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狂気の魔法  作者: 波方 真季


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第26話 会釈


蓮の身に、あまりにも突然訪れたゆりとの別れ。

あの日を境に、彼の中の時計は針が止まったまま。

声も、温もりも、最後に交わした言葉さえも、胸の奥でこだまするだけで色褪せない。


けれどもパークは何事もなかったかのように動き続けている。

開園を知らせる音楽、来園者達の笑い声、子どもたちの弾む足音。

スタッフたちはいつも通りに笑顔を浮かべ、アトラクションは絶え間なく稼働し、季節は無情にも容赦なく移ろっていく。


その賑やかさが、蓮には残酷だった。

世界がおとぎ話しの物語を謳いながら前へ進んでいくほど、自分だけが取り残されている現実を突きつけられる。

煌めく光も、祝福の音楽も、胸の奥ではただ痛みにしかならなかった。


ゆりと別れてからというもの、自宅のマンションにはほとんど足が向かなかった。

ずっと本家に身を寄せていたのは、あそこへ帰れば張り裂けてしまうのがわかっていたからだ。

ベッドも、ソファも、キッチンも、そのすべてが彼女の痕跡で満ちている。


けれどふいに、どうしようもなくあの温もりを求めてしまう。

「このままでは駄目だ」

そう自分に言い聞かせる。


いい加減、前に進まなければならない。


彼女がいない事実を受け入れて、以前の生活を取り戻していかなければいけない。

現実から逃げ続ける限り、永遠にあの日から一歩も動けなくなってしまう。


現実から目を逸らし続ける日々を終わりにしたくて、蓮はその思いを胸に久しぶりに自宅マンションのエントランスへ足を踏み入れた。

まるで試練に挑むかのように、心臓が大きく脈打っていた。


けれど、エントランスに一歩足を踏み入れただけで、胸がぎゅっと締め付けられる。


初めて彼女を無理やり連れて来たあの日。

腕の中で暴れるゆりを必死に抱き抱え、エレベーターに乗り込んだ光景が鮮やかに蘇る。


二度と戻らない時間を、ここは余りにも鮮烈に呼び覚ます。


そして玄関に足を踏み入れた瞬間、沈黙が押し寄せた。

長いこと閉ざされたままの部屋は冷たく、暗い。

胸騒ぎのようなざわめきを抱えながら、蓮は震える指先でスイッチを押した。


白い照明が部屋を満たす。

だが明るさに照らされた景色は、かえって虚ろに映った。


以前と何も変わらない部屋。

照明も家具も、並べられた小物さえも、すべてがあの日のまま。

まるで時だけが止まってしまったように。


荷物を無造作に置き、冷蔵庫からテキーラの瓶を引き抜く。

ソファに腰を落とし、喉を焼くような酒を流し込みながら、テレビをつけ、風呂をため……普段通りを装おうと必死になる。

だが、その努力はあまりにも空しい。


視界の端々に、彼女の痕跡が突き刺さる。

ゆりのために買ったグラス。

ペアで揃えたカップ。

料理のために選んだ食器たち。

クローゼットを開ければ、まだ袖を通したままの洋服。

洗面台には歯ブラシや化粧品。

日用品すべてが、あの日の温度を閉じ込めたまま、時間を凍らせている。


「…………どーしろっつーんだよ、これ……」


呟きは苦く、部屋の静寂に飲み込まれる。

到底、捨てることなんて出来ない。

けれど連絡ごと遮断された今、彼女に返す術も許されていない。

せめて目につかぬよう、箱に詰め、押し入れの奥深くへと封じ込めるしかなかった。


箱を用意し、思い出ごと仕舞い込むかのように、ひとつひとつ手に取っては詰めていく。

洋服を畳むと、袖口からふわりと微かな香りが立ちのぼった。

あの日、隣で笑っていた彼女の体温を思い出す。

歯ブラシを掴めば、洗面台に立つ後ろ姿がよみがえり、カップを手に取れば、同じ食卓を囲んでいた朝の光景が脳裏に広がった。


触れるたびに、彼女の気配が甦る。

匂いも、温もりも、仕草も、すべてがそこに残っている。

まるで今も、この部屋で呼吸しているかのように。


胸がきしむ。

涙が込み上げそうになる。

だが、それでも蓮は手を止めなかった。

強引に、記憶を段ボールに封じ込めるように。


最後の箱を押し入れの奥に滑り込ませ、扉を閉めた瞬間。

張り詰めていた心臓の鼓動が、ようやくほんの少しだけ緩んだ。

彼女を失った痛みが消えることはない。

けれど、目に映らなくなっただけで、息を吸い込む余白がわずかに生まれた。


そして蓮は、全ての記憶を振り払うかのように、ベッドへ体を沈め、強引に眠りへと逃げ込んだ。

瞼の裏に焼きついたのは、何度も見た笑顔と、耳に残る声。

夢ならば、せめてそこでは彼女に会えるかもしれないと願いながら。





──朝。


目を開けると、見慣れた白い天井が広がっていた。

それはいつもと何ひとつ変わらないはずの光景。

だが、隣にあるべき温もりはどこにもない。

昨夜までの記憶がすべて夢であればいい。

そう思っても、静かな部屋は現実を突きつけてくるだけだった。


蓮は胸の奥に重石を抱えたまま、もう一度目を閉じる。

眠りに沈めば、また彼女に会えるかもしれない。

現実から逃げるように、彼は再び夢の中へと身を委ねた。



半分眠り、半分起きているような浅い意識の中。

ふと耳に届いたのは──寝室の外から流れてくる、澄んだ歌声だった。


ゆりの声。


いつも朝のキッチンで、コーヒーを淹れながら口ずさんでいた歌。

アーク作品のプリンセスが劇中で歌う旋律を、彼女はよく小さく口ずさみ、何度も蓮の目覚めを優しく揺り起こしてくれた。



(あ、おはよう!ごめん、うるさかった?蓮のコーヒーもついでに淹れるね)


(………歌、上手いね…)


(えーそう?…小さい時からいつも真似して練習してたからかな)



そんなふうに笑い、また続きを口ずさむ彼女。

それは澄み渡った朝に溶け込む美しい歌声で、本当に本物のプリンセスのようだった。


けれど。

耳に届くその歌声を追って目を開けても、部屋の外には誰もいない。


冷たい空気だけが、現実を告げていた。



あー………


会いたい………。



ただ、それだけ。

苦しくて、どうしようもなくて、胸の奥でゆりへの想いが焦がれて募っていく。


せめて勤務中の姿を、遠くからでもいいから見たい。

偶然を装って、ほんのひと目でもいい。

彼女がそこに居ると確かめられれば、それだけで生きていける気がした。



その日の朝、出勤した蓮は“それはやっちゃ駄目だ”とわかっていつつ、ついにゆりのシフト表を確認してしまう。

「業務の確認」という名目で理由をつけ、部下を引き連れ、彼女の担当エリアへと歩みを進める。


二月のパークは、年末年始の喧騒が過ぎ去り、園内は閑散期特有の落ち着きを取り戻していた。

人の波がまばらになった通りには、冬の澄んだ空気が静かに漂い、吐く息は白く凍りついて消えていく。

澄み切った青空さえ、どこか切なく胸を刺すように冷たかった。


あの日も、こんな季節だった。


最初に彼女を見かけたのは、大会議室だった。

あの時、あの瞬間は何の気にも留めなかった。


司に言われて追いかけて行った先、エレベーター前で見た彼女の姿。

無駄に用意してしまった料理を前に、項垂れて途方に暮れている小さな背中は、少し可笑しかった。


そしてラウンジに呼び出した。


それがすべての始まり。

あの瞬間から、歯車は狂い出し、戻れない道を歩き続けている。


もし、あの時に違う選択をしていたら。


そんな考えが、何度も何度も頭をよぎる。

巻き戻すことなど決してできないと分かっているのに、後悔は容赦なく胸を締め付けてきた。

苦しくて、呼吸が浅くなる。

あの日を境に狂わせてしまった彼女の人生を思うと、胸が苦しくてたまらなくなる。

どうする事も出来ない後悔が、何度も心に鋭い痛みを刺す。



「大きな機材が通りまーす!お足元ご注意くださーい!」



その声を聞いた瞬間、蓮の胸が強く跳ねた。


何度も耳にしてきた、聞き慣れた声。

顔を上げると、そこには──


以前と何ひとつ変わらない明るい笑顔で、お客様に声をかけながら機材を先導してパーク内を移動するゆりの姿。


一瞬、時が巻き戻ったかのように思えた。


ゆりもまた蓮の存在に気付いた。

ふと目が合ったその瞬間、ぎゅっと胸が締め付けられた。

そして同時に蓮は願ってしまう。


(……鳳条さんっ!お疲れ様です!)


どうかあの頃のように、元気な笑顔を自分に向けてくれないか…と。


しかし。


ゆりの表情は一瞬で曇り、次の瞬間には視線を逸らしていた。

伏せられた目。



淡々とした仕草での会釈。



そして



「…………………」



無言で横を。



通り過ぎる。



──── 。




すれ違ったゆりは振り返ることなく、ただ冷たく無表情で通り過ぎていった。




「……大きな機材が通りまーす!お足元お気をつけ下さーい!」


その声はさっきと同じように明るく響いているのに、蓮にはどこか遠い世界の音のように聞こえた。

もう二度と自分には向けられることのない声。

背中越しに響くその張りのある声が、妙に悲しくて、蓮の胸に冷たい風が吹いた。





前に進もう。


立ち止まったままでは、彼女の未来を奪ってしまう。


俺と一緒に居たら

彼女はきっと、あの日の出来事に囚われ続けるんだろう。

笑顔を見せても、その奥底では決して癒えない傷を抱えたまま。

その重さを背負わせたのは俺だ。


だから、解放してあげなきゃいけない。

俺が手を離せば、彼女はようやく自由になれる。

忘れることは出来なくても、少なくとも俺の影に縛られずに歩き出せる。


愛しているからこそ、手放さなければならない。


どんなに胸が張り裂けそうでも、俺が彼女を手放すことでしか、彼女は救われない。

それが彼女の幸せになるのなら、俺の存在なんて彼女の中から消えてしまった方がいい。





それから蓮は、自らに強制するようにして、ゆりへの未練を断ち切ろうとした。

寂しさに押し潰されそうになっても、意地のように自宅マンションへ足を運ぶ。

あの部屋に一人で居る時間が増えるほど、徐々に「彼女がいない現実」に慣れていった。


ゆりの勤務表には一切目を通さない。

見てしまえば、会いに行きたい衝動を抑えられないから。


パークにも無駄に足を運ばない。

あの笑顔を遠くからでも探してしまう自分が、何より怖かった。


その代わりに、毎日を記憶の上書きで埋め尽くす。

頭の中に彼女の声や仕草が蘇る前に、業務へ没頭し、自分を忙殺した。

まるで、愛しい記憶を一枚一枚塗り潰すかのように。


そんな努力の甲斐あって、冬の厳しい冷たさが少しずつ和らぎ、街路樹の枝先に淡い蕾が膨らみはじめる頃には、ゆりと別れてからの空白も、次第に日常の景色に溶け込んでいた。


朝、白い息が消えていくのが早くなったことに気づくたび、胸の奥の痛みもほんの少し薄らいでいく。


凍てついた心にもしみ込むように、やわらかな春の陽射しが差し込み、失った彼女の存在を埋めるように「一人の時間」が馴染んでいった。


思い出すたびに張り裂けそうだったはずの記憶も、今ではただ遠く霞んでいく。

それが寂しくて、同時に救いでもあった。


ゆりと過ごした日々が「例外」ではなく、別れて過ごす毎日こそが「当たり前」となりつつあった。



四月── 。



街もパークも、新しい季節を迎える空気に包まれていた。

ユニフォームに身を包んだ新入社員たちが初々しく園内を行き交い、来園者の笑顔に混じって、春の清々しい風が頬を撫でてゆく。


その日、メルヘンダイニングはリニューアルに向けた一時クローズを迎えた。

長く愛されてきた施設の扉が静かに閉ざされる瞬間は、まるでひとつの時代に幕が下りるようで、館内に漂う余韻は切なくも厳かだった。


ゆりは、社会人三年目の春を迎えていた。

入社した頃の右も左も分からなかった自分とは違う。

今では現場を任され、責任ある立場として仲間を導いている。

閉鎖作業を指揮しながら、その胸には小さな誇りと、新しい挑戦への静かな決意が芽生えていた。


蓮もまた、経営者として冷静に全体を見渡し、必要な指示を飛ばしていた。

視線が交わっても、そこに私情の色はない。

互いをただ “同じ職場で働く人間” として扱えるようになった。

ほんの数か月前までは到底考えられなかったことだ。


最低限の言葉を交わすだけの、淡々としたやり取り。

けれど、その裏にある膨大な記憶を、二人は誰よりも知っている。

春のやわらかな陽射しに照らされながら、その記憶を胸の奥底に押し込み、あたかも過去を風に溶かすかのように。


閉鎖したメルヘンダイニングの店内は、昼間なのにどこか薄暗く、ゲストの笑い声が消えた広間には、食器の音ひとつ響かない。

華やかなシャンデリアだけが虚しく光を落とし、長年の歴史に幕が下りた静寂が漂っていた。


「メルヘンダイニング閉鎖に伴う備品の移動リストですが、一部はバックヤードに仮置き、残りは倉庫に回す形で問題ありませんね?」


店内では、複数銘のスタッフで着々と閉鎖作業が進められる中、蓮とゆりは書類を手にして向かい合わせに立って会話をしていた。


「先日、鳳条代表より頂きました指示書を元に、現場スタッフには既に伝達済みです。輸送スケジュールも週末までには完了予定です。」


「人員の再配置についてはどうですか?調理スタッフ数名は一時的に各エリアの店舗へ分散させると聞いていますが。」


「はい。各リーダーと調整しました。オペレーションに支障は出ないはずです。」


「承知しました。では次の会議で本社に報告する資料に反映させます。」


「お願いします。」


乾いた会話。

空虚なレストランに響く二人の声は、やけに澄んで聞こえた。


「………………」


お互い書類に落としていた視線が、一瞬だけ交わる。


(…………元気?)


喉の手前まで出かかった言葉を、蓮はぐっと飲み込んだ。

そしてお互いにすぐに書類へと目を落とす。


「……早瀬SVから、他に懸念点は?」


「ありません。以上です。」


「そうですか。では引き続き、よろしくお願いします。」


互いに淡々と会釈を交わし、蓮はレストランの出口へと背を向ける。



(………元気?)


単純に気になっただけだ。

無機質な会話の中で、今のゆりは普段どんな日々を過ごしているのかなと。

もし口にしていたら、どんな反応をされただろう。


毅然と冷たく素っ気ない口調で返すのか。

それとも、少し動揺を見せるのか。


もしかしたら…笑顔を向けてくれただろうか。


そんな考えを巡らせるも、蓮はすぐに自ら強制的に思考を遮断した。

余計な感情は、もう決して口にしてはない。


蓮が扉を出て行く音と、沈黙だけが、閉ざされたレストランを満たしていた。



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