第4話 蓮の部屋
吐き出された二人の熱を帯びたままのリムジンは静かに停まり、高層マンションのエントランス前で止まった。
「え?ここって…」
「はい到着ー」
軽い調子で蓮が答え、先に車外へ降り立つ。
すぐに扉が開き、ゆりの顔を覗き込んだ。
「送ってくれるんじゃなかったんですか」
「送ってるじゃん。俺んちに」
「は!?なんで代表の家に送るんですか!」
「もーいいからそう言うの。いちいち反抗すんなよ」
そう言うが早いか、蓮はヒョイッとゆりを抱き上げた。
唐突なお姫様抱っこに、ゆりは真っ赤になって暴れる。
「ちょ…っ降ろしてください!!」
「お前軽くね?ちゃんと飯くってんの?」
「誘拐ですよ!!」
「ははっ、誘拐か。いいねその響き」
必死の抗議も軽く受け流しながら、蓮はそのままエントランスを抜け、エレベーターへ。
扉が閉まると、ゆりは観念したように息を吐いた。
「……わかりましたから!行きますから!自分で歩くので降ろしてください!」
「よろしい」
にこりと子どものように嬉しそうな笑みを浮かべ、蓮はようやくゆりを床に降ろした。
その笑顔は妙に無邪気で、だからこそゆりの胸に更なる不安を募らせるのだった。
高層マンション最上階。
ガラス張りの大きな窓からは夜景が広がり、ゆりはそのあまりの広さと豪奢さに思わず口をついた。
「代表…ここに一人で?」
「基本はパークのすぐ近くの本家だよ。ここは俺のプライベートマンション」
さらりと答えながら近寄り、片眉を上げる。
「住む?部屋余ってるよ」
「住むわけないじゃないですか」
ピシャリと言い放ち、蓮の作ろうとする甘い雰囲気を即座に遮る。
「冗談なのに冷たいなぁ」
肩をすくめつつ、蓮はキッチンへ。冷蔵庫を開けると振り返った。
「カクテルとか…甘いのも飲まない?」
「ビールがいいです」
「え」
(……飲むんかい)
内心で突っ込みを入れつつ、冷えたビールを二本手にして戻ってくる。
「まぁ適当に座ってよ」
ソファに腰を下ろし、プルタブを開けると、缶を軽く合わせて乾杯の仕草を見せる。
「これ飲んだら失礼しますから」
「え?なんでよ」
「明日も勤務なので」
「早番?送るよ?」
「……遅番ですけど」
自分で口にして、やば、と顔色を変える。
「じゃあゆっくりしていきなよ。遅番でも送るから一緒に出勤しよ」
「なんで代表と出勤しなきゃならないんですか」
「蓮でいいよ、ゆり」
「呼べるわけないじゃないですか」
返す言葉を無視するように、蓮はゆりを抱き寄せる。
「なんでそんなツンツンしてんの?怒ってんの?」
「怒ってますよ」
すぐに身を離すゆり。
「そんな怒んなよ。もう今日は何もしないからさ」
じとりと横目で睨むゆり。
「本当だって!だから安心して寛いで欲しいな。結構居心地いいでしょ?自慢のマンションなんだよ。ね?」
子犬のように「お願い」と言わんばかりの顔に、つい肩の力が抜ける。
「……わかりました」
「良かった!風呂もでかいからね。シャワーも快適だよ!一緒に入る?」
「いい加減にして下さい!!」
「もー冗談をいちいち本気にするんだからぁ…真面目がすぎるよ」
おどけたように笑いながら、蓮は部屋の奥へと姿を消した。
しばらくして戻ってきた彼の手には、ふわりとした大きなバスタオルと、真新しいバスローブ、それから未開封の歯ブラシの箱。
「はい。俺のだからでかいけど、まぁいいでしょ。大は小を兼ねる」
「……ありがとうございます」
受け取りながらも、どこか落ち着かない気持ちで言葉を返すゆり。
蓮は手のひらをひょいと伸ばし、廊下の奥を指し示した。
「どうぞ。あちらの扉を出て、廊下突き当たり右側です」
わざとらしく恭しく片手を胸に添え、もう片手を廊下へと差し出す。
「姫、ごゆっくり入ってきてくださいませ」
「やめてくださいそれ」
思わず呆れ声を漏らすゆり。
「ははっ」
蓮はその反応を楽しむように、無邪気な笑みを浮かべた。
湯気の余韻を纏ったまま、ゆりはリビングへと戻ってきた。
濡れた髪をタオルで押さえながら、所在なさげに言葉を落とす。
「……お風呂、ありがとうございました」
「でかかったでしょ」
ソファに腰をかける蓮は、グラスを片手に笑う。
「そうですね…私、庶民なんで落ち着かなかったです」
「なんで?銭湯とか行かないの?」
「行きますけど…銭湯も別に落ち着かないですよ」
「あ、そ」
軽口を交わしながら、ゆりは自然と蓮の隣に腰を下ろす。
ソファのクッションが沈み、ふと自分をじっと見つめる視線を感じて顔を上げた。
「……なんですか」
「幼い顔してるなぁとは思ってたけど…化粧落とすと小学生みたいだね」
「よく言われます。それ…気にしてるんですけど」
頬をふくらませ、むっとした表情で蓮を見返す。
だがその拗ね顔すら、彼にはどこか愛嬌に映っていた。
「まぁ、でもあんま変わんないよ?メイクしててもしてなくても」
「嬉しくないです」
そっぽを向くゆり。
その横顔を見つめながら、蓮はまた唇の端をゆるめた。
やがて、時計の針は夜更けを指していた。
一日中パークで業務に追われていた疲れが、じわじわと全身にのしかかる。
ソファに座ったまま思わずあくびを噛み殺すゆりを見て、蓮が口を開いた。
「寝室、案内するよ」
立ち上がり、リビング直結の扉を開く。
「ここ…ですか」
「うん。一人で使っていいから、ゆっくり寝て」
ベッドルームの奥に広がるのは、ホテルスイートのような落ち着いた空間だった。
思わずゆりはぽつりと口にする。
「代表いつもこんな広いところで一人で寝てるんですか」
「まーそうだね。ゆりは庶民だから一人じゃ広すぎて落ち着かない?一緒に寝ようか」
挑発めいた口調に、ゆりは無言で鋭く睨みつける。
「ははっおやすみ」
小さく笑い、蓮はゆりの頭をポンと軽く撫でた。
不意打ちのようなその仕草に、意表をつかれる。
ゆりはふわふわのベッドに身を投げた。
その途端、瞼は重く沈んだ。
心も身体も疲弊しきっていたゆりは、あっという間に眠りに落ちていった。
翌朝──。
ふと目を覚ましたゆりは、まだ重たい瞼を閉じ直した。
静まり返った寝室に、スゥー…と背後から規則的な寝息が届く。
(……ん?)
バッと振り返る。
そこには、同じ布団の中で眠る蓮の姿。
「……っ!!なんで代表がここで寝てるんですか!!!」
思わず大声を上げると、その声に蓮が目を開け、ゆりと目が合った。
「ちょ、ちょっと…代表!昨日ここで寝たんですか?」
「ん…?あーやべ、寝落ちした」
「は?」
「いや、ちゃんと寝れてるかなぁーと思って一瞬覗いたら、あまりにも爆睡してて、その顔がもはや小学生を通り越して赤ちゃんみたいだったから、面白くて暫く見てたら寝落ちしてたわ」
悪びれることなく、無邪気に笑う蓮。
「……もう!」
呆れながら掛け布団を勢いよくめくり、ベッドから降りようとするゆりの腕を、蓮の手が掴んだ。
「もう起きるの?まだ早くない?もう少し寝てようよ」
「目が冴えちゃったので、また寝るとか無理です」
「あっそう、じゃあさ……」
蓮はゆりの両腕を掴んでそのままベッドへと押し倒した。
「昨日の続き、どう?」
至近距離で響く低い声。
近すぎる顔、微かに残るシャンプーの香と体温。
そのキーワードが耳を突いた瞬間、ゆりの心拍数が跳ね上がる。
頭では拒絶の言葉を探すのに、身体は別の反応を示してしまう。
「昨日…っ何もしないって言いましたよね」
胸の高鳴りを隠すように、必死で言葉を吐き出す。
「昨日はね。もう今日だから」
意地悪く笑う蓮の口元。
「やめてください…本当に…っ」
逃げるように顔を背けるも、熱を帯びた視線に囚われて離れられない。
「ねぇ」
顎を掴まれ、正面へ向けられる。
蓮の瞳はゆりを射抜くように深く光っていた。
「俺たちもう2回。今更もう良くない?」
「…無理やり…じゃないですか…」
「無理やりかな?昨日、本当に嫌だった?」
その問いが脳裏を刺し、ゆりは呼吸を詰まらせる。
思い出したくない記憶と、思い出してしまう体温が胸でぶつかる。
「……嫌……で…す…」
そう口にしながらも、顔は赤く火照り、視線は泳ぎ、揺らいでいた。
その曖昧で矛盾した姿に、蓮の呼吸は次第に乱れていった。
「……嫌がるふりして……そそってんの……?」
鋭い視線から目を逸らせず、喉が詰まって声にならないゆりは小さく首を横に振るだけ。
いやいや、と真っ赤にして顔をしかめ、必死に首を振るその仕草が無性に心拍数を上げる。
「…はぁ…いいね……すげーそそるわ……」
心の奥に抑え込んでいた衝動が、ゆりの一挙一動に焚きつけられる。
拒絶が強ければ強いほど、なぜか血が沸き立ち、彼女を欲してやまない。
あまりにも可愛いその姿に、蓮の我慢の糸はぷつりと切れた。
蓮の仕草は、驚くほどに優しかった。
これまでの荒々しく強引なそれが嘘のように、勢い任せに踏み込むものではなく、相手の反応を確かめるように、静かに距離が縮まっていった。
息が続かなくなって、ようやく蓮はそっと離れる。
「……はぁ……はぁ……」
呼吸が乱れ、胸の奥がざわついた。
その様子を、蓮はじっと見つめていた。
「………分かりにくいよ、お前。その顔は」
「………いや…」
口が、条件反射のように答える。
けれど、その言葉に自分の心が一拍遅れてついてくる感覚を、ゆりははっきりと自覚していた。
“全部が”嫌だと言い切るには、どこかで引っかかるものがある。
その事実が、何よりもゆりを混乱させた。
蓮の手は、ゆっくりと力を抜いた。
これまでのように押さえつけることもなく、ただ優しい。
──拒まない。
蓮はもうそれを確信していた。
その瞳には、すべてを見透かしているという余裕が宿っていた。
蓮は低く笑って、もう一度ゆりを抱き寄せた。
今度はさっきよりも、さらにゆっくりと。
「……やばいな」
誰に向けたのか分からない独り言が、ふっと漏れる。
その一方で、ゆりの胸の内でも、ゆっくりと何かがずれていった。
本当に全部が嫌だったら、振り払って、叫んで、飛び出していくことだって出来たはずだ。
なのに、そうしなかった。
しなかったのか、出来なかったのか。
そこが自分でも判別できない。
それが、いちばん厄介だった。
——本当に、私は全部が嫌だった?
その答えに触れてしまうのが怖くて、ゆりはぎゅっと目を閉じた。
視界を暗く閉ざしたまま、肩越しに聞こえてくる蓮の鼓動がやけに近い。
その瞬間──。
ゆりは、自覚してしまった。
気持ちでは拒んでいるはずなのに、無意識に漏れた言葉。
頭と心と身体。
すべてが噛み合わず、ちぐはぐで、もはや何が正しいのか分からない。
けれど。
蓮の問いかけに、戸惑いながらも頷いた一瞬が、全てを暴いてしまった。
もう、自分を誤魔化せない。
私は、嫌じゃない。
全身を駆け巡る想いに、理性の最後の灯がかき消されていく。
眼前の少女は、もう蓮にとって「ただ欲しい」では済まされない存在になり始めていた。
やがて力が抜け落ち、糸が切れたようにぐったりとするゆり。
その様子を見届けると、蓮は動きをようやく止め、近づいていた距離から、ようやく身を引いた。
ゆりは、もはや理性を手放していた。
頬を赤く染め、潤んだ瞳を揺らしながら、熱に浮かされたように言葉を紡ぐ。
「……はぁ……蓮……っ」
その一言に、蓮の胸に衝撃が走った。
(──呼べるわけないじゃないですか)
昨日、冷たくピシャリとそう言い放った彼女の声が脳裏に甦る。
凛とした拒絶の響き。
それが今、自分の名を呼んでいる。
蓮の中で、最後の歯止めが限界を越えた。
「……ぁぁ…ゆりっ…!」
蓮の中で何かが弾けた。
胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
抑え込んできた感情が溢れ出し、熱となって暴走する。
逃がさないように、けれど壊さないように、それでもどこか切実に、蓮はゆりを抱きしめた。
ただひたすらに、求められるまま応えたい。
いや、それ以上に、自分が欲して仕方がない。
近すぎる距離の中で、お互いの名前が幾度も行き交った。
ただ呼び合う。
ただ求め合う。
溢れる想いをぶつけ合いながら、互いの存在だけが、胸の奥に強く焼き付いていく。
─────── 。
「なんでわざわざゲートの真正面なんですか」
リムジンの中でゆりは不満を漏らした。
彼女のロッカーは本部ではなく、制服を保管する別館のユニフォーム管理棟。
広大な敷地の中で、数ある関係者専用ゲートのうち、よりにもよって、ゆりがいつも出退勤しているゲートの真正面にリムジンは停まっていた。
「なんで?いいじゃん」
悪びれる様子もなく笑う蓮に、ゆりは眉をひそめる。
「鳳条さんは良いかもしれないですけど…私は普通に気まずいですよ!」
ゲート前の歩道には、スタッフ数人が行き交い、ちらりちらりとリムジンに視線を向けている。
その視線に背筋がむず痒くなる。
「出た、真面目っ子」
「……っ鳳条さん!」
むっとして頬を膨らませるゆりの顔が、蓮には余計にからかいたくなる。
距離を詰め、肩に腕を回し、唇が触れそうな距離で囁いた。
「それとも…また、抱っこして降ろして欲しいの?」
「ゲートの前ですよっ!やめて下さい!」
慌てて蓮を押しのけ、ドアノブに手をかける。
「もういいです、ここで降ります」
軽く笑った蓮が、運転手にロックを外すよう合図する。
扉を押し開け、歩道に降り立つゆり。
そして振り返り、ぴしりと背筋を伸ばして丁寧にお辞儀をした。
「送って頂き……ありがとうございました」
真面目さが滲み出るその仕草に、蓮は目を細める。
扉が閉まると同時に、後部座席の窓がスッと下がる。
肘をかけた蓮が、悪戯っぽい笑みを浮かべて言った。
「それじゃ、ゆりちゃん“また”ね?」
強調された「また」の一言。
その声音と笑みに、ゆりの腹の底が一瞬だけ、熱を帯びる。
「……っ」
その感覚を必死に振り払い、顔を背ける。
凛とした背中で颯爽とゲートへ歩いていく。
「……たまんねーな」
蓮の脳裏に甦るのは、数時間前──
自分の名を呼び捨てにし、必死にしがみついてきた、今とはまるで別人のようなゆりの姿だった。




