第56話 背徳の夜
《……本当に、蓮がそこにいないと言い切れるんですか?》
「………!」
その言葉に、ゆりは一瞬だけ息を呑んだ。
けれどすぐに思考は閃き、その胸の奥には安堵が広がった。
こうすれば、誤解が解ける。
疑いの視線を向けられるよりも、正直に証拠を見せてしまった方が早い。
むしろ、このまま蓮と結びつけられる方が怖かった。
迷いはなかった。
ゆりはすぐに、ビデオ通話の切り替えボタンに指を滑らせた。
パッ…
《……映ってますか?》
ゆりの静かな問いと同時に、スマートフォンの画面が切り替わる。
そこに映し出された彼女の姿に、司の思考が一瞬、止まった。
そこにいたのは、いつもの彼女ではなかった。
ジャケットも、固く結い上げた髪もない。
きちんと仕上げられたメイクも、理知的な眼差しも。
画面に映るのは、部屋着で髪をほどいたまま、ノーメイクのゆり。
夜の柔らかい照明に照らされたその表情は、どこか幼くあどけなくて。
そして、なによりも無防備だった。
思わず、息を飲む。
その姿に、胸の奥が不意にざわめいた。
「え…あ、映りましたよ。」
司は、いつも通りの穏やかな声色を保った。
けれど、その胸の奥では、静かな炎が確かに火力を増していた。
《ほら……誰もいませんよ!》
その声とともに、画面が外カメラへ切り替わる。
ゆりの手がスマホを持ったまま、部屋の中をぐるりと一周映し出した。
「え、本当に…1人だったんですか?」
司の声には、どこか戸惑いと困惑が滲んでいた。
《だから、そうだって言ってるじゃないですか!…いくら蓮が変態でも、そんな悪趣味な事しませんよ!》
その言葉に、ぐさりと胸に突き刺さる記憶。
過去に、蓮の着信に出てゆりとの行為中の声を何の断りもなく、晒してしまった事。
それを、「悪趣味」と断じられた今、司は誰よりもその言葉に刺された当人だった。
ふと、もっと彼女の顔が見たくなった。
「インカメラに…戻してもらえますか?」
言葉はあくまで淡々と。
だが内心では、沸き上がる感情を必死に押し殺していた。
…パッ
画面が切り替わり、再び彼女の顔が映し出された。
何度見ても胸を打たれるその可愛い顔は、恐ろしい程あっけなく心が奪われていく。
《……… つまり……その……自分で……という事ですか…?…私と…電話をしながら…?》
まるで詰め寄るように問う司の言葉に、ゆりは画面からそっと目を伏せた。
《……はぃ……………》
小さく、か細い返事。
そのひと言が、現実として司の胸へ突き刺さる。
司の中にあった疑念は、形を変えて確信へと変わる。
胸の奥で、理性とは別の何かが静かに燃え広がる。
防火壁を破壊するには、あまりにも十分すぎる火種だった。
司の奥底に眠っていた感情が、一気に引火する。
《…人が……真面目に話している時に…どういう…つもりですか…?》
責めるでもなく、責めないでもない。
淡々とした声音の奥に、わずかに乱れ始めた司の呼吸。
苛立ちと焦りが滲む。
それらが司の声色の端々に滲み出て、電話口の向こうから伝わってくる。
ゆりの耳は、それを敏感に拾った。
スピーカーから流れる司の呼吸が、まるで肌を撫でるように全身を擽ってくる。
《……ご…ごめんなさぃ……》
ゆりの声も、わずかに震えていた。
でもその震えは恐れではない。
理性が崩れかける、そのギリギリの境界で、身体が自らの熱に突き動かされている証だった。
本人の意思とは無関係に、疼きに導かれるように。
画面の中のゆりが、申し訳なさそうな困り顔で、上目遣いにカメラを見つめてくる。
その表情に、司はどんどん理性を失っていく。
《……あぁ……困った人ですね………》
短く吐き捨てるような一言。
けれど、その沈黙の裏にある感情は、決して冷静なものではなかった。
ゆりは、司が動揺していることを、痛いほど理解していた。
自分の言葉や態度ひとつで、彼の感情が大きく揺れているという事実が、胸の奥をざわつかせる。
画面の中の自分が、どんな表情をしているのか。
ゆり自身にも、もう正確には分からなかった。
ただひとつ確かなのは、司が今、自分を「仕事上の相手」として見ていないということ。
司の息遣いが、それを何より雄弁に物語っていた。
次第にゆりは言葉を失い、視線が定まらないまま息を整えようとする。
感情が表に出るのを抑えきれず、ゆりは、堪えきれずに熱い溜め息を漏らす。
その瞬間、スピーカー越しに司の喉がゴクリと鳴った。
……まさか……そんな………
《…なにを………して……いるんですか……それは……》
画面越しに、ゆりの目尻がわずかに垂れ、焦点を失ったような瞳が揺れるのが分かった。
肩を揺らし、呼吸を乱しながら、ほんのりと上気した頬でカメラを見つめている。
まるで熱に浮かされたように、ポーッとした表情で。
信じられなかった。
だが、積み重なった違和感が、ひとつの形を結び始めている。
それでも、心が現実を受け止めきれないでいた。
この後に及んで、この状況で。
彼女は……一体どうしてしまったのか──
理性が、静かに軋みを上げる。
画面越しだというのに、視線を逸らすことができなかった。
司は自分が、見てはいけない領域に足を踏み入れかけていることを、はっきりと自覚していた。
司に気付かれた。
でも心の何処かで、気付かれる事を望んでいた。
《……ごめ…っな……さ……っ…》
小さく落とされたその一言が、全てだった。
司に悟られたとわかった瞬間、もう隠そうという意思は消えていた。
もう取り繕う理由はない。
言葉を選ぶ余裕も、平静を装う意味も消えていた。
ただ、息が浅くなる。
胸の奥が、じわじわと熱を帯びていく。
自分でも抑えきれない鼓動が、耳の奥でうるさく鳴り続けていた。
電話口の向こうで、司の呼吸が荒くなる。
それを聞いただけで、全身がびくりと震える。
彼が自分を“見ている”と分かる、その熱に浮かされていく。
司の震える声がスピーカーから響いた。
《…カメラ……向き………変えられますか……》
頬を赤く染め、垂込めた目尻でカメラを見下ろし、ゆりは首を横に振った。
言葉は発さず、ただ抑えきれない息が零れただけだった。
その一瞬の仕草。
その爆せる色気に、司は理性を根こそぎ奪われた。
《….…画録とか…して……ないですよ….ね……?》
ゆりの言葉に、一瞬の沈黙が落ちた。
そしてその直後。
パッと、司の画面が切り替わる。
今まで非表示だったカメラがオンになる。
《……これで》
司は、落ち着いた声で続ける。
《……お互い、同じ立場ですね》
その言葉に、ゆりの胸が強く脈打つ。
対等なのか、共犯なのか。
境界線は、もはや曖昧だった。
静かな声の余韻と共に不意打ちに、映し出された彼の顔。
思わず、ゆりは息を飲んだ。
いつ見ても……目の保養だ。
夜の薄明かりを受けたその顔は、画面越しにも関わらず安定の美しさで、どこか艶めいて見える。
まっすぐに自分を見つめてくる熱い眼差しに、理性が音を立てて崩れていくのがわかった。
思考が働かない。
もはや何も考えられない。
《…早瀬さんとの……2人だけの……秘密です……》
今はただ、司の声しか聞こえない。
ゆりは、ゆっくりとスマートフォンを置いた。
画面の中に収まる自分の姿を、もう直視できなかった。
思考は、とうに追いついていない。
世界は、司の声だけで満たされていた。
司の呼吸が大きく響き渡る。
司が今まで自分の顔を映していたカメラの角度を変えると、その光景に、ゆりの喉が固唾を飲む。
ゆりの目は釘付けされた。
その熱に引きずられるように、ゆりの意識は完全に支配されていく。
画面に映る司に視線は吸い込まれて、思考は霞む。
《…早瀬さんの…側に…っ…行きたい…です……っ》
途切れ途切れの吐息が、熱と共にスピーカーから流れ込む。
司の言葉は、もはや現実と幻想の境をなくしていた。
ゆりの脳内は、司の言葉に完全に支配されていた。
声のひとつひとつが、波のように押し寄せては彼女を攫っていく。
もう全身は、忠実にその言葉通りの感覚に囚われて、その瞳は吸い込まれるように画面の司の動きに魅了されている。
司の囁きが、現実の境界を溶かしていった。
《…来て……欲しいです…っ…桐生さん….っ》
求め合う感情はピークに達する。
互いに触れていないはずなのに、もうどちらが先に崩れるのか、わからなかった。
《……早瀬さん…私がいると…想像してください……》
司の声が、優しく耳の奥に沈んでいく。
《……あなたの……側で………寄り添っています……》
その響きに誘われるように、ゆりは、目を閉じて想像を巡らせた。
瞼の裏で、司の姿を思い描く。
そしてイメージを膨らませた。
ずっと夢に見た感触がそこにあるようで、ゆりは悲願の声を口にした。
二人の世界が白く滲む。
想像と現実が交錯して、体の奥から熱が広がっていく。
司は、画面に映る彼女を見つめながら呼吸を止めた。
頭の中で自分自身がそこにいる感覚を想像し、全身を震わせる。
《……早瀬さんの……温もりが…あたたかい…です…》
震えるようなその声に、自分がそこにいる想像を司がしているという事が、ゆりの全身に伝わってくると、さらに熱く胸を高揚させた。
ゆりはその画面を溶けた瞳で無我夢中でみつめた。
胸の奥が焼けるように熱くなる。
息が漏れるたびに、想像が現実を侵食していく。
そして自らも堪えきれない声をあげる。
《………桐生さんの……体温が……あたたかい…です……》
こんなに熱い言葉を交わしながら、それでもお互いを他人行儀に呼び合うのは、二人の間で保ち合う最後に残されたギリギリの線引きだった。
けれど、その線があるからこそ、罪悪感が熱を帯びていく。
その業務的な呼び方は、互いに危険な行為をしているという自覚を芽生えさせる。
越えてはいけない境界の存在が、逆に背徳の快楽を際立たせ、二人をさらに強い高揚へと導いた。
互いの世界が画面を越えて重なり合い、境界が曖昧になっていく。
二人の想いは画面越しにリンクする。
もう、現実も距離も、すべての境界が意味を失っていた。
脳内で電話越しの相手の感触を、互いに強くイメージしながら時間も忘れる程に溺れていく。
画面を越えて、想いも息遣いも絡み合っていく。
現実の距離がどんどん遠ざかり、代わりに互いの存在だけが鮮明になっていく。
そして──── 。
理性を削ぐほどの熱が、画面の中と外で同時に激しく張り詰めた。
その行き先を、誰も確かめることはなかった。
二人は、触れ合っていない。
けれど、確かに心で繋がっていた。
それは、肉体よりも深いところで響く共鳴だった。
《……早瀬さんの……お顔を映してください…》
スピーカーから響いた司の言葉に、ゆりは立てかけていたスマホに手を伸ばした。
カメラが彼女の頬をとらえると、画面には上気してほんのり朱を帯びた、どこか憂いを含んだゆりの顔が映し出された。
彼女の愛らしい顔が画面に映しだされたその瞬間、司の胸がぎゅっと締め付けられた。
どうしようもなく惹かれて、たまらなくいけない。
そして無意識のまま、画面に映るその唇へと吸い寄せられる。
艶めきを帯びた、綺麗過ぎる司の顔が画面に近づいてくる。
ゆっくりと唇が寄せられるのがわかると、ゆりもそっと自分の顔を傾け、自らの唇もそれに応える。
そして二人は、そのまま液晶の中で、熱く口づけた。
目を閉じると、あの日感じたお互いの唇の感触が、鮮やかに甦る。
会ってはいけない。
繋がってはいけない。
だからこそ、こんなにも、ひとつになりたかった。
実際には決して会う事が許されない相手の気配を辿るように、静かに、確かめるように、画面越しに背徳のキスをした。




