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狂気の魔法  作者: 波方 真季


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第5話 桐生司


蓮と夜を共にしてから、気づけば一週間ほどが過ぎていた。

あの日の出来事を振り払うかのように、ゆりは日常に忙殺される。


今日もパークは来園者で賑わい、レストランの厨房では次々と料理が送り出されていた。

その裏側で、ゆりは設備不良の対応に追われていた。


「すみません、こちら早瀬です…… ブランブルヒル・ピッツェリアにて発生したオーブン機器設備不良の報告書、出来ました!」


人気アトラクションの隣に位置する大型レストラン。

昼時ともなれば千人単位の来園者が列をなし、厨房は戦場と化す。

そんな中で、メインのオーブンのうちの1つが突如として動作不良を起こした。

提供が滞り、スタッフたちの表情には焦りが広がっていた。


ゆりは故障個所を確認し、現場責任者に指示を飛ばしながら、片手では慣れた手つきで仕上げた報告書をまとめていく。

周囲には、忙しなく動くスタッフたちの足音、食器がぶつかり合う音、お客達のざわめきが入り乱れ、熱気と焦燥が入り混じっていた。


無線へ息を切らしながら伝えると、すぐに応答が返る。


《了解。本部へ提出の後、交換機器の手配に入ります。大至急、本社へお持ち下さい》


「了解。すぐに向かいます」


現場スタッフにひと言残し、足早に持ち場を離れる。

スタッフエリア敷地内を走行する従業員専用バスに飛び乗り、五分後には本部ビル前に到着。

駆け足で自動ドアを抜け、一直線にエレベーターホールへ。


──ポーン。


到着音とともに、目の前の扉が開く。


「…………っっっ!!!」


そこに現れたのは、スーツ姿の外国人と、そして──桐生司。


ドクンッ


心臓が跳ね上がり、背中に嫌な汗が一気に噴き出す。

司は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐにフッと妖しい笑みを浮かべた。


「………………乗りますか?」


低く響く声。

ラウンジでの記憶が一気に脳裏を駆け巡り、足が止まりそうになる。


「あ、すみません……!」


ハッと我に返り、慌てて乗り込む。

操作ボタンの前に立ち、目的の四階を押す。

既に点灯していた十一階。

司たちの行き先。


閉じる扉。

背中に突き刺さる視線を避けるように、前を向いたまま操作盤にぴたりと寄り添う。


「—So, the presentation materials will be ready by Friday?」


「Yes, I’ll make sure they’re finalized and sent over by then.」


背後で交わされる低い英会話。

流暢な司の声は、抑揚もイントネーションも日本語のときとはまるで違い、耳の奥に直接滑り込んでくる。


──あの夜、耳元に落とされた囁き声。


ゾクリ、と背筋が震える。

記憶が勝手に重なり、テーブル越しに見上げたメガネの奥の眼差し、頬をなぞられた指先、理性を吹き飛ばす距離感までもが、音に引きずられて鮮明に蘇った。


昇っているだけのはずの箱の中が、急に熱を帯びていく。

呼吸が整わない。

目を伏せても、背後から迫る存在感は消えなかった。


──ポーン。


永遠のように長かった時間が終わり、四階に到着。

ゆりは顔を少しだけ斜めに向け、小さく会釈。

そのまま逃げるように足早にエレベーターを降りた。



本部へ報告書を届け、設備不良の手配を終えたゆりは、再びパークに戻っていた。

今度は、本日遅番勤務の予定だったシェフの一人が急遽怪我で欠勤となり、その穴を埋めるためにキッチンへと駆け込んでいたのだ。


ディナータイム。

予約で埋まったレストランの厨房は、灼熱の戦場と化していた。

オーブンの扉が開くたびに熱風が吹き、鉄板で肉が焼けるジュウッという音が重なり、鍋から立ちのぼる蒸気が視界を白く曇らせる。

シェフたちの掛け声と金属がぶつかる音が、ディナータイム特有の緊張感を際立たせていた。

ゆりもまた、髪を後ろで束ね、額に浮かんだ汗を気にする余裕もなく、包丁を走らせていた。


──ジジッ。


インカムが鳴り、不意に耳へ届く声。


《…早瀬さん…すみません、すぐに本部に戻れますか……》


フード部の上司からの要請だった。


「え…?」


一瞬、手が止まる。


交換機器はすでに手配済みのはず。

提出した報告書に不備もなかった。

どうして──

胸の奥に冷たいざわめきが走る。


(それでも…きっと今日の私の対応の中で何かしらの不備があったんだ…)


視線を上げれば、厨房は混沌の渦中にあった。

料理は次々にオーダーが入り、ホールからの催促が矢のように飛んでくる。

この場で人員が一人抜けることが、どれだけの痛手になるか誰よりも理解している。


けれど、無線の呼び出しに逆らえる立場ではなかった。


ピッ


「了解。」


短く返事をすると、すぐに回線を切り替える。


ピッ


「早瀬です、ノアズミシックテーブル、キッチンヘルプ要請です。どなたかご対応お願いできますか」


しばしの沈黙。

ノイズ混じりの無線の向こうに、誰の声も返ってこない。


「……早瀬です。応答願います。ノアズミシックテーブル、キッチンヘルプ要請です。」


《………ジジ………》


当然だった。

今はディナーのピーク。

どのレストランも火の手が上がるような修羅場。

ましてノアズミシックテーブルの厨房は、パークでも最高格の格式を誇る場所。

その場に立てる人材など限られている。


ゆりは苦渋の表情で、隣のシェフ長に向き直った。


「申し訳ありません、本部からの要請で……少し抜けても大丈夫ですか」


「えぇ!?あ、えーと……時間、どれくらいですか?」


驚きと焦燥を隠せないシェフ長。

その様子に、ゆりの胸はさらに重くなる。


「30分……いえ、20分で戻ります」


用件を確認し、本部に説明して、すぐに戻ろう。

そう自分に言い聞かせて。


「……仕方ないですね、わかりました」


「ありがとうございます。申し訳ありません」


深々と頭を下げ、後ろ髪を引かれる思いでレストランを飛び出す。

背中に残ったのは、厨房の熱気と、スタッフたちの必死の気配。

そのすべてを置き去りにして足を進める自分に、強烈な罪悪感が押し寄せていた。




本部へ急ぎ、エレベーターが静かに四階で止まる。

扉が開いた瞬間、ゆりは息を整えて本部にあるフード部のフロアへ駆け込んだ。


「……早瀬です!お待たせしました!」


デスクで資料に目を通していた上司が顔を上げる。


「あぁ、早瀬さん来た来た!ごめんね、こんな忙しい時間に。すぐに十一階の大会議室に行ってくれる?」


「十一階……ですか」


一瞬で昼間の記憶が甦る。

十一階で点灯していたエレベーターボタン。

狭いエレベーターの中、耳に直接滑り込んできた低い声。

背筋をなぞった震え。


──桐生司。


「ロンドン本社の幹部がいらしてて、お呼びしてるみたいだよ」


説明を受けた瞬間、胸の奥がざわりと大きく揺れた。

ロンドン本社の幹部と言えばあの人。


(桐生統括だ…)


直感というより確信。

嫌な予感と抗えない運命感が、同時に心臓を締め付ける。


それでも、現場を預かるスーパーバイザーとしての顔を崩すわけにはいかなかった。

ゆりは胸のざわめきを必死で抑え込み、落ち着いた声を装う。


「かしこまりました」


深く会釈をすると、再びエレベーターに乗り込む。

閉まる扉の先に、十一階の数字がゆっくりと灯った瞬間──

心臓の鼓動が、自分の足音よりも大きく聞こえていた。

エレベーターが到着すると、ゆりは緊張でこわばった足取りのまま、十一階の大会議室の前に立った。


「……ふぅ」


深く息を吐き、胸の鼓動を必死で押し沈める。


コンコン──。


意を決してノックすると、落ち着いた声が返ってきた。


「どうぞ」


聞き覚えのある声。

その響きに、喉の奥がひりつく。


「失礼します」


扉を開けた瞬間、視界に広がるのは夜景を背に佇む男の背中だった。

大きな窓の向こうで宝石のように瞬く街の灯りよりも、その存在感は重く濃く、ただそこに立つだけで空気が変わる。


司は、ゆっくりと振り返った。


「お待ちしてましたよ、早瀬さん」


「……あの、ご用件は」


両手をきちんと前で組み、背筋を伸ばす。

言葉は整えたつもりでも、震える瞳と張りつめた表情は隠しきれない。


「そんなに緊張しなくても」


落ち着いた声のまま、司は一歩、また一歩と距離を詰めてくる。

その足音が床に響くたび、心臓が跳ねた。


「昼間お会いしましたね」


「…はい」


警戒を解かぬまま、わずかに後ずさる。


「驚きましたよ。まさか…まだこの会社にいらしたとは」


その言葉に、ゆりの眉がピクリと動いた。


「…それ、どういう意味ですか」


鋭い眼差しで問い返す。

だが、司は怯むどころか、その視線を愉しむように微笑んだ。


「…………良かったですか、あの昼下がりが」


ゾクッ──。


突如、記憶の断片が脳裏に降り注ぐ。

あのラウンジの照明、強引な視線、重ねられた熱。

全身を鳥肌が駆け抜け、呼吸が浅くなる。


「…っお呼び立てされたのは、そちらのご用件でしょうか…っ」


隠せない動揺を押し殺すように、ゆりは硬い言葉で抵抗した。


「………まぁ、そうですね。話がしたくて」


司は柔らかな笑みを崩さない。

しかし、その奥の瞳は、獲物を逃がさない獣の光を宿していた。


ゆりの胸の奥に苛立ちが滲む。


「現場が立て込んでいます。そのようなご用件であれば、現場へ戻りますので失礼致します」


逃げるように扉へと歩き、伸ばした手がノブに触れるその瞬間。


バンッッッッ!!!!


背後から扉が強く叩き押さえつけられた。

肩越しに伝わる振動に、思わずゆりの肩が大きく跳ねる。


「この私と話をする時間より、そんなに現場が大切ですか」


その声音は落ち着いているのに、皮膚の奥にまで響くような鋭さを帯びていた。

理不尽にねじ伏せられるような感覚。

背筋に冷たいものが這い上がり、足元から血の気が引いていくのを自覚した。

勇気を振り絞るように、ゆりは声を押し出した。


「………厨房シェフも、フロアスタッフも、私の戻りを待っていますので」


「はははっ」


まさかのタイミングで聞こえた笑い声。

意表を突かれ、ゆりは思わず振り返る。

視線が交差した瞬間、司の双眸は氷のように冷たく、笑みはひどく人を見下す色を帯びていた。


「…君は、自分で自分のことを、どれだけ価値のある人間だと思い込んでいるんだ?」


「………はい?」


「君みたいな、たかがちっぽけな新人社員、一人居なくたって現場はまわる」


その言葉は刃のように鋭く、胸の奥に突き刺さった。

けれど、その瞬間、ゆりの腹の底で、小さな火種がふっと灯るのを自覚した。


「そんな事はありません…一人ひとりが、重要な戦力です」


「……なるほど…通りで。そんな事で現場が回らなくなるとは」


司の唇が、そっとゆりの耳元に近づいた。

冷ややかな声が、皮肉を滴らせる。




「さすがパークの規模も小さければ、クオリティも低い日本のストーリーテイルパークは……スタッフの質も悪い」



──ブッッッチンッッッッ!!!!


何かが切れた音が、確かに自分の中で鳴った。


「……っ!」


反射的に、ゆりは両手で司の胸ぐらを掴んだ。

次の瞬間、全身の力を込めて勢いよく押す。


司は数歩後退し、背中からテーブルへと追い詰められる。

腰がガンッと角に当たり、重い音が響いた。


ゆりは止まらなかった。

血が一気に頭に上り、自制心を焼き尽くす。


脳裏に浮かぶのは──ほんの数十分前、厨房で汗を飛ばしながら必死に鍋を振るシェフの姿。

笑顔でトレーを差し出すスタッフたちの姿。

お客様に「ありがとう」と声をかけられ、嬉しそうに頷く仲間たちの姿。


胸ぐらを掴む拳に熱が集まり、全身が怒りで震えていた。

ゆりの押す勢いは止まらず、そのままテーブルに司の上半身を押し倒した。


バンッッ──!


「っ……!」


仰向けになった司の顔のすぐ横に、ゆりの掌が鋭く突き刺さる。

木の天板が軋み、室内の空気が一瞬で凍りつく。


グイッ──。


そのまま彼女の手が司のネクタイを掴み、乱暴に締め上げた。顔を引き寄せられ、視界いっぱいに映るのは、怒りで燃え立つゆりの瞳。



「ふっざけんなよ、くそじじい」



鋭く、低く。

魂を削るような声が吐き出された瞬間、司の背筋にゾワゾワと痺れるような衝撃が走った。


ゾクゾクゾクゾクッ──。


彼女の瞳が、自分を切り裂く刃のように射抜いてくる。

恐怖でも憎悪でもない。

それを司は、理解してしまった。

喉を締め付けられる圧迫感と、視線の重み。

これまで経験したことのない感覚に、興奮が否応なく沸き上がる。


バッ──。


次の瞬間、ゆりはその胸を力強く押し弾き、ネクタイを乱暴に放り捨てた。


「…ケホ…」


自由になった司は軽く咳き込みながらも、首元を緩めると──

燃えるように熱を帯びた瞳で、ただ一心に彼女を見つめ返していた。


「あんたみたいなお山の上の大将……雲の上の大将に現場の何がわかんだ!!」


ゆりの声は震えていた。

怒りと悔しさ、そして涙を堪えきれない激情が、喉を震わせて絞り出される。


「最初にアメリカでオープンして……今は世界中にあるストーリーテイルパークが海外進出を決めた時……最初の国を日本に選んだのは……っあんた達イギリスじゃないの!?」


瞳が滲み、熱い涙がこぼれ落ちそうになる。


「パークは狭いかもしれない。設備やアトラクションは古いかもしれない…だけど、それだけの歴史が日本のストーリーテイルにはあるんだよ!!」


司はゆりを見つめ、ふっと口の端を吊り上げた。


「……素晴らしい。早瀬さんは、とても勉強熱心なんですね」


それは嘲笑のように響いた。

だが、ゆりの瞳は潤んでなお、鋭く、屈しない光を宿していた。


「当時、日本がアークに選ばれたのには理由がある。ストーリーテイルパークジャパンには、それだけの価値がある!!私達スタッフは全員、その誇りを胸に……お客様に最高の時を過ごしてもらう為に、毎日、命削ってんだよ!!」


その言葉に、司の胸奥で何かがわずかにざわついた。

こんなにも真っ直ぐに、こんなにも熱を込めて、パークを語る人間を見たことがあっただろうか。


「あんたが言う、本場アメリカのパークがでかいとか、クオリティが高いとか……そんなくだらない事が、そんなに偉いわけ!?」


自分が何を言われようと構わない。

ただ共に働く仲間を侮辱されたことだけは、ゆりは絶対に許せなかった。


「スタッフの質が悪い?そんな妄想してる暇があるなら、ちゃんと現場のスタッフの声でも聞いてください。偉そうに座ってる馬鹿男より、現場の汗まみれのスタッフの方がよっぽど価値ありますから」


叩きつけるように吐き捨てたその声は、静まり返った大会議室に凛と響いた。

そしてゆりは、鋭く睨みつけたまま数秒だけ司と視線を交わすと、踵を返した。

颯爽と揺れる結った黒髪、背筋を伸ばしたまま、扉に向かう足取りは迷いなく力強い。


「失礼します」


低く、毅然とした声を残してゆりは扉を押し開けて出て行き、会議室の扉がバタンと音を立てて閉じられた。


扉の向こうで、司はただ呆然と立ち尽くす。

脳裏には、涙を滲ませながらも一歩も怯まず、自らの誇りと仲間を守るために声を張り上げた彼女の姿が焼き付いて離れなかった。

その視線は、ただ熱く、燃え上がるようで、司は胸の奥に、自分自身でも説明のつかないような今まで感じたことのないざわめきを残していた。






翌朝。

通勤の電車を降り、ゲートへと続く道を歩きながら、ゆりの胸は重たく沈んでいた。


「あぁ……やっちゃったよなぁ……」


昨夜の光景が繰り返し脳裏に蘇る。

司にあれだけ言い放ったのだ。


「……もう会社に籍ないかも…はは……」


口元に苦笑を浮かべても、その足取りは自然と重くなる。


それでもいつものようにゲートを通り抜け、ロッカー前に辿り着く。

扉を開け、ノートパソコンを取り出し、朝一番のルーティン、メールチェック。


そこに、一通の短い招待状が目に飛び込んだ。



4月5日(火)18:00

ロイヤルセレスティアホテル2階

クリスタルレストラン

お越し下さい。

https://royalcelestia.jp/reserve/ーー...…

桐生



「4月5日……次の休みか」


心臓がドクンと跳ねた。

怖さ、不安、そして“もしかして”という疑念が、一度に押し寄せて胸をかき乱す。


「怖。クビ…かな…」


(でもなんでわざわざ休みの日?しかもパーク外で……)


小さく呟き、ゆりはどうしたらいいかわからず、パタンとパソコンを閉じる。

現実から目を逸らすように、深く息を吐いた。


(よし、とりあえず考えるのは後だ。仕事しなきゃ)


気持ちを無理やり切り替える。

ロッカーの制服に手際よく着替え、髪をきゅっと結う。

胸元にネームプレートをつけると、鏡に映る自分に言い聞かせるように声を出した。


「さぁっ行くぞ!」


自分自身に気合いを入れ、ゆりはユニフォーム管理棟を飛び出した。







ゆりは、司からの招待メールにどう対応して良いか分からぬまま、毎日の慌ただしさに流され、次第に頭の片隅から薄れていった。


いつもの朝、PCを開いた瞬間、再びあの文字列が目に飛び込んできたのだ。



明日、ご予定させて頂いておりますが、ご都合よろしいでしょうか。

ご確認の上、ご連絡をお待ちしています。

桐生



「うわ、やば」


思わず声が漏れる。

ゆりは返信画面を前に、しばらく手を止めていた。

頭の中では「行けません」「都合が悪いです」といった断りの言葉がいくつも浮かんでは消える。

けれど、打ち込もうとした瞬間に、その後の面倒くさい展開が脳裏をよぎる。

そもそも用件はなんだろうか、それも気になる。

そうこうしている時間にも出勤時間は迫る。


(あぁ…考えんのダル、めんどくさい)


結局、逃げ場のない状況に思考を巡らせるほど疲れてしまい、心は「拒否」ではなく「とりあえずやり過ごす」を選んでいた。


深い溜め息を吐きながら、ゆりは短く打ち込む。


『承知いたしました。』






──ピロン。


同時刻、司のノートPCに通知が届いた。

マグカップを片手に、いつものルーティンのように開いたメール。

だがその瞬間、司の目が大きく見開かれる。


「……っ!」


画面に浮かぶのは、冷たく素っ気ない一行だけの返事。

だが、その無駄のない文面に、彼女の鋭さと強い意志がにじんでいるように見えた。

その冷ややかな視線と声が、まざまざと蘇る。


(──ふっざけんなよ、くそじじい)


脳内に再生されるのは、あの日、胸倉を掴まれ睨みつけられた光景。

声、息づかい、涙を滲ませながらも気丈に放った言葉。

気づけば、司の唇は震えていた。

笑みを押し殺せない。


「……はぁ……」


抑えきれない吐息がこぼれる。

それはため息ではなく、昂ぶりを隠し切れず零れた熱の欠片。

明日が来ることへの期待に、胸の奥が熱で満たされていく。





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