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狂気の魔法  作者: 波方 真季


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第42話 愛の芽吹き


ついに年明けに確定した、蓮の退院日。

事故から、優に六ヶ月を超える長い道のりだった。


決して平坦ではなかったけれど、目を見張るほどの「奇跡の回復力」と評されたその日々は、ゆりと蓮、二人が共に積み重ねてきた努力の賜物だった。


「えー!来てくれないの?」


「本家は流石に無理だよっ!敷居高すぎ!」


退院後の生活は、暫く在宅療養として経過を見守りながら、外来リハビリへ通う日々にシフトしていく。

いくら退院できるからといっても、いきなり元通りの生活など到底不可能で、まだ体力も集中力も持続が難しい。


そのため、使用人、シェフ、専属医、運転手など万全のサポート体制が整った本家で療養することが決まっていた。


これまで病院のVIP個室で、まるで同棲生活のように過ごしてきた二人の日々。

その病室には、朝起きて交わす小さな会話や、リハビリの合間の笑い声や、夜の静かな読書の時間まで、ゆりと蓮だけの生活が詰まっていた。


退院はゴールであると同時に、その生活が終わることを意味している。

蓮は、その事実にふと気づくと、胸の奥に小さな空洞ができるような感覚を覚えた。


「俺…退院しなくていいや」


唐突に、蓮はベッドの上でいじけたように小さく呟いた。

その声は冗談のようでいて、どこか本気の響きがあった。


「なに言ってるのっ!病院に迷惑でしょ」


ゆりは思わず声を張り上げた。

でもその顔は、怒っているというよりも、どこか呆れて、困ったような笑顔だった。


「……ゆりは……俺に会えなくても平気なんだね……」


俯き加減に、ショボンと肩を落とす蓮。

その姿が子どものようで、ゆりの胸にチクリと刺さる。

そしてゆりは、視線を逸らしながら、少しモジモシする。




「……蓮のリハビリに休み希望出すよ…………会いたいから……」




ボンッと顔を赤らめながら、必死に言葉を絞り出すゆり。

その瞬間、病室の空気がほんの少し柔らかくなった。


蓮は驚いたように目を丸くして、その赤く染まったゆりの頬を見つめた次の瞬間、自分も釣られたように、頬にカァッと熱が広がるのを感じた。


不意打ちだろ…それは。


意識回復してからの二人は、毎日の生活とリハビリでいっぱいいっぱいで、甘い雰囲気が漂う気配など到底なかった。


一年前までセフレのようだった関係など無かった事かのように、まるで振り出しに戻った二人の純粋過ぎる関係。


だけど積み重ねてきた努力と、共に過ごした時間の果てに、二人の間には、ほんの小さくて、けれど確かな、今までに無かった何かが芽吹いた瞬間だった。







その後、蓮の週三〜四回ほどのリハビリ通院が始まった。

ゆりは週二回の非番を、その通院の付き添いにあてた。


もちろん希望休は出せるものの、シフトはあくまで会社が組むもの。

だが、蓮の権限によってフード部へ「早瀬SVの希望休に準じて調整するように」との指示が下されている。


今回の事故の経緯は、当然ながら上層部内では共有されていた。


“代表取締役CEOは、早瀬SVと2人でホテル前の横断歩道を横断中に、彼女を庇って事故に遭った。”


その一件はたちまち社内に広まり、噂となった。


そのため、社内では“取締役の女”として、ゆりはすっかり認識されるようになった。


最初こそ、一部から妬みや陰口を叩かれることもあった。


「清純そうな顔してちゃっかりしてる」


「その立場を利用して良い気になってる」


「何であんな子の為に代表が」


「素直に本人が事故に遭えば良かったのに」


だがゆりは、時折耳にするそんな陰口には微塵も動じず、いつも謙虚で、真面目で、誰に対しても誠実に向き合うゆりの姿は、取締役の女といえど決して胡座をかいてないと、やがて周囲の心を打っていった。

次第に、「代表に見初められたのも当然だ」と、そう人々が納得し、口を揃えて言うようになった。


そして、蓮とゆりの通院リハビリデートの日々は続いていた。

病院で落ち合い、リハビリを共にこなし、病院で別れる。


これまでのように毎日をベッタリと過ごすわけではなくなり、週二回の付き添いだけとなったことに、蓮はどうしても物足りなさを感じていた。


「なぁ、有給取れよ有給。どうせ閑散期だろ?」


子どものように駄々をこねる蓮。


「無理無理。プリンセスダイニングやばすぎて毎日PRIO即完売。アトラクションより並んでる」


十一月にオープンしたばかりの新施設「プリンセスダイニング」は、連日大盛況。

例年なら閑散期であるはずの時期に来園者数は右肩上がりを見せ、戦略としても大成功を収めていた。


蓮は自宅からパソコンで日々の数字チェックを欠かさず行っていたため、ゆりの言葉は図星そのものだった。

言い返そうとしたが、喉につかえたように言葉が出てこない。


「……だったら、せめて仕事帰りにたまにはウチ寄ってよ」


むくれるように蓮が口を尖らせる。


「は?無理。気まずい」


「大丈夫だよ!ゆり、お袋と仲良いじゃん」


「蘭子さん以外にも、華麗なるご親族様が沢山いらっしゃるじゃありませんか」


「別にいいじゃん!みんな歓迎するって!」


「無理!どんな目で見られんのよ!」


蓮が入院中のお見舞いは、蘭子が「彼女との時間は邪魔をしないように!」と周囲に計らっていた為、ゆりの勤務中のみ、親族、知人のお見舞いを許可していた。

その為ゆりは鳳条家の親族と顔を合わせた事はない。


必死に拒もうとするゆりの真剣さに、蓮は拗ねたように眉を寄せ、まるで子どものように唇を尖らせ視線を逸らした。


彼女の気持ちも分かる。

けれどそれでも、会いたい気持ちは抑えられない。


「絶対に…早くマンションに戻ってやる」


小声で闘志を燃やす蓮の姿は、不思議と頼もしくも愛おしい。

その言葉に、懐かしい蓮の部屋の光景と、あの頃の日常が自然とゆりの脳裏に蘇り、胸がほんのり温かくなった。


そして蓮の意地のような一ヶ月間の、猛烈なリハビリの日々が流れた。


彼が必死に歩を進める時間と並行して、ゆりもまた自分の戦場で走り続けていた。


二月の園内は、閑散期にもかかわらず多くの来園者で賑わっていた。

外は凍えるような寒さで、来園者たちの吐く息は白く染まる。


プリンセスダイニング。


店内に足を踏み入れれば、暖房の温もりと豪華なシャンデリアの光に包まれ、そこはまるで別世界だった。

華やかなBGMと人々の笑い声が重なり、煌めくグラスや食器の音が忙しないリズムを刻む。

煌めくシャンデリアの下、ホールでは笑顔のお客たちの談笑が溢れ、食器とグラスが立てる澄んだ音が絶え間なく響いている。


その中心で、ゆりは息つく暇もなく動き回っていた。

テーブルを手際よくリセットし、トレンチには空いた皿とグラスがぎっしり積まれていく。


ピッ。


「8番テーブルOKです」


インカムに向かって簡潔に報告し、もう片方の腕にも皿を抱え込む。

そのまま厨房へ歩みを進めると、ゆりの抱えるトレンチからふわりと何かが舞い落ちた。


あ……テーブルナプキン。


両手はふさがっていて拾えない。


すぐに取りに戻ろうと心の中で判断し、そのままカウンターへと向かう。


トレンチを置き、肩から力を抜いたその瞬間。


「はい、落ちたやつ」


背後から届いた声と同時に、ふい伸ばされた手があった。

トレンチの上へ、さっき落としたテーブルナプキンがパサッと置かれる。


「……蓮っ!!」


振り返った瞬間、ゆりの声が弾けた。


そこに立っていたのは、退院後初めて見る仕事モードを纏った蓮。

仕立ての良いスーツに身を包み、背筋を伸ばして立つその姿は、病室で見せていた弱々しさなど微塵も感じさせない。


驚きと感動とが一度に胸に溢れて、言葉がうまく整わない。

咄嗟に口から飛び出した名を慌てて飲み込み、表情を正した。


「あ…じゃなくて……鳳条代表。お疲れ様です」


それでも声は震え、頬はほんのり赤く染まっていた。


「ははっ、久しぶりだなその呼び方」


蓮は、病室の柔らかい光の中ではなく、元気なあの頃と変わらない無邪気な笑顔を浮かべた。


「だ、大丈夫なんですか?もう外出しても…そんな堅苦しい格好して…疲れないですか……?」


四ヶ月間、リハビリに付き添ってきたゆりは、思わずおどおどとしながら、目の前の蓮を頭から足元まで、心配そうに視線で追いかける。

筋力、バランス、立ち方。

職業柄の癖のように、彼の体調を無意識にチェックしてしまう。


「長時間じゃなければ全然平気だよ。そこの裏まで車で来てるし」


蓮は軽やかに肩をすくめ、いつもの調子で笑う。

その笑顔に安堵しながらも、ゆりはむっと頬を膨らませた。


「てか、言ってよ!おととい病院で何も言ってなかったじゃん!…あ、言ってくださいよ!」


長い間、病院でプライベートな蓮と向き合い続けてきたゆりは、突然の蓮の現場登場に、咄嗟に業務モードへ切り替えようとしても上手くいかず、調子を狂わせた。


「この、お前が手掛けたプリンセスダイニングを、どーしてもひと目見たくてさ」


蓮は口元を緩め、トレンチに指を軽く置いた。


「俺の退院後の記念すべき初仕事、プリンセスダイニング視察!」


人の心配をよそに、まるで少年のような剽軽さ。

その姿に、ゆりは呆れ半分、安堵半分で思わず肩の力が抜ける。


「……本部には顔出したんですか?」


「いや?直行した。これから顔出すよ」


言葉を交わしていると、通りがかった現場責任者が目を見張り、足を止めた。


「え…?代表!?」


その声がきっかけとなり、周囲のスタッフが一斉に顔を向ける。

次の瞬間、蓮の顔を知る数人の社員が駆け寄ってきた。


「もう、お身体は大丈夫なんですか?」


「お帰りなさい代表!」


ざわめく声に囲まれながら、蓮は社員達へ笑みを返す。

その姿はまだ万全ではないはずなのに、確かに代表取締役の風格を纏っていた。


すると、現場責任者が状況を察したように、そっとゆりへ視線を送る。


「……あ、早瀬さん。少し早いですけど、小休憩入ってきていいですよ」


不意に与えられた提案に、ゆりは一瞬戸惑う。

蓮と顔を見合わせ、気まずさを隠すように小さく頷いた。


「……では……代表を車までお送りします。すぐ戻りますので」


そして店舗を出る二人。

パーク内はすでに夜の装いに包まれていた。

澄んだ冬の空気に吐く息が白く浮かび上がり、遠くからはプロジェクションマッピングショーの案内を知らせるアナウンスが響いてくる。


色鮮やかなイルミネーションに縁取られた街路樹の下、来園者たちが一斉にメインキャッスルエリアへと流れていく。


その賑やかな人波の中、ゆりは蓮の少し前を歩きながら、周囲を気遣う視線を絶やさなかった。

肩をすぼめ、すれ違う人の流れを避けるように体を傾けては、蓮の進む道を自然と作っていく。


「そんなに心配しなくても大丈夫だって!」


背後から蓮が笑みを含んだ声をかける。


「だって…!人多いし、子どもが急に走ってきたりしたら危ない」


ゆりの返事はきっぱりしていた。

その声が冬の冷気を振り払うように強く響く。


笑顔で流れに身を任せる来園者たちの中で、ただひとり彼女だけが必死に自分を守るように前を歩く。

その背中を見つめていると、蓮の胸の奥が温かく満たされていくのを感じた。


すぐ近くの関係者出入口からスタッフエリアに入ると、前方にはすでに見慣れた黒塗りのリムジンが静かに待機していた。

運転席の横で控える専属ドライバーが、軽く会釈を送る。


「本部に顔出したら、すぐ帰って休んでね」


ゆりが当然のように声を掛けると、蓮はその場で足を止めた。


「……えっとー………」


視線を泳がせ、すぐに車へ乗り込もうとしない。

どこか落ち着かない様子で、手のひらにじわりと汗が滲む。


「…今日マンションで過ごしてもいいって……家から言われたから…そっちに帰ろうかと思ってんだけど」


「え?そうなの?…もう大丈夫なの?」


ゆりは思わず目を丸くし、きょとんとした表情を見せる。

その無邪気な反応に、蓮の胸の鼓動が一層速まる。

たかが「帰る場所」の話。

それなのに、まるで告白でもするかのように緊張していた。


「だから……その……」


蓮は深く深呼吸をした。

肺の奥に冷たい夜気を吸い込み、吐き出す。

そして、えいっと心を決めるように言葉を押し出した。


「……本部ビルの駐車場で……終わるの…待ってるから………」


──言えた。


その声は震えていたけれど、確かな意志を帯びていた。


その瞬間、ゆりの胸がトクン、と大きく跳ねた。

蓮の言葉が夜気の中で淡く震えて、胸の奥深くまで刺さる。

全身にじわっと熱が広がり、同時に緊張が一気に押し寄せた。


「い…いいよ!私の仕事終わるの待ってたら身体辛いだろうから…後から電車で行くから、先に帰って休んでて!」


ゆりは焦りながら、早口で言葉を重ねた。

頬が赤くなるのを誤魔化そうとして、視線は落ち着かず、声だけが上擦っていく。


蓮はその様子を見つめながら、胸の奥に熱いものが広がるのを感じていた。

ゆりがマンションに来てくれる——その事実が嬉しくて一気に胸が弾む。

けれどその喜びに震える胸中を、必死に抑え込んで冷静を装った。


「車で横になってるからいいよ。……待ってる」


静かに、けれど噛みしめるように言葉を紡ぐ。

その声音の奥に潜む熱を、ゆりは感じ取って、思わず胸がドキリと跳ねた。


そのひと言が、ゆりの心をさらに揺らす。

久しぶりに、二人で同じ空間に帰る夜のこと。

一年ぶりに、勤務終わりに蓮が待つ本部ビルの駐車場へ向かう事。

蓮の部屋を訪れるという現実。

その全部が急速に胸に押し寄せて、頬がじわじわと熱くなった。


「ゆり、明日非番じゃん?…朝も起きなくていいし、ゆっくり出来るから…今日くらい多少は外に居ても大丈夫だから……」


蓮の声は、どこか遠慮がちで、けれど確かな期待が混じっていた。

その言葉の一つひとつが、彼の胸の奥で高鳴る鼓動と一緒に紡がれているのが伝わってくる。


ゆりは溢れ出る嬉しさに、思わず俯き、微笑む口元を隠すように握った拳の横をそっと口元に当てた。


頬に熱が集まり、胸の奥がくすぐったくてたまらない。


小さく息を吸い込むと、緩んでしまった口元を一度引き締め、硬い表情を作る。

そしてゆっくりと上目遣いで蓮の視線を捉えた。

その瞳の奥には、どこか少女のような照れくささが宿っている。


「………わかった……」


その返事を聞いた瞬間、蓮の胸の奥にも、熱いものが広がった。

ゆりの赤面につられて、自分の耳までカァッと赤くなっていくのが分かる。


(くそ…っまた不意打ちかよ……)


蓮は、思わず心の中で小さく呟いた。


出会った頃の自分は、当たり前のように誘って、相手の意思なんてお構いなしに、余裕の顔でマンションへ連れて帰っていた。

強引で、わがままで、無理やりでも自分の世界へ引き込んできた。


そんなあの頃からすると、こんな気持ちはありえない。


たかが部屋に誘う、たった一言口にするだけで。

どうしてこんなにも緊張に胸がざわついて、手のひらに汗が滲むんだろう。


本部へ向かって走り始めるリムジンの車内。

すぐ外のパークではプロジェクションマッピングのショーを前に人波がざわめいているのに、従業員敷地内は驚くほど静かだった。


「…よっっっしゃ!!」


蓮は背中を丸めて両腕でガッツポーズをした。


ゆりが家に来てくれる。

まさか、こんなことになるなんて。

夢にまで見たこんな日が、再び訪れるなんて。


二人の間に芽吹き始めた純粋な愛は、亀のような遅さで、けれど確かにゆっくりと、一歩一歩着実に前へと進んでいった。




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