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狂気の魔法  作者: 波方 真季


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第15話 告白


「……妻とは、3年前に結婚をしました」



煌びやかなシャンデリアがきらめく高級ホテルのレストラン。

柔らかなピアノの音が流れる中、白いテーブルクロスの上には色鮮やかなコース料理が並んでいる。


司とゆりは、表向きはいつものように、差し障りのない会話を交わしながら食事をしていた。

だがその静かな空気を切り裂くように、司の低い声は落とされると、フォークを持つゆりの指先が、一瞬ピクリと震えた。


「……隠していたんですか」


ゆりは顔を伏せたりままで、冷静な声で問い返す。


「隠すつもりは無かった。ただ……自分から言う必要が無いと思っていた」


まるで事務的に告げるような司の口調。

ゆりはその言葉を咀嚼するように沈黙した。


必要が無い、とはどういう意味か。


彼にとって私は“ただの相手”だから、自分のプライベートなど知らせる必要は無い。

そんな風に聞こえた。

ワイングラスに揺れる赤が視界の端で煌めく。

ゆりは俯きかけた目をゆっくり上げた。


今回、ようやくすべてが繋がった。

蓮とは違って、司は決して自宅に自分を招かない。

職場から共に退勤することもなく、いつもホテルか、どこか人目から遠ざけた空間ばかり。


なるほど、それには理由があったのだ。


胸の奥に、冷たいものと熱いものが同時に流れ込む。

真実を知った安堵と、裏切られたような痛み。

そのふたつが絡み合い、ゆりの表情は複雑に揺れていた。


「……家同士の事情で出た縁談。妻には当時から恋人が居て、私との結婚に酷く抵抗を示していました。当然、私自身も彼女に気持ちはありませんでした」


司は、ワイングラスの縁を指先でなぞる。

その仕草は穏やかに見えて、どこか己の感情を誤魔化すようでもあった。


「桐生家は代々、政治家や外交官を輩出してきました。父は外交官で、親族の中には現役の国会議員や大使館関係者もいる。結婚は“縁”というより“契約”。それは決められた伝統であり、桐生家はそうやって、人脈と影響力を広げてきた一族です」


ゆりは息を飲み、黙って耳を傾ける。

テーブルに反射するシャンデリアの光が、赤ワインの液面に揺れていた。


「妻の家もまた、海外事業を展開する企業一族。双方にとって都合が良かった。つまり“ビジネス婚”です」


そこまで言って、司は一度、目を伏せた。

声は冷静そのもの。だが、瞳の奥に沈んだ影が、淡々とした言葉を裏切っていた。


「……私はロンドン本社の人間として契約交渉を担う立場。桐生家の国際的な人脈は、私にとっても大きな後ろ盾になり得る。…本社からも桐生家からも、望まれた結婚でした」


沈黙の中で、ゆりの胸に奇妙なざわめきが広がっていく。

それは同情にも似ていたが、同時に彼が隠してきた現実との距離を突きつけられるようでもあった。

司は、ゆりの瞳を真正面から捉え、言葉を継いだ。


「避けられない運命に、妻が提案してきたのは、お互いに別のパートナーを容認すること。表では夫婦を演じ、裏ではそれぞれ別の人生を歩む。そういう契約です。」


その瞬間、ゆりの脳裏に過ったのは、応接室で初めて見た彼の妻。

美しい高身長の女の冷たい笑みだった。

胸の奥に、得体の知れない感情がじわりと滲み広がっていった。


別次元の人だ。


わかってはいたが、ゆりは改めて実感した。

こんなにも悲しいことを、まるで呼吸をするかのように淡々と口にする。

政略、契約、容認された不誠実。

彼にとってそれは“現実”であって、悩む余地すら与えられない宿命なのだろう。


私のような庶民とは、やっぱり感覚が違う。


そう思うのに。

胸の奥では、じわじわと熱が灯っていた。

哀しみなのか、憐れみなのか、それとも別の感情なのか。

自分でも正体がつかめない。


「…………部屋に、上がりませんか?」


気づけば、唇が先に動いていた。

心に浮かんだ理屈よりも、身体が欲した。

彼の冷静な瞳を、もう少し近くで確かめたかった。


「行きましょう」


司は、迷いなく頷いた。

それだけで、ゆりの胸は大きく脈打つ。

そして、ゆりは静かに立ち上がると、一歩、司の前に進み出ると、自らの手を司へ伸ばす。

差し出された大きな手と触れ合った瞬間、その指を絡め、ぎゅっと恋人つなぎに結んだ。

歩き出すと、ゆりは迷わず司の腕に自分の両腕を絡めた。

ぴたりと身体を寄せ、頭をその肩へもたせかける。

視線は前に向けたままなのに、心はもう、彼の体温を確かめることに夢中だった。

まるで部屋に辿り着くのを待ちきれないかのように。

今すぐにでもこの距離を埋めたくて、焦燥に駆られるように、ゆりは絡めた腕ををぎゅっと離さず、司の存在を確かめ続けた。






蓮の家。

仕事を終え、数日に渡った本家での用事も終えて、蓮は数日ぶりにプライベートマンションへ。


シャワーで汗を流し終えた後、バスローブ姿のままソファに腰を沈める。

グラスに注いだシャンパンの泡が、静かな部屋にかすかな音を立てて弾けていた。

リモコンを手に取り、無意識に映画アプリを開こうとしたその瞬間──


(アークスタジオがいい!)


脳裏に甦ったのは、隣で無邪気に声を弾ませていたゆりの姿。

このソファにちょこんと座り、目を輝かせながら画面を操作していた光景。

気づけば口元が緩みかけて、すぐにシャンパンを一口含んで誤魔化した。


マンションに帰る夜、ここにゆりがいないのは久しぶりだ。

以前は当たり前だった一人きりの時間が、今は妙に空っぽに思える。


「……あいつ、体調どうかな」


今日は“体調が悪いから”と断られていた。

電話…くらいなら、いいだろうか。

声だけでも聞ければ安心できる。

もし辛そうなら、その時はすぐに切ればいい。


蓮は迷うようにシャンパンのグラスをテーブルに置くと、スマホを手に取った。

画面に映る通話ボタンの光が、なぜか心臓の鼓動を速めていく。






スイートルームの大きな窓。

夜景の光がガラス越しに揺れ、二人を淡く照らしていた。


シャワーの余熱がまだ残るゆりの肩へ、司がそっと腕を回す。

互いに触れた場所から、抑えてきた想いがぶわっと染み込んでくるようで──

その背中にしっかりと腕を回し、互いを引き寄せるようにして強く抱きしめ合った。

吐息と吐息が重なり、求め合うように深い熱を帯びた口づけが繰り返されていく。


ほんの一瞬、呼吸すら奪われた。


──ブーッブーッブーッ


その静かな熱を破るように、テーブルの脇に置かれた鞄の中でスマホが震えた。

司は眉をわずかに寄せ、唇を離すと静かに言葉を落とす。


「……いいですよ。一旦」


ゆりはハッとしたように瞬きをして、小さく呟く。


「ごめんなさいっ」


慌てて鞄に手を伸ばし、取り出したスマホを握る。

画面には、見慣れた名前。


──蓮。


バイブは止まらず鳴り響いている。

胸の奥がざわめく。


だが、ゆりは一瞬迷った末に、サイドボタンを押して音を消し、そのままテーブルにスマホを置いた。

何事もなかったかのように。

逃げるように。

そして、再び司へと求めて腕を伸ばした。

強く抱きつき、熱を取り戻すように彼の唇へ顔を近づける。


「……電話、大丈夫ですか?」


「うん、大丈夫」


短く答える声に、ゆりは小さく首を振った。

そんなことより、今は司が欲しい。

胸の奥でそう呟き、言葉ごと塞ぐように司の唇を奪った。


互いへ想いのまま触れ合うちに、全身の熱はさらに高まり、二人の呼吸は激しく荒くなっていく。

司はもう抑えきれない。

窓際からソファへと、ゆりを導きながら深くキスを重ねた。


ソファの傍らで、ゆりが一転する。


主導権が入れ替わるように、お互いを夢中で求め合いながら、空気は一気に熱を帯びた。

ふたりの荒い息づかいだけが、静かな部屋の中でやけに大きく響いた、その瞬間。


──ブーッブーッブーッ。


無粋な振動が割り込む。

ソファすぐ横のテーブルで、ディスプレイが仰向けに置かれたスマホが震えていた。


二人は思わず反射的に唇を離し、その画面へと目を向ける。


そこに表示されたのは──


「鳳条 蓮」


一瞬で空気が変わった。

司の瞳がわずかに細まる。

脳裏に浮かぶ、昼間の光景。

廊下で見た、黄色いサンダークラウドのスマホケース。

そして、ゆりの声で想像した「蓮に似てる」という言葉。


──やっぱりか。


胸の奥に黒い炎が灯る。

嫉妬、確信、そしてどうしようもない執着。

目の前の女は、蓮と繋がっている。

わかってはいたはずなのに、改めて突きつけられたその現実に、司の胸はざわめきと苛立ちで煮え立っていった。


まずいっ!

見られた!


ゆりの心臓が跳ねた。

慌ててテーブルに置かれたスマホへ手を伸ばす。

だが、その先に伸びたのは彼女の指よりも早く、司の手だった。


バッと鋭い音を立ててスマホを掴み上げる司。

そのまま迷いのない動きで画面をスライドさせ、通話を繋げて落ち着き払った声で言い放った。


「蓮。彼女は今日非番だ。自由に過ごさせてやれ」


低く、挑発の色を滲ませた声音。


《…………司……?》


スマホ越しに音漏れが響いたのは、聞き慣れた蓮の声だった。

その瞬間、空気が凍りつく。

まるで部屋全体が張り詰めた弦になったような緊張感。

ゆりは弾かれたように飛びつき、司の手からスマホを奪い取ると強引に通話を切る。

胸は激しく波打ち、耳の奥で自分の鼓動が鳴り響いて、脳裏には


どうしよう

言い訳しなきゃ

すぐに掛け直す?

でもなんて言う?


焦燥の声が渦を巻く。

そんな彼女の葛藤を見透かすように、司の声が落ちた。


「蓮と、会い続けているんですね」


その声音には確信と皮肉が滲み、口元には勝ち誇ったような歪な笑み。

まるで人の弱みを握ったときの、あのいやらしい顔。


カチリ、と心の奥で何かが弾けた。


ガッ──


「お前、なにやってんだよ?」


怒声とともに、ゆりの両手が司の胸元を掴み上げた。

白い指が食い込み、襟元を乱暴に引き寄せる。


「だから何だよ?そーだっつってんだろ」


鬼のような形相で睨みつける瞳は、炎のように揺らめいていた。


「嫉妬して余計なことして、本気で後悔させられてぇのか?てめぇ」


締め上げられる襟。

司の顔は瞬く間に赤く火照り、胸がきゅんと締め付けられて言葉を失う程。

やがて、ゆりは冷静さを取り戻したかのようにパッと手を離した。


恐怖と、同時に昂ぶりすら覚えるその感覚。

司は荒い呼吸の合間に、笑みとも嗚咽ともつかぬ声を漏らした。


「あっ!そーだ、司にいーものがあるの♡」


唐突な声音。

ほんの少し前まで窓際で、少女のように可愛らしく、夢中でキスを重ねていたゆりの姿が嘘のように、今司の前にいるのは、悪意と愉悦をその身に纏い、苦しげに咳き込む司を見下ろしながら、妖艶に口角を吊り上げる、


そして、バッグの中に手を差し入れる。

ゆっくりと、わざと焦らすように取り出されたそれに、司の喉がゴクリと鳴る。


「……っ!!!」


光沢を帯びたレザーの先端が、空気を切り裂くように視界へ滑り込んだ。


棒の先に逆三角形の平たい革。


黒々としたその存在感は、部屋の空気を一瞬で塗り替える。

それを手にしたゆりの表情は、もう先ほどまで抱きしめ合った愛らしい女ではなかった。


「……悪い子な司には…ちゃんと反省してもらわないとね…♡」


革の先端にそっと触れた唇は、どこか挑発的に微笑んだ。

それだけで司の呼吸は乱れ、心臓が一気に爆ぜた。



──── 。



足を床に下ろしてベッドに腰掛ける司。

腕を司の肩に回し、もう片方の手には先端に革のパドルのついたロッドを手にしていた。


「……奥さんとは……?」


唇が触れ合う距離で囁かれた問い。

ゆりの問いかけは、ただの言葉ではなかった。

司の弱点を正確に握った者だけが放てる、鋭い一刺し。


「……ありませんっ…一度も……」


喉の奥から、掠れた声が絞り出された。


「へぇー…そうなんだぁ」


ゆりは司の耳元へ顔を寄せて囁くと、その距離の近さだけで、司の思考はかき乱された。


「……“司は”、私とだけ…なんだね?」


あえて「司は」と強調して告げられる。

それは他の男、蓮の存在をわざとらしく意識させるような、残酷な挑発。


「……っ!」


胸の奥に燃え上がる嫉妬と快感。

その狭間で、司の瞳は熱を孕み、狂気すら帯びはじめていた。

脳裏に、刹那の幻が映る。

蓮がゆりを抱きしめ、熱を交わす光景。

ありえない。

許せない。

その想像だけで、司は拳を固く握り、関節が白く浮き出るほどに力を込めていた。


精神には嫉妬という鋭いナイフを突き立てられながら、仕草は反して優しくチグハグに翻弄される。

その矛盾が、たまらなく麻薬のように心を侵食していく。


「……司。私の…可愛い司……」


耳元に甘い声を絡ませながら、ゆりはパドル型の革を司の肩へ優しく滑らせた。

先端を小刻みに動かして、ゆっくりと上下する。


「これはね…司を想って探したの…」


吐息混じりの囁きに、司の心拍は跳ね上がる。


「司を想像して…司のことを考えて……数日間…ずーっと司を思い浮かべて選んだんだよ……」


───甘すぎる。


鋭く突き刺さる嫉妬の痛みに続けざま、容赦なく降り注ぐ飴のような慈愛の言葉。

その両極端を交互に浴びせられる感覚は、精神の奥底から甘くも鋭い刺激がズブズブと染み込んでいき、崩壊させられるほどの快楽だった。

甘さと冷たさ。

相反するものを同時に与えられる心地よさに、司の理性はどんどん溶かされていった。


あのプリンセスに涙していた、あまりにも清純な彼女が。

自分の事を考えながら、そんなものを選んでいたなんて。

考えるだけで、頭がおかしくなりそうなほど堪らない。


「……私に愛されてるでしょ?司は…あんな女と違って…」


甘く、けれど毒を含んだ言葉がゆりの口から零れる。

その声音には、まるで“妻”という存在を妬むような響きすらあった。

ズシンと胸の奥から、甘い感情が溶け出していく。


もう、ゆりは癒しそのものだ。

最高に、最高に良い女だ。

彼女のためなら何もかも、全てを捧げたい。


愛しさがあまりにも強く溢れて、司は耐え切れず彼女に口づけた。

熱が噴き出すように、強く、深く。

ゆりはその熱を受け止めながらぐっと距離を奪った。

後ろへ背を沈める司。

ゆりは唇を離すとゆっくりと上体を起こす。

見下ろすその顔は、先ほどの柔らかな微笑みではない。

一片の感情も見せず、ただ冷たく、無表情に、静かに吐き捨てる。


「……あの女、私のこと“小娘”って言った」


ぞくり、と背筋が震える。

ゆりの声は怒りに揺れているのに、涙ぐむでもなく、あまりにも静かで。

その姿は逆に恐ろしく、同時に愛しくてたまらなかった。


「………ゆりさんは小娘なんかじゃありません…」


司の口から自然とこぼれるのは、甘やかすような響き。

それは慰めというより、盲目的な信仰にも似ていた。

だがゆりの唇は、すぐに冷たい弧を描いた。


「……でもさぁ……司」


その声音は低く甘い。


「私に、“下がれ”って言ったよね?」


「……っ!」


ビシィッ──!


空気を裂くような鋭い音が走った。



「あぁっ……!」


思わず声が漏れる。

先ほどまでの甘やかな空気は一転。

そこにあるのは支配と罰の時間。

見下ろすゆりの顔には、もう慈しみはなかった。

愛しい嫉妬心と、冷酷な眼差し。

そのギャップに、司の心臓は破裂しそうなほど高鳴った。


「……“この私と話をする時間より、嫁の方がそんなに大切ですか?”」


ビシィッ──!


「はぁっ……!」


(“この私と話をする時間より、そんなに現場が大切ですか?” ──)


脳裏に蘇る記憶。

あの日、大会議室で初めて二人きりになった時。

無意識の傲慢さで、自分がゆりに浴びせてしまったあの一言。

まるで鏡写しのように、ゆりは同じ言葉を選び、突き返してきた。

罰の言葉と衝撃が一体となり、司の心臓は激しく脈打つ。


「司がこの私を追い出して…あの女に馬鹿にされた!!」


ビシッ──!


「っあぁぁ…!…すみません…っゆりさん…っ!」


痺れるような恐怖。

だが同時に、羞恥と屈辱が脳を痺れさせる。


「……司、来て」


ベッドの上。

ゆりはゆったりと背を預けた。


「償いとして誠意を見せてよ」


悪女の笑みを浮かべながら吐き出された冷たい命令。

その瞬間、司の視界は鮮烈に赤く染まった。


「あぁっ…はぁ、はぁっ…ゆりさんっ!!」




──────── 。




欲望に突き動かされ、ゆりは無我夢中になる。

それは相手を顧みない、わがままで、自分勝手で、純粋な胸の奥でどうしようもなく膨れ上がった感情に正直な衝動だった。


蓮との夜ではこんな勝手は決して得られない。

司とだからこそ掴み取れる。


「……ゆりさんっ…!もう無理です……耐えられませんっ…!!」


必死に懇願する声。

その奥にあるのは、ゆりに飲み込まれることへの甘い恐れ。


もっと続けば自分がどうなってしまうかわからない。

けれど同時に、終わってほしくない。

そんな矛盾した揺らぎが混ざりあった声。


ゆりはその震えを、逃がさないように抱き寄せた。


「……やーだよ♡」


囁くような甘い声と、無邪気に見せかけた残酷な笑み。



──────── 。



司は全身を震わせた。

ゆりの感情の奔流に翻弄され、逃げ場を許されぬまま。


屈辱。背徳。悲壮。


心を削るはずのその感情が、なぜか全身を痺れさせるほどの高揚に変換されていく。

もはや自分でも理解できない。

だが確かに、ゆりに心を握られ、支配されることこそが最高に甘美だった。


「……はぁー……はぁー……はぁー……」


荒い呼吸を落ち着けたかと思うと、司はすぐにゆりへ身を寄せ、縋るように唇を重ねてきた。

必死に、まるで子犬のように擦り寄り、何度も唇を重ねながら震える声を漏らす。


「……ゆりさん…私は、知られたくなかったんです…きっと焦って…咄嗟に追い出してしまっただけです…許してください……」


その声音は切実で、どこか幼さすら漂わせていた。

権力の象徴のような男が、今はただ一人の女に縋り、必死に許しを乞う。

ゆりはそんな司を抱き寄せ、優しく頭を撫でた。

その仕草に冷酷さではなく、慈愛にも似た甘さがあった。


「……私も知られたくなかったよ…蓮のこと……」


互いの痛みを舐め合うように重ねられるキス。

許し合うように、温もりを確かめるように、柔らかく続いた。


地獄のような底なし沼。

甘さと苦さが交互に押し寄せるこの関係は、もはや抗えぬ依存へと変わっていた。


やがて司はゆりから身体を離し、ベッドの上で膝をつき、跪いた。

大きな体を小さく折り畳み、瞳を潤ませながら。


「……私の全てはゆりさんだけのものです…心も、身体も……人生さえも……どうか、ゆりさんだけに……」


声は震え、その必死さは、胸を抉るほど真実味を帯びていた。


「……ゆりさん…私だけの…王女様でいて欲しいです……どうか……お願いします…」


嗚咽まじりに懇願する姿に、ゆりは妖しく微笑んだ。

権力者とは思えぬ惨めな姿。


滑稽過ぎる。


「……司……私はもちろん、司だけの王女様だよ」


ゆりは堪らぬ優越感を含んだ笑みでそう告げると、司をそっと抱きしめる。

上目遣いに熱を帯びた顔で妖艶に司の視線を熱く射抜いた。


アーク映画作品の題材のひとつ、童話「ハーメルンの笛」。


村へ尽くしたハーメルンは、その誠意を踏み躙られた復讐に駆られ、笛の音色で子供達を二度とは戻れない場所へと攫っていく。


その美しい旋律はどんな生物も催眠状態へと導いて、幸せに包まれた虚な笑顔で、疑いもせずに笛に連れられ歩き出す。



「ね……もう一回続けよ?司♡」



彼の心に甘い音色を落とす。

気づかれぬように、優しく、深く。


抗えない旋律を纏わせて、永遠に抜け出せない奈落の地まで連れていく——。



司は私の奴隷。



彼女の復讐の笛は、まだ鳴り止まない。





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