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狂気の魔法  作者: 波方 真季


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第54話 罠網



しかし運命の悪戯は、二人の歯車を静かに狂わせていく。

神様は、誠実な真実の愛を貫こうとする二人へと、容赦なく残酷な牙を向く。






ゆりは本部ビル一階のロビーで、エレベーターの呼び出しボタンを押していた。

薄いガラス越しの外は灰色の空。

吐く息が白く、冬の気配が肌に刺さる。


背後から、落ち着いた声が届いた。


「早瀬さん?お疲れ様です」


「あ、お疲れ様です。桐生さん」


振り向くと、そこには司の姿。

ゆりの胸の奥に、ほんの一瞬、鼓動が跳ねた。


司はゆっくりと歩み寄り、彼女の隣に並んだ。

二人は同じ方向を見つめながら、会話を交わす。


「今日の現場は終わりですか?」


「はい。この後は事務所で作業ですね」


「そうですか…外はだいぶ冷え込んできましたね。雪、降りそうです」


「そうなんですよ。今日の現場、風が強くて……指が凍るかと思いました」


「その割には薄着ですね。手袋もしないで……」


寒そうに、両手の指を擦り合わせるゆりの仕草を見つめながら、司は心配そうに囁いた。


「動きづらいからしてないです。現場で走り回ってる時は、意外と暑くて」


案じるような司の視線に、ゆりはパッと明るい笑顔で答えた。

寒さをも吹き飛ばす太陽のようなその笑みに、司は一瞬胸を打たれた。


「……なるほど、流石。現場の人間らしくて、とても逞しいですね。」


司はふっと微笑んだ。

その笑みには、どこか懐かしい柔らかさと、過去を思い出すような淡い切なさが宿っていた。


「桐生さんは…完全防備ですね」


「ええ、寒がりなんで。それに、アメリカの常夏地で長らく勤務していた為、日本の冬がちょっとした罰みたいで」


ゆりが思わず笑うと、司は照れくさそうに視線を逸らした。

そして、首に巻いていたロロ・ピアーナのカシミヤストールを外し、軽く肩に掛け直した。


その仕草は、何気ないのに妙に美しくて、ゆりの胸の奥で、ずっと押し殺していた何かが、微かに動いた。


そんな会話をしていると──


ポーン、と電子音が鳴り、エレベーターの扉が静かに開いた。


「……11階でいいですか?」


「はい。お願いします」


ゆりは、何度も司に呼び出されたことのある本社幹部応接室の階を自然に口にした。

指先で十一階のボタンを押したあと、自分の行き先である四階も続けて押す。


扉が閉まり、エレベーターがゆっくりと上昇を始める。

わずかな機械音とともに、密室特有の静寂が二人を包んだ──その時だった。


ガタッ……ガタガタガタッッ!!


突如、足元から突き上げるような振動。

耳の奥で金属が軋む音が鳴り、天井の照明がチカチカと瞬き、エレベーターの箱全体が大きく揺れた。


次の瞬間──


「キャーっ!!」


ゆりの悲鳴と同時に、ガタンッ!!という重い音が響き、エレベーターは急停止した。


バンッ。


天井のライトが一斉に消え、辺りは一瞬で闇に包まれる。

モーター音も消え、息づかいと鼓動だけがやけに大きく響いていた。


「早瀬さんっ!!大丈夫ですか!?」


暗闇の中、司の声が響く。

距離感がわからないせいで、その声がどこから届くのかも判別できない。


「……な、なに…?なにがあったの…?やだ…やだぁっ…!」


ゆりの声は震えていた。

姿が見えなくても、その怯えと混乱がはっきりと伝わってくる。

彼女の呼吸が荒くなり、布の擦れる音が微かに耳に届いた。


「地震…ですかね。落ち着いてください。今、非常ボタンを押しますから」


司の声は、低く落ち着いていて不思議と頼もしかった。


次の瞬間──

パッと、白い光が闇を切り裂く。


スマホのライトが点灯し、閉ざされた空間に柔らかな明かりが差し込んだ。

薄く舞う埃の粒が、光の中でゆらゆらと揺れている。


「……ケガはないですか?」


司の照らすライトがゆりの方へ向けられる。

その眩しさに一瞬目を細めながらも、ゆりは息を整え、小さく頷いた。


「……大丈夫です」


ようやく見えた司の姿。

その表情は真剣で、それでいて優しく、その声を聞いた瞬間、さっきまで全身を包んでいた恐怖が、少しずつ溶けていくのを感じた。


ホッ……と胸を撫で下ろしたゆりは、壁に背を預けて、深く息を吐いた。


司は壁面の操作パネルに手を伸ばし、赤い「非常用呼出ボタン」を押し込んだ。


ピッ、ピッ、ピッ……。


短い電子音のあと、通話口から小さなノイズが入り、

女性オペレーターの声がスピーカー越しに届いた。


『こちらビル防災センターです。どうされましたか?』


「こちら、1階から4階の間のいずれかにて停止しています。中に2名います。」


司は落ち着いた口調で答える。


『扉は閉まったままですね?』


「はい。停電か地震の影響だと思われます。」


『承知しました。現在エレベーター会社に連絡を取っております。安全が確認できるまで、そのままお待ちください。お怪我などはありませんか?』


「大丈夫です。特にケガはありません。」


そう言いながら司はゆりに視線を向ける。


『ありがとうございます。もし気分が悪くなった方がいらっしゃいましたら、すぐにお知らせください。非常灯が点かない場合は、スマートフォンのライトをお使いください。復旧までは15分から20分ほどかかる見込みです。』


「承知しました。こちらで落ち着いて待ちます。」


『ご不安でしょうが、ご安心ください。ドアを無理に開けたりせず、そのままお待ちください。』


ピッ。


通話が切れ、再び静寂が戻った。


はぁ──。


司は深く息を吐いた。

呼吸を整えると、再びゆりに心配そうな視線を向けた。

スマホのライトが、わずかに揺れてゆりの頬を照らす。


「……急に……落ちたりしないよね……?」


ゆりの声は小刻みに震えていた。

暗がりの中で揺れる光が、彼女の不安げな表情を照らし出す。


司は短く息をつき、やわらかく微笑んだ。


「アトラクションじゃないんですから。そんなこと、まず起きませんよ。」


安心させるように、穏やかで低い声。

その声音だけで、張り詰めていた心が少しだけほどける。

ゆりはわずかに唇をゆるめ、不安の残る笑みを浮かべながら小さく頷いた。


「……ふぅ……」


吐き出した息に、張り詰めていた緊張が少しだけほどけていく。

暗闇の中で二人の吐息が混ざり、わずかな静けさの中に、確かな安心が宿った。


「……現場…大丈夫かな。私、スマホがロッカーで、今無線しかないけど……」


ゆりは制服のポケットからトランシーバーを取り出し、カチッと電源を入れる。


「早瀬です。応答願います」


《…………》


返ってくるのは、沈黙だけ。

ノイズすら混じらない静寂が、かえって不安を際立たせる。


「……エレベーターの中で使えるわけないか。」


ゆりは小さく苦笑して、トランシーバーを再びポケットへとしまった。

司はその横顔を見つめながら、ゆっくりとスマホを確認する。


「……私のスマホも圏外ですね。」


画面には、無情な『No Service』の文字。


「まぁ、15分、20分で復旧する見込みなので、焦らず気長に待ちましょう。」


司はそう言って、壁沿いに腰を下ろした。

ライトの光がゆっくりと揺れ、影が二人の間を流れていた。

ゆりもその隣にそっと腰を下ろす。


「………広く使っていいですよ…?」


司は一応ゆりに気を使い、少し遠慮がちに声をかけた。

狭いエレベーターの床に並んで腰を下ろすと、ゆりが思ったよりも近くに座っていた。

肩と肩が、ほんのわずかに触れ合う距離。


「……えっ!?あ、あぁ、そうですね!中こんなに広いのに、狭苦しいですよね!私、反対側行きますね!」


慌てて立ち上がろうとしたゆりを、司は軽く手を上げて制した。


「あ、いえ……そ、そういう意味で言ったわけじゃなくて……!」


気まずそうに視線を逸らしながら、司は早口で続けた。


「その…私は全然構わないんですけど……早瀬さんが……嫌じゃないかなって……」


ゆりは一瞬ポカンとして、次の瞬間、恥ずかしそうに頬を赤らめて俯いた。


「…………」


「…………」


何とも言えない沈黙。

その静寂を切り裂くように──


ガタガタガタガタ……


「キャァっ!!」


突如、床下から伝わる揺れ。

ゆりは反射的に司の腕にしがみついた。

背中が小刻みに震えている。


「もうやだぁ……こわいよぉ……」


その声は、震えと涙が混じった幼い響きを含んでいた。


「大丈夫ですよ。落ちることはありません。今のはほんの小さな余震です。」


低く落ち着いた声。

その響きが、ゆりの乱れた呼吸をゆっくりと整えていく。

司にしがみつく腕から伝わる微かな震え。

その細やかな震動が、どれほどの恐怖を抱えているのかを雄弁に語っていた。

司は息を呑み、余計な言葉を挟まぬまま、ただその場で彼女の安心が戻るのを待った。


このままじゃ、パニックを起こしかねない。


胸の奥でそう判断すると、柔らかな声で囁いた。


「……近くにいた方が……良さそうですね。」


司がそう囁くと、ゆりはしがみついた腕をそっと離しながら、小さくコクリと頷いた。


密室の中。

互いの呼吸が、ゆっくりと一つのリズムを刻みはじめた。


空調が止まったエレベーター内は、みるみる温度が下がり、息を吐けば白くなりそうなほど冷え込んでいった。

もともと薄着だったゆりは、恐怖からくる震えに寒さが重なり、次第に顎が小刻みに震えはじめた。

両腕を交差させて肩を擦りながら、かすかに身を縮めたその瞬間──


ふわっ……


ゆりの両肩に、柔らかな温もりが広がった。

司がそっと、自分の肩から外したストールを掛けたのだ。


「桐生さんっ…桐生さんが寒いですよ!」


ゆりは驚きと申し訳なさが入り混じった声で、慌ててストールを掴んだ。


「私は大丈夫ですよ。厚着してますから」


司は静かな口調でそう言いながら、ゆりの手がストールを返そうと動くのを、軽く制するように押さえた。


「でも…桐生さん、寒がりですよね」


「今は寒くないですから」


その言葉には、どこか柔らかな笑みが滲んでいた。


「そんな…申し訳ないです」


その瞬間、司の表情からふっと笑みが消えた。

鼻から小さく息を漏らし、ほんの少し視線を伏せる。


「……それでは、こうしましょう」


静かな声でそう言うと、司はゆりの肩からいったんストールを外した。

そして、ゆりへ身体を寄せると、自分の肩ごと包み込むように、それをふたたび広げてゆりの方へと寄せる。




ふわり──


ひとつの布に、二人の肩が並んだ。





わずかに触れる肩先から、ぬくもりが伝わる。

冷えきった空気の中、そこだけが静かに温かかった。


ゆりは一瞬、心臓が跳ねるのを感じながらも、

何も言えず、ただ小さく息を呑んだ。


司は目を合わせずに、淡々とした声で付け足した。


「これなら……お互い、少しは温かいでしょう?」


耳元で感じる司の声。

その距離は近すぎて、吐息が頬にかかるほどだった。


その瞬間、脳裏をかすめたのは、あの夜。

電話越しに聞いた司の声で、身体が勝手に反応してしまったあの記憶。


ボボボッと、顔に火がついたように一気に熱が広がった。

鼓動が暴れ出し、胸の奥でぎゅうっと心臓が鷲掴みにされる。


ゆりはストールの裾を指先でぎゅっと握りしめながら、胸の奥で鼓動を感じた。


「……はい……あったかいです…………」


ようやく絞り出した声は、少し震えていた。

ゆりは片側の肩にかかるストールの裾を、司側の手の指先でぎゅっと握りしめ、その中で高鳴る鼓動を悟られないように、静かに息を整えた。


必死に理性を立て直そうとするのに、隣にいる彼の体温が、それを静かに壊していく。

鼓動と呼吸のリズムが、自分の意思とは無関係に速まっていく。


だめだめだめ。

今、あの夜を思い出したら、きっと平常心ではいられない。


そう思えば思うほど、記憶の断片がひとつずつ浮かび上がってくる。

声、吐息、感覚。

そして、その全てが胸の奥で熱を生んでいく。


どうしようもなく、すぐ隣にいる司の存在を強く意識してしまう。

司に触れてしまいたい衝動が、静かに、確実に、胸の底からじわじわと這い上がってくる。





「……………」



スッ…と、ゆりは握りしめていたストールの裾からその手を離した。




ドクン、ドクン──



鼓動が早鐘を打つ中、その手はゆっくりと、静かに床へ降りていく。




「…………!」


その瞬間。

元々床に下ろしていた司の手の甲と、ゆりの手の甲が、かすかに触れ合った。





一瞬、時間が止まったようだった。





司は驚いたように目を見開き、二人の手元へ視線を落とした。

ゆりも息を呑んだまま固まる。

互いに手を引こうとしない。


指先に伝わる体温が、あり得ないほど鮮明に感じられる。

触れたのはほんの一瞬。

それなのに、胸の奥で小さく音を立てて、何かが崩れ落ちていくのが分かった。


「……………」


二人の間で高まる緊張。

会話は途絶え、耳の奥では自分の心臓の鼓動だけが、やけにうるさく響いていた。


お互いの意識は、ほぼ触れている程の距離で背中合わせになっている手の甲に全神経が集中している。


今すぐ、その手に自分の手を重ねて指を絡めたい。

きっと相手は拒まない。

それどころか、そっと受け入れてしまうだろう。


二人は同じ感情だった。

ゆりと司を包む空気が、言葉にならない熱を帯びていた。

そのぬくもりが、まるで無言の合図のように感じられる。


けれど、それを超えてしまえば、何かが壊れる。

もう、二度と戻れないところまで行ってしまう。

そうなったらもう、何もかもがおしまいだ。


そんな認識も、二人の中で共通だった。

理性とは裏腹に、本能は矛盾した気持ちを呼び起こす。





どうか──


相手からこの手を繋いでくれないだろうか。





二人は次第に、そんな感情を強く抱いてしまっていた。


次第に、ゆりの身体は疼き始める。


手を繋いで、指を絡めたい。

そして彼の腕に自分の両腕を回して、見つめ合って、キスをして──。


そんな思考にどんどん取り憑かれていく自分がいた。

理性の声が、遠くでかすかに響く。


私は、蓮を愛してる。

蓮を悲しませるようなことはしたくない。

蓮を裏切るような真似は、絶対にできない。


司もまた、必死で理性と戦っていた。

密閉された空間の中、肩が触れ合う彼女から漂う甘い香り。

それは懐かしく、そして、痛いほど恋しい記憶を呼び起こしていく。


この手を繋いでしまったら、きっともう歯止めは効かない。


司の指先がピクリと動く。

衝動に負けそうになる自分の手が動かぬように理性で押さえ込む。


けれど、その香りも、体温も、呼吸の音までもが、すべてが誘惑のように理性を侵していく。


あまりにも、彼女から漂う空気は、まるでそれを求めているかのように、どうしようもなく危うかった。


そして、このあまりにも危険過ぎる空気を断ち切るように、司は深く息を吸い込み、わずかに震える声で口を開いた。


「…れ…蓮に……昨晩、電話をしました。」


静寂を裂くようなその一言。

司の理性が、最後の力を振り絞って奮い立った。


今にも過ちを犯しそうな二人の空気の中で、彼は必死にゆりの中に蓮を思い出させようとしていた。

その名前を口にすることで、自分自身にも、そして目の前の彼女にも、越えてはならない線を引こうとした。


ゆりは、はっと息を呑んだ。

自分の心の中で“蓮を愛してる”と唱えた瞬間に司の口から出た名前。

まるで、心の奥まで見透かされたような錯覚。


「…昨晩…ですか?」


「はい。22時頃に。確認したいことがあって遅くに電話をしてしまったんですが、出なかったので…その時間はもう眠っていましたか?」


「22時頃……?」


ゆりは少し考え込みながら答えた。


「うーん…確かそのくらいの時間に、蓮は自分の寝室に入っていったと思いますけど……その後は、ちょっとわからないですね。」


司の眉がピクリと動いた。

そして思わず、口をついて出た。


「え……?まさか…寝室、別なんですか?」


その声は驚きと、わずかな探るような響きを帯びていた。


空気が、凍りつく。

ゆりの肩がピクリと震えた。

そして心臓は、再び早鐘を打ち始めた。


「あ…っえーと……」


司の問いに、自分の失言を悟り、曖昧に答えようとするも、程の良い言葉がすぐに浮かばない。


司の胸がざわついた。


「どうしてですか?」


そして思わず問いを重ねてしまう。


「…………………」


ゆりは何も言わなかった。

その沈黙は、言葉よりもずっと重く、確かな答えとなって二人の間に落ちた。


「……やっぱり蓮と何かあったんですか?」


声が思わず低くなる。

司の脳裏に、あの夜の会話がよみがえった。

電話越しのゆりの震えた声。

通話を名残り惜しむ言動。

やはり、あの時彼女の様子はどこかおかしかった。

確信にも似た予感が、司の胸の奥で静かに膨らんでいった。


ゆりは俯いたまま、苦しげな表情を浮かべている。

その小さな仕草ひとつで、彼女が今どれほど辛い何かに耐えているかが痛いほど伝わってきた。


司の拳に、自然と力がこもる。

心の底で、抑えようのない熱がじわりと広がっていく。


蓮と幸せになるために、一緒になったはずじゃなかったのか。


怒りとも焦りともつかない感情が、胸の奥を駆け上がる。

けれど同時に、目の前の彼女に何もしてやれない自分が、痛いほど情けなかった。


自分には、とてもそんなことをする権利はない。


司はフッと我に返るようにまぶたを伏せた。

胸に走る痛みを押し込みながら、冷静さを取り戻していく。


「…すみません。夫婦の問題に口を挟むべきではありませんね。私としたことが…軽率でした。今のは聞かなかったことにして下さい。」


プツッ──。


その言葉が、ゆりの中で何かを弾けさせた。

長く押し込めてきた感情が、堰を切ったように溢れ出す。


「…この前から…忘れてくださいとか…聞かなかったことにしてとか……」


俯いたまま、ゆりの声が低く震えた。


「……ふざけんな」


低く鋭い声が、司の鼓膜を打つ。


次の瞬間、ゆりは司の前で両膝を床につき、そのまま正面に向かい合うように膝立ちになる。


フワリ──


二人を包んでいたストールが、その動きに合わせて肩から静かに滑り落ちた。


司の視線が自然と上がる。

そこには、強い光を宿したゆりの瞳。

ゆりは司の顔のすぐ横、壁へと手をつき、冷徹な表情で見下ろし、言い放つ。





「司。私がそんな都合のいい脳ミソしてると思うなよ?」





ブワッと司の全身に鳥肌が走った。


熱くなった血が一気に駆け巡り、背筋に冷たい汗が吹き出す。


名前を呼び捨てにし、冷徹な眼差しで見下ろすその姿は、かつて自分が心の底から崇拝し、抗えず支配されたゆりの姿そのものだった。


「……はぁ……はぁ……」


司の心臓は破裂しそうなほどに暴れ、呼吸を整えようとしても、喉が音を立てて震えるばかりだった。


ゆりの顔が、ゆっくりと司へと近づいていく。


その動きが一秒ごとに世界を奪っていくようで、司の呼吸は更に荒くなり、抗えず顎をわずかに持ち上げた。


「……はぁ…っはぁ…っ」


二人の吐息が触れ合う。

唇と唇の距離は、もう指先一つ分もなかった。




そして、触れ合うその瞬間──






パッ。



眩しい光が一気に降り注いだ。

沈黙していた照明が全灯し、閉ざされた密室は一瞬にして現実の世界へと引き戻される。


「あ…点いた!」


ゆりは眩しそうに目を細め、すぐに天井を見上げた。

さっきまで鋭く響いていた声とはまるで別人のようなその明るいトーンがエレベーター内に弾み、司の心を惑わせた。


ゴウン……


低く重たい音を響かせて、エレベーターはゆっくりと上昇を始めた。


ゆりはスカートの裾を払って立ち上がり、足元や腰回りについた埃をぱんぱんと叩く。

司も同じように、床に落ちていたストールを拾い上げ、バサバサと空気を含ませるように軽く振った。


その動きは、どこか機械的で、ぎこちない。

まるで、ほんの数分前に起きかけた出来事を、互いに無言で帳消しにしようとしているかのようだった。


エレベーターの上昇音が静かに響き、やがてゆるやかに減速した。


ポーン──。


軽やかな電子音とともに、目の前の扉が左右にスライドし、光の筋が差し込む。


次の瞬間、開いたその先には、作業服姿の点検員と、社内の設備管理担当が二人、そしてその横には社員たちが数名。

皆、一様に心配そうな表情でこちらを見つめていた。


「大丈夫でしたか!?」


「お怪我ないですか?」


立て続けに声が飛び交う。

点検員が慌ただしく手元の端末を確認しながら「安全が確認されました。停電の影響で制御が一時的に止まっていたようです」と説明した。


「……あ、大丈夫です。それよりも、現場の状況はどうですか!?マグニチュードは…震源地は?パーク内の観測震度、わかりますか!?」


ゆりは慌ててその場にいた顔見知りの社員に詰め寄った。


「観測震度4で、震源は千葉県東方沖だったみたいです。現在、全アトラクションを停止して安全確認を行っています!来園者の誘導とスタッフの点呼も始まってます。」


報告を受けるゆりの表情は、一瞬で切り替わった。

さっきまで恐怖に震えていたとは思えないほど、

その瞳は鋭く、指示を出す責任者の顔になっていた。


「わかりました。私はすぐ現場確認に向かいます。

アトラクションの停止状況とゲスト誘導の報告を、各セクションリーダー経由で本部に集約させて下さい。安全確認が完了したエリアから順次運営再開の可否を判断します。」


「かしこまりました!」


ホールの空気は、外の世界の温度そのものだった。

点検員が深く頭を下げ、設備担当がエレベーターを制御パネルで停止モードに戻す。

慌ただしく行き交う社員たちの靴音と無線の声が、現実のリズムを取り戻していく。

騒ぎの余韻を残したまま、二人の間に漂っていた“あの熱”は、まるで幻のように静かに消えていった。


そして駆け出そうとしはゆりは、一瞬だけピタリと止まり、ふと踵を返して司の方へ向き直った。


「桐生統括!冷静にご対応いただきありがとうございました。お陰様でパニックにならず、落ち着いて事無きを得る事が出来ました。」


ゆりは深く、丁寧に頭を下げた。


「いえ。お互い無事で何よりです。」


司はいつもの優しい微笑みで返した。


ゆりが顔を上げたとき、ほんの一瞬だけ、二人の瞳がまっすぐに交わる。




「……………」




その瞳は、切なさを孕んでいた。



二人の視線が交わった瞬間、周囲のざわめきが一瞬遠のいたように感じた。



言葉では交わせない想いが、わずかなの中で交錯する。




「では……また。」


「えぇ。また。」


ゆりのそのひと言に、司もひと言で返した。

その言葉を最後に、ゆりは踵を返して、高鳴る胸と熱の余韻を抱えながら、人の流れの中へと消えていった。


司はその背中を見送ると、ポケットの中で拳を強く握りしめ、小さく息を吐いた。




──危なかった。


そして…


あと一歩だったのに。





二人の胸中には、同じ言葉が同じタイミングで去来していた。


理性を守った安堵と、本能を抑えた悔しさ。

その矛盾する正反対の感情が、二人の中で静かに、そして確実に燃え続けていた。


吹き抜ける冷たい風が、さっきまでの熱をまるで嘘のように奪っていくのに、それでも胸の奥ではまだ、ゆりの体温が消えない。


忘れていた──いや、封じ込めていたはずのゆりへの欲望が、さっきの一瞬で、確かに息を吹き返した。



まさか。

あの顔を、まだ持っていたなんて。



脳裏に焼き付いた、冷たく見下ろすゆりの眼差し。

それは昔、自分を跪かせた“支配者”の顔。


司の唇が、かすかに歪む。

その瞳は狂気を帯びる。

静かに、ゆっくりと、あの頃の自分を取り戻すように。


「……罠網を…………張ってみるか………」


その声は、もはや独り言ではなかった。

欲望と理性、その境界線が音を立てて崩れ落ちていく。





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