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狂気の魔法  作者: 波方 真季


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33/62

第33話 涙の理由


──時間を遡ること、ほんの数分前。


司は業務に関する確認事項があり、蓮へと連絡を入れた。

だが、コール音だけが虚しく響き、繋がる気配はない。

眉を寄せて短く息を吐くと、司はすぐさま蓮の部下へ電話を掛けた。


《代表なら、先ほど4階に向かわれましたよ》


返ってきた答えに、司は静かに腰を上げる。

だが心のどこかで、微かな違和感が胸をざわつかせていた。


エレベーターを降り、四階のオフィスに足を踏み入れる。

整然と並ぶデスク、キーボードを叩く音。

その中で司は近くにいた社員へ声を掛けた。


「あれ、鳳条代表…来ていませんでしたか?」


問いかけに、社員は首をかしげるようにしながらフード部の方向へ視線を向けて答える。


「代表なら、先ほどフード部に行って…あー確か社員の方を連れて、どこかに行きましたね」


「…フード部?社員を?」


思わず復唱した言葉が、自分の喉に重く残る。

胸の奥でざらりとした予感が走り、視線が鋭さを帯びた。


曖昧な返答が、余計に不安を煽る。

司は迷いなく踵を返し、足音を強めながらフード部のフロアへと向かった。


フード部オフィスのフロアに足を踏み入れた司は、抑えきれない焦りに突き動かされるように、そこに居合わせた社員へ声を掛けた。


「代表来ましたよね?誰と、どこへ行きましたか?」


急を要する響きに社員は少し目を丸くしながらも答える。


「はい、先ほど早瀬さんを呼びに来ましたね。ただ…どこへ向かわれたのかまでは、すみません、ちょっと…」


バンッ──


言葉の続きを遮るように、司の両掌がデスクを強く打った。

乾いた衝撃音がフロアに響き渡り、空気が一瞬で張りつめる。

周囲の社員たちはビクリと肩を震わせ、息を呑んだまま動きを止めた。


司自身も、それが無意識の衝動だったことに気づくが止められない。

胸を締め付ける苛立ちと焦燥が、腕に伝わっていた。


「……っ」


唇を強く結び、司はその場を振り払うように踵を返すと、鋭い足音を響かせて走り出し、フード部オフィスを後にした。

彼の背に残されたのは、怯えたように視線を交わし合う社員たちと、緊迫の余韻だけだった。


どこだ。

彼女を連れて、いったいどこへ行った?


答えのない問いが胸の奥で暴れ、司の足は迷いなくエレベーターへと向かっていた。

指先が震えるのも構わず、呼び出しボタンを焦燥のままに連打する。


わずかに遅れるエレベーターの到着が、ひどくもどかしい。

司は鋭い視線で点滅する階数表示を睨みつけるように見上げて、秒針よりも遅く感じる時間を噛み殺すように待った。


ようやく扉が開く。

瞬間、司はためらうことなく中へ足を踏み入れた。

閉じかける扉を背に受けながら、迷わず最上階のボタンを押す。


目的地はひとつ。

蓮の部屋、代表取締役室。


エレベーターが最上階に到着すると同時に、司は飛び出すようにフロアへ降り立った。

そのまま一直線に取締役室を目指し、視界に捉えた扉へ腕を伸ばす。

重厚な取っ手に手を掛けた、その瞬間。


扉を隔てた向こうから、熱を帯びた甘い声が零れ落ちてきた。


わずか数十センチの隔たり。

ほんの一枚の扉がなければ、すぐ傍にいるかのような鮮明さで、ゆりの声が耳に突き刺さる。


司の頭は真っ白になり、身体は硬直した。


──なにを……している……?


耳に届くのは、ゆりの切なげな声と、それに重なる荒い呼吸。

さらに混じる気配が、蓮の存在を強烈に想起させる。

その一つひとつが、司の脳内を容赦なく支配していった。


心臓が爆ぜるように跳ね上がり、全身に鳥肌が駆け巡る。

煮えたぎる怒りの炎が胸を焼くと同時に、司を襲ったのは──


視覚と記憶に焼きついて離れない、あの光景。

蓮に翻弄され、壊されていくゆりの姿。

幾度も執拗に繰り返し、夢と現実の境目で執着し、依存のように再生し続けた映像が、今まさにフラッシュバックのように蘇った。


衝撃波のように意識を打ち抜き、司の呼吸は乱れ、握る扉の取っ手に込める力が軋むほどに強まった。


今すぐにでも扉を開け放ち、止めに入りたい、

燃え盛る嫉妬心が胸を焼く。

だがその意志とは裏腹に、頭の奥で暴れ狂う映像の衝撃に、全身はまるで金縛りに遭ったかのように動けない。

理性と衝動の狭間で、もがき苦しみ、精神は暴れ馬のように暴走する。


この扉の向こうで今、繰り広げられている色事の行く末は…

彼女は、どこまで許してしまうのか。

そして、自分への想いはどの程度なのか。


確かめたい気持ちと、恐怖にも似た「知りたくない」気持ち。

相反する感情がせめぎ合い、全身を覆い尽くす。


その混乱の中で、司は気づけば無意識に扉へと寄りかかっていた。

額が冷たい木目に触れ、耳を押し当ててしまう。


重く閉ざされた一枚の扉の向こうから、熱を帯びた気配が鮮明に漏れ伝わってくる。

絡まり合うような音、荒く揺れる呼吸。

そこに混じるのは、ゆりのくぐもった甘い声。


壁に押し当てた耳から届くその音は、容赦なく乱れていく。

聞きたくないのに、耳を塞げない。

それは司の胸を深く抉り、同時に意志に反して全身を灼くような昂ぶりへと誘っていった。


心拍数は爆ぜるように跳ね上がり、身体の芯まで強く縛りつけられる。

嫉妬、怒り、興奮、絶望。

すべてが渦を巻き、司を壊そうとしていた。


その瞬間。


──ガチャッ。


勢いよく押し開かれた扉から、ゆりが飛び出してきた。

至近の距離で、目が合う。


顔を赤らめ、涙に濡れ、酷く乱れた表情。

その泣き顔を見た刹那、司の中に燻っていた激情の炎は、一気に爆発した。


胸の奥に積もっていた黒い熱が、堰を切ったように溢れ出す。

その直後、ゆりを追うようにして蓮が姿を現した。


「……ゆりっ!!」


蓮が伸ばした手がゆりの腕を掴む。

その瞬間、司と蓮の視線がぶつかり合った。


「……司……っ」


憎きその顔を見た瞬間、司の中でブチリと音を立てるように理性の糸が引きちぎれる。


ガッ──。

衝動のままに、司は蓮の胸ぐらを掴み上げ、その身体を力任せに押しのけた。


「お前ごときが!!!!なぜこの人を泣かせるっっっ!!!!!」


声は咆哮となり、廊下に響き渡る。

怒りと嫉妬が混ざり合ったその言葉は、ただの叱責ではなく、心の奥底からの叫びだった。


なぜだ。

なぜ蓮は、いとも簡単に彼女を崩せる。

たかが蓮の分際で、どうして彼女にあんな弱い顔をさせられる。

自分には絶対に見せない姿を、なぜ彼女は蓮にだけ晒すのか。


司の胸を焼き尽くす疑問と嫉妬と怒りと悔しさは、止めようのない憤怒となり、それらの感情を全てを詰め込んだ拳が蓮の顔めがけて叩きつけられようとしていた。





──────── 。





その後、司はゆりに引きずられるように取締役室を後にした。

涙に震える彼女の手が腕を強く握り、二人は足早に廊下を進み、エレベーターへと向かっていく。


「……ひっく…ふっ…….うぅ…ひっく……ぐずっ……」


抑えきれない嗚咽が、無機質な廊下に響き渡る。

しゃくり上げる声と啜り泣きが重なり、痛々しいほど彼女の心をさらけ出していた。


こんなに弱々しい姿を見るのは初めてだ。


あんなに強い彼女が、なぜこんなにも涙しているのだろうか。

彼女の涙は、感動や喜びに溢れた時にしか流れない。

それ以外で自分に向けられてきたのは、笑顔か、怒りか、あるいは支配の表情だけだった。


だからこそ、いま目の前にある泣き顔は、司の胸を焼き尽くす。

煮えたぎる嫉妬の炎と同時に、胸の奥底に別の熱を生じさせてしまう。


「…………っ」


気づけば、ゆりに引かれていたはずの司が、逆に彼女の腕を掴み返していた。

焦燥に駆られるまま、自らの力で彼女を引き寄せ、歩調を速める。


やがて二人はエレベーターに乗り込み、司が無言のまま数字を睨みつけながら到着した先は十一階。

本社幹部応接室。


扉が開くと同時に、司はゆりを連れてその中へと駆け込んだ。


そのまま、ドサッとゆりの身体をソファに預ける。

距離を詰め、片手を背もたれに添えたまま、彼女を見下ろす。


「……それは……何の涙だ?」


低く落とされた声。

ゆりへ向けられるいつもの柔らかい口調とは違い、怒りを含んだ鋭さがありありと伝わる。

その気配に、ゆりの胸がひりついた。


「………ぐす……ひっく……」


自分でもわからない涙の理由は、答えたくても答えられない。

言葉が喉で絡まり、ただ司を見上げながらしゃくり上げるしかできない。


普段は誰よりも支配的で強いはずの彼女が、頬を涙で濡らし、弱々しい視線で自分を見上げてくる。

そんなゆりの見た事もないような表情に、司の胸はドクンッと大きく脈打った。

競り上がってくるような堪らない欲望と、理性を焼き尽くすような興奮が絡み合い、司の衝動が爆発。

感情に引き寄せられるように、司はゆりとの距離を失った。


彼女から僅かに鼻を掠める蓮の香水の香り。

蓮の肌がどれほどまでに彼女へ近づいていたのかが痛いほど想起される。


それと同時に、司の脳裏を容赦なく襲うのは、あの扉一枚を隔てて耳にした蓮が彼女と重なり合う気配。

そして、幾度も自らを鎮めながら執着の果てに繰り返し脳裏に焼きつけてしまった映像。

蓮が彼女を泣かせ、壊し尽くし、追い詰める一部始終が、鮮明に蘇る。


激昂する怒り。

爆発する嫉妬。

それに絡みつくように、身体の奥で制御できない熱が暴れ出す感覚。



全身が、狂気に呑まれる。



「……っあ゛ぁ゛ーッ……!」


抑えきれない感情の奔流が、猛獣の咆哮のように喉から迸った。

壊してしまいたい。

めちゃくちゃにしてしまいたい。

そんな衝動が、理性を根こそぎ押し潰していく。


取り憑かれたように、司の視線はゆりから逸れなくなっていた。

思考はもはや整合性を失い、胸の奥で渦巻くのは、衝動と怒りと、どうしようもない独占欲だけ。


「…っ待って…っやめて…っ司…っ!!!」


縋るような声が届いているはずなのに、司の耳には届かない。

ゆりの言葉は、暴走しかけた意識の外側で、かすかに反響するだけだった。


普段は冷静で、誰よりも優しい司。

けれど今目の前にいるのは、これまで見たことのないほど苛烈で、怒りに満ちた姿だった。


相当怒ってる。

完全に…ブチギレてる。


そう認めざるを得ないほどの剣幕に、ゆりは一瞬、恐怖に怯みかけた。

背筋を走る冷たいざわめきに、喉が詰まりそうになる。


けれど。

それでも。


このまま主導権を渡すわけにはいかない。


理性を失った彼の暴走に呑まれてしまえば、司も、自分も、そして二人の関係も、全てが壊れてしまう。

それだけは、絶対に許してはいけない。


恐怖に揺れる胸を必死に奮い立たせ、ゆりは気力を振り絞った。

何としてでも、止めなければ。


ゆりは震える手で司の視界を遮るように動き、必死に距離を取ろうとする。

だが、逃げ場のない近さに、司の存在感だけが圧となって迫ってくる。


張り詰めた空気。

荒く重なる呼吸。

視線が絡み合い、互いの感情が剥き出しになる。


すかさずゆりは渾身の力を振り抜く。


バシンッッ!!


乾いた音が室内に響き、張りつめた空気が一瞬で裂けた。


だが──


「……っ」


司は一切動じなかった。

逆に、張りつめていた感情が、ぎりぎりのところで均衡を失いかけているのが、ゆりにも分かってしまう。


間近に迫る司の熱と荒い息遣いが空間を満たし、胸の奥で心臓が破裂しそうなほど脈打ち、視界が揺れた。


「なぜっ…!!蓮にはいとも簡単に崩れて…泣きながら許すくせに…っなぜ俺にはそれを許さない!!!」


悲痛な叫びが狭い室内に反響し、鋭い刃のようにゆりの胸を突き刺す。

司の嫉妬は暴風のように荒れ狂い、その烈しさに呼吸さえ奪われる。


言葉を紡ぐ間もなく、距離がさらに詰まり、強い熱だけが押し寄せる。

抗おうとする意志は、その圧に押し潰されるように揺らいでいった。

荒れた呼吸と視線が絡み合う中で、司の感情は制御を失い、ゆりの存在そのものへと向けられていく。


司の気配がふと揺らぎ、圧がわずかに緩む。

その一瞬の隙を、ゆりは本能的に感じ取った。


(お願い…止まって…司!)


ドガッ──!


司に鈍い衝撃が走り、空気が一気に乱れる。


「…ゔ…っ!」


司の呼吸が詰まるように途切れ、低く押し殺した声が漏れた。

だが、その動揺はほんの一瞬で、すぐに空気は再び張りつめる。


次の瞬間、ゆりの動きを阻むように圧が戻り、逃げようとした意志は行き場を失った。

距離は再び奪われ、覆いかぶさるような存在感が、容赦なく迫ってくる。


息が詰まるほど近い距離で、怒りと嫉妬に歪んだ司の声が、低く降りかかった。


「…いい加減に…しろ…っ!!」


まるで別人のように荒れ狂う司の姿に、胸は悲しみと恐怖で心が折れそうになった。

自分の力ではもうどうする事も出来ない。

その現実を悟った瞬間、最後に残された術へ縋りつく。


「誰かーー!!誰か…──っ!」


必死に声を張り上げ、入口の扉に顔を向けて叫んだ。

だが次の瞬間、叫ぼうとした声は司の放つ剥き出しの感情が空気ごと圧し潰し、喉の奥で行き場を失った。


「ふざけた真似はやめろ!」


それは命令でも怒声でもなく、逆らう余地のない“宣告”だった。


呻き声しか出せなくなった瞬間、ゆりの瞳は諦めの色と涙で滲んだ。


私はもう無理だ。

誰か司を止めて。

誰か。



………蓮──。



………蓮……!!



「…………っ!」



ハッとゆりは閃いたように目を見開いた。


そうだ。


この手があった。


この手を使えば…もしかしたら。


ゆりは必死に張り詰めていた全身の力を一気に抜いた。


ゆりの喉は緊張で強張り、言葉は形になる前に絡め取られる。

声を出そうとしたはずなのに、息だけが浅く零れる。


そして少しの間を置いてから、喉の奥に仕込んだ言葉を静かに吐き出す。

声はくぐもり、呼吸音に紛れるように慎重だった。


「……ふ……ぁ……」


意味を成さないほど小さな音。

けれど、その中に確かに混じった呼びかけに、司はピクリと反応した。


覆いかぶさっていた身体が、わずかに止まる。

その一瞬の“間”が、空気を切り裂いた。


司はゆりの顔を見下ろし、

息を詰めるように、低く問いかける。


「……今、何と?」


すると、ゆりの口から漏れ出る声が、緊張から解き放たれ、はっきりと司の耳に届いた。


「…司……もう反抗しないから……もう少し優しく……して…?」


そう。

それは、蓮を陥落させたゆりの必殺技。


苦渋の決断で、ついに司に対しても“禁断の手”は放たれた。


頬を紅潮させ、瞳を潤ませながら、罪深いほど艶やかな上目遣いで司を真っ直ぐに射抜く。


「……怖いよ…司……そんなに……怒らないで……?」


ぽろぽろと零れ落ちる涙は、悲しみと恐怖に滲むのに、そこからあふれる色香は抗えないほど甘美だった。


司は、グッと心臓を掴まれて怯んだように、思わず抑え込んでいた腕をするりと緩める。

するとゆりの震える手が司の頬へ伸び、そっと触れる。


初めて自分に向けられる涙。


そして、決して見せるはずのない“弱さ”と“色気”が、いまこの瞬間ひとつに重なってしまっていた。


ようやく。

やっと。


喉から手が出るほど求め続けたゆりの全てが、今こうして自分のものになろうとしている。

その実感が司の全身を痺れさせ、ドクン、ドクンと心臓を狂ったように打ち震わせた。


そしてゆりは、涙を次から次へと零しながら、顔を斜めに傾けて上目遣いで司を畳み掛けるように誘惑する。


「……もっと優しく……ね?」


そして見上げる瞳で司を熱く捉えたまま、両腕をゆっくり司の首へと求めるように回した。


「… 司……お願い。」



ズキュンッ──。


心臓が撃ち抜かれたような衝撃に、司は息を詰め、もう抗うことさえできなかった。

その声音、その視線。

弱さと色香を同時に滲ませた必殺の一撃が、司の胸を見事直撃した。


「……はぁ……っ」


熱に浮かされたような吐息を洩らし、覆いかぶさっていた身体を起こして重圧から解放したその瞬間。


──ニタッ。


ゆりの表情が豹変した。

涙に濡れた頬のまま、口角を鋭く吊り上げたその瞬間──


空気が変わった。


ゆりの全身から放たれる渾身の威圧に、緊張で喉の奥がきゅっと締めつけられるような感覚が走る。


司の喉から、掠れた声が漏れた。

息の仕方を忘れたような感覚に、意識が一瞬で驚きと混乱に沈む。


驚愕、恐怖、そしてあり得ない高揚。

胸の奥でせり上がるのは、動揺と興奮が入り混じった得体の知れない熱。


まるで殺意に満ちたような冷徹なゆりの眼光が司を容赦なく突き刺す。


先ほどまでの、か弱く潤んだ瞳。

艶やかで甘くこちらを誘っていたその目が、まるで別人格のように変わった。

可憐さを湛えた表情は音を立てて剥がれ落ち、代わりに鋭く睨みつける狂気じみた眼差しが据わる。

その錯乱に満ちたまなざしが、彼の思考を瞬時に乱し、理性の糸をほどいていく。

気づけば世界がぐらりと傾いたようだった。



…信じられない………


…まさか…………


…罠…だったとは………



渾身の威圧感とはいえ、力任せにゆりを引き剥がせば、恐らく物理的には振りほどけない事はない。


しかし司はもう、その瞬間を迎える余力を失っていた。

ゆりのあまりにも巧妙に仕組まれた罠がもたらした衝撃、急転直下の豹変が脳内を打ち砕き、理性と感覚が逆行するように高揚が湧き上がる。

身体は動くべきだと命じるのに、心はすでに戦う意志を喪失していた。


パニックは限界を越え、司はただ呆然とするしかなかった。

周囲の音が遠くなり、視界が歪み、頭の中は真っ白に霞んでいく。


ゆりは、司の全身から力が抜け落ちたのを確信すると、満足げに笑みを浮かべ、ゆっくりと上体を起こした。

そして、今しがたまでの威圧感は若干緩まり、逆に優しく司の唇へキスをする。


甘い口づけ。

柔らかな感触は残酷なまでに優しく、司の混乱した心をさらに掻き乱す。


彼女はいつもそうだ。

支配の直後に、必ず甘い飴を与える。

それこそが、抗うことを許さない彼女の巧妙な手綱。


唇に触れるその温もりを感じた次の瞬間、緊張から突然解放された。

司は激しく深呼吸をくり返しながら喉を震わせた。

空気は甘美なのに、胸に広がるのは恐怖と悦楽がないまぜになった、どうしようもない痺れる感覚だった。


司が深呼吸をしながら必死に酸素を求めている間に、ゆりは乱れ散らばった衣服を一つひとつ拾い上げ、何事もなかったかのように次々と身にまとっていった。

指先は震えることもなく、むしろ淡々とした所作でボタンを留め、裾を整える。


肩で荒く息を繰り返す司を横目に、彼女の足取りは迷いなく出口へ向かう。


「じゃあ司♡次の非番に、約束のレストランでね!」


振り返ったゆりは、涙を流していた面影を微塵も残さず、愛らしい笑みを咲かせる。

先程までの嵐のような出来事が、まるで何事も無かったかのような、その一言を置いて、扉を押し開けると、颯爽と去っていった。


ゆりは強かった。

強くなった。

何も出来ずに怯えて屈するだけだった過去の自分はもういない。


絶体絶命のピンチに見事な機転を働かせ、またもや司を掌握した。





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