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狂気の魔法  作者: 波方 真季


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第55話 電話の向こう


地震騒動からおよそ一か月が経過した頃。

パーク内もすっかり通常運転を取り戻し、あの日の停電や混乱も、今では遠い出来事のように思える。


そんなある日、ひょんな知らせが舞い込んだ。


「え?ロンドン本社に一週間?」


ゆりの声が裏返る。

リビングのテーブル越しで、蓮はタブレットを手にしたまま苦い顔をして頷いた。


「うん。なんか急に、来月のグローバルボードミーティングに参加しろって言われた」


「は?急すぎない?そんな話、今まで一度も出たことなかったよね?」


「知らねぇよ…親父から電話があってさ。日本支社の会長代替えの時にスムーズに引き継げるように、“次期会長にも今から少しずつ本社に顔を出させろ”って、ロンドン側から直々に指示があったらしい」


「えー!じゃあこれから頻繁にロンドン行くの!?」


「いや…頻繁かどうかは、ちょっと」


「やだ!!無理!!来月蓮と一週間も会えないなんて死んじゃう!!」


「え?一緒に来ないの?」


蓮はキョトンとした表情で、当たり前のように聞いた。


「え?来月だよね?そんな急に現場空けるなんて無理に決まってるじゃん!」


「えーっ!!」


バンッとテーブルを叩いた蓮は思わず椅子から立ち上がった。


「無理無理!!一週間もゆりと離ればなれなんて、俺死んじゃう!!」


「じゃあ行かないでよ!!断って!!」


「お前がなんとかしろよ!!ついて来いよ!!」


頬を膨らませるゆりと、子どものようにむくれる蓮。

お互い一歩も譲らない攻防戦に、リビングの空気が微笑ましく弾んだ。


数秒の沈黙。

次の瞬間、二人同時に駆け寄ると、どちらからともなくガシッと強く抱きしめ合う。


「…おみやげ…買ってくるからね………」


もはや蓮の声は今にも泣き出しそう。

そんな蓮の胸に顔を埋めながら、涙を滲ませるゆりがくぐもった声で囁いた。


「……ドリームシープ持たせるから…私だと思って毎日持ち歩いてね………」




それは眠る人のそばで夢を見守り、離れていても想いを運ぶ──


旅立つ大切な人が、眠れない夜に寂しくならないように贈るお守り的存在として「夢の中で想いを運ぶ」生き物。


その愛らしい物語から、ストーリーテイルパークで人気の高いキャラクターグッズとなっていた。




「ゆりぃ〜っ」


「蓮〜っ」


たかが一週間の出張。

それなのに、まるで今生の別れのような二人の様子。

二人にとっては、永遠にも感じられるほどの別れだった。


名残惜しさに負けて、唇が何度も重なり合う。

ちゅ、ちゅ、ちゅ――。

抱きしめる腕に、離れたくないという想いが滲んだ。





数日後の夜。


一日の終わりに、ゆりは寝室のベッドへと腰を下ろしていた。

灯りを落とした寝室に、夜の静寂と、かすかな吐息が溶け込んでいた。


「………ふ……っ……」


吐息が僅かに漏れる。

あの夜、司との電話をきっかけに開いてしまった扉は、今も静かにその余韻を残している。


誰にも言えない。

誰にも見せられない。


けれど、どうしようもなく滾る熱が、どうしても抑えようがなくなってしまったその時だけ、自ら鎮めることだけが──


蓮と自分を、壊さないために、壊れないための、たったひとつの防衛策だった。


「……………うーん……」


その熱は、ほんの一瞬、心を落ち着かせてはくれるものの、満たされるにはどこか物足りなかった。

同じやり方を繰り返すことに、次第に気持ちが追いつかなくなっていく。


脳裏にふわりと浮かんだのは、蓮の寝室のベッドボードの引き出しにしまわれた、あの小さな楕円形のフォルム。


「……あれは…蓮の部屋だし……さすがに持ち出せない……」


唇をかすかに噛む。


自分のもとを離れてしまった、密やかな頼り。

思い出すだけで、身体の奥がズンと疼いた。


「……こっそり…買っちゃおうかな……」


ゆりはスマートフォンを手に取り、静かに画面をスクロールする。

淡い照明の中で、指先が光の帯を滑っていく。



そこには、かつて司と過ごした頃に見覚えのある品々が並んでいた。



購入履歴の情報を元に表示されるおすすめ商品は、コレクションを買い揃えて司と遊んだ思い出を、まるで無言で囁くように記憶の扉をノックしてくる。

一つひとつ、その形も、色も、肌に触れた感触すらも思い出せるほど。


指がそのひとつに触れるたび、遠い記憶の中で封じ込めた熱が、また少しずつ形を取り戻していく。

画面の光が頬を照らし、胸の奥で鼓動がゆっくりと高鳴っていく、その時だった。


ブーッブーッブーッ


突如、スマートフォンが震え、光の色が変わった。

画面に映し出されたその名前を見た瞬間、ゆりの全身が飛び上がる。



《桐生 司》



まるで見透かされたような、なんという絶妙過ぎるタイミング。


でも…今はマズイ。


この瞬間に司の電話を出るのは、今の悶々とした自分の状態ではとても危険であるという自覚が警鐘を鳴らす。


その一方で記憶の奥から、電話越しに、意識が遠のきそうになった、あの夜の声が蘇る。


あの耳を擽る優しい声。

高すぎず、低すぎない、落ち着いたトーン。

大人の色気を帯び、セクシーで危うい。


それでいて彼の綺麗で整い過ぎた顔は、理性を溶かす程のドストライク。

色素の薄い透明感のある肌と柔らかい栗色の髪。

眼鏡の奥で光る、あの狂気を孕んだ瞳。

自分をうっとりと見上げる溶けた表情。


ゆりの心拍数はどんどん上昇していく。

呼吸は早まり、取り憑かれたかのような瞳は画面表示「桐生 司」の文字一点のみを見つめ、脳内は欲望が思考を押し流し、ただ一点のみに引き寄せられていた。


気がつけば無意識のまま指先は、通話ボタンへとスライドされていた。


「…はい……」


電話の向こうから聞こえてきたのは、耳に馴染んだあの声だった。


《あ、良かった…繋がって。遅くにすみません、早瀬さん。明朝の件で、急ぎお伝え事項がありまして……ご迷惑な時間帯に申し訳ありません。今、大丈夫ですか?》


落ち着いたトーン。

抑揚のない業務口調。

けれど、その一音一音が、肌を撫でるように響いてくる。


「……今、大丈夫ですよ」


応じる声は静かで、ゆりの耳は、徐々に熱を帯びて赤みを増していく。


理性は警鐘を鳴らしていた。

けれど身体は、もうとっくに覚えている。

この声が、どれほど自分の奥を震わせたか。


ゆっくりと、静かに。

意志とは裏腹に、抑えていた熱がそっと解け始めていた。


《……もしかして、もうおやすみになられていましたか?》


いつもは明るくハキハキしている彼女だが、やけにおっとりしているその声色に、司は眠っていたところを起こしてしまったのではと勘繰り、申し訳なさそうに問いかけた。


「……いえ…寝室にはいますが…まだ起きてました……」


電話の向こうから届いたその声に、ゆりの身体が微かに震えた。

業務的な口調とは突然変わった、ふと優しくなるその声音。

柔らかく耳を撫でる響きが、思いがけない刺激となって波紋を広げる。


必死で悟られないように、ゆりは平然を装いながら返事をして、ゆっくりと呼吸を整えるように、身体の感覚に意識を沈めていった。


今にも崩れてしまいそうな、危ういバランス。

それでも、電話の向こうの彼は、何も知らずに淡々と、業務連絡を続けた。


《先程、本社から連絡が入って、近日開催されるグローバルボードミーティングに向けた最終事前確認として、エメラルドマリンエリアを“是正対応してほしい”という追加指示が出たんです。明日午前までに修正を反映させた状態で、映像とレポートを提出しなければならなくなって……》


ロンドン本社と日本支社、その時差はおよそ9時間。

その為、深夜から未明にかけて本社から急な指示や業務連絡が舞い込んでくる事は、決して珍しい事ではなかった。


《それで夜間メンテ班に依頼の連絡をしたら、電源系統の異常が出て……開園までに復旧できるかギリギリで……》


現場の状況を冷静に分析し、つらつらと業務的なワードを口にしていくその声。

けれどゆりの意識は、言葉の意味ではなく、音の響きに囚われていた。


低く落ち着いた声の振動。

呼吸の合間にわずかに混じる息遣い。

それらすべてが、ゆりの中で理性を焼き切っていく。


相手は真面目に職務の伝達をしているというのに、その声に熱を覚え、身を委ねるように、心の奥で理性が静かに溶けていく自分。


なんという背徳感。

なんという罪。


司の言葉が右から左へ抜けていくたびに、全身を包む感覚と罪悪の波が、ゆっくりと強まっていった。


《……早瀬さん?》


相槌も返さず、ひと言の反応すらない異変に、司がふと声をかけた。


「…あっ…すみません……っ」


ゆりはハッと我に返り、思わず動きを止めた。

心臓の鼓動が、ドクン、と大きく跳ねる。


《大丈夫ですか? 》


申し訳なさそうな司の声が、再び優しさを帯びる。


「大丈夫です……えっと……」


頭の中で、先程の伝達内容を必死にリプレイさせる。

瞬時に意識を切り替え、職務モードの仮面を被る。


「それでしたら、明朝はエメラルドマリンエリアを一時的に運営停止扱いとし、午前中は調整対応に切り替えましょう。開園前にフロント対応チームへ情報共有を入れておきますので、現地での導線案内とお客様対応は私の方で調整します。」


《ありがとうございます。あと…グローバルボードミーティングに備えた演出仕様の修正点についても、朝一で施設側との擦り合わせをお願いできたらと…急なことで申し訳ありません》


「承知しました。そちらも、出勤してすぐに対応します。復旧の目処が立ち次第、午前中のうちに再開判断を行いますね。」


平静を装った声。

でもほんの少しだけ、息の余韻が震えていた。


《ありがとうございます。よろしくお願いします。》


「………………ふぅー……」


電話口から静かに声が途切れた瞬間、危うい橋を渡りきったような安堵と、燃え尽きたような脱力感から思わず溜め息をこぼした。


《……お疲れですか?》


不意に、柔らかく笑みを含んだような司の声が、ふっと耳元に吹きかけられる。


「……っ」


その低く包み込むようなトーンに、ゆりの身体がピクリとと跳ねた。

その声に、ほんの少し前までの業務口調の色は消えていた。


「……あ…いえ……そんな……ことは……」


言葉を選びながらも、ゆりの内側で、抑え込んでいた熱が再び静かに目を覚まし始めていた。


《……ご無理なさらないでください。早瀬さんは、素敵な笑顔と元気な姿がとても魅力的なので。無理しない程度に、ちゃんと休んでくださいね。》


その一言が、まるで心臓を撫でられたように響いた。

彼の“優しさ”は、ゆりにとって甘すぎる毒。

司のナチュラルロマンチストな言動は、ゆりにとっての耐え難い弱点だった。

思わず喉が鳴り、胸の奥がじんわりと熱を帯びていく。


聞いているだけで、溶けてしまいそう。


呼吸を押し殺そうと唇を噛む。

けれど、それでも漏れ出る熱い吐息は止められない。


「…………」


沈黙が続く。

司の声が、再び優しく彼女を探すように降りてくる。


《……あれ?早瀬さん?寝ちゃいましたか?》


その呼びかけが、まるで直接肌に触れるように響いた。

耳の奥から胸の奥へ、そして下腹の奥へ。

熱がゆっくりと、螺旋を描くように広がっていく。


息をするたび、心臓の鼓動が速くなる。

頬が熱く、身体の奥が疼く。

もう、理性の声が遠く霞んでいく。


止めたいのに、止まらない。

電話の向こうで、司はまだ何も知らずにいる。

しかしもう自らの意思では吐息をコントロールしきれなかった。


「……早瀬さん…?どうされました?」


また。

電話越しの彼女の違和感は以前にも感じた事がある。


《………っぃえ…っぁの…》


あの時と同じ。

苦しんでいるような、悲しんでいるような、何なのかわからない彼女の息使い。


「大丈夫ですか?…どこか、お加減が悪いですか?」


《…ぃ…ぃゃ……ち….が…っ……》


まるで熱に浮かされたような、震える返答。

どこか遠くで感情の波が立っているのが伝わってくる。




《………もしかして、泣いてるんですか?》




次から次へと矢継ぎ早に刺激してくる司の優しい囁きが、全身を震わせる。


もう、思考は働かない。

司の質問に答える事も出来ず、その熱い声を隠す事も出来ず、ただ漏らし続ける事しか出来なかった。


《………… ──…っ…….》


電話口から漏れたその音に、司の思考は停止する。

途切れながらも、あまりに熱を帯びたその吐息は、もはや普通の応答とは思えない。


この………声は。


その瞬間、司の心臓は強く脈打った。

血の気が一気に引き、同時に首筋から熱が駆け上がる。


気づきたくなかった。

でも、気づいてしまった。


それが何を意味するのか、司はそう時間をかけずに“ひとつの答え”に辿り着いた


彼女の身に一体、何が起きているのか。

この電話の向こうで、彼女は──


「……まさか……蓮……か?」


口の中で転がしたその名に、唇の端がゆっくりと歪む。


悪ふざけか。

それとも、あの日のエレベーターでの出来事がすべて悟られたのか。


あの時、あの密室で、確かに彼女は自分にキスを迫った。

あの距離で見つめ合い、呼吸を感じるほどの距離で、唇が触れ合いかけた。


忘れるはずがない。


それからというもの、社内イベントや会議で顔を合わせる彼女とは、お互い離れていても、やけに頻繁に視線が交わるようになっていた。


……間違いない。

彼女は、自分のことを意識し始めている。


それに気づいた蓮が、あろうことか、“彼女は自分のものだ”と、こうして誇示しようとしているのか。

まるで、見せつけるように。

あの男らしくもない、回りくどくて狡猾な手段で。


理性と嫉妬がせめぎ合い、腹の底で煮え立つような熱が、静かに広がっていく。


けれど、通話はまだ切れず。

耳元からは、彼女の熱の余韻が微かに、なおも流れ続けていた。


「……はぁ……はぁ………蓮……?」


突然、司の口から漏れたその名前に、ゆりは一瞬、思考が止まった。

どうして今、ここでいきなりその名前が。


《…蓮にやらされているのでしょう……?そんな真似。》


静かに、でも確実に混乱を招くその言葉が、ゆりの耳に突き刺さる。


「…はぁ……はぁ………」


息を整える間もなく、ゆりの脳内で、司の言葉の意味が急ピッチで整理されていく。


そして──悟った。


(変な誤解されてる。完全に。)


「いや…… っ!蓮はいません……!」


慌てて否定するゆりの声は、荒く、震えていた。

司の声は静かなまま、でも冷たくも聞こえた。


《……誤魔化さなくていいです。》


否定も、言い訳も、届かない。

明日、司が蓮に詰め寄る姿が、ありありと脳裏に浮かぶ。


蓮に、バレる。


その想像だけで、喉元が締めつけられる。

呼吸が苦しくなるほどの焦燥が、全身を駆け巡った。


「………ひ…ひとりで……してました………」


極限まで追い詰められたゆりは耐え切れず、自白するしかなかった。

それが唯一、司の誤解を解く術だと、本能が訴えていた。


《…………まさか……あなたが?》


驚き混じりの声色。

信じきれずにいる司の反応に、ゆりの顔はみるみる赤くなり、火照った頬が今にも音を立てて燃え上がりそうだった。


「……そうです……っ……すみません……っ」


息も絶え絶えに、なんとか絞り出すように告げたその瞬間——

沈黙を挟んで、司は思いがけない一言を口にした。



《……本当に、蓮がそこにいないと言い切れるんですか?》




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