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狂気の魔法  作者: 波方 真季


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第38話 胡蝶蘭


生きた心地がしないまま、ゆりは一日の業務を終えた。

オフィスを離れ、鞄を肩に掛ける手は、知らず知らずのうちに震えている。

頭の奥は重く、何をしていたかさえ曖昧なまま、ただ時間だけが過ぎていった。


ユニフォーム管理棟へ向かう従業員専用敷地内を走行するバスの中、ようやくスマホを開いたその瞬間、画面に表示された蘭子からのメッセージが、胸の奥でひとつ息をつかせる。



お疲れ様です。

お医者様へ、ゆりさんも蓮に会わせて貰えるよう許可をいただきました。

24時間可能との事なので、ゆりさんの気持ちが大丈夫な時に、蓮に会いに来て下さいね。



小さな文字が滲んで見える。

涙のせいか、疲れのせいか、自分でもわからない。

ゆりは時刻に目を落とした。

ロッカーで着替えてすぐに出発すれば、病院までの終電に間に合う。

今なら病院へ行ける。

帰りはタクシーで帰ればいい。


その決意が胸に芽生えた時には、もう迷いは消えていた。

ゆりはスマホを握りしめ、迷わず返信を打ち込む。



お気遣いいただきありがとうございます。

これから病院へ向かいます。



送信ボタンを押すと同時に、胸の奥で小さな鼓動が早まった。

長い夜が、これから始まろうとしていた。


病院へ到着すると、ゆりは迷わず真っ直ぐICUへ向かった。

案内してくれる医師の足音だけが、長い廊下に乾いた響きを落としている。

無機質な白い壁と消毒液の匂いに包まれた空間は、まるで別世界のように殺伐としていて、息をするたびに胸の奥がきゅっと締め付けられた。


「こちらです。時間は5分まででお願いします」


医師の声が響いた場所、薄いカーテンの前でゆりは足を止める。

鼓動は早鐘を打ち、胸の奥で不安が暴れている。

深く、深く、肺の奥まで空気を吸い込んでから、静かに吐き出した。

それは覚悟のための呼吸だった。


そしてゆりは、震える指先でカーテンをそっと開いた。


そこにあったのは、頭や身体のあちこちに包帯が巻かれ、ギブスで固定された蓮の姿。

酸素マスクが顔の半分を覆い、透明な管が幾本も身体に張り巡らされ、無機質な機械に繋がれている。

顔面は蒼白にやつれ、生気を感じられないほど衰弱していて、まるで別人のように静かに眠っていた。

かつて強く優しく笑っていた彼の姿はそこになく、ただ儚い命の灯だけが、かろうじて残っているように見えた。


「……はぁ…っ」


あまりにも残酷な光景に、ゆりは震えた息を漏らし、思わず目を閉じて天井を仰いだ。


この姿で生きていることが、奇跡としか思えなかった。


こんな状態で果たして意識は戻るのか。

また、あの笑顔の蓮に会える日はやってくるのだろうか。


絶望的な不安が瞬く間に全身を襲い、ゆりの心を容赦なく蝕んでいく。


「……蓮…ごめん……っ本当にごめんね……蓮……っ」


その場に崩れ落ち、泣いて謝ることしか出来なかった。


許された五分間は、あまりにも一瞬だった。

歩行すらままならないゆりは、看護師に支えられながら、後ろ髪を引かれるようにICUを出た。


「ゆりさん…っ大丈夫!?」


扉を出た瞬間、ゆりのメールを読んで駆けつけていた蘭子が、真っ先にその身体へと駆け寄ってきた。

泣き崩れそうなゆりの肩を、両腕でしっかり支え、抱きとめる。


「無理しなくて良かったのに…あなた寝てないんだから、明日以降で良かったのよ」


その声音は、優しさと哀しさの入り混じった震えを帯びていた。

蘭子は、泣きじゃくるゆりを安心させるようにゆっくりと声を掛けながら、近くのソファまで伴って腰掛けさせた。


「あ、貴方。こちら例の…」


蘭子の声に、ゆりはハッと顔を上げる。

そこには、蘭子の隣に立つスーツ姿の白髪混じりの紳士がいた。

背筋がすっと伸び、落ち着いた所作の奥に、どこか見覚えのある面影が宿っている。


その雰囲気、その輪郭——

ゆりは、それが誰であるかを一目で悟った。


「はじめまして、早瀬ゆりさん。話は家内から聞きました。ロンドンにて事故の知らせを受け、すぐに帰国の便を手配し…先ほど、ようやく到着しました。」


低く深い声が、病院のロビーに静かに響いた。

その声と同時に放たれる圧倒的な存在感に、ゆりは思わず息を呑む。


「……蓮の……お父さん………」


アークグローバルエンターテイメント日本事業部門、現代表取締役会長。


その肩書きが示す以上に、彼の纏うオーラは目を見張るものがあった。

長旅を終えたばかりにもかかわらず、背筋を真っ直ぐに伸ばし、立ち姿から滲む威厳と気品。

それがかえって、今この場に横たわる現実の重さを際立たせていた。


ゆりは、思わず涙が引き、濡れた頬を慌てて手で拭う。

そして立ち上がり、胸の奥に押し寄せる罪悪感と恐怖に押し潰されそうになりながら、深々と頭を下げた。


「この度は…私のせいで大切なご子息様を大変な目に遭わせてしまい…本当に…本当に申し訳ありません……っ」


声は震え、謝罪の言葉の途中で喉が詰まり、息が乱れる。

その深いお辞儀には、ゆりの後悔と自責の念が滲んでいた。


「頭を上げてください早瀬さん。目の前で事故を目の当たりにして…今一番辛いのは、きっとあなた自身でしょう。」


その声は、威厳に満ちていながらも驚くほど静かで柔らかかった。

ゆりは、頬を濡らしたまま、ゆっくりと頭を上げる。


「息子が命に換えても守ったほどの大切な女性を、私たちは責めるつもりはありません。そんなことをしたら…蓮に怒られてしまいますからね。」


会長は、ほんの少し冗談めかして微笑んだ。

その一瞬の笑顔が、かえってゆりの胸をぎゅっと締め付けた。

罪悪感と安堵、そして不思議な温かさが同時に胸に押し寄せる。


隣に立つ蘭子が、そっと声を掛ける。


「ゆりさん…少しお話し出来るかしら?」


ゆりは、小さく頷いて返事をした。


三人は無言のままロビーへと向かい、白い照明に照らされたソファへ腰を下ろした。

夜更けの病院は静まり返っており、外の時間を感じさせるものは何もない。

その中で、蘭子が慎重に言葉を選ぶように口を開いた。


「お医者さまと色々お話しした内容を…あなたにも伝えたいんだけど……聞けるかしら。」


その「聞けるかしら」という一言に、良い知らせではないことがはっきりと感じ取れた。


覚悟は出来ているのか。

今の精神状態で、それを聞いても耐えられるのか。


そう問われているのが伝わり、ゆりの指先が無意識に小刻みに震える。

ゆりは深く大きな溜め息を吐いた。

沈黙の中、頭の中では思いつく限りの最悪のシナリオが渦巻いていた。

脳裏に浮かぶのは、ベッドに横たわる蓮の姿。

そのたびに胸が締め付けられ、体温が下がっていく気がした。


それでも、聞きたい。


どれほど残酷な現実でも、知りたい。

その覚悟を確かめるように、ゆりは小さく頷くと、まっすぐに蘭子を見つめ返した。


「……大丈夫です……聞きます」


か細い声だったが、その瞳には決意が宿っていた。

蘭子はゆっくりと頷くと、医師から聞いた話を、ひとつひとつ言葉を選びながら事細かに伝え始めた。




────── 。




(……大きなダメージを受けており、臓器や全身状態がこのまま安定してくれるかどうかは、正直なところまだ分かりません。

心拍は戻り、手術も一段落つきましたが…これは“命を繋いだ”という段階に過ぎません。)


(強い衝撃によって内臓や血管にはまだ見えない損傷が残っている可能性がありますし、手術を乗り越えても、再出血や感染、さらには全身の臓器が徐々に機能を失っていくこともあり得ます。)


(また、一度心肺停止していたため、脳への酸素供給が途絶えた時間の影響がどれほど出るかも、今は判断がつきません。数時間、あるいは数日の間に症状が進むこともあります。)


(率直に申し上げると、数日以内にICUで急変し、お命を落とされる可能性は決して低くありません。

私たちも全力で管理と治療を続けて参りますが、まだ安心できる段階ではないことをご理解ください。)


(蓮がこのまま順調に回復した場合、目を覚ます可能性はあるんですか?)


(はい。もし蓮さんの全身状態がこのまま順調に回復し、脳に致命的な障害が残っていなければ、意識を取り戻す可能性はあります。

ただし…一度心肺停止を起こされておりますので、脳への酸素供給が途絶えた時間がどれほど影響しているかは、まだ判断できません。)


(数日から数週間で自然に覚醒される方もいれば、長く眠り続ける方もいますし…)


(残念ながら目を覚まされない場合もあります。)


(…一般的に、こうした状態が3か月以上続いた場合、意識の回復の可能性は著しく低下すると言われています。

もちろん医学には絶対はありませんので、奇跡的に回復される方も中にはいらっしゃいます。

ただ、医学的なデータやこれまでの臨床経験から申し上げると、その可能性は非常に限られたものになります。

ですので、私どもとしては少しでも回復につながる道を探りながらも、ご家族には『その現実』を心に留めておいていただく必要があるのです。)




──────。




「…………3ヶ月……。」


蘭子の話を聞き終えたゆりは、かすれた声で独り言のように呟いた。

その数字が、まるで残酷なカウントダウンの鐘のように胸の奥に響く。

蘭子は、胸の前で手をぎゅっと組み、祈るような瞳で続けた。


「何がなんでも3ヶ月以内に蓮を叩き起こさないと…目を覚ます可能性は限りなくゼロになってしまう」


その言葉の重さに、ゆりの肩が小さく震えた。


「はぁ……」


大きな溜め息とともにゆりは俯き、両手で顔を覆った。

胸の奥からあふれ出す恐怖と責任感で、呼吸がうまくできない。


「ゆりさんに、お願いがあるの」


蘭子は、そっとゆりの両手を包み込むように握った。

その手の温もりは、強く、しかし優しい。


「もし蓮が奇跡的に回復して、ICUを出て病棟へ移れたら、私は一旦この人とアメリカへ行かなければならないの。その後私はすぐに日本へ戻るけど…その間、蓮のことをお願いできるかしら」


自分は蓮を死の淵へ追いやった張本人だ。


「……私で……いいんですか……」


ゆりの声は、かすかに震えながらも、胸の奥の本音がにじむ。

蘭子は、迷わず首を横に振った。


「あなたじゃないと駄目なのよ……きっと蓮が…今いちばん側にいてほしい人は…あなただから…」


その言葉に、ゆりの目から堪えきれない涙がこぼれ落ちた。

ぽたり、ぽたりと、静かな病院のロビーに落ちる音まで聞こえるようだった。


「あなたが呼べば、蓮は戻ってくる気がするの。

あなたに生きてほしくて……蓮はあなたを守ったんだから。」


蘭子の声は、静かで、それでいて胸の奥に深く届く響きを持っていた。

ゆりはその温もりに、ただ泣きながら何度も頷くことしかできなかった。


それからゆりは、来る日も来る日も病院へ足を運んだ。


早番の日は仕事終わりに夕方から、遅番の日は始業前の午前中に。

どんなに疲れていても、どんなに眠れぬ夜を過ごしていても、毎日欠かさず蓮の元へ通い、手を握り、声をかけ、ただ祈り続けた。

そのひたむきな姿は、両親だけでなく、病院の医師や看護師たちも目を見張る程。


そしてその強く切実な祈りは、確かに届いていった。

蓮の容態は少しずつだが、確実に安定へと向かい、十日ほどで命の危機という険しい山場を越えた。


医師から「病棟に移れる」と告げられた日、ゆりは胸がいっぱいになって涙をこぼした。


蓮が移されたのは、VIP専用の特別病棟。

広々とした個室に足を踏み入れた瞬間、ゆりは思わず息を呑んだ。


そこは病室というより、まるで静謐なホテルのスイートだった。

壁は落ち着いた木目調で統一され、窓は大きく開かれ、都心の高層階からの景色が遠くまで広がっている。

間接照明は柔らかく温かな光を落とし、家族が滞在できるソファベッドやダイニングテーブル、ワードローブも備わっていた。

個室内には専用バスルーム、ミニキッチン、冷蔵庫、そしてコーヒーマシンまで整えられている。

さらに、24時間対応の専任看護師と専属コンシェルジュが常駐し、細やかなケアとサポートが受けられるようになっていた。


その空間のすべてが、今までの緊迫した時間とは対照的に、静かで、優しく、どこか非現実的だった。


蓮が病棟に移ってから、数日が経った。

出発を控えた両親が、アメリカへ発つ前に蓮に会いに病室を訪れた。


コンコン、と控えめに扉をノックしたかと思うと、個室の扉が勢いよく開かれる。

その瞬間、柔らかな空気に似つかわしくないくらい明るい声が響いた。


「ゆりさん、これ!運んでくれる?」


蘭子は、背筋を伸ばしたまま両腕いっぱいに何かを抱えていた。


「わぁ…!胡蝶蘭!」


その腕の中には、白と淡いピンクが美しく入り混じった大輪の胡蝶蘭が、見事な姿で咲き誇っている。


思わず声を上げたゆりは、蘭子の元へ駆け寄り、その大きな鉢植えをそっと受け取った。

両手で支えきれないほど立派な花の重みに、驚きと同時に胸の奥が温かくなる。

顔を近づけると、かすかに甘い香りが漂ってきた。


「すごい……綺麗……」


ゆりの瞳は自然と輝きを帯び、花弁の奥にまで吸い込まれるように見つめながら、その胡蝶蘭を両腕で抱え、そっと窓際へと置いた。

花弁が光を受けてやわらかく反射し、病室の空気に静かな華やぎを添える。


「私の名前の花よ!私のように綺麗よね」


蘭子が無邪気に笑って自慢気に言った。

その快活な笑みと調子、まるで蓮が言いそうな台詞が、どこか蓮に重なって見え、ゆりの胸の奥にひそかな温かさを灯した。


「花言葉、知ってる?」


「いえ……」


ゆりが小さく首を振ると、蘭子は窓際の胡蝶蘭に歩み寄り、ゆったりとした仕草で花弁に触れながら答えた。


「胡蝶蘭の花言葉は…幸福がとんでくる」


そして白い胡蝶蘭の花を指先で示す。


「白い花は……純粋な愛」


次に、淡いピンクの花を指差し、ゆっくりと微笑む。


「ピンクの花は……あなたを愛しています」


その言葉が耳に落ちた瞬間、ゆりの胸はぎゅっと締め付けられた。

胸の奥にしまい込んでいた思いが、花の色と花言葉にそっと呼び起こされる。


蘭子は振り返り、ゆりに向けて明るく笑った。


「あなたにぴったりよね」


その言葉は軽やかに放たれたものの、蘭子の胸には、ここ数日間ずっと見てきたゆりの姿勢が刻まれていた。

蓮に向けられた、打算のない献身と、まっすぐで純粋な愛。

それを、母親として心から感じ取っていた。


「平均的には、2〜3ヶ月で全部の花が落ちるらしいの」


蘭子はそう言って、胡蝶蘭の花弁をそっと指先でなぞりながら切なげな表情を浮かべた。

目の奥に淡く揺れる光は、母としての祈りのようでもあった。


「……この花の最後の一輪が落ちる前に、蓮が目を覚ましてくれたらいいなって……願いを込めてね」


その声はかすかに震えていたが、次の瞬間、蘭子はぐっと顔を上げ、ゆりに視線を戻すと再び明るい笑顔を浮かべた。


「蓮のお世話と一緒に、この子のお世話もお願いね!」


白とピンクの花が、柔らかい光の中でゆらりと揺れる。

その“約束”が、ゆりの胸に深く刻まれた。


ゆりは胸がいっぱいになり、思わず大きく息を吸い込んだ。


「……はい!必ず、この花を一日でも長く咲かせて…花が全部落ちる前に、蓮を絶対に叩き起こしますね!!」


その瞳には、もう涙ではなく、まっすぐな決意が宿っていた。





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