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狂気の魔法  作者: 波方 真季


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第44話 マックスの死


二人がマンションで同棲生活を送り始めて、早くも一か月が経っていた。


リハビリ通院も一区切りを終え、今は月に一度の検診兼リハビリだけ。

蓮は一か月前に本部へ顔を出して以降、少しずつ在宅ワークを織り交ぜながら仕事に身体を慣らしていき、今ではすっかり以前のように毎日出社できるまでに回復していた。


「……っおし!外れたぁ!」


「えっ!?はやっ!」


蓮のリハビリ目的で始めた“知恵の輪”。

今ではゆりもすっかりハマってしまい、ネットで次々に難易度の高いものを注文しては、二人で競い合うのが日課になっていた。


「んー…こっちのやつ全然外れないんだけど……」


真剣な表情で指先を動かし続けるゆりの額に、小さな皺が寄る。


「貸してみ?」


蓮が手を差し出すと、ゆりは溜め息まじりに知恵の輪を渡した。


数分後。


「……ほら、いった!」


「は!?どうやったの!?」


ゆりが思わず身を乗り出すと、蓮は得意げに知恵の輪をくるりと回し、外れたパーツを掲げてみせる。


「ちょっと待ってね、戻す」


蓮は器用に知恵の輪を組み直し、また元の形に戻し始めた。


そして数分後。


「よし。えーとこれはですね……」


ゆりの手に、元の形まで戻した知恵の輪を握らせると、蓮はそっと自分の手を重ねた。


「あれ…どーやんだっけ…反対からだとわかんねぇな」


逆から見る形に少し戸惑いながら、眉間に皺を寄せてソファに深く座り直す蓮。


「ちょっとゆり、こっち来て」


促されるまま、ゆりは蓮の足の間にちょこんと座る。

その瞬間、背中に蓮の体温を感じ、胸がふわっと熱くなる。


蓮は後ろから覆いかぶさるように腕を伸ばし、ゆりの両手にそっと自分の手を重ねた。

そして彼女の手を導くように、ゆっくりと知恵の輪を動かす。


「これを……ここに通して……」


蓮の手に導かれながら、ゆりの指先がゆっくりと知恵の輪を動かす。

金属同士がかすかに擦れる音が、静かなリビングに響いた。


「ちょっと待って!出来そう!」


その瞬間、ゆりは思わず蓮の手を振り払った。

そして、真剣な眼差しのまま自分の両手だけで最後の動きを確かめる。


カチャリ——。


「やった、外れたー!ほら!」


振り向いたゆりが、満開の笑顔で知恵の輪を掲げる。

その笑顔は、無邪気で眩しくて、まるで光そのものみたいだった。


トクン——。


至近距離で見せられたその笑顔に、蓮の心臓がふいに跳ね上がる。

胸の奥にせり上がる熱を抑えようとするほど、視線はゆりから離れなくなっていく。


「…………」


その熱い視線を感じたゆりの表情にも、ふと緊張が走り、笑顔の奥にほんのり赤みが差した。


背中に感じる蓮の体温。

至近距離で、真剣に見つめる目の前の表情。


身体がどんどん熱を帯びていき、ゆりの胸はトクン、トクンとその鼓動を早めていった。


その瞬間、蓮の視線がゆっくりと下がり、唇へと落ちる。

それに釣られるように、ゆりの視線も蓮の唇へと吸い寄せられていく。


「…………」


お互い無言のまま硬直し、二人の間に漂う空気だけが熱を高めていく。


息づかいが混じり合い、触れそうな距離で時間がゆっくりと伸びていく。



そして——



ゆっくりと、



お互いの唇が、





引き寄せられるように近づいていく。





ピンポーン——


「…あ!クール便!」


突如、室内に鳴り響いたインターホンに、ゆりがハッと反応した。

そしてバッと立ち上がり、パタパタと足音を鳴らしながら玄関へと去っていく。


ついさっきまで自分の腕の中にあったゆりの温もりが、ふっと消えた。

蓮は無性なもどかしさに襲われ、思わず拳をぎゅっと握った。


(あー、くそっ……!)


筋力の回復も、神経の回復も、仕事も、日常生活も、何もかもが元通りになりつつある。

けれどただひとつ、元通りになっていないことがある。



それは、ゆりと蓮が事故以来、まだ一度もキスすらしていないということだった。



意識回復からもう五ヶ月が過ぎた。


これだけ一緒にいて、これだけ同じ時間を過ごしているのだから、頃合い的にはもう進展してもいい筈だ。

蓮の胸には、ずっと抑え込んできた気持ちが渦巻いていた。


そろそろいい加減に、ゆりが欲しい。


最近の蓮は、そんな思いを抱えながら悶々とする日々を重ねていた。







就寝前のベッドの上。


「明日どこにいんの?」


「えーっと、スターアクアリウムエリアだったかな」


ゆりは蓮の問いにそう答えながら、スマホで早番用のアラームをセットする。

小さな電子音と同時に、画面が淡く光った。


「ゆり、おいで」


蓮はいつものように、腕枕を作って掛け布団を持ち上げ、ゆりを呼んだ。


ゆりはその布団の中に入ると、蓮の腕枕に頭を預け、自然とその腕に包まれる。


もう、何度も繰り返してきた寝る前の習慣。

気づけばこうして当たり前のように身を寄せ合い、眠る毎日が日常になっていた。


そんな中、蓮は静かに思考を巡らせていた。


こんなに毎日同じベッドで寝ているのに、ゆりがそういう雰囲気になる気配はない。

それを考えると、やっぱりあの日司が起こした出来事が原因で、セックスが怖くなってしまったのかも…

もしそうだとしたら、俺がむやみやたらに手を出してあの記憶を呼び起こすようなことだけは絶対にしたくない。

この空気を壊さずに、この状況を打破してゆりと一線越えられる、何かきっかけを作らないと…


同じように、隣でゆりもまた思考を巡らせていた。


前の蓮は、マンションに連れ帰るたびに必ず毎日欠かさず欲情してきたのに、なんでちっとも手を出して来ないんだろう。

あんなに強引だった蓮が、今はまるで人が変わったみたい。

でもそれが私を好きじゃなくなったからじゃないことはわかる。

蓮は、私がここに住んでいることが本当に嬉しそうだし、毎日幸せそうに喜んでくれてるし…

それなのに、なぜ抱いてくれないんだろう。

過去に自分で蓮を振ったからには、自分から誘うのはどうしても気が引けるけど…


そろそろいい加減に、蓮としたい。


よし。


ここらで試しに……仕掛けるか。


蓮に包まれる腕の中。

ゆりは胸の奥で小さく息を吸い込み、意を決すると勇気を出して、そっと蓮の背中に自分の腕を回してその身体にすり寄った。

密着する体温と鼓動の音。


「ゆり…?どうしたの…?」


突然の出来事に、蓮は心臓が飛び出しそうになり、思わず動揺した声を漏らす。


「……昨日みた……怖い夢…思い出しちゃって……」


ゆりはそう言いながら、蓮の胸元に頬を擦りつけた。

背中に回した腕にぎゅっと力を込め、さらにその身体を強く密着させる。


「だから……蓮……」


首筋に感じるゆりの吐息。

密着した身体のぬくもり。


思わずゆりの顔を覗き込む蓮。

蓮の心臓はバクバクと暴れるように脈を打ち、呼吸が浅くなる。


すると、赤らめた頬のまま、ゆりの視線がゆっくりと昇り、上目遣いに蓮を捉える。


「……ぎゅって……抱っこして……」


可愛く甘えた声に、熱を帯びた視線で蓮を容赦なく誘惑した。


蓮の心臓が、ドクンッと大きく跳ねる。


堪らず、腕枕していた腕でゆりの肩を抱き込み、もう片方の腕を腰に回してぎゅっと力を込める。

強く抱きしめた瞬間、二人の体温が一気に溶け合った。


「っはぁ……はぁ……」


蓮は、ゆりの顔と枕の間に顔を埋めながら、自分の頬にゆりの頬を重ね、押し付ける。

蓮の乱れる熱い吐息が、ゆりの耳元で吐き掛かけられたその瞬間、ゆりの足がそっと蓮の足の間に滑り込み、蓮もそれに答えるように膝を折り曲げ、絡み合う脚先が、互いの存在を強く意識させる。


胸の奥から熱がこみ上げ、息が詰まるほどに高鳴っていく。




やばい、やばい、やばい。


もう無理だ。


限界だ。




ガバッ


頭が真っ白になったその瞬間、蓮は上体を起こし、勢いよくゆりの身体に覆いかぶさる。

ゆりの頭の両サイドに肘をついて見下ろした。


「……はぁ……はぁ……」



掛かった──。



ゆりは心の奥で、そっと呟いた。


仰向けにされたゆりは、至近距離で蓮の熱い視線を受けた。

その瞳には、かつての蓮と同じ、獲物を狙う狼のような鋭い光が宿っている。

蓮の荒くなる吐息、頬にまで届く熱気。

その全てが、蓮の欲情スイッチが確かに起動したことゆりは確信した。


ゆりは、その表情を見上げながら、胸の奥が甘く痺れていくのを感じ、思わずうっとりとした目で蓮の熱い視線と絡めた。




その瞬間。




ブーッブーッブーッ


二人の頭上で蓮のスマホが、けたたましく震えだした。

こんな夜更けに、誰が、何事だろう。


たけど、今は──


「…………」


蓮は、ゼロ距離でゆりと熱く視線を絡めたまま、息を呑んで動かなかった。

その胸の奥で、電話のバイブ音と同じリズムで、心臓が早鐘を打つ。


「……電話……いいの?」


変な時間帯の着信が気掛かりで、ゆりは小さく問いかける。


「…………ごめん……名前だけ見る」


悩んだ末に蓮はそう答えると、離れたくないとばかりに、ゆりとの距離を保ったまま頭上へと腕を伸ばした。

画面を覗いた瞬間、彼の瞳がわずかに揺れる。


「………お袋だ」


「蘭子さん?」


思わずゆりも声を漏らす。


着信相手は、蓮の母・蘭子。

彼女は決して、こんな非常識な時間帯に連絡をしてくるような人ではなかった。

だからこそ、画面に浮かんだ名前が、蓮の胸をざわつかせた。


ブーッブーッブーッ


「……着信……長いよ…?出た方が良くない?」


名前を見て胸がざわつく心理と、目の前の熱い欲望がせめぎ合う。

硬直したままの蓮だったが、ゆりの言葉で、ついに諦めたように短く舌打ちした。


「ちっ……」


そして、上体を起こして泣く泣くゆりから身体を離すと、画面を通話ボタンへスライドし、頭を掻きながら不機嫌そうな声を放った。


「……なに?」


その瞬間──

蓮の耳に、聞きたくなかった知らせが飛び込んできた。


「……………え………」


明らかに変わった蓮の声のトーンに、ゆりは思わず息を呑む。

胸の奥に、言いようのない不安が広がっていった。


「…うん……うん………わかった、すぐ行く。」


短く、低くそう答える蓮の顔は、さっきまでの熱をすっかり消し去っていた。

そして早々に電話を切ると、深い溜め息が蓮の胸の奥から重くこぼれ落ちた。


「……大丈夫?」


影を落とした蓮の横顔に、ゆりは恐る恐る問いかける。

だが、その返事は想像もしていなかった言葉だった。


「…………マックスが……やばいって……」


「マックス……あ、前に言ってたジャーマンピンシャーの…?」


ゆりはすぐに思い出す。

蓮が中学生の頃からずっと一緒に暮らしてきた、家族同然の存在だと話していた愛犬の名前。


(あれ?ワンちゃんいたの?)


まだ蓮のマンションに出入りし始めて間もない頃、ゆりはキッチンの棚から犬用のおやつを見つけて、ふと、そんなことを訊いたことがあった。


(あぁ、いたよ。今病気しちゃって、俺仕事で留守がちだし看病してやれないから…本家で療養中。)


(へー!犬種なに?今何歳なの?)


(ジャーマンピンシャーだよ。俺が中学ん時に生まれたばっかでウチに来たからー…13?14?だいぶ老犬だよ)


(そっか…名前は?)


(マックス!マックスはさ、結構頭よくて──……)


そこから蓮の口は止まらなかった。

マックスの思い出話は、凄く嬉しそうで、どこか寂しげだった。


そして今、そのマックスの名を口にした蓮の声は、あの時の寂しさをそのまま何倍にも濃くしたような、かすかに震える響きを帯びていた。


「急いで……行ってあげないと」


ゆりの声に促され、蓮は小さく頷くと、迷いなくベッドから飛び降りて着替えを始めた。


「……ごめん、ゆり」


その謝罪に込められた意味を、ゆりはちゃんと分かっていた。

今すぐマックスのもとへ行かなければならないことも、蓮の胸がどれほど張り裂けそうな思いでいるかも。


「大丈夫。待ってるね」


短く、それだけを告げる。

蓮は伏し目がちにゆりを見つめ頷くと、寝室を後にし、足早に部屋を出ていった。


自らハンドルを握り、アクセルを踏み込みながらも、蓮の胸は不安と焦燥で張り裂けそうだった。

本家の門をくぐると同時に車を停め、駆け足で館内へ。


マックスの療養専用ルームの扉を開け放つと、そこには沈痛な面持ちの親族が一斉に振り返った。

専属獣医師が一歩前に出て、深刻な眼差しを蓮に向ける。


蓮の姿を認めるや否や、人々は自然と輪を割き、ベッドの周囲を開けた。

そこには、数本の管に繋がれながら横たわる愛犬マックスの姿。


「マックス…!マックス!」


切羽詰まった声に応えるように、マックスの耳がかすかに震えて反応した。  

けれど瞼は重く、細く開いた瞳の奥には、かつての力強い輝きは見えない。


蓮は思わずベッド脇に膝をついた。


「……マックス…俺だ、蓮だよ」


震える指先でそっと毛並みに触れる。

痩せ細った体からは、かつての逞しさは消え失せ、かすかな体温だけが残っていた。


その温もりを感じ取った瞬間、蓮の胸に熱いものが込み上げる。

喉の奥が詰まり、声にならない嗚咽がこぼれ落ちそうになる。


「先生、マックスは蓮の子なので、先程の件、蓮に聞いて下さい」


蘭子の静かな言葉に、蓮は俯けていた顔をゆっくりと上げ、獣医師へと顔を向けた。


「……かなり体力が落ちていて、年齢的にも体の限界が近づいています。正直に申し上げると……今夜が峠になる可能性が高いです。点滴や酸素で一時的に支えることは出来るかもしれませんが……根本的に回復させることは難しい状況です……ここからは…どうされますか」


部屋の空気が一瞬、凍りついたように静まり返る。

その場にいる全員の視線が、ただひとり蓮へと集まる。


息を呑む音さえ憚られるほどの沈黙の中で、蓮は唇を強く噛み、マックスの横たわる姿を凝視した。

小さく上下する胸。掠れるような呼吸。

十数年の記憶が、一気に胸に溢れ出す。


息が詰まりそうな本家で育った子供時代。

思春期でどうしようもなく親とぶつかり、孤独に押し潰されそうだった時。

そんな時に、マックスは自分のもとへ来てくれた。


未熟な自分が、沢山の壁にぶち当たり、心がへし折れそうだった時も。

大人になって、ようやく成功を掴み、喜びを手にした時も。

いつだって肩時も離れず、ずっと側で支えてくれた。


マックスは、自分の人生の証そのものであり、唯一無二の相棒だった。


そして決断は、蓮に委ねられていた。


蓮はふと、自分が植物状態だった時に見た夢を思い出した。

真っ暗なトンネルの中、その先にぼんやりと見えた、あの暖かい光。

マックスも今、あの景色の中を歩いているのだろうか。


ゆりが俺を呼んでくれたように、俺も呼んだら、後ろの暗闇からマックスの耳へと届くのだろうか。

あの小さな耳が、俺の声を探してくれるのだろうか。




でも……。


苦しくないだろうか………。




暗闇の中へ戻ったら、マックスはまた、管に繋がれて、走ることも動くことも出来ず、ただ痛みに耐えるだけの生活に引き戻されるのではないか。


あの……吸い込まれるような暖かい光に包まれる出口へと、本当は行きたいのではないだろうか。


自由な身体で、もう一度思い切り走れる世界へ、行きたいのではないか。




「………管を……全部……外してください………」




掠れた声と共に、蓮の肩は大きく震え、両目からはボロボロと涙が溢れた。


その言葉を受け、獣医師は静かに頷き、小さく会釈すると、ひとつひとつ、マックスの身体に繋がれた器具を外し始めた。


外されていくたびに響く微かな音。

そのたびに、蓮の嗚咽は深くなっていく。

その蓮の姿を見つめる親族たちもまた、目に涙を溢し、嗚咽を堪えながらマックスの小さな身体を見守った。


そして、すべての器具が取り外され、獣医師がそっと離れた瞬間。

蓮は迷わず、管から解放されたマックスを胸の中へ抱き寄せた。


「マックス…ごめん…っ!ずっと苦しかったよな…痛かったよな…!何年も…俺…わかってやれなくて…本当にごめん…!!」


声にならない嗚咽を漏らしながら、震える腕でマックスを強く抱きしめる。

その涙は、謝罪であり、赦しを乞う祈りでもあった。


蓮は、決して呼び戻そうとはせず。


ただひたすら、最後に伝えたかった感謝の想いを胸に込めて囁いた。


「……もう自由だぞ…マックス……本当にありがとう」


蓮の涙は、別れの悲しみと、最後まで愛した証だった。








人生は、儚い。


生命あるものは必ず衰え、やがて死ぬ。

老いることすら叶わず、唐突に命の危機が訪れることだってある。


今日も明日も、自分や大切な存在が変わらず傍に居るとは限らない。

今日も明日も、当たり前の幸せな日常が続いていくとは限らない。



それならせめて、後悔だけはしたくない。


一度きりしかない儚い人生だから。



怯えて、言い訳をして、前に進めずに立ち止まる自分に決別する。

見つめるだけの日々なんて、終わりにしよう。



いつ突然何が起きようとも、絶対後悔しない為に。





「……よし。決めた!」


マックスの温もりを胸に刻んだその夜。

本家から、ゆりが待つマンションへと帰る車内で、蓮はその瞳に静かな闘志を燃やし、一世一代の大作戦を決行する決意を固めた。








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