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狂気の魔法  作者: 波方 真季


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第32話 幸せです


時は遡ること、数日前の日本。


十一月のオープンを予定しているプリンセスダイニング。

華やかな外観の工事が進む一方で、内部では準備のための確認作業が着実に積み重ねられていた。

蓮もまた、その書類の束に目を通していた。


無駄のない視線で一枚一枚を確認していく途中、ふと手を止める。

そこには、早瀬ゆりの報告書があった。

内容に不備はない。

だが最後の欄に押されているはずの印鑑が、ぽっかりと空白のままになっている。


「……珍しいな」


彼女にしてはあり得ない見落とし。

これでは本社へ書類を送ることができない。

蓮は小さく息を吐き、残りの書類へ視線を移した。

最後まで確認を終えると、迷いなく立ち上がる。


向かった先は、支社本部内のフード部オフィス。

蛍光灯の白い光が紙の山を照らす中、蓮はそこにいた社員へ声をかけた。


「あ、ちょっと君。この報告書の印鑑漏れてるから、早瀬SVに押すように言ってくれる?」


差し出した書類を受け取った社員は一瞬だけ首をかしげ、それから気まずそうに笑った。


「早瀬SV?…あー、長期休暇中なんですよね。上長の代理印でもよろしいですか?」


その言葉に、蓮の瞳がわずかに揺れた。


「は?休暇?なんで?」


思わず低い声で問い返す。


「アメリカのストーリーテイル行ってるらしいですよ。いいですよねー」


──アメリカ?


「ずっと夢だったみたいですよ。沢山勉強しておいでって言っておきましたから」


空白の印鑑欄よりも、その一言の方が胸の奥にずしりと沈み込む。

喉の奥を、嫌な予感が掻きむしる。


この時期は、アメリカ支社で大規模なグローバルオペレーション会議が行われている。

司もそのために渡米しているはずだ。


──まさか。


蓮は元来、勘が鋭い。

ざわめく胸に駆られるように足早に取締役室へ戻ると、扉を乱暴に閉め、デスクに腰を下ろした。

落ち着きを失った指先が震えながらキーボードを叩く。


従業員シフトスケジュール。

そこに表示された「早瀬ゆり」の欄は、一週間分、きっちりとグレーアウトされていた。


焦燥に駆られるように画面を閉じ、すぐさま別のウィンドウを開く。

アメリカ支社グローバルオペレーション会議の日程を確認する。

それはゆりが休暇に入る直前の日程。


司の帰国予定は……

日本支社への次回出社日は……


強い焦りとざわめきが同時に競り上がり、冷や汗が背中を伝う。

そして、別のウィンドウを開く。


「……く……っ!」


まるで意図的に擦り合わせられたかのような、会議後の“謎の空白の一週間”。

その事実に、胸の奥が焼けつく。


ガンッ!


蓮はデスクに拳を叩きつけた。

木製の天板が鈍く響き、静まり返った室内にその音が重く沈む。


項垂れるように肘をつき、反対の手で髪を掻きむしる。

奥歯を噛みしめながら、苦く呟いた。


「……そういう……ことかよ……っ」


まさか──まだ司とゆりが繋がっていたなんて。


自分はあのとき、無情にもあっけなく切り捨てられた。

なのに、どうして司は今もなお、ゆりに切られていないのか。

胸の奥がじわじわと熱を帯び、理性がひとつずつ崩れていく。


だって、司は共犯だ。

あの日の出来事が理由で自分が切られたのなら、司だって同じタイミングで切られて然るべきだと、ずっとそう思い込んでいた。


まさか、自分が切られた理由は司なのか。

俺じゃなくて、司を選んだからなのか。


それとも、司を切りたくても切れない何か別の理由があるだけなのか。


問いは渦のように胸の中で回り続け、答えはどんどん遠ざかる。

理屈がいくら並んでも、感情はそれを押し流していく。

蓮の頭の中はぐちゃぐちゃにかき乱され、冷静だったはずの心が音を立てて崩れていく感覚がした。


──狂いそうだった。


その真相を…確かめずにはいられない。








ゆりがアメリカから帰国して間もない日のこと。

支社本部側フード部オフィス。


「早瀬さん」


低く鋭い声に呼ばれ、ゆりは思わず振り返る。


「……!」


驚きに目を見開き、わずかに顔色が変わる。


「鳳条…代表……」


「お尋ねしたいことがあるのですが、少しよろしいですか」


彼の視線が肌を突き刺す。

ゆりは息を詰めながら、微かにうなずいた。


「……かしこまりました」


胸の奥で高鳴る鼓動を必死に抑え込み、彼の後ろ姿を追って歩み出す。


向かった先は、代表取締役室。

扉が閉ざされ、外界の気配が遮られる。


静まり返った空気の中、蓮は振り返りざまに切り込むように言葉を放った。


「一週間の休暇は、アメリカ?」


ゆりの表情が一瞬で強張る。

目に宿る影を、蓮は見逃さなかった。


「司について行ったわけだ」


鋭い断定。

その声には苛立ちと焦燥、そして何より、抑えきれない嫉妬の熱が滲んでいた。

泳ぐように揺れるゆりの目。

わかっている、確信している。

それでも、どうしてもこの疑問だけは問いたださずにはいられない。


「……俺にはあんなこと言っといて……司とは一緒にいるんだ?」


蓮の言葉が鋭く突き刺さる。

数ヶ月ぶりに交わされる蓮のプライベートなタメ口。

業務を越えた問いかけに、ゆりの胸は小刻みに揺れる。

戸惑いと緊張が、彼女の肩をぎゅっと押し下げた。


「………………」


ゆりは答えない。

必死で頭の中を巡らせ、最適な言葉を探そうとする。

だが、どの言葉も喉の奥で絡まり、声にならない。


蓮はなおも畳みかける。


「俺のことは許せないのに、司のことは許せるの?司も共犯なのに?」


その問いに、胸の奥がずしりと痛んだ。

返すべき答えを、自分自身が持っていない。


なぜ。

自分でもわからない。

なぜ、いつまでもずるずると司と一緒にいてしまうのか。

なぜ、離れたくないと願ってしまうのか。


理由も分からず、抗うこともできず、そんな自分が、自分で恐ろしい。


ゆりは唇を噛み、視線を落とした。

重苦しい沈黙が二人を包み、答えられない答えだけが胸の中に突き刺さり続けていた。


「……何か言えよっっ!!!」


突如荒げられた蓮の悲痛な叫びに、ゆりの肩がビクッと震える。

その圧に押され、ようやく捻り出した言葉は、蓮の質問への対する答えからは遠く離れたものだった。


「……鳳条代表には、関係ありませんから」


吐き捨てるように言うと、すぐさま踵を返し、颯爽と出口へ向かう。

背筋を伸ばした歩みは毅然として見えたが、その足取りには微かな迷いが滲んでいた。


──!


扉に手を掛けようとした瞬間、背中から強い温もりが押し寄せた。

蓮の腕が回り、ゆりの身体を後ろから抱きすくめる。

その抱擁は力強く、けれど震えていた。

抑えきれない感情が、腕の奥から伝わってくる。

ゆりの胸は一瞬で締め付けられ、逃げ場を失った鼓動が早鐘のように鳴り響いた。



「…あいつを好きになったの?」



後ろから抱きしめる力の込め方に、怒りでもなく頼みでもなく、ただ切実さだけが滲んでいた。

耳元で絞り出すように聞こえた、泣きそうな蓮の声。

その問いに、ゆりの胸はぎゅっと締めつけられる。

言葉が喉元で引っかかり、身体が小さく震えた。


「それとも…逆らえないだけ?」


蓮の声はさらに細く、震えを帯びる。

ゆりの心の奥で、色々な感情がぶつかり合い、薄い光と影が混ざり合っていく。


夢を見させて欲しい。

期待させて欲しい。

ほんの一筋の光でも見えなければ、壊れてしまいそうだから。


「…ゆりは今…幸せ?」


“ゆり”──


数ヶ月ぶりに自分の名を、蓮の口から直接聞く。


その音の優しさに、二人で過ごした日々の断片が一瞬にして胸の中をよぎる。

呼び合った名前、触れ合った時間、笑い合った朝と夜。

全部が、濃密に戻ってくる。


「…それとも…毎日を我慢して過ごしてる…?」


蓮の吐くような期待が、身体を伝ってゆりの胸を刺す。

後ろからの抱擁は離れられない鎖のようで、しかしその重みに抗う力もまた、ゆりの中に残っている。

声にならない答えが喉の奥で震え、二人の間の空気はさらに熱を帯びていった。


我慢なんてしていない。

自分の意志で司といる。

それだけは確かなことだ。


ゆりは必死に返す言葉を探す。

頭の中で選り分け、消去法で消えていった言葉たちの隙間に残った一語を、静かに差し出した。



「………私は今…幸せです…」



蓮、ごめんね。


期待に応えてあげられなくて、ごめんね。




どうか、私を忘れて前に進んでほしい。





「…………っ!」


蓮は、それを受けて耐えきれなくなったように衝動的に動いた。

ゆりの逃げ道を塞ぐように壁際へ追い込み、震える肩越しに彼女の視線を捕まえる。


嘘だ。

そんなの嫌だ。

何で俺じゃ駄目なんだ。

司よりも想ってる。

既婚の司よりも幸せにできる。

それなのに何故。



何故俺を選んでくれない。



「なんでだよっっっ!!!!」


叫びは破裂音のように室内に響く。

蓮は力任せに、ゆりの顔のすぐ脇にある壁を、拳の横で思い切り打ちつけた。


ダンッッッ——


鈍い音が室内に響き渡り、空気は一瞬で凍りついた。

ゆりは震えていた。

小動物のように縮こまりながら、蓮を薄く見上げる。

涙が溜まりかけた瞳は、弱く揺れている。


数か月ぶりに間近に近づいたゆりとの距離は、皮一枚で繋がれているだけのように感じられた。

目の前にいるのに、果てしなく遠い。

蓮の胸は締め付けられ、言葉が喉を裂くほど痛かった。

苦しくて、苦しくて、彼は悲願の声を絞り出す。


「……俺を…選んでよ……なんで…俺じゃだめなんだよ…」


心が手に入らないなら、もう嫌われてもいい。

今すぐにでもゆりが欲しい。

最後にするから。

これで諦めるから。


だからどうか——許して、ゆり。


「………っ」


衝動に駆られた蓮は、ゆりの返事を待てないまま、唇を重ねた。

久しぶりに触れるその唇は、何度も何度も触れた記憶の中にある、あの頃と何も変わらなくて。

切なく、触れるたびに胸の奥が締め付けられる。


「…ん……っやめ……」


ゆりは必死に抵抗し、グイッと蓮を押しのけた。


「だめです…っ!!鳳条さ…っ」


もう自分では抑えきれない。

蓮は一歩も引けず、荒く熱い息だけが重なった。

拒みたいはずなのに、離れられない。

その曖昧な境界で、空気だけが震えていた。

二人の影が重なり合うその様は、理性の最後の境界線を塗り潰していくようだった。



あー…蓮だ…。


蓮の温もり。

蓮の香り。

蓮の味。



わずか半年間程しか経っていないはずなのに、どうしようもなく懐かしい。


甘い記憶が脳裏から全身へと広がり、あの頃の思い出に丸ごと包まれる。

抗おうとしても、心の奥で疼く懐かしさが、脳内麻薬のように彼女を絡め取っていく。


──。


溢れた涙が、ゆりの頬を静かに伝った。


一筋の涙が落ちた瞬間、抵抗していた腕の力も、固く閉じていた唇の力も、ふっと抜けていった。


触れてしまった口元の熱に、ゆりは抗う力を失っていく。

息が絡むたび、過去の記憶が甘く疼いて、理性の輪郭が滲んだ。

だめだと分かっているのに、身体のほうが先に懐かしいと答えてしまう。


記憶が、身体が、あの頃へとタイムスリップしたかのように一気に引き戻される。

頭がぼーっと霞み、無意識にゆりの口をついて零れたのは、その名前。


「……蓮…………」


その名を呼んだ瞬間、ゆりはもう何も考えられなかった。

気づけば蓮の首に自らの腕を回し、拒むはずの手で蓮を引き寄せていた。

“欲しい”じゃない。

ただ、“失いたくない”が先に溢れただけだった。


ぎゅぅっ……と胸の奥が張り裂けそうになる蓮。


ゆりの腕に受け入れられたことで、込み上げるものを堪えきれず、眉間に深い力を込め、泣きそうな顔で彼女を抱きしめた。


──“蓮”。


その名を呼ぶ声。

ずっと聞きたかった。

その言葉がずっと欲しかった。

ゆりの口から、ゆりの声で、その一言を聞くことを願っていた。


諦めようとしたのに。

これで終わりにすると決めていたのに。


首に回される腕。

深くまで求めてくる仕草が。


悲しいほどに淡い期待を抱かせる。

さらに深くと、欲をかいてしまう。

もっと触れたい。

もっとゆりを感じたいと心が叫ぶ。


「……ゆり……っ」


蓮は堪えきれず、ゆりとの距離を一気に詰めた。

触れた肌越しに伝わる体温と、ふとした拍子に鼻先を掠めた懐かしい香りに、胸の奥が強く締めつけられる。


それは、何度も隣で眠り、何度も抱きしめ合い、名前を呼び合った頃の記憶を、容赦なく引きずり出す合図だった。


忘れたはずの感覚。

封じ込めたつもりの時間。

「もう戻れない」と何度も言い聞かせてきたはずの過去が、一瞬で現在を侵食していく。


ゆりという存在を、失いたくない。

今この瞬間だけは、手放したくない。


理性が警鐘を鳴らしているのは分かっている。

それでも、彼女の気配に縋るように、蓮の意識は必死に現在へとしがみついていた。


触れているのは、記憶だ。

確かめたいのは、まだ自分の居場所が残っているのかという、痛切な問いだった。


息が詰まるほどの近さに、ゆりの身体がわずかに強張るのを感じ、その反応ひとつさえも、蓮の心を大きく揺さぶる。


懐かしさと罪悪感と、どうしようもない渇望が絡まり合い、

二人の間の空気だけが、張りつめたまま静かに震えていた。


ゆりの頬を伝い続ける涙は止まらない。

その涙が何の涙なのか、ゆり自身ですらわからなかった。


蓮の中で、理性が限界を迎えていた。

抑え込んできた想いが、行き場を失って溢れ出し、ゆりの存在そのものに縋るように意識が集中していく。


近すぎる距離。

触れ合う体温。

ふとした拍子に伝わる鼓動の速さ。


失ったはずの感覚が、今も確かに残っていることに気づいてしまい、蓮の胸は痛いほどに締めつけられる。


ゆりの反応は、拒絶ではなかった。

揺れながら、それでも距離を拒みきれずにいる。

その曖昧さが、蓮の心をさらに深く揺さぶった。


受け入れられているのではないか。

まだ、ここに戻れるのではないか。


そんな淡い錯覚が、どうしようもなく胸を熱くする。

蓮は、自分が何を求めているのか分かっていた。


もう一度、選ばれたい。

ここに居てもいいと、認めてほしい。


その願いだけが、熱となって全身を満たし、抗えない渦となって、二人を静かに飲み込んでいった。





これ以上はだめだ。

もう後戻りできなくなる。


何のしがらみも、何の過去も、全てを捨てて。

このまま全てを委ねて蓮に溺れてしまえたなら──


そんな想いがゆりの脳裏をよぎり、涙が次々と零れ落ちて胸を締め付けた。


けれど、ゆりは己を奮い立たせる。

頭の中を覆う蓮との記憶を必死で振り払い、ぎゅっと目を閉じて蓮の熱い視線から逃れる。


そして、全身の力を振り絞り、苦渋の想いで蓮を思い切り押しのけた。



──全てを捨てるなんて。

そんなこと出来るはずない。

何があっても、絶対に。



ドンッ。


静寂を切り裂く音と共に距離を作り、震える声で告げる。


「…………これ以上は……っごめんなさい……」


声を震わせながら告げると、ゆりは逃げるように振り向き、勢いよく扉を押し開いた。

そのまま駆け出すように一歩踏み出した瞬間、視界の端に映った影に息が止まる。



出てすぐ左側。



そこには、もう片方の扉に静かに腕を組みながらもたれかかる司の姿。




ゆりの心臓は一瞬で凍りつき、全身の動きがビタリと硬直する。


「……ゆりっ!!」


すぐに背後から蓮が腕を掴む。

だがその刹那、掴んだ蓮もまた、ゆりが見つめている視線の先を追い、息を呑んだ。


「……司……っ」


その名を漏らした直後。

司がものすごい勢いで歩み寄り、蓮の胸ぐらを掴み上げた。



「お前ごときが!!!!なぜこの人を泣かせるっっっ!!!!!」



鬼のように真っ赤な形相。

激情に燃える瞳が炎のように揺れ、振りかぶられた拳が空気を震わせる。

次の瞬間には、二人の世界が衝突の音で引き裂かれようとしていた。


「やめてっ!!!!司っっっ!!!!」


咄嗟にゆりは司の背へ飛びつき、腰に腕を回して全身で引き寄せた。

振り下ろされようとした拳は止まり、司の身体はゆりの力いっぱいの静止に引かれて、わずかによろける。


その一瞬の隙に、ゆりは二人の間へと割って入り、蓮を背にかばうように立った。

そして正面から司を抱きしめ、その胸へ頬を埋めて必死にしがみつく。


「…行こう…?…司…っ」


荒い息を吐きながらも司の目はなお鋭く、蓮を殺意にも似た強い視線で睨みつける。

けれどゆりは震えながらも強く司を抱きとめる。


ゆりは震える手で司の腕に自分の両腕を回し、そのまま向きを変えさせると、腕を組んで彼の側にしがみつくように寄り添い、二人は静かに部屋の出口へと向かい歩み出す。


「……っそこに居ても…幸せにはなれねーよ!司は無理だ!ゆりっ!」


蓮の声が焦燥をはらみ、鋭く背中に突き刺さる。

その叫びに、二人の足は思わずピタリと止まった。


「……なぜお前がそんなことを決める」


司が横顔をわずかに振り向かせ、怒気を孕んだ低い声で返す。

声は低く抑えられているのに、その奥には爆発寸前の炎が揺れていた。


「今はどんだけ側に置いてようが、司はお前の将来に責任を持てない!いつか絶対離れる時が来る!」


これは負け惜しみだ。

でもこれはゆりと司の現実だ。



「俺なら一緒になれる。だから来いよ!!!」



振り絞るような蓮の叫び。

その切実な想いが背中越しに痺れるほどぶつかってきて、ゆりの心を抉る。


“司は無理”

“幸せになれない”

“いつか離れる時が来る”


蓮の言葉に容赦なく突きつけられる辛く痛い冷徹な現実と。


“一緒になれる”

“だから来い”


その言葉は温かく、縋りつきたくなるような切ない誘惑。


ゆりの中で二人へ対する気持ちが激しくせめぎ合う。




こんなの、無理。




「……っ……」


もう限界だった。

張りつめていた心の堤防が決壊し、ゆりは肩を震わせながら、泣き崩れんばかりに止めどなく涙を溢れさせる。


「……く…っ!」


司はその涙を見た瞬間、再び頭に血が昇り、激情に駆られて足を翻す。

蓮に向き直ろうとする司の腕を、ゆりは必死に掴んだ。


泣きながらも渾身の力で、司を部屋の外へと引きずり出す。

そのまま扉を強く引き閉めると、重い音が響き渡り、空気ごと二人を隔てた。


「………………」


蓮一人、取り残された部屋は重苦しい静寂に包まれていた。

つい先ほどまで張り裂けんばかりに燃え上がっていた空気が嘘のように消え、残ったのは耳を痛めるほどの虚しい静けさだけ。


──このまま、ゆりが自分の元へ戻ってきてくれるかもしれない。


そんな淡い夢を、ほんの一瞬でも信じてしまった。


だが現実は、無慈悲なほど残酷だった。

突き落とされるくらいなら、初めから期待など抱かなければよかった。


「…………くっそっっっ!!!」


堪えきれない激情が喉から漏れ、爆発する。

次の瞬間、


ガンッッッ!!!


蓮は取締役室の机を思い切り蹴り上げた。

乾いた衝撃音が部屋に響き渡り、その反動が脛から全身へと駆け上がる。

行き場を失った感情は荒れ狂い、どうにも抑えきれなかった。




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