第22話 知らない顔
夢のような夜が明け、ゆったりとした朝食と、朝の光に包まれながら、名残惜しむかのように再び愛し合って、甘いひと時を過ごしたあと。
チェックアウトを済ませた二人は、煌びやかなシャンデリアが輝くホテルのエントランスロビーに立っていた。
「いやっ!帰りたくないっ」
人目も憚らず、ゆりが司の胸にぎゅっとしがみつく。
小柄な身体から伝わる温もりに、司は困ったように優しく微笑んだ。
「ゆりさん…気持ちはわかりますけど、遅刻してしまいますよ」
「でもでも…もっと居たいの!」
駄々をこねるような言葉に、司の胸の奥がじんわりと温かくなる。
ゆりの可愛い仕草に、愛おしさに満ちた手で彼女の頭を撫で、頬へと滑らせて、そっと顔を持ち上げて、視線を合わせる。
「たくさんの夢とおとぎの物語に触れ合いましたね。次はゆりさんが、たくさんのお客様に夢とおとぎの物語を届けてあげてください。ストーリーテラーの弟子として」
まただ。
自然に口をつくロマンチックな言葉。
それにゆりは胸をきゅんと掴まれて、ほんの一瞬、抱きしめる力を緩めてしまった。
「でも司が…っ来週からアメリカ行ったらお正月明けまで帰ってこないなんて!そんなのさっき急に言うんだもん!ここでバイバイしたら…もう暫く会えないじゃんっ」
再び、ぎゅうっと抱きしめ直す。
切なさが募って、腕に力が込められる。
「会いたくなったら、来週までは本部ビルにいますからいつでも来てください。それに…次のアメリカに一緒に行きましょうって、昨日お誘いしましたよね?やっぱり付いて来ますか?」
「それは無理」
パッと身体を離すゆり。
司はあまりの急転直下に、思わずガクッと拍子抜けして肩を落とした。
「さーっ!今日も元気にお客様へ最高の笑顔をお届けするぞーっ!」
清々しい笑顔と共に、颯爽とロビーの出口へ歩き出す。
その背中を見つめ、司は呆れたように小さく笑った。
──なんて気まぐれで、なんて愛しい人だろう。
そう思いながら、彼もまたゆりの背を追って歩みを進めた。
本社幹部応接室。
コンコン──。
重たい扉を叩く音が室内に響いた。
「司、ちょっといい?」
低く、押し殺した声。
司の返事を確認して蓮が応接室の扉を開くと、座る司は微動だにせず、背もたれに深く身を沈めたまま、扉を静かに見据えていた。
「来ると思っていたよ……蓮。」
薄く笑みを浮かべ、重厚な革椅子の肘掛けに手を添え、組んだ足を崩しもしない。
その姿は挑発であり、表情は勝者の余裕そのもの。
「……っ!」
挑発的なその態度が、蓮の胸の奥で燃え盛る炎に油を注ぐ。
その一瞬で、蓮の怒りが血を駆け上がり、頭の奥で爆ぜる。
ガッ──!
荒々しい音を立てて、司の胸ぐらが掴み上げられた。
重厚な椅子が軋みを上げて揺れる。
「……お前の仕業か?」
蓮の声は低く震え、胸ぐらを掴む手は今にも喉元を締め上げそうなほど力が籠っていた。
血走った眼差しは噛みつかんばかりで、呼吸さえ怒気に染まっている。
司はまるでそれを待ち望んでいたかのように、ゆっくりと目を細めた。
動揺も焦りもなく、口元に浮かんだのは挑発めいた笑み。
「人の至福の時を邪魔するからだ」
その声音には、罪悪感の欠片もなかった。
後悔など当然なく、あるのはただ他者を支配し、ゆりを弄んだ優越感。
冷酷な響きが空気を凍りつかせ、蓮の全身を一層燃え上がらせた。
蓮の拳がさらに強く司の襟元を締め上げる。
反対の拳は血が滲むほどに握り締められ、今にも司の顔面に叩き込まれそうな勢いでガタガタと震えていた。
「何を血迷ってる?抹消されたいか?」
司は視線を落とし、蓮の震える拳を冷ややかに見据える。
その目には一片の恐れもなく、氷のように冷徹な光が宿っていた。
バッ──。
司は掴まれた胸ぐらを自ら払って逆に蓮の体を押しのける。
蓮はたたらを踏み、息を荒げた。
「………………ゆりから手を引いてくれ…頼む…」
堪えきれぬ激情を押し殺し、蓮は腰を深く折り、司に頭を垂れた。
誇りも、立場も、全てを捨ててでも。
ただ、愛する女を守り抜くために。
「なぜ?」
静かに返す司の声。
「お前は既婚者だろ」
「それが」
一切揺らがぬ声音に、蓮の胸が苛立ちで煮え立つ。
「…………ゆりの為を思うなら…解放してやってほしい」
悲痛な叫び。
だが司は眉ひとつ動かさず、その言葉を冷ややかに跳ね除ける。
「解放?人聞きが悪いな。俺は決して彼女を縛りつけてはいない…俺から離れるかどうかは彼女自身が決めることだ。」
「ゆりにとってお前は恐怖の対象でしかない!ゆりはお前を拒めない!」
蓮の声は張り裂けるようだった。
胸の奥の焦りと怒り、そして愛が、抑え切れずに迸る。
「………っははははははははッ!!!」
司は突然、天井を仰ぐようにして高く笑った。
その笑いはあまりにも唐突で、蓮は思わず息を呑む。
その双眸には、冷たい嘲笑と、拭い去れぬ熱が同時に渦巻いていた。
自分こそが知っているのだ。
ゆりが“どんな女”であるのかを。
先ほどまでホテルのロビーで、離れたくないとこの胸にしがみついていた彼女。
そして夜の彼女は支配者として笑い、こちらの意志など無視して、理性を易々と奪っていく。
彼女はそれを心底楽しみ、そのたびに無限に狂わされる。
俺は彼女の奴隷だ。
蓮は知らない。
誰よりも深く、自分だけが浴びてきた“本当のゆり”の顔を。
司は椅子を蹴るように立ち上がり、獰猛な笑みを浮かべる。
「なんてお気楽で!なんて幸せなやつだッ!!滑稽で仕方ないな!!!蓮ッ!!!」
「…………くっ!!」
ブチィッ!!!
蓮の中で、最後の正気の糸がはじけ飛ぶ音がした。
もはや理性では止められない。
「……目を覚ましてやる…っ!」
荒々しく手を伸ばし、デスクに置かれていたノートPCを開くと自分のアカウントでログインした。
画面が立ち上がると同時に、司の冷徹な視線を真っ向から受け止め、蓮は狂気を滲ませた声で吐き捨てた。
「お前だけが、ゆりを思い通りに、ゆりを好き勝手に出来てると思ったら…大間違いなんだよっ!!」
カタカタとキーを叩き、映し出されたのは、画面いっぱいに広がるゆりの姿。
司の前に突きつけられたのは、禁断の映像だった。
「お前が囲ってるお姫様が、本当に愛し合ってるのが誰なのか…しっかりその目で見てみろよ!!」
蓮の目は、もはや完全に狂気に支配されていた。
その手が、ためらいもなく再生ボタンを押す。
PCのモニターが青白い光を放ち、部屋の空気を切り裂いた。
映し出されたのは、カメラ越しのゆりの姿。
涙に濡れ、混濁しながらも、蓮に縋る彼女。
「…………っ」
最初に崩れたのは、司の瞳だった。
氷のように研ぎ澄まされていた冷徹な光が、わずかに揺らぐ。
視線は映像に釘付けになり、背けることすら叶わない。
胸の奥で、知らなかった顔を突きつけられる衝撃。
拒絶したいのに、どうしても見てしまう。
「くだらん…!演技だ…っ」
吐き出された声は、嘲りにも断罪にも聞こえない。
むしろ、自分の心を必死に誤魔化すための、苦しい言い訳のようだった。
だが次の瞬間──。
画面の中で、ゆりが潤んだ瞳で蓮を見上げ、必死に縋るように声を震わせた。
《蓮っ…抱っこ…ちゅ…ちゅーして…蓮っ…》
「……っ!」
司の心臓が、弾けるように激しく脈打つ。
理性が「見るな」と叫ぶのに、視線は食い入るように離せない。
胸の奥で燃え広がる嫉妬と、全身を貫く屈辱的な反応が、残酷な現実を突きつけていた。
「……そんな…馬鹿な……っ」
呟きは震え、否定の言葉ほど無力だった。
これは演技だ。
これは罠だ。
真実なわけがない。
そう何度も自分に言い聞かせる。
だが言い訳を重ねるほどに、映像に映る“知らないゆり”が、心を切り裂いていった。
涙に濡れ、頬を赤らめ、必死に抗いながらも取り乱していくその姿は、司が知る「冷たく微笑む支配者」ではなかった。
従わせ、翻弄し、夜ごとに支配してきたあの圧倒的な存在ではない。
むしろ、自分よりも下の立場にいるはずの蓮に抗えぬまま翻弄され、壊されている。
その矛盾が、司の誇りを粉々に砕いた。
屈辱。嫉妬。憎悪。
だが同時に、抑えきれぬ興奮が体を支配していく。
拳を握り締め、喉の奥から熱い息がこぼれそうになるのを必死に堪える。
脈打つ身体があまりに露骨で、悟られるまいと全身に力を込めるしかなかった。
それでも視線だけは、画面から離せなかった。
画面の中の彼女に縋りつくように、知らない顔を見せる彼女に。
蓮は、呆然と映像を見つめ肩を震わせる司を前に、勝ち誇ったように笑みを浮かべた。
《…もう…っ蓮のいじめっこ…》
《…お前が可愛いのが悪いんだろ》
《蓮、ごめんねのちゅーして》
《ごめんね》
スピーカーから漏れるそのやり取りは、気絶しそうなほど甘く、無垢で、残酷だった。
純粋で、少女のように無邪気な笑顔。
有能で、仕事では誰よりも凛とした横顔。
夜は支配者となり身勝手に服従させる冷たい微笑。
それだけでも、司は全てを捧げていた。
ここまでの多面性を持ってして翻弄させながらも尚、まだ知らない顔があるなんて。
映像の中の彼女は、さらに別の顔を蓮にだけ見せている。
愛らしく甘えて、無防備に蕩け、声を震わせて縋る姿。
胸を締め付けるのは、嫉妬か、恐怖か。
ここまで何もかも夢中にさせておきながら、なお自分の及ばぬ領域を抱えている。
それこそが、最も恐ろしいことだった。
パタン──。
映像が途切れると同時に、蓮は迷いなくウィンドウを閉じ、アカウントからログアウトするとPCを閉じた。
空気を切るような乾いた音が応接室に響く。
「これ以上ゆりに手を出すな。金輪際、ゆりに近づかないでくれ」
低く吐き捨てるように告げると、蓮は司を一瞥し、背を向けた。
重い扉が閉じられ、残された室内には異様な静寂が広がる。
「……はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ……」
司の肩が荒く上下する。
抑え込んでいた何かが堰を切ったように、理性の隙間から溢れ出していく。
何だったんだ。あの彼女は。
脳裏に焼き付いたのは、潤んだ瞳で蓮に縋る姿。
耳の奥で反響するその声に、胸が裂かれるような痛みと、堪えがたい熱が全身を駆け上がる。
「ああ…はあ…ゆりさん…」
理性が抗っても、思考は映像から離れない。
胸の奥で膨れ上がる感情を抑えきれない。
知らない。
あんな顔は一度も見せてくれなかった。
誇りを踏み躙られる劣等感。
誰かに奪われた屈辱。
それでも抗えない嫉妬と興奮。
頭がおかしくなりそうだ。
司は目を閉じ、脳裏に映像を繰り返し投影する。
耳に残る声。
瞳の揺らめき。
涙に濡れた頬。
それら全てを何度も反芻しながら、必死に己を鎮めていた。
──可愛い。
言葉にならない。
どこまでも、果てしなく、度を越えた可愛さ。
堪らない。
耐えられない。
胸を締め付ける苦しさよりも、煮え立つ衝動が勝っていた。
まさか、彼女があんな顔を持っていたなんて。
支配者の仮面を脱ぎ捨て、涙に濡れ、必死に縋る姿。
一度知ってしまえば、もう後戻りなどできはしない。
これは甘美な夢ではない。
抜け出せぬ地獄だ。
彼女の底なしの沼に足を踏み入れた瞬間から、もう生きて戻ることなど叶わない。
死んでも這い上がれない。
司の指先に力が籠もる。
理性をすり抜けて、ただひとりの女の顔を追い求めながら。
本当の彼女は、どこにいる?
その問いは、司の胸を氷のように凍らせると同時に、灼熱の炎で焼き尽くした。
これまで、この世のすべてを手に入れてきた男。
権力も、財も、名誉も。
欲しいと思ったものは必ずその手に取ってきた。
それなのに。
たったひとりの女、そのすべてを自分が手にしていなかっただなんて。
これほど恐ろしいことがあるだろうか。
胸をえぐるような戦慄。
だが、その恐怖はすぐに別の感情へと姿を変える。
もっと知りたい。
もっと見たい。
彼女はまだ何かを隠している。
俺だけが知らない「ゆり」が、まだ他に存在するのか。
そう思った瞬間、背筋を駆け上がった悪寒は、次第に熱となり、狂気にも似た渇望へと変貌していった。
司の頭の中で、あの映像が途切れることなく再生される。
耳にこびりつく声。
その顔。
興味、好奇心、独占欲。
それらは一度崩れ出した雪崩のように止まらず、胸を圧迫し、理性を無惨に打ち砕いていく。
崇拝するだけでは、もはや足りない。
すべてを暴きたい。
すべてを支配したい。
そして、すべてを俺ひとりのものにしたい。
「…ゆりっ……!ああーっ!」
堪えきれない司の感情は、熱となって勢いよく爆ぜた。
(蓮、ごめんねのちゅーして)
耳の奥で蘇ったその言葉に、胸が引き裂かれるような衝撃。
「はあ….はあ…はあ…彼女の…全てが欲しい………」
吐き出すような声は、懇願というより祈りに近かった。
司は脳裏のゆりに縋りつくように、震える唇で呟いた。
彼女の知らない顔を、すべて奪い尽くしたい。
少女の顔も、支配者の顔も、屈服する顔も、甘える顔も、ひとつ残らず自分だけのものに。
どんな手を使ってでも。
どんな代償を払ってでも。
必ず。
そして暫く間を置き、ようやく思考が現実に戻ったころ。
司はゆっくりと背もたれから身を起こし、机の上に置かれたスマホを手に取った。
指先が冷静さを取り戻すと同時に、彼の瞳は再び鋭く研ぎ澄まされる。
「……Hey, are you available now? I’ve got a job for you. I need the best cyber team you can get.
(あぁ、今大丈夫か?一件依頼したい。腕の良いサイバー組織を用意してくれ)」
低く抑えた声には、一切の動揺が感じられない。
数分前まで自らの欲望に翻弄されていた男とは思えぬほど、冷徹で、正確な指令の響きだった。
電話の向こうはロンドンにいる直属の部下。
その部下に、司は言葉を続ける。
「There’s an account I want you to hack. What I need is access to all the data—especially the videos. Can you do it?
(ハッキングして欲しいアカウントがある。欲しいのは全データ、特に映像だ。出来るか?)」
短い沈黙のあと、電話口から落ち着いた声が返る。
《Consider it done, sir. I’ll make the arrangements right away.
(承知しました。すぐに手配します)》




