いのまま、ゆりが覆いかぶさるように近づいた。
息が触れ合うほどの距離で、司は彼女の瞳を見つめる。
そこには、悲しみと焦燥、そして、助けを求めるような微かな光が混ざっていた。
ゆりは、じっと熱を帯びた視線で司を数秒間見下ろすと、その表情がふと、欲望に崩れ堕ちるように、緩やかに溶けていく。
そして、まるで吸い寄せられるように司の唇へと堕ちた。
彼とのキスは、
彼女とのキスは、
一体、何年ぶりだろう。
それを考える余裕さえも与えられないほどに、二人の唇はすぐに夢中で重ね合い、画面越しでもない、想像の中でもない、現実の感触とが脳を痺れさせる。
ただただ、互いを求めるように、溺れるように、自分が壊れていく音が二人の心に響いていた。
ゆりの指先が司の胸元に触れかけたその瞬間、司も同時に迷いなく動いた。
それでも、二人の唇は一瞬たりとも離れない。
司はすぐにゆりの背中へと腕を回す。
引き寄せた瞬間──
重なり合った体温が、言葉の代わりにすべてを語っていた。
近すぎる距離。
逃げ場のない密着。
それだけで、理性が削られていくのが分かる。
重ね合う唇と、抑えきれない昂ぶりに、
熱い吐息が室内に満ちていき、空気の密度さえ変わっていくようだった。
こんなふうに、彼女をこの腕の中で再び抱きしめられる日が訪れるなんて。
この柔らかな唇を。
もう一度、こうして感じられる日が来るなんて。
彼女は他の男のものになった。
それはかつて、そんな瞬間が訪れる事に怯えて、自分自身が正気を失い狂ってしまった程、もっとも恐れていた未来だった。
それでも蓮なら良いと思った。
蓮に大人しく彼女を差し出す事が、自分が唯一蓮にしてやれる償いだったから。
蓮ならば、彼女はきっと幸せになれると信じたから。
それなのに。
何故この人は、こんなにも苦しそうなんだ。
長く重ね合っていた唇が、ようやく静かに離れた。
余韻に潤んだゆりの吐息は、そのまま司の首筋に寄せられ、頬を擦り、辿ってゆく。
そして、胸元へと顔を寄せた彼女の身体が、わずかに重心を落とした、その瞬間だった。
ドックン──
心臓が、跳ねた。
ゆりの内側で、説明のつかない緊張が弾ける。
確かに、そこにある衝動の存在だけが、強く伝わってきた。
それは熱だった。
言葉を持たない意思のような、抑え込まれていたはずの昂り。
思わず、息が漏れる。
胸の奥がざわめき、鼓動が一気に早まっていく。
まるで、相手の呼吸と自分の鼓動が、同じリズムに引き寄せられていくようだった。
ゆりは、反射的に視線を伏せる。
分かっているのに。
それでも、身体は逃げようとしなかった。
引き寄せられるように、ゆっくりと距離を詰めていく。
熱を孕んだ空気が、肌にまとわりつく。
息が浅くなり、思考が追いつかなくなる。
「……っ……」
指先が震えた。
触れてはいけないと分かっている場所に、触れそうになる──
ゆりの中の何かが、静かに、確実に崩れ落ちていった。
羞恥も、理性も、言い訳も。
すべてが一瞬で溶けて、ただひとつの感情だけが残る。
欲しい。
それが誰のものかも。
どこへ向かうのかも。
もう、考えられなかった。
司の呼吸が、すぐ近くで揺れている。
それだけで、胸が締めつけられるほど苦しくて、甘い。
ゆりの意識は、司の熱に絡め取られるように、ゆっくりと現実から引き剥がされていった。
思考が遠のき、輪郭を失い、ただ“今ここにある存在”だけが、圧倒的な重さで胸を満たしていく。
司は、かつて見たことのないゆりの異変に、戸惑いを隠せない。
司の熱に取り憑かれたゆりの脳は、その感覚に吸い寄せられるように、距離を失い、意識の全てがそこへと引き寄せられていく。
突然の彼女の行動に、司は驚きに目を見開いて頭を浮かせてゆりを見た。
けれど、それを止める隙など与えられない。
時間が引き延ばされたように感じられた。
呼吸ひとつ、鼓動ひとつが、やけに大きく、鮮明になる。
そして、世界が反転した。
声にならない震えが、喉を掠める。
感覚が追いつかず、視界が白く滲む。
司の中を駆け抜けたのは、衝撃だった。
記憶よりも深く、重く、抗いようのない“現実”が、全身を貫いていく。
——こんなにも、戻れないものだっただろうか。
熱が、逃げ場を失って循環する。
互いの存在の輪郭が曖昧になっていく。
ゆりの動きが、やがて静まった。
けれどそれは、終わりではなかった。
むしろ、すべてを受け入れた、沈黙だった。
ゆりは深く息を整えながら、胸の内側で脈打つ感覚に、必死に意識を向けていた。
そこに確かに存在する重さと、熱と、逃げ場のない現実。
どれだけの時間、この瞬間を待っていたのだろう。
痛いほど焦がれて、壊れそうなほど求めて、それでもようやく辿り着いた熱。
今、この瞬間だけは、それがすべてを満たしてくれる。
壊れかけていた心に、ようやく血が巡り出すような感覚だった。
長い飢餓の果てにようやく得た“生きている”という確かな感覚だけが、ゆりの中で激しく燃え上がっていた。
ただ、互いの熱だけが行き場を失い、二人は静かな臨界点へと追い込まれていった。
ゆりの身体が、ふっと不安定に揺れた。
呼吸が乱れ、まるで足場を失ったみたいに、意識の重心が定まらない。
一瞬、世界が遠のく。
引き戻されるような感覚と、抗えない衝動が、胸の奥で激しくせめぎ合っていた。
「……っ……」
声にならない吐息が、喉の奥で震える。
ゆりは何かを確かめるように、ただ必死に、目の前の司に縋っていた。
司の中で、強い警鐘が鳴った。
腰の奥からこみ上げる感覚。
それは、抑えきれない波のように、今にも決壊しそうだった。
司はその瞬間、先ほどゆりが鞄から取り出してベッドへ投げた箱を視界に捉えた瞬間を思い出す。
そして司は再び、ベッドの上に投げ出されたままの箱に視線を移した。
このままでは…まずいのでは。
本能と理性がぶつかり合う中、司は咄嗟に声をかけた。
「……は、早瀬さん…っ待ってください…このままで…大丈夫ですか…っ」
肩で息をしながら、懸命に問いかける。
けれど、ゆりの反応はなかった。
いや、届いていなかった。
彼女はただ、夢中になっていた。
意識の奥深くで、何かを削り取るように、全てを委ね、何かを埋めるように、何かを忘れるように、ただその場にしがみついていた。
司は慌てて箱へ手を伸ばした。
押し寄せる波をなんとか抑え込むように抗いながら、ビリッとパッケージの透明ビニールを引き裂いた瞬間、ゆりの手が司の手に覆い被さった。
「………病院のやつ……持ってないの…?」
ゆりの瞳が、正気じゃないのを司は感じた。
「…持ってるわけないです。仮にあっても…それはだめです…あなた既婚者ですよ」
自分で吐いた言葉は、司自身の心をも刺す言葉だった。
わかっている。
いま目の前にいる彼女が、どれほど壊れそうなものを抱えてここに来たのかも。
それでも、それを言わなければ。
最低限の認識を、彼女に抱かせてあげなければ。
今の彼女は、物事の区別がつく状態ではない。
数秒の静寂が流れたあと、ゆりは、ゆっくりと手を引いた。
その仕草は、まるで意識が少しだけ現実に戻ってきたような、淡い感情の揺れだった。
司は包装を開けると、動かないままのゆりにそっと触れ、押し除けた。
ゆりは拒まず、後ろへ引きながらそのまま諦めるかのように、ただ静かにベッドへ仰向けに身体を預け直し、天井を見上げる。
司は、二人の関係に一線を引くように、隔たりを整えた。
深く息を吸い、司はゆっくりと身体を傾ける。
天井を見つめていたゆりの視線が、遅れて、静かに彼を捉えた。
その瞬間、司は覆い被さるように、ゆりを包み込んだ。
「……すみません…」
かすれた声は、懺悔のようだった。
「多分…長くは保てません…」
震えるような言葉に、ゆりは静かに司の首へ両腕を回し、微かに微笑んだ。
「大丈夫…私はもう……ずっと満たされてるから………」
その囁きに、愛しさが溢れた司はフッと優しく微笑み、次の瞬間、真剣な眼差しに変わった。
「……っ」
距離が消える。
重さが伝わる。
世界が、ほんの一瞬だけ静止する。
熱がひとつになる刹那──
それは、痛みでも、赦しでもなく。
ただ、壊れそうなほどの愛の証のように、激しく響いた。
逃げ場のない現実と、それでも離れられない想いが、同時に胸を打つ。
ゆりは、そのすべてを受け止めた。
痛みも、切なさも、そして、そこに確かにある温度も。
司は、必死にゆりを抱きしめた。
壊れないように。
失ってしまわないように。
互いの呼吸が乱れ、声にならない音が、喉の奥で絡まる。
もはや言葉は意味を持たなかった。
考える余地も、逃げる隙もない。
ただ、この瞬間だけは、互いが互いの“居場所”であることだけが、確かだった。
熱と吐息が、部屋の空気を満たす。
もう何も考えられない二人。
溺れるように、必死にしがみつき合いながら、静かな終着点へと、転がり落ちていった。




