第50話 おかえり
目まぐるしく過ぎ去った、怒涛の式典と祝賀イベント。
ようやく締めくくりの新居お披露目会を終え、静かな日常が戻ってきた──そう思ったのも束の間だった。
安堵の空気に包まれながら、二人は就寝前にベッドの上で穏やかな夜を過ごしていたはずが、その平穏はあっけなく破られ、突如夫婦の揉め合いへと変貌していた。
「えぇぇっ!?そんなの嫌だ!!無理!!聞いてない!!!」
「嫌だって…お前、そんなの当たり前だろ!どこの世界に“代表取締役夫人”が現場で汗まみれになって下っ端社員として働き続けられる世界線があるんだよ!常識で考えろよ常識!!」
「やだやだやだぁ〜っ!!毎日来園者達と触れ合いたい!お客様に直接笑顔を届ける喜びを感じ続けたい!!現場大好き!!辞めたくない!!!」
照明の落とされた寝室に、二人の声がぶつかるように響く。
シルクの寝具がくしゃりと音を立て、
穏やかだった新婚の夜は、再び嵐の気配を帯び始めた。
今にも泣き出しそうな顔で、ゆりは布団の上でじたばたと抗議する。
ゆりの“現場愛”は、蓮が誰よりも知っている。
お客様の笑顔のために朝から晩まで走り回り、どんなトラブルにも真っ先に飛び込んでいく姿を、
何度となく見てきた。
そんな姿に惹かれたのも、蓮自身だ。
だが現実的に見れば、代表取締役夫人が現場に立ち続けるなど許されるはずがない。
社員との公平性、内部統制、そして組織の秩序。
上司が夫というだけで、すでに公正性は揺らぐ。
万一トラブルや異動が起きれば、その一つひとつに“代表夫人”という肩書きが影を落とす。
さらに、夫人は企業の“顔”でもある。
式典、外部対応、メディア行事。
そのすべてが新たな責務としてのしかかる。
けれど、ゆりが現場で発揮してきた能力は、社内でも群を抜いていた。
彼女が抜ければ、フード部の現場は確実に痛手を負う。
そんなゆりを、誰よりも誇りに思っている。
そして、ゆりのそんなお客様や現場を愛するところが誰よりも大好きだ。
だからこそ、この我儘は、蓮にとって一番嬉しくて、一番苦しい“爆弾”だった。
「んー……気持ちはわかるけどさぁ……そんなこと言ったってなぁ〜…俺の一存でどうにか出来る話じゃねぇんだよ。だから今回は譲ってくれ!な?ゆり頼む!!」
顔の前で両手を合わせて蓮は必死で懇願した。
「は!?私は代表夫人になる為に頑張って勉強して資格まで取って苦労して入社したんじゃないっ!ストーリーテイルパークのお姉さんになりたいって小さい頃からの夢を叶える為に努力したの!!それを辞めろなんて言うなら…蓮なんかと結婚しなきゃよかったー!!バカぁぁー!!!」
「そ、そんな…無茶苦茶なぁ…」
投げつけられた枕がふわりと宙を舞い、蓮の顔面を直撃し、ぱしんっ、と乾いた音が響いた。
涙目になりながら枕を抱えて叫ぶゆり。
その姿は、まるで駄々をこねる少女のようで、それでも蓮の胸の奥を、どうしようもなく締めつけた。
代表夫人という立派な肩書きより、厳しい現場業務に従事する事に縋る女がこの世の中にいるだろうか。
だが、そこが。
それこそが、他の誰でもないゆりらしい。
「わかったっ……わかったから!!」
拾っては投げ、拾っては投げ、延々と枕を投げ続けていたゆりの手が、ようやくピタリと止まった。
「…とりあえず、両親に相談してみるよ……」
「えっ!?本当に!?」
ぱぁっとゆりの顔に花が咲くように笑みが広がる。
さっきまで涙目で暴れていたのが嘘のようだ。
「掛け合ってはみるけど…!俺ができるのはそこまで!お袋は、まぁ…ゆりの気持ちをわかってくれそうだけど…….会長がどうだかなぁ……」
蓮は頭をかきながら、天井を見上げてため息を漏らした。
「蓮っ…大好き!!」
勢いそのままに、ガバッと蓮の首へ腕を回して抱きつくゆり。
そのまま、頬をすり寄せて──ちゅっ。
唇に、ちゅーっと音を立ててキスを押し付けた。
ちゅ、ちゅ、と、頬にも、唇にも、何度も。
嬉しさが止まらない子どものように。
蓮は笑いながらも、ゆりを引き寄せる腕に力を込めた。
そして、暴れる彼女の肩を抱き寄せるようにして、そっと顎を乗せる。
「はぁ……ったく、お前は…」
低く漏らす息が、ゆりの髪をくすぐった。
その声音には、呆れ半分、愛しさ百倍の温もりが滲んでいた。
そして蓮は、ゆりの頬にそっと手を添えた。
指先でやさしく頬を撫でながら、顔を自分の方へ向かせる。
「結婚しなきゃよかったなんて!思ってもないこと言うなっ」
めっ!とするような、優しい厳しさが滲んでいるその声は、叱るようでいて、どこか甘い。
「思ってもないから言うんじゃんっ」
えへへ、といたずらっぽく笑うゆり。
その笑顔に、蓮の胸の奥がふっとほどけた。
照れくさそうに笑うその顔が、あまりにも愛おしくて、蓮は堪らず彼女を引き寄せた。
唇が触れ合い、ゆっくりと重なっていく。
最初は確かめるように、そっと。
けれど次第に、互いを引き寄せる力が強まり、息が近くなる。
ゆりの指先が、無意識に蓮の服を掴んだ。
それだけで、胸の奥にじんわりと熱が灯る。
先ほどまで嵐のように荒れていた空気は、静かな鼓動と吐息に溶かされ、
いつの間にか、甘く、柔らかなものへと変わっていた。
二人は自然とベッドへ身を委ねる。
蓮の腕の中に、ゆりがすっぽりと収まり、
その距離の近さに、互いの温もりがはっきりと伝わった。
蓮は一度だけ、名残惜しそうに唇を離し、そのまま、まっすぐにゆりを見つめる。
「でも…ゆりのそんなところが……俺は大好き」
甘い言葉と強い眼差しに、ゆりの胸がきゅんっと高鳴った。
蓮の視線の熱に頬を染め、わずかに潤んだ瞳で見上げながら、そっと呟く。
「……私も…蓮が大好き」
上目遣いのその笑顔が、あまりにも可愛くて。
蓮は思わず息を詰めた。
「……可愛い…ゆり…ほんと……めっちゃ可愛い…」
蓮の声は低く、優しく、どこか余裕を失っている。
伸ばされた手が、ゆりを引き寄せるだけで、胸の奥がじんわりと熱くなった。
その動きに合わせて、ゆりの身体が自然と力を抜き、
呼吸が、少しずつ速くなっていく。
視線が絡んだまま、離れない。
逃げ場のないその静けさが、逆に胸を騒がせる。
ゆりは小さく息を呑み、思わずその胸元に顔を埋める。
「…さっきまで……あんなに怒ってた…勢いは…?」
からかうような声に、ゆりは小さく首を振った。
その答えが、何より雄弁だった。
蓮はそれ以上何も言わず、ただ静かに、ゆりを抱きしめる。
逃げ場のない腕の中で、ゆりは小さく身を委ねた。
呼吸が乱れ、視界が滲み、言葉よりも確かなものが、二人の間を満たしていく。
唇が触れ合う直前、蓮はほんの一瞬、ためらうように動きを止めた。
その間に流れた沈黙さえ、二人には甘く、熱を帯びたものに感じられた。
蓮の視線が、ゆりの表情の変化を逃さず捉える。
その様子に、胸の奥が熱を帯びていく。
「…お前は….っこんなに可愛いくせに…わがまま…ばっかり…悪い子だなぁ…っ」
そう言いながらも、その声音は優しくて、叱るようで、守るようで。
次の瞬間、距離が消えた。
重なった温もりに、ゆりは思わず蓮の胸元にしがみつく。
声にならない息が零れ、世界が一気に遠のいていく。
言葉は、もう必要なかった。
ただ、互いを求めていることだけが、はっきりと伝わっていた。
──── 。
「…あ…れ…………」
蓮はふと違和感に気づいた。
競り上がる胸の高まりや爆発しそうな程の衝動に反して、蓮は力無く下を向いている。
「……どうしたの…?」
ゆりは蓮を受け入れるような仕草で、静かに身体を預けていた。
その距離の近さと、迷いのない温もりが、かえって蓮の胸を締めつける。
「…いや…なんか……また……」
さっきまで全身を焼いていた熱が、どこか遠くへ引いていく。
理由もわからず、胸の奥にぽっかりと穴が開いたような感覚。
蓮は、必死に感覚を呼び戻そうとするように身を寄せた。
けれど思いとは裏腹に、身体はまるで応えてくれない。
近くにいるはずなのに、どうしても越えられない距離が、そこにあった。
「…蓮、いいよ。無理しないで……」
その一言が、胸の奥の何かを決壊させた。
情けなさと悔しさ、愛しさと安堵が入り混じって、
蓮はゆりを強く抱きしめることしかできなかった。
「…ゆり…ごめん……っ」
こんなに欲しいのに。
ただ、ゆりと“ひとつになれる感覚”が、どうしても恋しかった。
何度も確かめ合ってきたはずの温もりが、今は遠い記憶のように思えてしまう。
一体いつになれば感じられるのだろう。
いつまで待てば、この苦しみから解放されるのだろう。
狂おしい程、ゆりが欲しい。
肩を震わせながらゆりを抱きしめる蓮。
まるで、心と身体が切り離されているかのようにチグハグで、自分の中の何かが壊れてしまったようで、ただ、虚しさだけが胸を締めつけた。
そんな蓮をそっと身体から押し離してゆりは起き上がった。
「大丈夫だよっ!最近ずっと忙しくて大変だったから疲れが出ただけだよ。気にせずまた頑張ろ!」
ゆりは明るい笑顔を見せて蓮の頬に手を当てた。
そしてぎゅっと抱きしめると、二人の頬が触れ合い、静寂の中で二人の呼吸だけが重なり合う。
長い夜が、少しずつ穏やかな眠りへと沈んでいった。
医師から衝撃の診断が下されたあの日から一年と少し。
蓮とゆりは、今だに一度も最後まで出来ていなかった。
定期的に病院へ通い、治療を受け、薬を服用し、医師の指導通りに段階的に性機能リハビリにも取り組んだ。
一時的に改善の兆しを見せ、少しだけ持続できる夜があっても、結局その力は途中で途切れてしまう。
失敗のたびに、蓮はまるで自分の存在そのものを責めるように肩を落とした。
その背を、ゆりはいつも明るく笑顔で支え続けた。
焦らないで、諦めないで、頑張ろう、きっと大丈夫。
いつも前向きで、不平も不満も口にせず、ただ真っ直ぐに蓮を信じて寄り添う。
強く、優しく、懸命に蓮を支え続けた。
一カ月後──。
夜明け前に降った雨がまだ路面にわずかに残り、
パークの石畳が朝の光を受けて淡く輝いていた。
遠くの植え込みには紫陽花が咲き始め、水滴を抱いた花弁が、虹の欠片のようにきらめいている。
その時──
「きゃっ!」
ふいに風が吹き抜けた。
一人の小さな女の子の手から、風船がふわりと宙へ浮かび、青空の方へと舞い上がっていく。
「あー!まって〜!」
子どもが駆け出した瞬間、後ろから反射的に走る人影。
まだ濡れた石畳を気にすることなく、黒いスニーカーの足音を響かせながら、その手が、風船の糸をぎりぎりのところで掴み取った。
「…はいっ、どうぞ!」
差し出された風船を受け取ると、女の子はぱっと笑顔になる。
「わぁ…ありがとう! お姉ちゃん!」
嬉しそうな声に、彼女も思わず笑みを返した。
「ふぅ…よかったね。結んであげよっか?」
しゃがみ込み、小さな手首に風船の糸をやさしく結びつける。
女の子は「ありがとう!」と元気に頭を下げ、母親のもとへ駆けていった。
「すみません…ありがとうございました!」
母親の声に軽く頭を下げ、彼女は笑顔で手を振る。
「素敵な一日をお過ごしくださいね! いってらっしゃい!」
その声は、朝の空気に溶けていく。
ネイビーの現場ジャケット。
胸元の名札には── HAYASE。
親子の背中を見送りながら微笑むその姿は、紛れもなく、ゆりだった。
雨上がりの光の中、彼女の頬にあたる風はやわらかく、まるで新しい季節の訪れを告げているようだった。
「いやぁー復帰初日から全開ですね。“早瀬さん”。」
背後から穏やかな声が届いた。
振り向くと、そこには白いシャツの袖を少し折り返し、柔らかい笑みを浮かべる蓮の姿。
「そりゃもう、やっと戻ってこれたんで!」
ゆりは嬉しそうに笑いながら、胸の前で手を軽く合わせる。
「色々とご采配いただき、心より感謝いたします、“鳳条代表”。」
わざと少しかしこまって言うその口調に、蓮は肩をすくめて小さく笑った。
「おかえり、ゆり。」
その声は優しく、どこか安堵の色を含んでいた。
「えへへっ…ただいまっ!」
笑顔を弾ませて返すゆり。
二人の間を、初夏の風がすり抜けていく。
あれから蓮は、ゆりが再び現場に戻れるように、鳳条家と会社の両方へ、何度も掛け合った。
重厚な扉が閉ざされた会議室。
理事や役員たちの前で、蓮は真っ直ぐに言葉を重ねた。
だが、反対の声は大きかった。
「代表取締役夫人が現場勤務など、前例がありません。」
「他の従業員がやりにくいのではないですか。」
「万が一トラブルが起きたら、会社の顔としての影響が大きすぎる。」
「夫人としての公務もあります。両立は難しいのでは?」
「せめて商品開発や人材育成、サービス改善などに留めることは…なぜ現場にこだわるのですか。」
矢継ぎ早に降り注ぐ意見。
だが蓮は、一つひとつに真摯に向き合った。
ゆりが現場に抱く熱意。
積み重ねてきた経験と功績。
そして何よりも、パークとお客様への深い愛情。
それらを、彼は一つも取りこぼすことなく伝えた。
資料を開き、数字と映像を示し、彼女がどれほど多くの笑顔を生んできたのかを、丁寧に証明していった。
「現場があるからこそ、彼女は輝ける。そしてその輝きこそが、この会社の“本当の理念”だと思っています。」
蓮の声は静かだったが、確かな熱を帯びていた。
全ては、ゆりのため。
蓮は全身で走り、頭で考え、心で戦った。
やがて、鳳条家も、役員会も、その誠意と情熱に押された。
そして“例外的特例”として、ゆりの現場復帰が正式に認められた。
その瞬間、蓮は深く息を吐いた。
長い闘いの末にようやく掴んだ、一筋の光。
それは、ゆりへの愛の証であり、
彼自身の、信念の証明でもあった。
鳳条ゆりとして、この度正式に与えられた役職は『ビジターリレーションズ・ディレクター』
ゆりのために新たに設けられた、特例的なポジションだった。
代表夫人としての顔を持ちながら、同時に現場の最前線に立てる、前例のないオリジナルの役職。
名目上は「顧問/監修」としての扱い。
だが実質的には、ゆり自身の手で現場を見つめ、育て、支えることができる立場だった。
制服ではなく、シンプルな現場ジャケット。
胸元のネームプレートには、通称名として、旧姓の「HAYASE」
公務では「鳳条ゆり」
本部では「顧問/監修」としての「早瀬ゆり」
そして、パークでは“ホスピタリティSV”として「HAYASE」スタッフ。
三つの名を持ち、三つの立場を生きる。
複雑ではあったが、それが彼女に許された“最大限の自由”だった。
この形でしか叶えられなかったけれど、それでも、ゆりは再びあの場所に立つことができた。
その瞳に映るパークは、以前よりもずっと眩しく、
風に揺れる木々の音までもが、新しい鼓動のように聞こえていた。
遠くのストーリーテイルキャッスルの尖塔に、朝日が反射してきらめく。
その光を見た瞬間、胸の奥にこみ上げるものがあった。
——またここに立てた。
たったそれだけのことなのに、
涙が滲むほど、嬉しかった。
アトラクションのテーマソングが流れ始め、来園者の笑い声やスタッフたちの明るい掛け声が重なり合う。
まるでパーク全体が、「おかえり」と言ってくれているようだった。
ゆりは胸元の名札をそっと押さえ、深く息を吸い込んだ。
「…よっしゃ! そんじゃ、プロローグゲートの動線確認しに行きますか!」
明るい声が朝の空に弾ける。
蓮へ振り向いたゆりの笑顔は、まぶしいほどにキラキラと輝いていた。
その顔には、鳳条家の妻としての影はなく、現場社員“早瀬ゆり” としての誇りと情熱が、確かに宿っていた。




