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狂気の魔法  作者: 波方 真季


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第40話 一歩一歩


それから、一週間。


その日は、プリンセスダイニングのオープンを数日後に控えた大事な一日だった。


すでに保健所による営業許可の検査は済み、法的な手続きは全てクリアしている。


だが、それだけでは終わらない。

世界中に名を馳せるパークブランドを守るためには、より厳しい「本社基準」の審査を通過する必要があった。

清掃の行き届き方、厨房の動線、器具の扱い方や食材の保管状態。

そのひとつひとつが、お客様の信頼と直結する。


この日は、海外本部から派遣されている幹部がオープン前の最終監査に訪れる予定だった。

現場スタッフにとっては「保健所よりもよほど緊張する」とさえ言われる特別な日。

そして、その監査役として現れたのが──


桐生司。


煌びやかなシャンデリアが天井に輝く、まだお客の入っていないプリンセスダイニング。

新品の食器やグラスが整然と並び、厨房からは消毒液の匂いがわずかに漂っている。

スタッフたちは緊張感に包まれながら最後の仕上げに取りかかっていた。


その空気を切り裂くように、重い扉が開き、司が数人の随行を連れて現れる。

背筋を伸ばし、タブレット端末を手にした姿は、まさに「監査官」のそれだった。


「お待ちしておりました。フードサービスSV、早瀬です。」


ゆりは、その御一行に深く一礼し、立ち位置を正した。


司は軽く頷き、冷静な眼差しを会場に走らせる。


「これより、本社基準に基づくオープン前の衛生監査を行います。早瀬SV、各セクションの責任者の配置状況を報告して下さい。」


その厳格で圧倒的なオーラは、先日蓮の病室で膝をついて涙を流していた姿とは、あまりにかけ離れていた。

崩れ落ちそうなほど弱々しい一面を見せていたその人と、今ここで冷徹な権威を纏って立つ幹部が同一人物だとは到底思えない程に。


流石、桐生司。


その気迫に、スタッフたちの背筋は自然と伸び、まるで軍隊の号令に従うかのように一糸乱れぬ緊張感が場を支配した。

ゆりもまた、胸の奥を鋭い緊張に締め付けられる。

その威圧に対抗するように、ゆりはグッと気を引き締め、ほんの数日前の記憶を振り払った。

病室で見た弱さを胸の奥に押し込み、今はただプロとして、重要な局面を迎え打つしかない。


真っ向勝負に挑むように、強い瞳に炎を燃やし、はっきりと声を響かせる。


「はい。ホール担当は全員スタンバイ済みです。厨房内も調理・洗浄、それぞれ持ち場についております。必要に応じて呼び出し可能です!」


そして、監査官や現場スタッフは、それぞれ担当の場所へと散らばった。


タブレットに視線を落としながら、司はゆりへ

確認する。


「冷蔵庫内の温度管理は記録を出せますか?」


「こちらにログをまとめております。すべて基準範囲内を維持しております。」


ゆりが即座にファイルを差し出すと、司は素早く目を通し、数字を確認した。


「……問題なし。ただ、予備電源の点検記録が見当たりませんが?」


「先日の保健所検査の際にチェック済みですが、データ化が遅れております。すぐに提出可能です」


「“すぐ”とは、どの程度で?」


鋭く突き刺すような声色に、ゆりはドクンと心拍が跳ね、臆した。

これまでのゆりなら、多少残業してでも事前に終わらせている作業だったが、一週間前に蓮が意識の反応を見せてからのここ数日間、とても残業出来る余裕など無かった。


「本日中に提出します。…遅れた点については、私の責任です。」


司は一瞬だけ視線を上げた。

冷たい眼差しでありながら、どこか探るようにゆりを見つめる。


「……承知しました。では続けましょう。」


厨房に移動し、司は次々と質問を投げかける。


「調理器具の滅菌は何分サイクルですか?」


「加熱調理後の保温時間はどのくらいに設定していますか?」


「異物混入防止のための二重チェックは誰が最終責任者ですか?」


そのたびにゆりは即答し、資料を提示し、現場のスタッフに指示を飛ばした。

彼女の声は澄んでいて、ひとつの揺らぎもない。


やがて司は歩みを止め、振り返った。


「……さすがですね。答えに詰まることがない」


「当然です。ここで働く全員の努力の成果ですから」


ゆりの答えはあくまで事務的で、感情の一片も滲ませなかった。


司は小さく息をつき、再び視線をタブレットに戻す。


「では最後に…開業当日、万が一オペレーションが乱れた場合、あなたはどう対処するおつもりですか」


司の試すようなその問いに、ゆりは一瞬だけ沈黙した。

だがすぐに、まっすぐに司を見返し、はっきりと答えた。



「全責任を私が負います。どんなトラブルが起きても、お客様の笑顔を最優先に守り抜く。それがSVとしての私の役目です」



静寂。

しばしの間、厨房に漂うのは機械の駆動音と消毒液の匂いだけだった。


やがて司は端末を閉じ、低く告げた。


「……以上で監査を終了します。問題点は一点、予備電源の点検記録報告の遅延のみ。改善を確認次第、本社として承認します」


低く抑えられた司の声が、厳粛な空気を貫いた。

その場にいた全スタッフが一斉に肩の力を抜く気配が走る。


「…っありがとうございます!!」


張り詰めていた糸がようやく解け、ゆりの胸いっぱいに安堵と嬉しさが込み上げた。

大きく息を吸い込み、深々と頭を下げた。


視線を上げると、司の眼差しが確かにこちらを見ていた。

司が出口へ向かう振り向き際。


その厳格な顔の奥に、かすかに切なげで、柔らかい微笑みが揺らいだ気がした。


それを感じた瞬間、ゆりの胸はさらに熱くなった。





現場スタッフや監査官らが次々に退室し、賑やかだった店内に人数が減っていくと、徐々に静けさを取り戻していった。

喧騒の余韻が残る中、ゆりは深く息を吐き、椅子に腰を下ろす。


「……よし」


ノートパソコンを開き、司から指摘された報告書のデータ化にすぐ取りかかった。

業務モードへ切り替えるように、ファイルの束を整え、キーを叩く。


「それ、どれくらいの目安時間で仕上がりますか」


背後から落ち着いた声が掛かった。

驚いて振り返ると、そこにはまだ残っていた司の姿。

腕を組み、静かに立ってこちらを見下ろしていた。


「あ…えっと……」


思わず声が上ずる。

慌てて報告書の束を手に取り、角をパラパラとめくりながら答えを探す。


「これ全部なので…そうですねぇ…」


ゆりが言葉に詰まったその時、司は迷いなく正面の椅子に腰掛け、自分のノートパソコンを開いた。


「それ、半分渡して下さい」


司は報告書の束に掌を差し出すと、淡々と、しかし自然な調子でそう言った。


「えっ…い、いいですよ!これは私の仕事ですから!桐生統括は、お忙しいと思いますので!」


ゆりは慌てて司へ掌を立てて、必死に制止の言葉を並べた。

その声音には、申し訳なさと気遣い、そしてプライベートでのゴタゴタが記憶を蘇らせて、胸の奥に沈んだ気まずさが滲んでいた。

同じ空間にいるだけで、空気が重くなる。

ましてや同じ机に向かって作業するなんて、心臓が落ち着くはずがない。


「それが来ないと私も本社へ報告が上げられないので、イコール私の仕事も終わらないんですよ」


冷ややかに突きつけられた司の言葉。

一片の余白もない論理と責任の重さが、鋭利な刃のようにグサッとゆりの胸へ突き刺さる。


「…あ…そうですか……申し訳ありません……」


心臓の奥がじんわり痛み、ゆりは肩を落としてショボンと目を伏せた。

必死に抵抗したい気持ちもあったけれど、司の言葉があまりに正論で、反論は何一つ見つからなかった。


小さく息を吐き、報告書の束を両手で持ち直す。

そしてその半分を、ためらいがちに司へ差し出した。


沈黙の中、ただキーボードを叩く音だけが響いていた。

やがて最後のスタッフたちが退出すると、賑やかだった店内は嘘のように静まり返る。

気がつけば、そこに残っているのはゆりと司の二人きり。


「終わりましたよ」


顔を上げた司が、パサッと報告書をテーブルに置いた。


「え…!?あ…ちょ、少々お待ち下さい…こちらも…あと少しなので……」


思わず声が裏返る。

報告書の束を半分渡してから、まだ10分ほどしか経っていない。

その短時間で、司は膨大な記録を整理し、提出可能な状態に仕上げてしまったのだ。


あまりの速さに驚きと焦りが一気に押し寄せる。

カタカタと震える指先。

「急がなければ」と分かっているのに、焦燥で手元が空回りし、入力のリズムは乱れた。


司は座ったまま、静かに両腕を上げ、大きく背を伸ばした。

そしてそのまま、肘をテーブルにつき、司は何気ない仕草で窓の外へと視線を向けた。



窓から差し込む陽の光が、司の横顔を柔らかく照らす。



色素の薄い栗色の髪が金糸のように光を帯び、冷徹さと儚さを同時に孕んだ美しさを際立たせていた。


一瞬、ゆりの呼吸が止まる。

その司の横顔は、あまりに綺麗で。

心の奥を掴まれたように視線を奪われる。


数週間前の出来事。

病室で涙を流し、崩れ落ちる彼の姿。

そして三ヶ月前。

事故が起きる前、自分は木っ端微塵に司に振られて失恋し、酷く傷つけられた。

絶望感の中で、自分が二度と彼とまともに向き合うことはないと思った、あの夜のこと。


なのに今、同じ空間で、パソコンのキーを打つ音と、窓辺から差し込む光に包まれながら、静かに二人きりでいる。


それが不思議で仕方なかった。


まるで過去の言葉や出来事をすべて覆い隠すように、司の横顔はただ美しく、静かにそこにあった。


ゆりは、ハッと我に返ると、再び手を動かした。

キーを叩く音が一定のリズムを刻み、短い沈黙を埋めていく。


対する司は、長い間窓の外に視線を投げたまま、微動だにしない。

その姿は何か深く思索に沈んでいるようで、光に縁取られた横顔は感情を読み取らせなかった。


そのとき。


静寂を切り裂くように、低く、けれど確かな声が届いた。


「……………蓮が………目を覚まして良かったです………」


ゆりの指が、硬直したように止まった。

打ちかけていたキーの上で手が宙ぶらりになり、瞳が大きく見開かれる。


心臓の音が一瞬だけ強く跳ね、全ての音が遠のいた。


ゆっくりと顔を上げる。


パソコン画面から視線を外し、窓の外を見たままの司の横顔へ視線を移した。


「先週、社内通達がありました……蓮の様子はどうですか?」


司は、窓の外からゆっくりと視線を外し、対面のゆりをまっすぐ見つめた。

淡々とした口調なのに、その奥にあるものを悟らせるような柔らかさが混じっていた。


「……今は…………呼びかけに反応するし、視線も合わせてくれるようになりました……」


ゆりは少し迷った後、言葉を探すように一瞬だけ息を吸い込み、ありのまま全て伝えようと心に決めて、胸の奥の震えを押し殺した。


「それに今朝は……返事や、短いけど……単語も……初めて口にしてくれました」


報告というより、祈りの結晶をひとつずつ確かめるような声。

ゆりの瞳の奥に、ほんの少し光が宿る。


「医者はなんと……?」


司は静かに問いかけると、ゆりの表情を探るように見つめた。

ゆりは、胸の奥に溜めていた息をふっと吐き、柔らかな笑みを浮かべながら答えた。


「意識が回復して、一週間でここまでとは、目覚ましい程の回復だって…このまま順調に回復していけば…リハビリを継続すれば、徐々に会話の幅が広がっていく可能性があるって…言ってました。」


その声には、報告の形をとりながらも、確かな希望の温度が宿っていた。


「……蓮は…頑張ってるんですね」


伏し目がちに、司は切なげに微笑んで呟いた。

ほんの一瞬、柔らかさが混じったその表情は、先程までの厳格さとは違って見えた。


「それでは…それ、出来上がり次第メールで送って下さい。私はこれで失礼します」


「えっ…あ、はい…ありがとうございました」


「……お疲れ様」


背を向け、司はゆっくりと扉へ向かう。

扉が静かに閉じる音だけが、二人の間に残された。







それから、一か月。




「蓮ーっ!ただいまー!!」


早番の勤務を終えたゆりは、夕方の光を背に、元気よく蓮の病室の扉を開けた。




「……ゆり……おかえり……」




か細い、けれど確かな声。

蓮が、ゆっくりとこちらを見上げて微笑んでいた。

頬はまだ少し痩せ、動きもぎこちない。

けれど、あの目の奥には、はっきりとした光が宿っている。


その返事、その笑顔。

ほんのひとことのやりとりなのに、ゆりの胸はきゅうぅんっと締めつけられるように熱くなった。


声が返ってくる。


それだけのことが、奇跡のように嬉しくて、胸いっぱいにこみ上げてくるものがあった。


「元々起きてたの?それとも今起こしちゃった?」


「……いや……起きてたよ……」


「えっ、珍しいじゃん!普通に目が覚めたってこと?」


驚きと嬉しさで声が弾む。

蓮は、まだ長く眠っている時間のほうが多い。

けれど、日を追うごとに、確実に覚醒してる時間は長くなってきていた。


声にはまだ張りがない。

それでも、こうして短い会話を交わせるようになった。

歩行器や介助があれば、トイレまで自分の足で歩くことだってできるようになった。


この一か月、ゆりは毎日欠かさずリハビリに付き添った。

発声訓練、会話の練習、嚥下(飲み込み)訓練、そしてストレッチ。

医師やリハビリスタッフの指導を受けながら、どれも決して楽なものではなかった。

それでもゆりは、辛さや疲れを一切見せなかった。

いつだって明るく元気な笑顔で、まるで遊びの延長のように、楽しそうに蓮と向き合い続けた。


その姿に、医師や看護師も驚嘆していた。


加えて、蓮の脳が本来持つ“回復力の高さ”。

神経の再構築が異常なほど早く進み、さらに「頑張りたい」「話したい」という蓮本人の強い意思が重なった。


真実の愛、努力、想い、そして奇跡のような医学的要因。

その全てが見事に噛み合い、医師も、「奇跡の回復力です」と評する程に、蓮の回復は誰もが目を見張るほどのスピードで進んでいった。


この一か月で目覚ましい成長を見せ始めた蓮は、そこからさらに日々積み重ねられるリハビリを通して、少しずつ確かな力を取り戻していった。


時には思い通りに動かない身体に苛立ち、蓮は悔しさに眉を寄せたり、弱音を吐くこともあった。


そんな時でも、ゆりは決して表情を曇らせなかった。

どんな瞬間も太陽のように眩しい笑顔で、蓮の背中を押し続ける。

その声に、蓮は唇を噛みながら、何度でも立ち上がった。


やがて、手すりのない廊下を杖一本で歩く練習が始まった。

最初はたった数歩で足が止まってしまい、膝が震えて座り込むこともあった。

それでも諦めず、ゆりの声に導かれて、距離は少しずつ伸びていく。


「蓮!ほらもう少し!頑張って私のところまで来て!」


両手を大きく広げながら、必死に歩みを進める蓮を待つゆり。

その瞳は本気で応援しながらも、どこか楽しそうに輝いている。


「頑張れ、あと2歩!」


蓮が広げたゆりの腕の中に今にも届きそうになった瞬間。


「おい…下がるな…!」


ゆりはスススッと後退した。

息を切らしながら蓮が思わず笑う。


「あははっ!はい、もう少しここまでっ!」


無邪気に笑うその声に導かれ、蓮は最後の力を振り絞った。

そしてついに、ゆりの胸の中に倒れ込むように到達した。


「すごーい!新記録ー!!」


大喜びで声を上げるゆりの腕の中に、蓮は包まれ抱きしめられた。

蓮は胸で荒い呼吸をしながら、ふと視線をゆりの身体へ向ける。


「………ゆり…痩せた…?」


「え?」


そのひと言に、ゆりの心臓が大きく跳ねる。

蓮が植物状態の三ヶ月間、ゆりは殆ど食事が喉を通らなかった。

以前のゆりは標準体型で、そこそこ付く場所には程よく付いていた肉付きはもう跡形もなく、今ではすっかり痩せ細っていた。


(…前の私を、覚えてる…?)


「蓮…思い出したの?…そんなに前のことも…?」


ゆりの声は震えた。

その何気ない一言に、記憶が確かに戻ってきているという実感が胸の奥に広がり、涙が込み上げてきた。


その調子で一週間、二週間と経つうちに、杖一本で病棟の廊下を一周できるほどにまで成長していった。


やがて始まったのは階段の昇降訓練。

装具で支えた足を一段ずつ持ち上げるたび、額に汗が滲む。


「もう一段、ゆっくり、そう、あと少し!」


蓮の背にゆりが手を添え、息を合わせて声をかける。

その声は単なる掛け声ではなく、蓮を支える“軸”そのものだった。

蓮が踏みしめる一歩のたびに、ゆりもまた心の中で一緒に踏み出していた。

失敗すれば一緒に座り込み、成功すれば一緒に笑ってハイタッチ。


そんな幸せな努力の日々が、当たり前のように積み重なっていった。


同時進行で、調理や洗濯など、実生活に近い動作訓練も組み込まれていった。


病院の作業療法室には、簡易的なキッチンや洗濯台、畳スペースがあり、そこが二人の“もうひとつのリハビリ室”になっていた。


まな板の上で包丁を使う練習では、最初は手首が震えてまともに切れなかった野菜が、今では細く均等な短冊切りにできるまでになった。

切り終わった野菜を鍋に移す手つきも、ゆっくりながら確かなものに変わっていく。


服のボタンを留め、シャツの袖を通し、タオルを畳む。

そんな日常の動き一つひとつが、かつて当たり前にできていたことへの挑戦だった。


「あーもうちょい右手、手前かな」


ゆりが屈んで手元を覗き込みながら声をかける。


「おし…できた」


蓮は額に汗を浮かべながら、それでも小さく笑った。

その笑顔が、ほんの小さな動作の中に“日常を取り戻す”という大きな意味を宿していることを、ゆりは知っていた。

そのひとつひとつが、彼の生活を取り戻すための大切な一歩だった。


言語療法も、単なる発声練習から会話のキャッチボールへと移行していった。

最初は短い単語をゆっくり繰り返すだけだったが、今では物語の音読や会話練習が日課になっている。


二人で好きな映画の台本を読み合い、セリフを交互に言い合う。


「“…私はもう、月に帰らなければなりません”」


「“あぁ…かぐや姫…どうか、行かないで…あなたの、居ない、この地は…月の見えない暗闇、です”」


ゆりがセリフを言えば、蓮がそれに返す。

時には噛んだり、変なイントネーションで言ってしまって二人で吹き出すことも増えた。


「ねぇちょっと、今のところもう一回言ってみてくれる?」


発音が不明瞭な箇所を、ゆりが優しく指摘する。


「えー……“ どうか行かないで…あなたの居ない、この地は…月の、見えない暗闇です”……こんな…感じ?」


蓮が問い返す。


「…なんか蓮がそれ言うと気持ち悪い」


「じゃあ…何回も言わすなよ…っ!バカ…!」


「あはははっ」


そんなくだらないやりとりの中に、かつての日常がゆっくりと戻ってきているのを、二人とも感じていた。


徐々に、日を追うごとに病棟内には二人の笑い声やはしゃぐ声が響き渡っていく。

看護師たちは微笑ましそうに視線を送り、特別病棟のナースステーションでは、こんな会話が交わされるほどだった。


「今日もラブラブですねぇ」


「…ですねぇ」


「鳳条さん、恐ろしい回復力ですね」


「愛ですねぇ」


奇跡のような回復は、確かな努力と、二人が積み重ねてきた時間の賜物だった。


その日のリハビリを終え、時刻は就寝前。

消灯間近の特別病棟には、機械の微かな駆動音と消毒液の匂いだけが漂っている。

一日の緊張がほどけ、穏やかで静かな時間が流れていた。


「…ねぇ……最近さ……」


「んー?」


蓮は枕に頭を預けたまま、天井をぼんやりと見つめている。

その横顔は、昼間のリハビリで見せた必死な表情ではなく、どこか子どものように無防備だった。


「……すっげぇ押し寄せてくるみたいに……色んなことを思い出すんだけどさ……」


「うん」


ゆりはベッド脇の椅子に腰掛け、スマホで翌日の業務連絡を確認していた手を、ふと止める。

蓮の声が、ほんの少しだけ掠れながらも、深いところからにじみ出ている気がして。


「…ゆり……もしかして、俺のこと……めっちゃ呼んでた?」


ゆりはハッと顔を上げ、スマホに落としていた視線を思わず蓮の方へ向けた。

ベッドに横たわる蓮の瞳が、消灯前の薄暗い光の中で確かにゆりを捉えている。


その問いかけに、植物状態だったあの日々。

声が枯れるまで、手を握り続け、必死に名前を呼び続けた辛い記憶が、一瞬で胸の奥に押し寄せた。

そして今こうして、強い光を宿した蓮の瞳とまっすぐに見つめ合える、その奇跡を改めて実感する。


「……………聞こえてたの……?」


ゆりの声は、微かに震えた。


「……いや……なんか……ずっと夢を見てたなぁって……」


蓮は記憶を辿るように、視線を天井へ向ける。

その声はまだかすれているけれど、確かに現実にいる。


「…思い出すのがさ……真っ暗なトンネルみたいなところで……その先に出口みたいな光?が見えて……すっげぇ吸い込まれる感じで……すっげぇそこに向かって、出て行きたい感じだったんだけど……」


蓮はゆっくりと、静かに、空間を見つめながら、ぼんやりとした表情で言葉を紡いでいく。


「……後ろの真っ暗闇の中から……めっちゃゆりが呼んでんだよ……ずーっと……」


そう言って、蓮はゆりと目を合わせた。

信じがたいような蓮の話に、ゆりの瞳は瞬く間に涙で滲んでいく。


「……俺…何回も…振り返ろうとすんだけど…出口にめっちゃ…吸い込まれんだよ……でもゆりの声が……食い止めてきてさ……」


蓮は遠くを見ながら、記憶の断片を手繰り寄せるように言葉を重ねる。

ゆりは一言も挟まず、そのひとつひとつを食い入るように聞いていた。


「何回か……後ろを振り向いた時に……真っ暗闇なんだけど、奥のほうに……うっすらなんか見えて……目を凝らして……ゆりの声がする奥のほうのそれを……なんだろうって……近付いてって…少しずつ目が慣れる感じで…」


蓮自身も記憶を辿りながら、少しずつ思い出していくように、語りはゆっくりだが、ひとつひとつが鮮やかに形を持ち始めていく。


「……たぶん……花……?胡蝶蘭……みたいな…………」


その言葉に、ゆりの心臓がドクンと大きく跳ねた。

肺に吸い込んだ空気が一瞬で重くなり、胸が詰まる。


「……なん……で……?」


声が震え、目から涙がぽろぽろと溢れ落ちる。

植物状態の蓮に、奇跡を願って毎日手入れしていた胡蝶蘭。

最後の一輪が落ちたその日に、鉢は撤去されている。

蓮はその存在を知るはずがなかった。


祈りが、確かに届いていたのだと、胸の奥で何かが弾けるように実感した。


涙を流すゆりに気がついて、蓮は「よい…しょ」と小さな声を漏らしながら、横たわっていた上体をゆっくりと起こした。

まだ細い腕が頼りなく震え、呼吸も浅い。

それでも、その動きは決意のようにゆっくりと確かだった。


「…暗闇に歩いてって…あ、花だ…って思った時にさ……いきなり耳元に、でっかい声で…ゆりが“蓮!”って叫んでる声が聞こえたんだよ」


蓮は遠くを見るように、記憶の奥を探りながら言葉を紡ぐ。


「その瞬間、視界が真っ白になって…眩しくて…それで、起きたら……」


そこで蓮は、ふっと息を吐き、ゆりの方を見た。

その口元には、ゆりの頬に触れるような、優しく暖かい笑顔が浮かんでいた。


「……目の前にゆりの顔があった」


その言葉は、ただの回想ではなく、蓮にとって“帰ってきた場所”そのものを指していた。

ゆりの胸に、溢れ出すものが止めどなく込み上げ、涙がさらに頬を伝った。


「………っ」


ゆりは衝動的に、ベッドに起き上がった蓮を抱きしめた。

首に腕を回し、全身で包み込み、子どものようにわんわん泣いた。


「…っ何で…っ聞こえてたなら!もっと早く戻ってきてよっ!!…死んじゃうかと思ったんだから!…すっごく怖かったんだから…!!蓮のバカ…っ!!」


ゆりは、蓮と二人三脚のリハビリの日々の中で、これまで一切涙を見せなかった。

何度壁にぶつかろうと、いつでも明るい笑顔で前向きに、その辛さを肩時も滲ませなかった。

その堰が、いま一気に崩れ落ちるように、嗚咽と一緒に溢れた。


「ごめん……ずっと待たせて……ゆりを不安にさせて……ごめん…っ」


蓮も震える腕を伸ばし、ゆりの背中にそっと回して抱きしめ返した。

ゆりのほっそりと痩せたその身体は、これまでの日々がどれだけ過酷だったかを物語るようで、蓮の胸をぎゅうぅっと締めつけた。

ゆりの熱い想いに応えるように、蓮の瞳からも涙が静かに零れた。


ゆりは、あの時祈り続けた日々の、これまでずっと堪えていた悲しみや辛さをぶち撒けるかのように大声で泣いた。


その泣き声は病室の壁に反響し、長いトンネルを抜けた後のように二人の心を解き放っていった。


蓮とゆりは、もうお互いが、お互いを無しにしては生きられないと、心の奥底から実感していた。


真実の愛で、何があっても離れないという固い決意が、二人の胸の奥に静かに芽吹いていた。





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