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狂気の魔法  作者: 波方 真季


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第43話 両片思い


「何?……この距離」


勤務を終えたゆりを乗せ、本部ビル地下駐車場から走り出したリムジンの車内。

ふとした違和感を覚えた蓮が、眉を寄せて疑問を口にした。


「え?」


ソファの奥にゆったりと腰掛ける蓮に対し、ゆりは反対側の端にぴたりと腰掛け、窓の外へ視線を逸らしている。


過去に何度も同じシチュエーションを経験しているはずなのに。

ただ仕事帰りに蓮のマンションへ向かうだけなのに。

自分でも不思議な程に、胸の鼓動は高鳴り、指先までぎこちなく強張ってしまう。


自分が、蓮の事を愛してると自覚して以来、これまで経験してきた当たり前だった些細な事が、こんなにもやたらと小っ恥ずかしい。


「…いや、蓮が横になるかなーって思って!広くスペースを確保してあげないとでしょ!」


無理やり取り繕うように笑うゆり。

けれどその声色は、隠しきれない緊張を帯びていた。


「そんな…すぐ着くのに、いちいち横になるかよ。広く使えよ、別に」


鋭い蓮は、軽口を叩きながらも、ゆりから漂う張り詰めた空気を肌で感じ取っていた。

その緊張が、なぜか自分にも伝染してしまう。


「あ…そ。」


ゆりは少しだけ端から腰をずらす。

けれど、どこまで近づいていいものか分からない。


(…え、前はどの辺に座ってたっけ?てか、どんな感じで並んでたんだっけ…?やばい、全然思い出せない…)


頭の中で焦れば焦るほど、自然な距離感が掴めなくなる。


蓮はそんな彼女の戸惑いを直視できず、緊張感から逃げるように窓の外へ視線を逸らした。


結局、微妙な距離を残したまま。

どちらも一歩を踏み出せぬまま。


張り詰めた空気を抱えて、リムジンは静かに蓮の自宅マンションへと滑り込んでいく。


そして、その緊張感のまま、二人は言葉少なにマンションのエレベーターを上がっていった。


一度は別れた筈なのに、再びこうして二人でこの場所にいる。

その事実が、夢のように不確かで、お互いに実感が湧かず、どこか現実味を欠いていた。


蓮がカードキーを翳し、無言で先導する。

玄関の前で、電子ロックが「ピッ」と音を立て、ゆっくりと扉が開いた。


蓮の後ろについて、足を踏み入れたその瞬間、空気が変わる。


途端、懐かしい香りが鼻先をかすめる。

蓮の部屋の、あの独特の落ち着いた香り。

センサーライトが感知して、ぱぁっとゆるやかな光を玄関いっぱいに広げた。

温かいのに、どこか胸を締め付けるような光。


何もかもが、あの頃のままだった。

その一瞬で、ゆりは時を飛び越えたかのような錯覚に包まれる。

胸の奥にしまい込んでいた日々の記憶が、ドクン、と音を立てて息を吹き返した。


蓮が靴を脱ぎ、廊下へ一歩踏み込んだその瞬間──


「……ただいまー」


不意に、背後から響くゆりの声。

思わず蓮は目を丸くして、首だけを振り返った。


その驚いた表情を見て、ゆりはハッと我に返る。

あまりにも自然に、癖のように、口をついて出てしまったその言葉。

玄関に足を踏み入れた途端、当時の日常が全身を包み込み、無意識に溢れてしまった。


蓮は驚きに硬直したまま、上半身だけをひねるようにゆりの方へ振り返る。

その動きが途中で止まったまま、半笑いの表情で、両手だけがゆっくりと広がった。


「……おかえり…」


まるで、その“言葉”を受け止めるかのように。


リビングへ進むと、本家から出張されたシェフと使用人がキッチンに立っていた。


磨き込まれたカウンターの上には、彩り豊かな前菜や温かなスープ、香り高いメインディッシュまで豪華で健康的な夕食がずらりと並び、まるで二人を祝福するかのように温かな光の下で待っていた。


「すごい…ホテルのレストランみたい」


思わずゆりが感嘆の息を漏らすと、シェフが微笑みながら料理をテーブルへとセッティングしていく。

食事が始まると、ゆりは時折、使用人やシェフを会話に交えながら、料理や食材の話題に花を咲かせ、穏やかな時間がゆっくりと流れていった。


食後の片付けも掃除も、手際良くすべて整えられていく。

グラスの音が静かに止み、最後のクロスがテーブルから引かれると、シェフと使用人が本家へ戻る支度を整えた。


「それでは明日の朝、また手伝いが参りますので」


帰り際、使用人が深く一礼して告げる。

蓮は椅子にもたれながら、少し砕けた声で答えた。


「いいよ、明日はゆりが居るし。朝はゆっくりしたいから夜来てよ」


「承知しました。奥様へその旨お伝えいたします」


再び丁寧に腰を折ると、使用人たちは音もなく去っていった。

扉が閉じると、リビングに残されたのは、二人だけの静けさ。

料理の香りだけがまだ漂う空間に、ようやく二人の時間が訪れた。


「朝…断って良かったの?」


ゆりは、テーブルの縁に指先を置きながら、どこか気になっていたことを口にした。


「俺、ここのプライベート空間にあんま他人入れるの嫌なんだよね」


蓮はソファに深く腰を沈め、素の声音で答える。


本家の専属使用人よりも、無関係な自分の方がよっぽど他人では….

そう心の中で突っ込みかけたゆりだったが、その瞬間、胸の奥がふわりと温かくなった。


それでも私を、ここに入れてくれていたんだ…


そんな確かな実感が、ゆりを静かに包み込む。


「本家、人多すぎて落ち着かねぇんだよ。だからわざわざ自分のマンションがあるのに、こっちにまで人よこされたら意味ねぇし、ゆっくり出来ねーだろ」


そう言って蓮は、無造作に髪をかき上げながら、気怠そうに言った。


その後は、まるで過去のページをめくるように、以前と同じように交代でお風呂を済ませた。

そして、以前と同じように、就寝前の時間をソファに並んで座って過ごしていた。


ただ違うのは、どちらも少し背筋を伸ばし、わずかに緊張した面持ちでいることだけ。


この日ゆりは遅番勤務だったため、時刻はすでに午前一時を回っていた。

窓の外では都会の光がほのかに滲み、マンションの中はシン……と静まり返っている。


夜が更けていくにつれ、二人の胸には同じ疑問が膨らんでいった。


(今日って……どう寝るんだ?)

(今日って……どう寝るんだ?)


まるで二重唱のように、ふたりの心の中で同じ言葉が響く。

視線を合わせられず、同じソファに並びながらも、どこかぎこちない空気が漂っていた。


ゆりは、心の中でぐるぐると思考を巡らせていた。


当然、蓮は身体のことがあるし、寝慣れた自分の寝室でゆっくり寝てもらうとして…

でも私、他の部屋で寝たことなんて一度もないし、

前は当たり前のように蓮の寝室で寝てたのに、今さら他の部屋で寝るっておかしくない?

でも、だからと言って、あんなに大口を叩いて蓮を振っておいて、自分から「一緒に寝よう」なんて…

あまりにも都合が良すぎる。

チャラいし軽いし、アバズレ女って思われるかもしれないし……無理無理、それは絶対言えない。


一方で、蓮もまた、心の中で同じようにぐるぐると思考を巡らせていた。


ここまで自然に一緒に過ごしてきたけど、よくよく考えたら俺、前に振られてるし…

そんな俺が今さら一緒に寝ようなんて、流石におかしいよな。

ゆりはどんな心境で、ここまで毎日支えてくれているんだろう。

同情とか罪悪感とか、俺を支えているのは「自分のせいで俺がこうなったから」って追い目を感じているからかもしれない…

それにも関わらず、誘って嫌な気にさせたら申し訳ないし…普通に拒否られたらまじでシャレになんないし、絶対立ち直れない。


二人の胸の奥で、同じ疑問が重なった。


(そもそも……蓮は私のこと、どー思ってるのかな)

(そもそも……ゆりは俺のこと、どー思ってるのかな)


お互いの心の声は、触れられないまま、同じ言葉を反響させていた。


甘酸っぱくて、もどかしい、両片想いのこの状態。


一年前までなら、こんな瞬間が二人に訪れるなんて、誰が想像できただろうか。

当時はただ衝動と欲望のまま、互いを振り回し、傷つけ合い、名前を呼ぶ声さえ支配や挑発に満ちていたのに。


今は、たかが一言、隣に座る距離、それだけで胸が高鳴り、呼吸が浅くなる。


その変化が、奇跡のように胸の奥で芽生えた何かの確かさを、互いに無言のまま感じさせていた。




数分後。




「くっそ……こいつ、またかよ」


先ほど、コテン…とゆりの頭が自分の肩にそっと触れた瞬間、蓮の心臓はドクン、と跳ね上がった。

あまりの鼓動の速さに、自分でも一瞬息を呑むも…ゆりはそこから微動だにしない。


その直後聞こえた静かなゆっくりとした呼吸音にに、そーっと顔を覗き込んだ。


そこには、まるで天使のような寝顔。


自分の肩に頬を預け、子どものように安心しきった表情で、ゆりは静かな寝息を立てていた。


人の緊張をよそに、こんなふうに寝落ちするなんて……。

悔しいような、力が抜けるような、そして胸の奥にじんわりと安堵が広がっていくような、不思議な感覚が蓮を包み、先ほどの言葉が口から溢れた。


「ゆり!寝るならベッドで寝ろよ!」


「……」


肩をそっと揺らしても、返事は無い。

ゆりは蓮の肩に頬を預けたまま、気持ちよさそうに眠っている。


(…運べるかな………)


かつてなら、ソファで寝落ちしたゆりをひょいっと軽々と抱えて寝室まで運んでいた。

けれど、今の自分は事故後のリハビリ中で、筋力はまだ完全ではない。

一抹の不安を抱えながら、それでもそっと腕を差し入れ、ゆりの身体を抱え上げてみる。


「……ぐ……っ!」


持ち上がる。

けれど、歩き出した瞬間に腕がプルプル震え、このままでは途中で落としそうな予感がする。

そして、ゆりを再びソファにそっと戻す。


「はぁ……まじで本気で筋トレしよ……」


溜め息混じりにそう呟くと、蓮はゆりの頭の下にクッションを挟み、毛布を掛けてあげる。

ゆりは微かに蓮の方へ寝返りを打ち、安心したように小さく息をついた。

蓮はその寝顔を見つめ、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じる。

相変わらずの、赤ん坊のように無防備な寝顔。

その堪らない懐かしさに、思わずじっと至近距離で見つめてしまう。


視線が、ふと唇に落ちた。

無意識に、心臓の鼓動がひとつ跳ねる。


「おーい、ゆりー…俺、寝ちゃうからなー……」


わざと軽い調子で声をかけるが、返事はない。

ゆりはひたすら静かな寝息を立てたまま、微動だにしない。


鼓動が、徐々に高まっていく。


……こんだけ起きないなら……キスしても……平気かな………。


頭の中に浮かんだその考えを、蓮は自分で打ち消そうとする。

けれど、視線はどうしても彼女の唇に吸い寄せられてしまう。


トクン、トクン、と心臓の音が自分でもはっきり聞こえるほど高鳴っていく。

ゆりの寝顔が、すぐ目の前にある。

ほんの数センチ、顔を傾ければ、彼女の唇に触れられる距離。



ゆっくり、ゆっくりと顔を近づける蓮。



その胸の奥で、理性と衝動がせめぎ合っていた。



───。



「………っダメだ!!」


直前の距離で、蓮はガバッと立ち上がった。

息が荒く、鼓動がうるさい。


こんな抜き打ちでこっそりやるなんて、男が廃る。

男として失格だ。


自分自身に吐き捨てるように心の中で呟き、両手で髪をかきあげる。

唇が触れそうになった自分の行為に、強烈な自己嫌悪と同時に、まだ残っていた理性の火が胸の奥で燃えた。


蓮はその場から逃げるように寝室へ駆け込み、扉をそっと閉めた。

小さく深呼吸しながら、自分の胸に手を当てる。


今回はちゃんとしたい。

慎重にいかないと…また離れて行ったら最悪だ。

ゆりを大事にしないと……まっすぐに……。


暗い寝室で、静かにそう誓うように目を閉じた。







まだ外は薄暗い。

カーテンの隙間から、夜と朝の境目のような青白い光がわずかに差し込んでいる。


蓮はふと、腹部に妙な重みを感じて目を覚ました。

寝ぼけた頭で視線を下げると、そこにはゆりの顔。


「…………っ!?」


彼女は無防備な寝顔のまま、蓮の腹部に腕を回し、まるで子どものようにしがみついて眠っている。


(…は!?なんで!?)


一瞬、思考が真っ白になった。

昨夜、あれほど葛藤しながら理性を総動員して距離を保った自分をよそに、こんな風にちゃっかり平気な顔して隣に潜り込んでくるなんて。

なんて自由で、なんて人の心を振り回すんだろう。


(あー……もう……こいつまじか……)


呆れと愛しさが入り混じった感情が胸の奥に滲む。

混乱しつつも、蓮はしばらく天井を見つめて身体を硬直させたまま動けずにいた。


やがて、小さく息を吐き、意を決したようにゆっくりと寝返りを打つ。

そっと彼女の頭の下に腕を差し入れ、腕枕を作る。

ゆりの髪が、頬にかすかに触れ、ふわりとあの日の香りが蘇った。


うるさいほど高鳴る鼓動を必死に押さえ込みながら、蓮は深く深呼吸をして、ゆりの背へとそっと腕を回した。


ゆっくりと、優しく、包み込むように抱きしめる。


彼女の柔らかいぬくもりが胸いっぱいに広がり、懐かしさと愛しさと幸せが一度に込み上げる。


全身でお互いを確かめ合うように、静かに抱きしめ合いながら眠るこの瞬間が再び訪れたことに、胸が震えた。


蓮はゆりの額に頬を寄せ、目を閉じる。

心の奥底で、確かに感じていた。

もう一度ここから始まる確かな絆を。


蓮はその温かな幸福に包まれながら、ゆりを抱きしめたまま、静かに眠りへと落ちていった。








(な…っなんで…こうなってる!?)


太陽は既に高く昇り、朝の眩しい光がカーテンの隙間から射し込む寝室。

淡い光に照らされながら、ゆりは目を開けた瞬間に息を呑んだ。


蓮と向かい合い、しっかりと抱きしめ合ったまま眠っている。

その現実に、頭が真っ白になる。


確かに昨晩、蓮を誘えないままソファで寝落ちし、深夜に目を覚ましてそっと蓮のベッドへ移動した。

蓮を起こさないように端の方で、距離を取って、遠慮がちに眠ったはず。


……それなのに。

なぜ今こんなふうに、蓮の腕の中に収まっている?


心臓がバクバクと跳ね上がり、頭の中に疑問と動揺が洪水のように押し寄せる。

それでもゆりは、ふと視線を蓮の寝顔へと上げた。


その距離、わずか数センチ。

差し込む朝日を背に、あまりにも綺麗なゼロ距離の寝顔がそこにあった。

息を呑むほどに、視線も心も一瞬で奪われる。


目の前には、蓮の唇。

そしてその瞬間頭の奥に、最初にこの部屋へリムジンで連れ去られた時の翌朝の記憶が閃光のようにフラッシュバックする。


(もう起きるの?まだ早くない?もう少し寝てようよ)


(目が冴えちゃったので、また寝るとか無理です)


(あっそう、じゃあさ…… 昨日の続き、どう?)


同じ季節。

同じ時間。

このベッド。


二年前、初めてこの場所で蓮と結ばれた記憶が、鮮明に蘇る。

胸の奥が痛いほど締めつけられ、過去と今とが重なって、息が止まりそうになる。


直前に脳裏に木霊した蓮の声。

その記憶に続いて落とされた、あの時の、甘くて優しくて、全身がとろけるようなキス。

まるで夢の中で溶けるような感覚を思い出した瞬間、ゆりの全身にじんわりと熱が込み上げた。


(あー……キス…したいなー……)


気づけば、蓮の唇から視線が離せない。

鼓動はどんどん速さを増し、耳の奥で自分の心臓の音が響きわたる。

脳裏を過去の記憶が埋め尽くし、全身はその甘美な残像に包まれていく。

理性の糸が少しずつ解けていくのを自覚しながらも、止められない。

目の前の現実と、記憶の中の幸福が重なって、ゆりの身体は熱を帯びていった。


(……こっそりキスしたら……起きちゃうかな……)


我慢できないとばかりに、そんなよこしまな考えが、ふと浮かんでしまった。

ゆりは、蓮の熟睡度を確かめるかのように、その安らかな寝顔をじーっと見つめる。



……と、尊い。



あまりにも寝顔が綺麗で、幸せそうで、気持ちよさそうで。

その瞬間、胸の奥から突き上げるように罪悪感がこみ上げてきた。


こんなに無防備な状態の彼に、欲情して寝込みに唇を奪おうとするとは、なんてふしだらな考えだろうか。


ゆりは思わず眉根を寄せて、視線を逸らした。

胸に溢れたのは、欲望よりもむしろ、彼への深い愛おしさだった。


そして、ゆりはそっと蓮の腕に手を添え、ゆっくりと持ち上げた。

まるで壊れものを扱うように、音ひとつ立てないようにして、その腕の中から自分の身体を抜き取っていく。


腕から解放された瞬間、胸の奥に残った温もりが、余計に愛おしくて切ない。

それでも、今はこれ以上そばにいると気持ちが溢れてしまいそうで、ゆりは静かにベッドから身を起こした。


カーテンの隙間から朝日が差し込む寝室をそっと後にし、裸足の足裏でひんやりとした床を踏みしめながら、リビングへと向かった。




──その数十分後。




ベッドの上で、蓮がふいに目を開けた。

腕の中にあったはずの温もりが消えていて、空っぽのシーツだけが残っている。


「……あれ……ゆり……?」


寝起きの頭が、状況を飲み込めずに空回りする。

この腕に確かに抱きしめて眠ったはずなのに、その姿がどこにもない。


まさか、あれは全部夢だったなんてこと、ないよな……。


胸の奥にふっと寂しさと焦りが広がり、次の瞬間、蓮は慌てて身を起こした。

シーツが大きく乱れる音と同時に、勢いよく寝室の扉を開く。


「……ゆり……っ!」


名前を呼ぶ声が、朝の空気にかすかに震えた。


「あ!蓮、おはよーっ」


キッチンに立つゆりが、顔を向けて笑顔で声を掛けてくる。

差し込む朝日がその頬をやさしく照らしていた。


「……おはよう……」


蓮は思わず立ち尽くした。

胸の奥に、じんわりと熱いものがこみ上げる。


ゆりを失ったあの日から、

一人きりで目覚める朝に、何度心を砕かれたか。

全てが悪夢であれば良かったのにと、何度願ったか。


ゆりの「おはよう」で始まる朝の幸せを、蓮は胸の奥でしっかり噛み締め、涙が滲みそうになる。


だがそれも束の間、耳に届いたのは、トントントン……と、リズムよく包丁の刻む音。


「……もしかして飯作ってる?」


蓮は声をかけながら、ゆりの立つキッチンへ歩みを進めた。


「前はいつも冷蔵庫空っぽだったのに、食材でいっぱいだったからびっくりしたよ。本家の人が朝来る予定だったし、沢山入れておいたんだね!」


手際よく包丁を動かしながら、ゆりは嬉しそうに笑った。


「そんなことしなくていいのに…適当に何か取ればいいよ」


ゆりは顔を上げず、穏やかに、けれど真剣な声で言った。


「だめだよ。デリバリーとかテイクアウトは味が濃いし、栄養バランスも…ずっと病院食だったんだから、いきなりそんなの食べたら身体に良くない」


その声が、当たり前のように隣にいて、自分を気遣ってくれていた。


「まだ少し時間かかるから、座っててよ。あ、コーヒー淹れようか」


ゆりに促され、蓮はダイニングテーブルへ腰を下ろした。

差し出されたカップから立ちのぼる香ばしい湯気。

鼻をかすめる料理の匂いと、キッチンから響く調理器具の音が、

静かに胸の奥を満たしていく。


ひと口コーヒーをすすりながら、蓮は目の前で淡々と動くゆりの手元を眺めた。

包丁のリズム、フライパンの音や皿の音、それらがまるで音楽のように、この空間に穏やかな朝を描いていく。


やがて、みるみるうちに目の前には惣菜が並べられ、彩り豊かな食卓があっという間に整えられていった。


「……プロみたいだな」


ぽつりと漏れた蓮の呟きに、ゆりはすぐ顔を上げ、

ほんの少し眉尻を上げながら、凛とした声で返す。


「一応これであなたの会社からお給料いただいて、仕事で料理してますからね。プロですけど」


その一言に思わず蓮は小さく笑い、ゆりもゆっくりとテーブルに腰を下ろした。

二人の間に漂う空気は、懐かしさと新しさが混じった不思議な温度を帯びていた。


魚や煮物、だし巻き卵やお浸しなど、温泉旅館の朝食のような健康的な惣菜が手際よく小皿に取り分けられて、次々と蓮の前に並べられていく。


「休みの日にまで料理させて…ごめんね……」


蓮の言葉に、一瞬だけ手が止まり、

ゆりは静かに彼の目を見た。

ほんの一拍だけ、視線が絡み合う。

しかしすぐに、彼女は無言のまま視線を料理に戻し、まだ神経の回復途中で、細かい作業が苦手な蓮の魚の骨を丁寧に抜く作業を再開した。


しばらくして、きれいに骨が取り除かれたほぐし身を、そっと蓮の前に置く。

その仕草の流れの中で、ゆりは小さく息をついて、

ぽそりと呟いた。


「………暫くは通うよ。蓮が落ち着いて、ゆっくり出来るように……」


その言葉を口にした瞬間、ゆりの頬がみるみる朱に染まっていく。

彼女自身も、言ったそばから恥ずかしくて仕方がないようだ。


(だから…そのいちいち赤面するのやめろっ!)


蓮は心の中で叫びつつ、自分の頬まで同じように熱くなっていくのを感じて、慌てて顔を背け、窓の外へ視線を投げた。


「非番の時はいいけど…私が早番の時は朝だけ、遅番の時は夜だけ…人呼んでね」


ゆりの言葉が、昨日の会話のやりとりを思い出させる。

“人がいると落ち着けない”と打ち明けた蓮の気持ちを、ちゃんと気遣ってくれるゆりの声。


「う、うん…ありがとう……」


短く返したその言葉には、言い尽くせない嬉しさと、胸の奥でそっと抱きしめるような熱が滲んでいた。


「あ!病院行く時間になっちゃうから急いで食べよ!はい、いただきます!」


時計を見たゆりが、慌てて手を合わせて箸を取る。

その仕草は、どこか忙しい母親のようで、でも柔らかくて愛しい。


「いただきまーす」


蓮もその声に合わせて、湯気の立つ味噌汁をひと口啜った。

じんわりと身体に染み込む、優しい味。

出汁の香りと素材の旨みが最高に引き出された上品な旨味が口の中いっぱいに広がっていく。


「……うま」


思わず、心の奥からこぼれるように呟いた蓮。

その素直な表情に、ゆりはフッと微笑んだ。


その後も箸を進める蓮。

プロのシェフが整えた豪華な味で育った彼にとって、目の前の家庭的な料理の堪らぬ美味しさは、どこか新鮮で、胸の奥にじんわり沁みていく。

一口ごとに広がる優しさに、言葉にならないほどの感動が湧き上がった。


こんなに幸せで、穏やかで。

これからもこの日々が続くなんてまさに夢のようだ。


「俺、事故って良かったぁ〜……」


「…バカなの?」


つい心の奥が零れてしまった蓮の言葉。

ゆりは箸を止め、呆れたように目を細めて突っ込んだ。


次の瞬間、二人の笑い声がリビングいっぱいに広がり、朝の光と混ざり合って、柔らかく溶けていった。






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