第25話 大勝利
──ああ、このまま…もう……。
意識が真っ白になりかけた、その瞬間。
コンコン──
「桐生様、本社より報告書が届きました」
張り詰めた空気に、司の喉が詰まる。
「……っ!」
ゆりは咄嗟に自らの手で司の口を塞いだ。
ドックン、ドックン、ドックン、ドックン──
心臓が耳の奥で鳴り響く。
互いの胸から漏れる鼓動の音。
直前で奪われた焦燥なのか、部下が尋ねてきたことによる危機感なのか。
すべてが入り混じって、司の心臓は暴れ狂うように脈を打っていた。
肩で息をするほど荒ぶる呼吸は、ゆりの手で塞がれた口から漏れ出すこともできず、鼻からひゅうひゅうと細い空気が逃げる。
耐えきれず震える身体。
それを押さえつけるように、ゆりの指先が司の顎を強く抑えていた。
「桐生様、失礼します」
ガチャガチャ──。
扉のノブが揺さぶられる。
「あれ、空いてない……どこへ?」
ツカツカツカ……。
遠ざかっていく靴音。
……沈黙。
次の瞬間、二人は同時に、胸の奥から大きく息を吐き出した。
「……っはぁ……」
「……ふぅ……」
押し殺していた呼吸が一気に解き放たれ、互いの胸が大きく上下する。
緊張と焦燥と、未だ途切れない熱。
この瞬間、ゆりの胸の奥で、黒い種のような思考が芽吹いた。
それは瞬く間に形を取り、彼女の瞳に狂気の色を宿す。
「ねぇ…司ぁ……」
ゆりは、ぞっとするほど静かに、しかし底冷えするような笑みを浮かべた。
その笑みは甘美さを纏いながらも、悪魔そのものの嗜虐を孕んでいた。
「もし、私がこのまま…」
ゆっくりと視線を落とし、司の手錠と足枷を示す。
「これの鍵を持って、この部屋から出て行ったら……どうするぅ?」
「……っ!!」
その言葉は、司の胸を氷で突き刺すように鋭く響いた。
司の頭の中に、ありありとした光景が描かれる。
拘束具に縛られ、放置されたまま、幹部応接室で発見される自分の姿。
社会的死。
その文字が司の脳裏に焼き付いた。
今まで積み上げてきた地位も、権威も、尊厳も、すべてが一瞬で瓦解する。
そしてその全ての「鍵」を握っているのは、目の前で妖しく嗤うゆりだった。
「ねぇ…私今……一瞬で司を社会から捻り潰せるねぇ♡」
ぞっとするほど甘美に、ゆりは囁いた。
その声は、愛を語る恋人のそれではない。
人の命運を弄ぶ悪魔の声。
ゆりの全身を駆け巡るのは、快楽に似た昂揚。
絶頂の瞬間に匹敵する、いやそれ以上の衝撃が脳髄を焼きつける。
電流が駆け抜け、アドレナリンが溢れ出し、脳内から甘い汁が滴り落ちるような。
やめられない。
癖になる支配の堪らない快感。
「…ゆりさんっ…それは…流石にそんな事は…ねぇ…いくらなんでも…」
司の声は震えていた。
いつもは冷静沈着な男のはずなのに、今はただ獲物を前に怯える獣に等しい。
両手首は手錠に繋がれ、足元の自由を奪われ、誇り高き権力者の面影は欠片もない。
顔面は蒼白に染まり、唇はわななき、今にも死の淵に立たされる者の表情を浮かべていた。
その震え、怯え切った瞳。
すべてが、ゆりにとっての最高のご褒美だった。
「いくらなんでも…なに?出来ないって言いたい…?」
突然、ゆりの声色が一瞬で変わった。
先ほどまで無邪気に笑っていた少女の面影は消え、そこにあるのは恐ろしく冷え切った刃のような鋭い眼差し。
狂気だ。
完全に狂ってる。
そんな事は正気じゃない。
でも目が……怖過ぎる。
「…お願い….します……っ」
権威も、誇りも、すべてを投げ捨てて。
司は膝を折りそうなほど震えながら、かすれ声で縋りつくように懇願した。
「置き去りにしないで下さい…何でも言うことを聞きます…どんなことでもします…ですから……っ鍵を、開けて下さい……っ」
涙が目尻に滲む。
屈辱と羞恥に打ち砕かれ、恐怖に縋りつくしかない男の姿。
かつての権力者の威厳は完全に崩れ去り、そこに残されたのは“奴隷”そのものだった。
ゆりは冷えた瞳のまま、小さくひとつ溜め息をこぼすと、無言で立ち上がる。
足音も静かに、だが確実に司のデスクへと向かっていく。
その手が置かれたのは、黒光りする司のノートパソコン。
パタンと画面を開き、背後を振り返ることなく、短く告げた。
「……はい、パスワード」
「……………qX94r7V ──…」
途切れがちな声で、司は観念したように答える。
彼の頭にはもう、抵抗の二文字すら存在しなかった。
到底、無理だ。
彼女をコントロールしようなんて考えが、根本から間違っていた。
例え世界が逆に周ろうと。
天地がひっくり返ろうと。
この人にだけは、永遠に敵うことはない。
この世界でただ一つ。
この俺でさえ思い通りに出来ない。
唯一の存在。
「フォルダ…削除っと。ゴミ箱ー…削除。えーと次は…ダウンロードデータ削除でしょー…」
驚くほどサクサクと削除作業を進めて証拠を葬り去っていくゆり。
迷いなくカーソルを操る姿に、司は愕然とした。
普段の仕事ぶりから頭の回転が速いのは知っていた。
そこに加えて、こんなにもコンピュータに詳しいとは。
完璧で、冷酷で、それでいて無邪気に笑う。
支配者でありながら少女の顔をも持ち、知性と美貌と可愛いさを兼ね備え、そして今は権力者すら無力に縛り上げている。
非の打ちどころがない。
「んで次はぁ…あ、バックアップか!ほら司、アカウントのID言って」
「……………Rk72v5Lmーー…」
拘束されたまま、人形のように。
辱めを受けながら、個人情報を剥がされ、言われるがままに口を割らされる。
正真正銘、本物の奴隷だ。
「よしっと!任務完了かなっ♪」
パタン、と軽やかにノートパソコンを閉じる。
振り返ったゆりの笑顔は、無邪気な少女のように輝いていた。
抗う気力すら削がれていく。
その完璧さに、さらに惹かれてしまう自分がいる。
司の胸の奥で、悔しさと同時にどうしようもない愛しさが溶け合っていった。
その瞬間──ゆりの頭の奥底で、悪魔が囁いた。
(今、この瞬間の司を動画に収めたら……?)
スッと視線がスマホへ落ちた。
(そうすれば、私は二度と絶対的支配を脅かされる不安に駆られることはない。それどころか、蓮の立場だって救え──……)
考え掛けたところで、ゆりはその思考を力ずくで断ち切り、自ら思考を強制的に遮断させた。
唇がひとりでに震え、慌てて噛みしめる。
心の奥底からにじみ出たその言葉に、誰よりも自分自身が怯えていた。
違う。
守りたいとか、そんなんじゃない。
蓮なんて──どうでもいい。
そんなの最低な人間がやることだ。
吐き気を催すほどの嫌悪がこみ上げる。
自分が心底軽蔑してきた、“脅しで思い通りにする”あの人種と同じ発想を一瞬でも抱いてしまったことに。
あんなにも嫌な思いをして、ようやく動画を消したばかりの自分が。
それを「武器」に利用しようと考えるなんて自分に対して反吐が出そうだ。
ゆりは振り返ると、駆け寄って司の手錠と足枷の鍵を慌ただしく外した。
金属の音がカチャリと鳴った次の瞬間、彼女は全力で司の胸に飛び込んだ。
「司…っごめんね…嘘だよ、全部嘘っ…怖かったよね…ごめんねっ」
震える声で繰り返し謝りながら、ぎゅうっと腕を回して抱きしめる。
そしてたっぷりの愛情を込めて司の唇に、ちゅーーっっっと力いっぱい唇を押し付けた。
震える声で繰り返し謝りながら、ぎゅうっと腕を回して抱きしめる。
そしてたっぷりの愛情を込めて司の唇に、ちゅーーっっっと力いっぱい唇を押し付けた。
ちゅ、ちゅ、ちゅっと、何度も何度も角度を変えては重ね、やがて互いの呼吸が絡み合い、司の思考はゆりの温度に溶かされていった。
「…いいんです…こうして…あなたは解放してくれたから…」
司の安堵が溢れ出る声。
その言葉に、ゆりは涙が滲みそうな勢いで答える。
「するに決まってるでしょ…っ大切な司だもん」
そしてゆりは再びきつく抱きしめて司に唇を重ねた。
地獄の底に突き落とした直後に注がれる、甘すぎるほどの愛情。
狂気と優しさが背中合わせで注ぎ込まれる。
精神は揺さぶられ、感情はぐちゃぐちゃにかき乱され、恐怖と安堵と快楽が混じり合う。
カオス過ぎる精神状況に、司は思考停止した。
ゆりは、堪えきれない衝動に突き動かされ、ソファに身を投げ出し、腕を伸ばして司を強く引き寄せる。
拒むことなく、すべてを受け入れる姿勢。
放心状態で思考を止めていた司は、不意を突かれたように目を見開き、一瞬だけ動揺の色を浮かべた。
「…いいんですか?ゆりさん……」
低く震える声が、熱と緊張を孕んで空気を震わせる。
その問いかけに、ゆりは強い瞳で真っ直ぐに、熱い視線で司を見つめた。
「うん…!よしっ」
いつもの合図。
短いその一言に、司の理性は一気に決壊した。
その先に待っていたのは、言葉を失うほどの混濁だった。
与えているのか、奪われているのか。
境界は溶け、主と従の区別すら曖昧になっていく。
司の意識は、熱と圧と感情の奔流に呑み込まれ、
思考は次々と削ぎ落とされていった。
恐怖も、羞恥も、抵抗も。
残っていたはずの理性さえ、いつの間にかどこかへ消えている。
ただ、ひとつだけ。
自分は今、完全に彼女のものだ。
その理解だけが、胸の奥に重く、しかし甘く沈殿していった。
支配されているという事実。
抗えなかったという記憶。
そしてそれを拒めなかった自分自身。
甘さと残酷さが幾重にも折り重なり、司の心は静かに、しかし決定的に折れていく。
司の中に残ったのは、達成感でも解放感でもない。
「もう戻れない」という、奇妙な安堵だった。
彼は理解してしまったのだ。
この関係の行き着く先も、自分の立ち位置も、
そして、彼女がどれほど危険で、どれほど甘美な存在かということを。
ゆりの腕の中で、司は静かに息を整える。
その瞳に宿るのは、恐怖ではない。
完全に手放した者だけが持つ、従順な静けさ。
もう、逆らう理由はなかった。
逆らえる未来も、想像できなかった。
完敗だ──。
誘惑、背徳、屈辱、羞恥、可愛さ、強さ、恐怖、甘さ。
この短時間で、一体どれほど多くの彼女の魅力を、全身の根底から刻み込まれたのだろう。
あれだけ執着して司の脳裏に焼きついていた“蓮との映像”は、衝撃的なまでに一気に弾け飛んだ。
いま司を支配しているのは、ゆりその人の姿だけ。
ゆりもまた、蓮との過去の記憶を上書きするように、心も身体もすべてを司で満たしていく。
身体は司に奥底まで侵されながらも、支配する側としての確信に酔いしれていた。
この瞬間、ゆりの圧倒的な勝利が確定した。
彼女の描いた作戦は、寸分の狂いもなく、全て見事な成功を収めたのだった。




