第46話 違和感
「それじゃ……よろしくお願いします」
「……なんなのそれ」
帰宅後、入浴を済ませた就寝前のベッドの上。
何故か蓮は正座をして、ゆりに向かって深々と頭を下げていた。
「いや、一応…心の準備が必要かなって思って」
「前はお構いなしだったくせに…急に律儀でキモいんですけど」
グサッとゆりの言葉が、容赦なく蓮の胸に突き刺さった。
ゆりの意思などお構いなしに、自分の欲望のままに抱いたあの頃。
当時は何とも思わなかった。
それなのに今は、こんなにも大切で、あまりにも尊い。
「……ゆりが…あんな事があった後だし…怖くなっちゃったんじゃないかって、ずっと心配してて……」
蓮の声はかすかに震えていた。
「え…?あ、あぁ……」
蓮にそう言われて、ゆりは司が引き起こしたあの出来事を思い出す。
正直、蓮と司と出会い、貞操心という言葉は、自分の中で輪郭を失っていた。
だから部下に襲われた事自体は、大した傷にはならなかった。
された行為そのものよりも、自分を弄び、最後には突き放した司の残酷さ。
あの時司に酷く振られたことが、自分にとっては決定的な痛みだった。
身体よりも心を深く抉られたあの日の傷跡は、今なお胸の奥に残っている。
「……………」
胸の奥に、チクリとした痛みが走る。
その影がゆりの表情に落ちた瞬間——
「ご、ごめんっ!」
蓮は思わずガバッと抱きしめ、全身で包み込んだ。
「怖かったら、無理しなくていい!大丈夫になるまで俺は待つから、やらなくていい…」
必死の言葉。
その優しさが、じんわりと胸に沁みていく。
張り裂けていた心の奥に、ふわりと温かいものが広がり、涙が滲んだ。
抱きしめられる温もりは、深く刻まれた傷口を覆い、少しずつ癒やしていく。
ゆりはあまりの愛しさで震える吐息を整えながら、ゆっくりと蓮の背に腕を回した。
そして抱きしめ返しながら、かすかな声で囁いた。
「……大丈夫だよ……だから……来て……」
耳元に落ちたその一言で、蓮の中に張りつめていた理性が、静かにほどけていく。
ドサッ——
優しく、しかし確かな決意を込めて、蓮はゆりの背をベッドへと沈めた。
見上げるゆりの瞳は涙で揺れ、かすかな震えがその身体に走っている。
その様子に、蓮は胸の奥が切なく締めつけられた。
「……怖い?」
最後の確認。
この先は、もう自分でも止められる自信がない。
一瞬の沈黙のあと、ゆりは小さく首を振った。
そして、潤んだ瞳を真っ直ぐに向ける。
「……怖くないよ…蓮と一緒なら………」
震えを抱えながらも、確かな想いを込めて。
ゆっくりと伸ばされたその腕が、蓮の首に回される。
「……っ」
胸の奥が一気に熱を帯びる。
その腕に導かれるように、蓮の顔がゆっくりと近づいていき——
そっと、ゆりの唇に落ちた。
優しく、甘く、確かめ合うようなキス。
それはずっと欲しかったものをやっと手に入れたかのように、胸を熱く震わせた。
触れた瞬間、胸の奥に強い衝撃が走った。
長い時を経てようやく再び重なったその温もりは、次第に強く、深く絡まり合いながら、お互いを求め合う熱へと変わっていった。
呼吸が重なり、近すぎる距離に戸惑いながらも、
離れようとは思えなかった。
触れているという事実よりも、拒まれていないという確信が、蓮の胸をじわじわと満たしていく。
ゆりの体温がすぐそこにある。
それだけで、心臓の鼓動が早まり、
身体の内側から熱がせり上がってきた。
けれど、なおも止まらない。
もっと深く、もっと確かめたい。
ゆっくりと視線が絡み、言葉にしなくても伝わる感情が、確かにそこにあった。
頬を真っ赤に染めながら、上目遣いに蓮を見上げる表情。
そのあまりの可憐さに、蓮はただ視線を奪われた。
荒ぶる呼吸が自分の耳にまで響く。
なのに、目の前に広がる光景は、不思議なくらい静かで、神聖で、ただ美しかった。
こんなに美しかっただろうか。
こんなに眩しかっただろうか。
こんなにも……愛しかっただろうか。
ドクン、ドクン、と血液が沸騰するかのように激しく脈打ち、全身を熱が支配していく。
「…蓮……筋肉ついたね………」
退院後、ストイックに鍛え続けたその身体。
健康を取り戻した証のような肉体美に、ゆりは思わず手を伸ばした。
衰弱し、力を失っていたあの頃を支えてきたからこそ、今目の前にある力強い体躯が胸に迫る。
蓮は無意識のうちに、彼女を包み込むように腕を伸ばしていた。
胸の奥に溜まっていた息が、ゆっくりと吐き出される。
互いの存在が近づくにつれ、胸の内側が静かに騒ぎ始める。
ゆりの全身を凝視するように辿っていた蓮の視線は、下から上へとゆっくり昇り、やがてその瞳を真っ直ぐに射抜いた。
「…………綺麗……」
真っ直ぐにゆりの瞳を見つめながら、心の奥から零れるように漏れた蓮の言葉。
瞬間、ゆりの頬はカァッと赤く染まり、羞恥に耐えきれず目を伏せながら横を向いて視線を逸らす。
その横顔に、蓮の指先がそっと触れた。
背けられた頬を包み込み、優しく正面へと向き直させる。
「……こっち見ろよ」
押し殺したような低い声。
ゆりは小さく顔を顰め、けれど抗い切れずに、上目遣いで蓮を見上げた。
その潤んだ瞳が絡んだ瞬間、空気はさらに熱を帯びていく。
蓮の中で何かが、静かに決壊した。
再び近づいた距離。
触れ合うほどの近さで、互いの存在を強く意識する。
心臓の音が、やけに大きく響く。
自分のものか、彼女のものか、もう分からない。
視界に映る彼女は、柔らかな灯りの中で、どこか現実離れして見えた。
そのあまりにも眩しく、美しい姿に、蓮は息を呑み、思考が真っ白になったまま硬直した。
「…………….」
「………見過ぎじゃない…?」
固まったままの蓮の耳に、ゆりのか細い声が落ちる。
「……いや……綺麗すぎて……」
蓮はようやく顔を上げ、少し笑みを浮かべて呟いた。
「……….恥ずかしぃょ…」
とろけるような瞳で蓮を見下ろしながら、頬を真っ赤に染めるゆり。
その可憐さに、蓮の想いは堪えきれずさらに激しさを増していった。
突然の破局から一年と三ヶ月。
長い間、焦がれるように求め続けてきたその衝動へ、ついに蓮は、震える想いをぶつけた。
ゆりの喉から、抑えきれないほどの熱を帯びた息が零れる。
その小さな音ひとつで、蓮の理性は限界を迎えた。
ゆりの呼吸が近い。
体温がすぐそこにある。
触れた指先から、言葉では表せないほどの想いが伝わってくる。
拒まれていないという確信が、蓮の胸を静かに満たしていった。
もう、躊躇う理由はなかった。
長い空白の時間。
触れたいのに触れられなかった夜。
抱きしめることすら、怖かった日々。
これは、今まで幾度も繰り返してきた只の繋がりじゃない。
何度もすれ違い、傷つけ合い、それでも求め続けてきた二人が、ようやく辿り着いた「真実の愛」。
今この瞬間に、念願叶い、二人の想いはようやく結ばれる。
蓮とゆりは、お互いに熱い視線を交わし合うと、そのすべてを埋めるように、蓮はゆりを強く引き寄せた。
ゆりの身体が、ふっと力を失い、蓮の腕の中に身を委ねた。
その瞬間、胸の奥で何かが静かに、確かに満たされていくのを感じた。
蓮と司と出会ってから、ゆりの世界は、いつの間にか“強い刺激”に満ちていた。
何も考えなくていい時間。
感じることだけに身を委ねる夜。
それが日常になり、当たり前になり、いつしか「欲しい」「欲しくない」を考えることさえ、やめていた。
平日も、休日も。
繰り返される感覚の波に、心を預けていれば済んだ。
けれど、あの日を境に──
すべてが、唐突に止まった。
それ以来、身体は沈黙し、感覚は奥へ奥へと閉じ込められた。
欲しているのかどうかも、求めていいのかどうかも、
自分でも分からないまま、時間だけが過ぎていった。
それなのに。
今、こうして蓮の体温が近くにあるだけで、胸の奥がじわじわと熱を帯びていく。
忘れていたわけじゃなかった。
壊れていたわけでもなかった。
胸の奥から込み上げる、言葉にならない震え。
それは、欲望よりもずっと柔らかくて、快楽よりもずっと切実で。
ゆりは、思わず蓮の存在を確かめるように、
小さく息を吐いた。
その瞬間、身体ではなく、心が先に、深く揺れた。
二人の心臓の鼓動がひとつになったかのように重なり合った。
ついに、ここまで辿り着いた。
それは、ただの繋がりではなく、運命に導かれた二人の絆が、永遠に刻まれた瞬間だった。
世界が、狭くなる。
視界が、白くなる。
音も、思考も、遠ざかっていく。
残っているのは、互いの存在だけ。
考えるより先に、感情が溢れ出し、長い間抑え込んできた想いが、ついに限界を越えようとしていた。
その気配を察して、ゆりの胸はきゅっと縮む。
しかしその瞬間——
「……………?……」
胸の奥で高まっていた蓮の熱が、頂点へ届く直前で……
突如として形を失った。
胸の奥でせり上がっていた熱が、スーッとと冷水を浴びせられたように引いていく。
確かにそこにあったはずの感覚が、全身を駆け巡っていた感覚が、途中で途切れ、手のひらから零れ落ちる砂のように消えていった。
「……っ……あ、あれ……?」
喉から漏れた声は、震えを含みながら掠れていく。
息は荒いのに、身体の奥では「あと一歩」のところで何かが断ち切られてしまったような虚無感が広がった。
「………?」
ゆりも、その違和感に気づいた。
つい直前まで、確かに伝わっていた蓮の熱。
その力強さが、いつの間にか失われはじめていた。
少しずつ…
ゆっくりと…
その熱は、力を削がれていく。
蓮の動きは次第に鈍り……
ついには完全に止まった。
込み上げていた力がふっと抜け落ち、蓮は思わずゆりの肩に額を押し当てる。
ゆりを求める心とは裏腹に、応えられない身体。
歓喜の頂点に至るはずだった瞬間が、唐突に虚ろな余韻へと変わっていく。
なぜ、どうして、ここで止まるんだ。
あと少しなのに。
こんなにも求めているのに。
「…………」
「…………」
突然の出来事に、二人は同時に混乱し、思わず押し黙って思考を巡らせてしまった。
ゆりは胸の奥がズキリと痛んだ。
まるで蓮に拒まれたような感覚。
必死にそうじゃないと打ち消そうとしても、止まった動きがまるで自分が拒まれたかのように錯覚させてしまい、心が揺さぶられる。
蓮は、呼吸を整えられずに肩で息をしながら、心の中で焦りを募らせていた。
自分が応えられなかったことを、ゆりを前に情けなく、そして罪深く感じる。
求め合っていたのに、最後まで応えられない。
その事実が、胸に重くのしかかった。
「………….蓮……?」
ゆりが不安そうに名前を呼ぶ。
返ってくるのは深呼吸だけで、蓮は己の中で渦巻く混乱を言葉に出来ずにいた。
「……ち、違う……ゆりのせいじゃない………俺が……なんか、急に……」
悔しそうに顔を歪め、強く唇を噛む蓮。
押し寄せるはずの波に裏切られた虚しさと、自分への苛立ちがないまぜになって、胸の奥を締めつける。
そんな彼の頬に、ゆりはそっと手を添えた。
その指先は驚くほど優しく、震える蓮の心を静かに撫でていく。
「……大丈夫?」
柔らかな声が耳に落ちた瞬間、張り詰めていた心がふっと解けて、蓮の胸がじんわり熱くなる。
「…無理しないで……まだ……身体が本調子じゃないんだよ。きっと」
そんなはずはない。
筋力も、神経も、医師に言われたとおりすべて回復しているはずだ。
なのに、どうして──
虚無感と焦燥に押し潰されそうになる。
だが同時に、目の前で寄り添ってくれる彼女の存在が、その全てを救っていた。
高まりの頂点よりも、満たされなかった感覚よりも、「ここに、ゆりがいてくれる」という事実のほうが、何よりも大切だと、蓮はその瞬間、深く思い知らされた。




