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狂気の魔法  作者: 波方 真季


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第2話 壊された日常


緊張感の中、食事が進んでいく。

ときおり交わされる会話が、空気の重さを少しだけ和らげた。


「お寿司は…召し上がりませんでしたか」


「生魚はあまり好きじゃなくてね」


「嘘つけ」


蓮が小声で茶化し、司は咳払いをひとつ。


「…こちらの食事の方が格段に良い。調理はどこで?」


真っすぐな問いかけに、ゆりは小さく答えた。


「…フードサービス部に内定を頂いてから、調理師学校に通いました。ただ…」


「ただ?」


一瞬言葉が喉につかえたが、促されるまま言葉を紡いだ。


「母を幼い頃に亡くして、学生の頃から家族の食事を用意していました。なので、最初のきっかけはその頃に料理を独学で学びました」


「へぇ、ゆりちゃんって苦労人だ」


蓮が軽く笑い、ワイングラスを傾ける。

そんな他愛もないやりとりをしているうちに、気づけば皿は空になっていた。


「お済みのお皿、お下げします」


立ち上がろうとしたゆりを、蓮が手で制す。


「いいよ、そんなの」


蓮がテーブルに置かれた呼び出しボタンを指先で押した。


「お呼びでしょうか」


すぐさまスタッフが現れる。


「これ、下げてくれる?」


「あの、私の役目なので!」


蓮がスタッフに指示を出すのに対し、ゆりが慌てて腰を浮かせかけた瞬間、肩にそっと、しかし抗いがたい力がかかる。

司の手が、彼女の動きを制した。


「君の役目は、他にある」


「……他に?」


ゆりが怯えたように問い返すと、司の瞳がわずかに細まった。


「そう……もっと大事な役目がね」


ソファに沈めた手は彼女の肩に残したまま、反対の手が前髪へと伸びる。

耳の横に垂れる細い髪に、司の指先がかすめる。


ぞくりと背筋を走る感覚。

ただの仕草なのに、危険信号が鳴り響く。

スタッフが空いた皿を下げて出て行く。

本能が「逃げろ」と叫ぶ。

このままここに居てはいけない。


「わ、私っ…業務に戻りますので!」


慌てて立ち上がろうとした瞬間、蓮の声が横から割り込む。


「戻る?手配済みだよ。君が戻らなくても現場は回るようにしてある」


逃げ場が塞がれたことを理解した瞬間、全身から汗が吹き出し呼吸が浅くなる。

司がさらに身を寄せ、静かな声を落とした。


「これからだよ。君の本当の役目は」


顔が近づいてくる。

近すぎる距離に、思わず息を詰めた。

咄嗟にゆりは顔を背けた。


「っやめてください!」


必死に腕で押し返そうとしたが、すぐに蓮の両手がその動きを封じた。


「こらこら、なにしてんのよ。だめでしょ逆らっちゃ」


冗談めかした声なのに、逃げ道を完全に塞ぐ重さがあった。

次の瞬間、司の視線が逃げ場を奪った。

抗う間もなく、空気が張りつめる。


「──っ!」


息が詰まり、身体が引きつる。

視界が揺れ、世界がぐらりと反転したように感じた。



声を上げようとしても、喉が張りついたように音にならない。

呼吸は浅く、速く、胸の奥で絡まっていく。


抵抗しようと力を込めるたび、身体は言うことを聞かなくなっていった。

重力が増したように、背中が深く沈み、逃げ場のない感覚だけが広がる。


何かが擦れ、嫌な音が空気に落ちた。

それが合図のように、肌の感覚が一段階、剥き出しになる。


——だめだ。


そう思った瞬間、頭の中が真っ白に塗りつぶされた。

羞恥と恐怖が同時に押し寄せ、身体の芯が凍りつく。


覆いかぶさる影。

逃げ場を奪う距離。


言葉は届かず、意思も通らない。

ただ、圧だけが、じわじわと迫ってくる。


低く、冷えた声が落ちる。

それは叱責でも命令でもなく、もっと残酷な「断定」だった。


その瞬間、ゆりは悟ってしまう。

これは冗談でも、行き過ぎた悪ふざけでもない。


——ここでは、拒否そのものが許されない。



視界が滲み、思考は恐怖と混乱でかき乱されていった。


(誰か…助けて…っ!)


頭の中で叫びながら、ゆりは必死に身体をのけぞらせた。

腕を振りほどこうと足をばたつかせる。


次の瞬間、視界に映ったのはテーブルの上の呼び出しボタン。


ほんの数十センチ。

つま先を延ばせば、今にも届きそうな距離。


「……っ!」


全身の力を込め、足先を伸ばしたその瞬間。


「おっと…往生際が悪いよ、君」


冷ややかな響きが胸を突く。


「ねぇゆりちゃん、自分の立場わかってる?」


その声に反応するように、司が顔を上げた。

手が一瞬止まり、メガネを指で押し上げる。


「“今の対応”、君が間違ってるって、僕ら上の人間にどう伝わるか、ちょっと想像してみて?」


言葉は柔らかい。

しかしその裏に潜むものは、脅しよりもずっと冷酷だった。


(……っ!)


心臓が一気に冷え、背筋を氷で撫でられたような感覚に襲われる。

これは冗談でも挑発でもない。

現実だ。


この人たちは、自分の雇用主の、そのさらに上にいる。

逃げ場などどこにもない。


コトッ。


蓮はわざと音を立てないように、ボタンをそっとゆりのすぐ側の位置まで手前に置いた。


「鳴らしたかったら、いつでも鳴らしてどうぞ」


余裕に満ちた声音。

その挑発を前に、ゆりの胸にただひとつの言葉が浮かんだ。


…あー……

これが、権力ってやつか…


胸を締め付ける重苦しさの中で、頭の片隅に浮かんだのは、ずっと抱いてきた夢だった。

大好きなテーマパークで働くこと。


小さな頃、父に手を引かれてよく訪れた。

男手ひとつで育ててくれた父は、不器用な笑顔を浮かべながら「今日は思い切り楽しめ」と言ってくれた。

夜空に咲いたパレードの光、響き渡る音楽、胸の奥を震わせたあの魔法のような時間。

あの瞬間から、この場所は彼女にとってただの遊園地ではなく、人生の支えとなる場所になった。


(ストーリーテイルのお姉さんになりたい!)


そう夢を抱き、努力を続け、内定を告げられた日の喜びはいまも鮮明だ。


(お前にピッタリの仕事だな)


父の声が耳に蘇る。

その顔は、涙をこらえるように目尻を細めて笑っていた。

一人暮らしなどしたこともない娘が、社員寮でひとりやっていけるのか。

心配そうに荷物をまとめてくれた父の姿。

それでも最後には「頑張れ」と背中を押してくれた温かな手の感触。


思考がぐるぐると回り、現実と過去が交錯する。

憧れの場所で輝くはずだった自分。

そして今、その夢の象徴である空間で押し潰されそうになっている自分。


胸の奥に湧き上がるのは、恐怖と悔しさと、どうしようもない孤独感だった。


ゆりの中でなにかが静かに折れた。


そして、そこから先の記憶は、はっきりしない。

音も、距離も、時間も、正確には思い出せない。


ただ——


「拒否が成立しない場所にいた」


その認識だけが、深く残った。


羞恥も痛みも、混乱も、だんだん遠のき、境界線がぼやけていく。


息を吸おうとするほど胸がざわつき、空気の薄い夢の中にいるようだった。


意識の奥で、何かがゆっくりと沈んでいった。




──────。





しばらくの間、密室を満たしたのは呼吸音だけだった。


やがて、蓮と司は無言のままワイングラスを取り、赤い液体を喉へ流し込む。


ゆりはの視線は焦点を失い、何も映してはいない。


気づけば、蓮と司の姿はすでに元の威厳を取り戻している。

先ほどまでの影はどこにもなく、ただ完璧な“上層の人間”の姿だけがそこにあった。


放心のままのゆりの前に、真新しいコスチュームが差し出された。

糊の効いたシャツとスカートは、まるでクリーニングから戻ったばかりのように整っている。


最初から計画されていた。


その事実が頭をよぎった瞬間、何とも言えない怒りと屈辱が胸を満たした。


「………………」


声は出なかった。

無言のまま制服を受け取り、震える指で袖を通す。

髪を結い直し、鏡に映った自分の姿を確認する。

制服に身を包むと、皮肉なことに少しずつ仕事の顔が戻り、呼吸が落ち着いていくのを感じた。


「すぐにこれを」


司が鞄から箱を取り出し、目の前に置いた。


箱に書かれている文字に、呼吸が詰まる。

だが、蓮が何も言わず呼び出しボタンを押した。


「はい、お呼びで」


「水を」


「承知しました」


スタッフが足早に水を持ってくるまでの一連の流れは、あまりに慣れたものだった。


何かと用意周到で、腑が煮えくり返りそうになる。

ここは、そういう場所なのだと嫌でも悟らされる。


「お待たせいたしました」


差し出されたグラスの冷たい水。

ゆりは箱から一つ取り出し、半ばやけになって口に放り込む。

水で無理やり流し込み、喉を鳴らした。


その様子を蓮と司が確認すると、ふたりは鞄を手に取り、整った背筋のまま個室の扉へ向かう。


「……では現場で、また会おう」


扉が静かに閉じる音が響き、部屋に残されたゆりは、張りついた制服の袖を強く握りしめた。





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