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狂気の魔法  作者: 波方 真季


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第36話 悲劇


「司ああぁぁぁーーーっっ!!!」


焦燥と怒りに突き動かされた蓮の魂の叫びが、部屋の空気を震わせる。

声は壁を震わせ、空間そのものを切り裂くように響き渡った。


「愛し合ってたんじゃなかったのかよっ!!ゆりはお前のことが好きだった!!それで充分だろ!!!」


蓮の剣幕に、男たちの動きが一瞬ピタリと止まる。

それほどまでにその叫びには真実の重みが宿っていた。


「……愛?」


司はゆっくりと首を傾げ、部屋の隅に視線を移しながら、まるでその言葉の意味を測るかのように蓮へ問い返す。


「……そんなくだらないものは……必要ない!!」


眉間に深い皺を寄せ、司の顔が怒りに歪む。

奥歯を噛みしめる音が聞こえそうなほどに、全身が憤怒に支配されていた。


「愛など……この先、どれだけ後生大事に育んだところで……」


いつか必ず、この手から零れ落ちていく。

彼女が離れて行ってしまう時が来る。

他の誰かと結ばれていく彼女の姿を見るくらいなら。


「報われない愛なんて……!」


彼女を殺してしまいたい。


その先の言葉を胸の中で吐き捨てるように、司の胸を焼くのは狂気にも似た衝動だった。


その危うい想念と同時に、司の瞳から一筋の涙が零れ落ちる。


無意識に溢れたその涙は、自らの中にまだ残っていたゆりへの“愛”の残骸の証。

司はそれを握り潰すように、木っ端微塵に否定した。




「俺と彼女の間には……愛なんてものは必要ない」




声は低く、冷たく、しかし涙ながらに震えていた。



彼女の幸せなど願わない為に。

彼女の心も、自分の愛も全てを壊す為に。


彼女を愛する感情を全て切り捨て、胸に残すのはただひとつ。


彼女を閉じ込め、永遠に側に置き、心ではなく、その身が老いて朽ちるまで、玩具人形のように所有するという、冷酷な欲望だけ。


それが、司が導き出した唯一の悲しい答えだった。


”俺と彼女の間には……愛なんてものは必要ない”


ゆりの頭に響く衝撃の言葉。


その冷たい宣告は、ゆりの胸に残酷なほど深い影を落とした。


強張らせていたゆりの身体から一気に力が抜け、腕はダラリと垂れ下がり、瞳は光を失い、魂を置き去りにされたように放心する。


その変化を見逃さなかった男たちが、無言のまま距離を詰める。

逃げ場を失った空間が、さらに狭く、重くのしかかってくる。


迫る気配。

視界の端で揺れる影。

ゆりの中で奪われるという感覚が確信へと変わっていった。


ここから先、自分の意思は存在しない。

そう理解した瞬間、ゆりの世界は音を失った。


頬を伝うのは、滝のように止めどなく流れ落ちる大粒の涙。


「……あああぁぁぁーー」


その悲痛な叫びは、目の前の光景そのものに向けられたものではなかった。


司への想いに、失恋を突きつけられたかのような絶望感が胸を締めつけ、どうしようもない嗚咽となってこぼれ落ちる。




(……これでも、まだ権力は嫌いですか?)


(……これは反則ですよ、桐生さん)


(……キスしてもいいですか?)


(ずるいですね、本当に)




(業務中は、お控え下さいよ?)


(……これくらいなら、いいですか?)


(ちゅ)


(……イギリスでは、挨拶ですから)




(その“おとぎの国マジック”を誰より理解しているのが、彼女です。彼女がプリンセスに憧れを抱き、心からアーク作品を愛してきたから。だからこそ、ここを訪れるお客様の“憧れたい気持ち”“物語を信じたい気持ち”に寄り添うことができる。)




(私とゆりさんの空間に、たとえ運転手であっても、邪魔者はいりませんから)




(おぉ…)


(なになになに!?何だって??)


(…私もずっとあなたに会える日を夢に見ていました。夢は叶うものですよね?)




(…水も滴るいい男…メガネ外すと一層、司は本当に綺麗な顔だね……)


(……私は、ゆりさんの可愛いお顔がよく見えないので、眼鏡を返していただけませんか?)


(……無理ー♡)


(ちゅ)


(……意地悪ですね……ゆりさんは)




(……私の世界はすべてが…っゆりさんで溢れています…!)


(……私の世界には……ゆりさんしか居ません)




(でも、ストーリーテイル上空のヘリ遊覧って、確か禁止されてるよね?アメリカではオッケーなの?)


(いいえ。もちろんアメリカでも禁止ですよ)


(え……じゃあ、どうやって……?)


(……ちょっとした、魔法ですよ)




(あなたのための魔法使いになれたこと…私も心から嬉しいです)




(………海の魔女と契約が交わせるのなら………私が海の底へ沈んでいきます………)




(…………私の子供を…………産んでくれませんか………)





その瞬間、ゆりは悲しくも悟ってしまう。


自分の心の奥底にずっと隠してきた司への切ない恋心を、今ようやく初めてはっきりと認識してしまったのだ。




「やめろおおおぉぉぉぉ!!!」


蓮の叫びは、もはや誰にも届かなかった。

声は空間に溶け、重たい静寂の中へ吸い込まれていく。


ゆりは、抵抗することをやめていた。

それは諦めではなく、自分の心を守るための断絶だった。


視界がぼやけ、音が遠のく。

身体がそこにある感覚だけが希薄になり、代わりに、胸の奥で何かが静かに、確実に壊れていく。


司は、愛を否定した。


その言葉が、ゆりの中の最後の希望を粉々に砕いていた。


涙が流れていることさえ、もうどうでもよかった。

奪われる恐怖よりも、愛されていなかったという事実のほうが、遥かに残酷だったから。


蓮の胸の奥から込み上げる怒りと悔しさは限界まで膨れ上がった。

無力な自分は、ただこの地獄に晒されるだけ。

このどうしようもない悔しさと怒りと苦しみに、今すぐにでも自分の心臓を掴み出して思いきり掻きむしりたい衝動に駆られる。


ついに蓮の頬を熱い涙が伝い落ちる。


観念したかのように力なく項垂れると、蓮は現実から逃げるように視線を落とした。

精神の限界を超えたその表情には、生気のかけらもなく、ただ放心したまま俯くしかなかった。


「………はははっ」


一方、司はその光景を、まるで遠い場所の出来事のように眺めていた。


全てを諦めたかのように項垂れる蓮と、涙に濡れ無力に崩れるゆり。

その姿を前に、二人を完全に掌中に収めたと確信した司は、喉を震わせて笑い声を漏らした。


ゆったりとベッドルームの椅子に腰を下ろし、片肘をつきながら足を組む。

その姿はまるで高みの見物のように優雅であり、胸に残っていたはずの痛みも、迷いも、ためらいも、すべてが支配という感覚に塗り潰されていく。


「あぁ…その顔だ………」


壊れていく姿を前にして、彼が感じていたのは愛ではない。


「自分のものになった」という、歪んだ安堵だけだった。


蓮は、もう視線を上げることが出来なかった。

何も出来なかった自分を、何よりも憎みながら、ただ俯く。


その場にいた三人の心は、同じ空間にいながら、決して交わることのない場所へと、それぞれ引き裂かれていった。


司と部下たちの声、混ざり合う気配、張りつめていた空気が次第に歪み、部屋全体が、理性を奪う熱に侵されていく。


それは、部屋の隅で蓮を羽交い締めにしていた男でさえ、思わず視線を奪われてしまうほどの光景だった。


「…あぁ…すげぇ……」


思考が追いつかない。

ただ、目を離せない。


男の意識は完全にその場に縫い止められ、呼吸は浅くなり、周囲への警戒心が剥がれ落ちていった。

正気でいることのほうが、異常に思えるほどの空間。

そこでは判断も責任も、すべてが曖昧に溶かされていった。


そして——


蓮を抑え込んでいた男は、その異変に気づかなかった。

自分の腕に込めていた力が、知らぬ間に緩んでいることさえ。


ただ一人、その狂気の熱に呑まれず、視線を伏せ、呼吸を整え、状況を冷静に見据えている男がいた。


蓮は、とっくに気づいていた。

抑えつける力が弱まっていることも、司と男たちの注意が、完全に別の場所へ向いていることも。


感情を殺し、息を潜め、静かにその隙が致命的な形になる瞬間を待っていた。


くそっ……

ゆりに夢中になりやがって……的がモロわかりだな。


今だ——!


ガンッ!!


一瞬の隙を突き、蓮は怒りと恨みを込めて、

ゆりに意識を向けたまま動きを止めていた男の体勢の隙へ、渾身の力で蹴りを叩き込んだ。


「ゆり!!今だ!!」


薄れかけたゆりの意識の奥に、蓮の声が鋭く突き刺さる。


反射だった。

考えるより先に、身体が生き延びるために動いた。


男は短い悲鳴を上げ、衝撃に耐えきれず床へ崩れ落ちる。


すかさず蓮はベッドへ飛び乗り、もう一人の男の背後に回り込むと、腕を首元へ回し、全身の力を込めて締め上げた。


「逃げろ、ゆり!!」


その声に弾かれるように、ゆりは寝室を飛び出し、

近くに掛けられていたバスローブを掴むと、迷うことなく玄関へと駆け出した。


蓮の腕に込められた力が限界まで高まり、男の抵抗は次第に弱まっていく。


その正面、ベッドの上にはその様子を真っ直ぐ見上げる司。

冷徹な笑みを浮かべ、その瞳だけは鋭く光っている。


「……やってくれたな、蓮」


低く落ちる声には、抑えきれない怒りが滲んでいた。


「お前らは全員、隙だらけなんだよクズ共が」


吐き捨てるような言葉が落ちた瞬間、男の身体から完全に力が抜け落ちる。

蓮は手応えを感じるや否や、迷うことなく腕を離し、振り返ってすぐにゆりを追って駆け出した。


バスローブを羽織り、慌てて靴を突っかけたゆりと蓮は、玄関の扉を蹴るようにして飛び出した。


「さっさと追えっっ!!!」


背後から響く司の怒号は、まるで獣の咆哮のように廊下の壁を震わせ、二人の背を叩きつける。


長い廊下を駆け抜けるゆりの足は恐怖で小刻みに震え、ヒールの先がカツン、カツンと甲高い音を立てるたびに、胸の奥の心臓が爆発しそうなほど早鐘を打っていた。


隣を並走する蓮もまた必死だった。

先ほど男を倒したばかりの腕はまだ余韻で痺れ、全身が震えている。

だが今は痛みも疲労もどうでもいい。

ゆりを守らなければ。

その一点だけが、蓮の身体を動かし続けていた。


幸い、エレベーターはすぐに到着した。

だが、乗り込もうとするその直前、背後から複数の足音が迫る。

重い革靴が床を打つ音が、じわじわと距離を詰めてくるたび、ゆりの背筋に冷たいものが走った。


開いたエレベーターへ、二人は飛び込むようにして駆け込む。

扉が閉じる寸前、追っ手の影が視界の端にかすめた。

危機一髪のところで金属の扉がカシャンと音を立てて閉まり、わずかな隙間から見えた影も、すぐに断ち切られた。


ゆりの胸に恐怖が溢れ、思わず蓮の袖を掴む。

汗に濡れた掌が必死に布を握りしめ、振り払われまいとしがみつくその仕草は、彼女の恐怖の深さを雄弁に物語っていた。


蓮は横目でその必死な姿を見つめ、喉奥に熱いものが込み上げる。

そして裾を掴むゆりの手を、自らの手で強く握り返した。

その温もりは、逃げ場のない恐怖の中で二人をつなぐ唯一の絆だった。


「必ず助けるって言っただろ。何があっても俺が絶対に守るからって」


蓮の低く強い声が、胸の喧騒を裂くようにしてゆりの心に深く届いた。


脳裏に蘇るのは、あの二股の時期。

翌日は非番だから会えないと伝え、司を断れないかと縋る蓮に、咄嗟についた言い訳。


(わかるでしょ…会社に居られなくなっちゃうし…蓮にも会えなくなっちゃうよ……)


そして、その後に聞いた「必ず助ける」という蓮の言葉。

ゆりは思い出し、胸が締めつけられる。


たくさん嘘をついてきた。

平気で裏切った。

酷い捨て方をした。

深く傷つけた。


それなのに——。



どうして…どんな時でも……あなたは……。



ゆりは蓮の手を握り返した。

汗と汗が絡み合い、互いの熱が確かに伝わる。


蓮はその温もりに、固い決意を燃やした。

絶対に離さない。

もう二度と——司の元には行かせない。


司の冷酷な笑みが、まだ頭の片隅に焼き付いている。

あの狂気に呑まれてしまえば、ゆりは壊され、永遠に司の檻から逃げられない。


だから走る。

何があっても、この手を離さずに。


エレベーターがロビー階に到着すると、扉が開くや否や、二人は弾かれたように駆け出した。

蓮はゆりの手を強く引き、広いエントランスを一直線に突き抜け、そのまま夜の空気へ飛び出す。


目の前には大通り。

青信号の点滅が、まるで二人を急かすように瞬いている。

蓮が先導し、ゆりがその後に続く形で横断歩道を駆け抜けようとした、その時。


「……っあ!」


勢い余ったゆりが転倒した。

アスファルトに膝をつき、息を呑む。


「…いった……やばい……足挫いた……」


ゆりが顔を歪め、足首を押さえる。

見るとヒールの片方が無惨に折れ、傾いた靴のまま動けなくなっていた。


「ほら」


蓮は迷うことなくゆりの前に立つと、背中を向けて深く屈んだ。

その広い背が、逃げ場を失った彼女のために、黙って差し出される。


ゆりが蓮の背中に身を預けようと、震える手をそっと彼の肩に伸ばした、その刹那——。


「っっっ!!!!」


夜の大通りを切り裂くような轟音。

ヘッドライトの光が、白刃のように二人を照らしつける。

居眠り運転の大型トラックが、猛獣のような唸り声をあげながら、制御を失って二人へ一直線に突っ込んできた。


ほんの一瞬で時間が引き延ばされたように感じた。

ゆりは恐怖で全身が硬直し、金縛りにあったように動けなかった。

蓮の視界には、恐怖で目を見開いたゆりの顔だけが鮮明に映っている。

その瞬間、蓮は考えるより先に身体が動いていた。

全身の力を振り絞り、ゆりを力の限り思いきり突き飛ばす。


ドンッッ!!!






ガッッシャーーーーン!!!!!!!






耳をつんざく爆音、金属がひしゃげる音、ガラスの飛び散る破裂音。


空気が衝撃で震え、夜の静寂が粉々に砕け散った。


蓮の身体が、ゆりの目の前でスローモーションのように宙を舞い、アスファルトに叩きつけられる。






「蓮ーーーーーーっっっ!!!!!」






ゆりの悲鳴が大通りに響き渡った。

膝が崩れ落ちるのも忘れ、無我夢中で蓮の元へ駆け寄る。

地面に倒れた蓮は血に染まり、その鮮紅が街灯の下で不気味に光っていた。


「嘘嘘嘘嘘!!!蓮!!蓮!!しっかりして蓮っっっっ!!!!」


ゆりは震える腕で、血まみれの蓮を抱き抱える。

胸に顔を埋め、嗚咽まじりに名前を呼ぶ声は裏返り、泣き声と混じってかすれていく。


「あぁ…ああ…きゅ、救急車っっ!!」


慌ててトラックから降りてきた運転手は顔面蒼白になり、震える指で必死に緊急通報の番号を押した。


「……ゆ…り……ケガ……ない….?」


途切れ途切れの声。

血の気の引いた唇が、微かに動いてゆりの名を呼んだ。

その言葉に、ゆりの胸は締めつけられるように痛み、喉の奥から声にならない嗚咽が込み上げた。


「…平気だよ…っだけど蓮が…!!ごめんっ私のせいで…全部私が悪かったの…っ…蓮…っ」


絞り出すような声。


蓮の愛から目を逸らしたこと。

蓮を一度手放したこと。

蓮に助けてもらったこと。


その全ての後悔が、怒涛のように押し寄せて胸の奥をえぐり、ゆりの目からはとめどなく涙が溢れ落ちた。

肩を震わせながら、血まみれの彼の頬に必死で手を添える。


蓮は、そんなゆりを見つめながら、ほんの一瞬だけ柔らかい笑みを浮かべた。


その笑顔は、今にも消えてしまいそうなほど儚くて、けれど確かに温かかった。


「…………映画みたいに………身体が……光に包まれて…王子様に……変身できたら…な……」


かすれた声。

まるで夢を語る少年のような口ぶりに、ゆりの胸が張り裂けそうになる。


「…ばか言わないで…っ!!もう喋らないで…っすぐに救急車来るから!絶対大丈夫だから!!」


泣き叫びながら必死で彼の頬を叩き、声をかける。

だが、その温もりは少しずつ冷たくなっていく。

ゆりの震える指先に、彼の体温が確かに失われていくのが伝わった。


蓮の視線は、もう一点から動かない。


遠い空を見るように、焦点を結ばない瞳。

まるでどこか別の世界へと歩き出すように、蓮の意識が静かに遠のいていく。


「…待って…蓮っ!だめ!!!だめだよ蓮!!!!いかないで!!!!」


ゆりは掠れた叫び声をあげ、血で滑る蓮の身体を両腕で強く揺さぶった。

必死でその魂をこの世界へ引き戻そうとするかのように、腕に力を込める。

だが、その力は虚空にすり抜けていくようで、何の手応えも返ってこない。


「……王子様に……な…っ…て……ゆり…と……結婚……した…か……った……」


途切れ途切れに紡がれる、か細い声。

笑顔の欠片を残しながら、まるで夢の続きを語るような、少年のように無垢な告白だった。


魔法の光は降り注ぐことは無く。


その願いも、叫びも、虚しく空気を震わせて消えていく。


「……やだ……やだよ、蓮……っ」


やがて蓮の身体は、温もりを完全に失っていく。


指先から、胸元から、確かに存在していた体温が冷たく氷のように変わっていくのが伝わる。

胸に耳を押し当てても、あの力強い鼓動はもうどこにもない。




次の瞬間、蓮の心肺は静かに、その動きを停止し──



命の灯火は消えた。




「いやあああぁぁぁーーーーーー!!!!」








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