第30話 支配と奴隷
「……………」
ゆりは我に返えると、フイッと振り返り、バルコニーから室内へと足早に入っていった。
夜風に揺れるカーテンが背後でひらめき、司は慌ててその後を追う。
「ゆりさん……っ」
寝室へ辿り着いたゆりは、振り返ることなくそのまま大きなベッドに身を投げた。
ふかふかのシーツに沈み込むように、枕へ顔を埋めてしまう。
「…………気を悪くしたなら……誤ります……」
追いかけてきた司は、ゆりの傍に静かに腰を下ろした。
その声は、まるで触れたら壊れてしまいそうなほど悲しげで、優しい。
その響きが耳に触れた瞬間、ゆりはゆっくりと顔を上げる。
「……ははっ……気を悪く?」
掠れるような笑みを浮かべた瞬間、ゆりは司の手首を掴み、ベッドへと引き倒した。
柔らかなマットレスが大きく沈み、司の視界が一瞬で天井へ反転する。
次の瞬間、ゆりの影が覆いかぶさり、彼は完全に主導権を奪われたことを悟る。
「………司は……ほんとぉーに……可愛いね……」
ゆりは司の手首をシーツに縫い留めるように押さえつけ、もう片方の手でゆっくりと彼の髪に触れた。
頬へと滑る指先に、司は身を強張らせ、ただ見上げるしかない。
視線の先にあるのは、優しさと冷たさが混じり合った彼女の微笑だった。
見下ろすゆりの表情は、艶めいた笑みに彩られながらも、どこか深い影を帯びている。
その妖艶さと冷たさと悲しさが混ざり合った笑みは、司の胸を鋭く締め付けた。
司の胸元へ近づく気配と、すぐそばで感じる彼女の体温。
逃れられない距離に追い詰められ、司の呼吸は次第に浅くなっていく。
ゆりはゆっくりと彼から距離を取り、その全身を値踏みするように見下ろした。
視線だけで支配されていると悟った瞬間、司は息を詰めた。
だが──いつもより熱の張りが弱い。
司を見つめ、ゆりは小さく目を細めた。
当然だった。
この四日間、休む間もなく翻弄され、主導権を握られ続けてきた。
心も身体も、ゆりの気まぐれと支配に振り回され、限界が近いことは誰の目にも明らかだった。
昼間は昼間でパークにプールに、途切れることなく振り回され続けている。
その無邪気で無限のような二十代の体力に比べれば、三十路を迎えた彼の身体が悲鳴を上げているのも当たり前だった。
疲弊の色が浮かぶ司の様子を見下ろし、ゆりは甘くも冷たい光を瞳に宿した。
「……そんなの……許さない……」
囁きにも似た小さな声。
それは独り言のようでありながら、確かな決意を帯びていた。
私は足りないの。
もっともっと満たされたいの。
全てがどうでも良くなるくらい、今夜は司にひたすら没頭させてよ。
その瞬間、ゆりの中で何かが決壊した。
理性よりも先に、衝動が司へと雪崩れ込む。
確かめたい。ただそれだけだった。
自分が触れれば、支配すれば、彼は応えてくれるのか。
疲れ切った身体の奥に、まだ自分の居場所は残っているのか。
司の反応は微かで、けれど確かにそこにあった。
途切れかけた熱が、ゆっくりと戻ろうとする気配。
それが、ゆりの渇きをさらに煽った。
もっと深く。
もっと確かに。
司の中に自分の存在を刻みつけなければ、安心できなかった。
だが、完全には応えきれない。
その事実が、彼の疲弊を突きつける。
それでも、ゆりは止まれなかった。
彼が壊れそうであることすら、今は受け入れられない。
自分が欲しいのは、優しさでも労わりでもなく、「司が自分だけを求めている」という確信だったから。
ゆりの中で渦巻く渇望が、理性を押し流していく。
支配したい。
縋らせたい。
逃げ場を奪って、ただ自分だけを見る存在にしたい。
それは愛というよりも、
欠落を埋めるための必死な行為だった。
司がもっと欲しい。
そして司の全部に私を注ぎ込ませて、司を私だけでいっぱいにしたい。
ゆりの中で、衝動が静かに暴走していた。
司の反応は鈍く、それが現実を突きつける。
疲れ切っている。
限界が近い。
理解しているはずなのに、胸の奥がそれを拒んだ。
足りない。
まだ、全然足りない。
自分が触れても、支配しても、完全には満たされない。
その事実が、ゆりの心をさらに焦がす。
司を自分で満たしたい。
自分の存在で、思考も感覚も塗り潰したい。
他の何も入り込めないほどに。
それは欲望であり、恐怖であり、
失われることへの必死な抵抗だった。
もっと。
もっと司を壊したい。
私だけのものであると何度でも確かめたい。
誰にも渡さない。
司の声も、吐息も、震える体も、私の中でしか響かないようにしたい。
ねぇ、司。
あなたは私が全てを支配していなきゃダメなんだ。
私の手の中で、私の舌で、私の指で、どうしようもなく翻弄されて、私に縋るしかできなくなる姿をずっと見ていたい。
そうやって、私だけを見て。
私だけに乱れて。
ねぇ、お願いだから。
全部、私のものになって。
「あぁ…うっ…はあ…待って…あぁっ…ゆりさんっ…離して…っあぁ…!」
その声はゆりの耳には届いていなかった。
まるで何かに取り憑かれたように、彼女は一心不乱に司を追い詰め続けていた。
司はついに、力を振り絞って彼女を力尽くで引き剥がした。
荒い呼吸の中で、ゆりの両肩を掴んで必死に体勢を立て直しながら息を吐く。
「はあ…っはあ…っどうして…っそんなに急いで……終わりにしようとするんですか…?」
司と視線を合わせた彼女の表情は、今にも泣き出しそうなほどに苦しそうで。
ゆりは、胸の奥からせり上がる正体不明の張り裂けそうな痛みに自分で理解が追いつかない。
「…やっぱり……怒ってるんですか…?」
震える声でそう呟いた瞬間、ゆりは視線を逸らす。
長い睫毛が影を作り、俯いた横顔が小刻みに揺れた。
沈黙は、痛いほどの胸の内を物語っていた。
その態度はまるで、あまりにも答えのようで。
同じ世界で生きていきたいと。
そんな言葉を軽々しく口にしてしまった自分。
だが、現実には変えられない立場があって、どうあがいても越えられない運命がある。
もしかしたら、あの軽率な願いは、彼女の心に新たな痛みを刻んでしまったのかもしれない。
自分の立場もわきまえず、ただ感情に任せて「海の底へ沈みたい」と口にしたことが、どれほど愚かで無責任だったのか、司は胸が締め付けられる。
彼女がもし、自分と同じ気持ちでなければ、こんなに悲しげな顔や、こぼれそうな怒りは生まれるだろうか。
願ってはいけないが、どこかでそうであってほしいと期待してしまう自分がいるのも事実だった。
まさかとは思うが。
そんな筈は無いとは思いつつも、彼女の行動も態度も表情も、全てがどうしても感じざるを得ない。
あなたは……私に………恋をしていますか…?
問いは確かめたくて、同時に恐れている。
そんな矛盾した衝動が胸を引き裂きそうだった。
ゆりの切なすぎる横顔を見下ろすと、胸の奥から溢れ出した衝動に耐えきれず、司はゆりを抱き寄せ、そのまま体勢を崩すようにしてベッドへと導いた。
布団の感触が周囲の世界を薄く溶かしていく。
近づく呼吸、触れるだけで震える肌。
覆い被さるようにして至近距離で囁く司の声は、震えながらも真摯で、甘く、重かった。
「………あなたに尽くしたい…」
ゆりの頬を、指の裏側でそっと撫でながら落とす言葉はゆっくりと、しかし確かにゆりの胸の奥へ届く。
顔に触れる彼の髪、香り、温もり。
司の視線は熱を帯び、その真っ直ぐ突き刺さる程の彼の驚異的な魅力に、ゆりの胸は暴走するかの如く激しく高鳴る。
距離が、限界まで縮まった。
互いの呼吸が混ざり合い、逃げ場のない近さの中で、司はただゆりを見つめ続ける。
もう戻れない。
そんな確信だけが、胸を満たしていた。
少し離れた唇の隙間から、司の想いが漏れ出た。
「……私だって……ゆりさんを悦ばせたいです……そんなふうに急いで終わらせないで下さい…」
司の声に、ゆりの息が詰まり、瞳が潤む。
頭がくらくらするほどに伝わってくるその愛情に、ゆりは自制心が保てなくなりそうになる。
「奉仕を…許してほしいです……」
その言葉が、自分の中のどこかを深く抉っていく。
それは欲ではなかった。
支配でも、衝動でもない。
彼女に拒まれたくない。
彼女に必要とされていたい。
それだけだった。
近すぎる距離に、ゆりの呼吸が触れる。
確かに伝わる温度。
境界線を守りたいのに、近づきたい。
離れた方がいいと分かっているのに、離れられない。
司は、ただ彼女を見つめた。
欲する目ではなく、縋るような目で。
この想いを、どうか拒まないでほしい。
応えてもらえなくてもいい。
ただ、この気持ちだけは──
否定しないでほしいと、心の底から願っていた。
やめて。
あなたの愛情は、温かくて、深くて、優しくて。
これ以上あなたに注がれたら、きっともう戻れない。
ゆりの内側に張られていた堤防がひび割れ、押し溢れそうな感情が押し寄せるのを感じる。
怖い。
壊れてしまうのが怖い。
支配しなきゃ。
自分の中の恐怖や辛さや悲しみを押しつぶすために。
優越感と高揚感に縋るように。
司を虐める事で、その胸の痛みを麻痺させたい。
私が主導権を握らなければ、あの弱さが露見してしまう。
ゆりは必死に堰き止めていた感情の端をぎゅっと掴むと、静かに、しかし確かな意志を込めて司を押しのけた。
司の片腕を強く引き寄せ、その体勢を崩す。
抵抗する暇も与えず、ゆりは彼の身体をベッドへと押し戻した。
視界が反転し、司が息を呑むのを確かめると、ゆりはその上に影を落とす。
見下ろす位置。
逃げ場のない距離。
そのすべてが、もう主導権はこちらにあるのだと無言で告げていた。
「…ゆりさん…どうして…」
司の呟きは震えていた。
ゆりは一瞬だけだけど、迷いを見せた目をぎゅっと閉じるようにして、意思を固めた。
「私に逆らうな」
司を見下ろす顔から先ほどの儚げな表情は消え、代わりに冷たく強い支配者のまなざしが宿っている。
ゆりは司の両手首を掴み、そのままベッドへと縫い留める。
視線は真っ直ぐに彼を射抜き、視線が絡み合った瞬間、司は悟った。
近づいてくる気配。
逃げられない距離。
「ゆりさん待って…あぁっ…!」
ゆりの存在が、熱となって覆いかぶさる。
それだけで、司の身体は否応なく反応してしまう。
拒むべきだと、分かっているのに。
抗うべきだと、理解しているのに。
彼女に委ねてしまえば楽になる、という誘惑が、理性を静かに侵食していった。
だが同時に、どこか引っかかる。
いつものようにすべてを奪われきれない。
応えているはずなのに、どこか足りない。
彼女の期待に、まだ届いていない。
そのわずかな違和感が、司の胸に残った。
ゆりは気付いてる。
十分に応えてはいるが、まだ張りが足りない。
もっと熱を帯びて、もっと奥まで届くように。
ゆりは焦がれるように願った。
徐々に、司の心に臨界点が迫っていく。
このままでは、まだ完全に張り切れぬ曖昧なままの状態で、不本意に終わりを迎えてしまう──。
意識が白く霞みそうになる中で、司は必死に自分を繋ぎ止めた。
流されれば楽になる。
だが、それでは終わってしまう。
ゆりの望む形でも、自分の本心でもないまま。
そう理解した瞬間、司は残された力を掻き集めるように全身へと意志を巡らせた。
震える腕に力を込め、逃げるのではなく、向き合うために。
司はゆりの動きを制し、距離を作った。
「はあ……っ、はあ……っ……ゆりさんは……」
荒く乱れた呼吸の中、必死に言葉を探す。
伝えなければならないことが、確かにそこにあった。
「……ゆりさんは、このままで…いいんですか?……いつもは…もっと満たされてますよね…?」
その問いに、ゆりの瞳が一瞬だけ揺らいだ。
わずかな戸惑いの色が浮かんだかと思えば、次の瞬間には怒りに満ちた鋭い光が宿り、司を真正面から射抜く。
──バシンッ!
乾いた音がベッドルームに響き渡り、突然ゆりの平手が司の頬を打ち抜いた。
火照りの残る頬に、今度は鮮烈な熱が広がる。
「私に……っ 抵抗するなっ!!!」
声は震えていた。
怒りだけではなく、悲しみと苛立ち、そしてどうしようもない切なさが滲んでいた。
「奴隷の分際で」
その言葉が耳に落ちると同時に、司の胸の奥に静かに張り詰めていた水面が、波紋のように大きく広がっていった。
頬に残る熱い刺激と、彼女の吐き出した冷酷な響き。
それは痛みであり、同時に甘美な快感でもあった。
愛しさと苦しさ、欲望と痛みがせめぎ合い、心がぐちゃぐちゃに掻き乱されていく。
腰を掴んでいた指先から、力がふっと抜け落ちた。
その無力感さえ、ゆりに支配されている証のように思えてしまうのだった。
自分の中で何かが決定的に崩れ落ちる感覚を、ゆりははっきりと自覚していた。
迷いはもうなかった。
考えるよりも先に、身体が司を支配する位置へと押し戻す。
視界が反転し、息を呑む気配が伝わる。
その反応ひとつひとつが、ゆりの胸の奥をざらつかせた。
逃げ場を与えない距離。
視線を外させない位置。
従わせることができる、その確信だけで、全身が熱を帯びていく。
司の呼吸が乱れ、思考が追いつかなくなっていく様子が、はっきりとわかった。
抗おうとする意志と、抗えなくなっていく身体。
その揺らぎが、ゆりの中の何かを強く刺激する。
「…痛みを伴わなきゃ…伝わらないんだな…っ司は……」
痛みと悦びの境界が曖昧になり、拒絶と服従が絡まり合い、やがて思考そのものが溶けていく。
その変化を、ゆりは見逃さなかった。
司の中で何かが目を覚まし、必死に抑え込んでいた熱が、抗いようもなく滲み出てくる。
それを感じ取るたび、胸の奥に積もっていた焦燥が、ゆっくりと快感へと変質していった。
そう。
この男は、こうして追い詰められたときにこそ、私に全てを差し出す。
支配され、追い詰められ、それでもなお縋るようにこちらを見る、その目。
その視線を真正面から受け止めた瞬間、
ゆりの中で最後の理性が音を立てて崩れた。
司を壊しているはずなのに、壊れているのは、きっと自分のほうだ。
「…はぁ……このまま…ずっとこうしていたい……」
ゆりはそれでも止められない。
止めてしまえば、胸の奥に押し込めてきた感情が、一気に溢れ出してしまう気がして。
「…私も…っこのまま…ぁぁ……時間が…止まってほしいです…はぁ…」
司の虚ろな瞳を真っ直ぐに見据えるゆりの熱い眼差しは、狂気そのものだった。
ゆりは、最後まで支配者の仮面を外さない。
すべてを奪い、すべてを従わせ、その果てでようやく訪れる、空虚で甘い満足を掴もうとしていた。
司への狂おしいほどの恋心に。
渾身の力尽くで蓋をするために。
その後も互いを深く刻み込むように一晩中抱き合い続けた夜。
熱に溺れ、夢と現実の境界を失ったまま過ごした時間は、やがて薄紅に染まる空に追い立てられた。
うっすらと朝焼けがカーテン越しに忍び込む頃、二人は現実から目を逸らすように、逃げるようにして眠りへと落ちていった。




