表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
狂気の魔法  作者: 波方 真季


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

31/57

第31話 魔女への代償


「ゆりさん、朝食が届きました」


揺り起こす司の声に目を覚まされ、ゆりはゆっくりと寝室を後にする。


リビングルームに足を踏み入れると、そこにはルームサービスによって並べられた豪華な朝食が彩り豊かに広がっていた。

クロワッサンの香ばしい香り、フレッシュジュースの鮮やかな色、銀の器に光る温かな料理。

一見すれば夢の続きのように華やかな食卓だった。


けれど、テーブルを挟んで向き合う二人の間に漂う空気は、朝焼けの温もりとは正反対の、底冷えするような重さを孕んでいた。

華やかな皿の輝きすら、逆にその沈黙を際立たせているかのようだった。


言葉にせずとも互いの胸を覆っていたのは、“帰国の朝”という暗黙の悲しみだった。

ただでさえ静かな朝の空気が、余計にその重さを際立たせている。


あまりにも幸せすぎた五日間。

昼間は彼女の無邪気で純粋な笑顔に毎日触れて、夜になれば、何度でも好きなだけその身体を抱き続けた。

日本では決して叶わぬ日々。

せいぜい一日限りの逢瀬。

だがこの数日は、別れという刹那が訪れることのない、夢のような時間だった。


「………」


言葉が出ない。

代わりに、胸の奥で何度も同じ問いが渦を巻いていた。


こんな日常が永遠に続いたら、どれほど幸せだろう。


仕事を終えて帰宅すれば、当たり前のように彼女が待っていて。

その可愛らしさと純真さで一日の疲れを癒してくれて。

夜になれば、何度でも、好きなだけ、全身で互いを抱きしめ合うことができる。


そんな日々が、どうしようもなく欲しくなってしまう。

理性が「叶わぬ」と知っていても、心はもう抗えない。

彼女と過ごした五日間は、願いを抑え込むにはあまりに甘美すぎる夢だった。


まだ半分眠ったままの頭で、ゆりはハッと思い出したようにテーブルから立ち上がると、いつもの習慣を淡々とこなしていた。

起きたら一番に、必ず薬を飲む。

それは欠かすことのできない習慣であり、毎日の自分を律する決まりごとでもあった。


錠剤シートを手に取り、冷蔵庫から冷たい水を出した瞬間──


フワッと、背後から温かな体温が重なる。

司の胸板が背に当たり、腕が静かにゆりを包み込んだ。

その左手に重なるように、錠剤シートを持っていたゆりの手ごと、司の掌が覆い被さる。




「…………私の子供を…………産んでくれませんか………」




吐息に混じったその言葉は、祈りのようであり、衝動のようでもあった。

薬の小さなシートと、背中越しに伝わる彼の体温。

その対比に、ゆりの胸は締めつけられるように揺さぶられた。


どういう…こと…?


本当に………海の底に沈んでしまおうと…しているの?


衝撃が強すぎて、ゆりの思考は一瞬で凍りついた。

頭の中でパニック状態で警鐘が鳴り響くのに、言葉は制御できない。

理性をすり抜け、無意識の奥に隠していた深層心理の領域にある声がゆりの唇から零れ落ちた。





「………………子供を産んだら……離婚する…?」





その言葉は、鋭い刃となって勢いよく司の心臓を深々と突き刺した。

一瞬で血の気が引き、胸の奥を冷たく抉られる。


妻という魔女から提案された契約に差し出す代償は………






ゆりの人生だ。






司は息を詰まらせ、堪えきれずに言葉を零した。


「…………ごめんなさい……っ」


掠れた声は消え入りそうに小さく、それでいて痛切だった。

その震えに混じる苦しみは、謝罪以上の意味を孕んでいる。


後頭部の斜め後ろからでも分かる。

司が泣き出しそうな顔をしていることが。

抑え込んできた感情の堤防が決壊しかけているのが、痛いほど伝わってきた。

ゆりは、ハッと我に返る。




……私…………今…………何を…………?




「……はっ………笑」


ゆりは司に振り向き、小声で乾いたような笑いが小さく零れる。


そしてすぐに正面に向き直ると、錠剤シートから一錠を勢いよく剥がした。

そのまま冷蔵庫から取り出した水で、強引に喉へと流し込む。

まるで、自分自身に言い聞かせるかのように。

まるで、逃げ場を潰すかのように。

その仕草には、決して揺らいではいけないと必死に塗り固めた決意が滲んでいた。









その日の午後。

遂に訪れた日本への帰国便。


フライト時間が近づくと、専用カウンターで手続きを済ませる司。

その背中を、ゆりはただ静かに追いかけていた。慣れた仕草でパスポートを差し出し、余裕を漂わせるその姿は、周囲の喧騒から切り離された別世界の人のように見える。


そして搭乗ゲートを通り抜けた先に広がっていたのは、一般客とは完全に隔絶された扉。

司に招かれるように足を踏み入れた瞬間、ゆりの視界に広がったのは「空の上の邸宅」とでも呼ぶべき空間だった。


そこは プライベートスイートクラス。

重厚な扉が閉じられると、そこは完全なる個室となり、周囲の気配は一切遮断される。


室内はしっとりとした間接照明に包まれ、上質な革張りのシートが静かに佇んでいる。そのシートはリクライニングを超え、フルフラットのベッドへと変化するだけでなく、二人のためにダブルベッド仕様にも組み替えられる。


壁には大きな液晶モニターが埋め込まれ、映画館のような映像体験が用意されている。

サイドテーブルには煌びやかなシャンパングラスと、重厚なシルバーのカトラリーが整然と並べられていた。


さらに奥には、機内とは思えぬほど洗練された 専用シャワールーム が設けられている。温かい湯気の立ちのぼる浴室は、淡い照明と磨き抜かれた鏡で満ち、フライトの最中とは到底思えない清潔さと贅沢さに包まれていた。


まるで高級ホテルのスイートルームを、そのまま空に持ち上げてきたかのような錯覚。

眼下に広がるのは世界の空路、しかし扉の内側は二人だけの孤島。


二人の旅を締めくくる、最後の大切な時間を過ごす半日あまりの旅路。

そのひとときのために、司は最高の空間を惜しみなく用意していた。


「ダブルベッドがいいっ!日本に着くまでずっとそれ!」


ゆりはいつものわがままな口調で言いながら、司の裾をぎゅっと掴んで上目遣いを向けた。

眉間に力を込めたその無邪気な顔は、どこか子どもじみた甘えを含んでいて、司の胸の奥はゆりの可愛いさで揺さぶられた。

そんなゆりを暖かい眼差で見つめながら、何も言わずに微かな笑い声だけ溢すとスタッフを呼んだ。


スタッフが控えめに近づき、指示に従ってスイートの調整を始める。

折りたたまれていたシートが静かに組み替えられ、柔らかなリネンが広がる。

瞬く間に個室の一角がダブルベッドへと姿を変えていった。


シャンパングラスが再び並べられ、銀皿には軽いフィンガーフードがそっと置かれる。

窓の外には滑走路の光が淡く流れ、飛行機のエンジンの低い唸りが遠くで波打っているだけ。


二人は言葉少なに、しかし確かに互いの体温を確かめ合うように寄り添った。

豪奢な室内の灯りが柔らかく落ち、外の世界は遠くに溶けていく。

飛行機が滑走路を離れる前の、ほんのひとときの静寂と安心が二人を包んだ。


やがて、ベッドに横たわったゆりが司の手を握ると、司はそっとブランケットを掛け、二人だけの時間を守るように膝を折って隣に座った。

窓の向こうで夕陽が消え、機はゆっくりと動き始める。

空へ、そして別れへ向かって。


機内に満ちるのは、静かに流れるクラシックと、規則正しいエンジンの鼓動だけ。

その静寂の中で二人は寄り添い、ふと視線が絡むたびに、自然と唇は重なり合う。

触れ合う肌と肌で互いの体温を確かめ合いながら、そのたびに交わされる熱い吐息と甘美な声は、狭い個室の空気を甘く震わせ、時間の残酷な針の音をかき消していった。

抱きしめる腕は名残を惜しむように強く、囁きは小さくも確かに心を縛る。

機内の灯りに照らされた二人の影は、寄り添いながらひとつに溶けていくようだった。


柔らかなリネンの感触、シャンパンの淡い泡が弾ける音、そして時折交わす何気ない会話。

すべてがかけがえのない夢の続きだった。


けれど、その夢は無情な「時差」によって、あらかじめ刈り取られていた。


日出る国、日本。

その国の位置は東の果てに存在し、二人の甘いフライト時間の半日を、駆け足で丸一日へと追い立ててしまう。

アメリカを午後に発ったはずなのに、気づけば時計の針は何時間も先を指していて、明日を追いかけるかのように、窓の外にはすでに沈みかけた夕陽が再び顔をのぞかせていた。


そして、飛行機が日本に降り立ったのは、わずか半日後のはずなのに、暦の上ではもう「翌日の夕方」だった。

夢の時間は二人が望んだ以上に速く過ぎ去り、残されたのは“別れ”という現実だった。



夜。

街路灯が静かに滲む住宅街に、司のロールスロイスが滑り込む。

エンジンの唸りが低く収まると、車体はゆりの自宅の社員寮前で静止した。


司がサイドブレーキのバーを引いた瞬間、助手席から伸びてきたゆりの小さな手が司の指に絡み、ぎゅっと力を込める。

司は胸を締めつけられながらも、応えるように言葉を零した。


「……またすぐお会いしましょう」


細くも強く握られたその手から、寂しさと帰りたくない想いがまるごと伝わってくる。


「私の夢が叶った6日間…司が一緒にいてくれて、本当に素敵な毎日を過ごせたよ」


俯いたまま、穏やかな笑みを唇に浮かべ、声はひどく静かだった。

けれど次の瞬間、ゆりは顔を上げ、とびきりの笑顔を司に向ける。

悲しみを覆い隠すように、光そのものをまとった笑み。


「本当にありがとう!また行こうね!」


その笑顔に、司は心臓を押し潰されそうなほどの痛みを覚えた。

胸の奥に熱が込み上げ、喉が震える。


「……っ」


ゆりが助手席のドアに手を掛けた、その瞬間。

司は堪えきれず彼女の腕を掴み、勢いよく身体を引き寄せる。

そして何も言わずに、思い切り強く抱きしめた。


夜の静寂に溶け込むその抱擁は、まだ言葉にできない想いをすべて込めた、切なくも必死な抱擁だった。


きつく抱きしめられる腕の震えから、彼の自分へ対する悲痛な熱い想いが伝わる。

ゆりは喉の奥から何かが込み上げ、目頭が熱くなって視界が滲んだ。


「………っ」


言葉は出ず、顔が歪む。

ゆりは自然と彼の背中に腕を回し、同じだけの力できつく抱きしめ返し、その肩に頬を埋めた。

体と体が互いを確かめ合うたびに、胸の中の矛盾した感情が波のように押し寄せる。


どうしよう。

離れたくない。


なぜなの。

何度押し潰しても、どれだけ強引に閉じ込めても、いくら必死で目を逸らしても、何度も何度も強く競り上がってくるこの胸の痛みは、どうしてなの。


これ以上、私の心をこじ開けないで。

私を弱くさせないで。

私は絶対に。


自分を裏切りたくないの。


その決意が頭の中の思考を振り払うように、ゆりは目を固く閉じた。

冷たい風のように理性を取り戻すためか、彼の胸からそっと身体を引き離す。


──グイッ。


その一瞬の押し離しは、優しさでも冷たさでもなく、ゆりなりの境界線の印だった。

司の胸に残ったぬくもりを指先で確かめながら、彼女は自分の胸に小さな鍵をかけるように唇を噛んだ。


「………………」


俯いて伏せられていたゆりの瞳が、そのままゆっくりと登ってくると、鋭い光を帯びた視線が司を見上げるように捉えた。

苛立ちを孕んだその睨みは、甘えの余韻を一瞬で切り裂く刃のようだった。


ガチャッ。

ゆりは何も言わずに助手席の扉を開ける。

冷たい夜風が一瞬二人の間を通り抜け、彼女はまるで逃げるように自宅へと足早に入っていった。


ロールスロイスの運転席に残された司は、しばらくの間、動けずにいた。

夜の冷気がじわじわと車内を満たし、ヘッドライトの白い光がゆりの家の外壁に淡く広がる。

ハンドルに置いた掌が震え、込み上げてくる焦燥と苛立ちをどうにも抑えきれず、司は――


バンッッ。


掌底でハンドルを叩きつけた。

硬質な音が狭い車内に反響し、胸の奥の怒りと虚しさを余計にかき立てる。


なぜ、彼女と自分はそれぞれ別の場所へ帰らねばならない。

どうして、今この瞬間に連れて帰ることができない。


そんな当たり前の事実が、司の心を狂わせそうなほどに苦しめていた。


わかっている。

理性では理解している。

それでも、どうしても彼女を求めてしまう。

彼女の全てが欲しい。

心も身体も、彼女なしでは干からび、粉々になってしまいそうだった。


願ってはいけない。

これ以上、彼女と共に生きていく未来を、二度と想像してはいけない。

そう言い聞かせても、胸の奥では渇望が牙を剥き、理性を食い破ろうとしている。


司は息を荒く吐き、サイドブレーキを勢いよく押し込んだ。

そしてアクセルを踏み込み、車体は低く唸りをあげながら夜の街へと滑り出した。


ヘッドライトの光が闇を裂き、彼の背後には、もう手の届かない家と、まだ熱を残した記憶だけが静かに取り残されていた。


夜の街を疾走するロールスロイス。



《プルルルルー……》


司は片手でハンドルを握りながら、もう一方の指先でスマホの発信ボタンを押し、車内スピーカーのボタンを押していた。


《プッー……日本帰ってきたのー?》


間延びしたような、いつものマイペースな紗羅の声がスピーカーから流れた。


「この前の件だが……産まれたての里子を養子に貰え」


短く鋭い声。その切迫感に、紗羅は息を詰める。


《………だめよ。桐生家の跡継ぎには、あなたの天才児の遺伝子がいるの》


「だったら誰でもいい!その辺の若くて健康な、金に困った女に金を積め!!!」


司の声が車内に響き渡る。

怒声の熱が車体の鋼を震わせるようで、夜道のヘッドライトさえ一瞬揺らぐ気がした。


《なんなの急に!何かあったわけ?》


紗羅の驚きと戸惑いが混じる声。

しかし司は構わず言葉を叩きつけた。


「金ならいくらでも使え!種ならいくらでも凍結提供してやる!……悪いが、自分の代わりの母体は自分で探せ!!!」


その叫びは、怒りというよりも、どうしようもない焦燥と痛みに似ていた。


《……………わかりました》


普段の気ままな調子を捨て、紗羅は静かに答えた。

普段静かで冷静な司の異様な様子に、スピーカー越しの紗羅の返事には、諦めさえ混じっている。


バンッ。


司はスピーカーフォンのボタンを乱暴に叩き、通話を切った。

途端に車内は再び静寂に沈む。

だがその沈黙の中に、彼の荒い呼吸と、押し殺した激情だけが残っていた。






評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ