第13話 奥様
いつの間にか季節はすっかり本格的な夏へと突入しようとしていた。
朝の陽射しは既に鋭く、ユニフォーム管理棟の窓から差し込む光は制服の白い生地を淡く透かして見せるほどだ。
ゆりはそこで手早く着替えを済ませると、髪をまとめ、帽子を整えた。
一息ついて、現場スタッフエリア側にあるフード部のオフィスへと足を踏み入れる。
「おはよう早瀬さん!」
明るい声に振り返り、笑顔を作って会釈する。
「おはようございます!」
だが、返ってきた上司の表情はどこか曇っていた。
いつもの朝礼前の雑談ではなく、すぐに本題を切り出す。
「…出勤してもらってすぐで悪いんだけど、さっき本部から連絡が入って。早瀬さんが出勤したら、そのまま本部ビルの応接室に来るようにってさ」
「え?は…い。かしこまりました」
一瞬、言葉が喉に詰まる。
予定外の指示に困惑しながらも、反射的に頭を下げるしかなかった。
「現場の方はこっちで回しておくから、すぐに行ってきて!」
「……はい」
背筋を伸ばし直し、静かにオフィスを後にする。
だが心の奥はざわめきで落ち着かない。
(…なんだろう。私、何かやらかしちゃったかな…それとも……)
従業員敷地内のバス停に向かいながら頭の中をよぎったのはメガネを掛けた一人の男の顔。
またくだらない理由で業務中に呼び出してたら、今度こそ絶対に許さんっ!
思わず眉根を寄せ、真面目な社員の瞳に、静かに炎を灯して一人ファイティングポーズを取るゆりだった。
「早瀬です」
応接室の重厚な扉をコンコンと叩き、名を告げる。
すぐに、聞き覚えのある低い声が返ってきた。
「どうぞ」
ゆりが扉を開けると、デスクに座る司の姿。
きちんとスーツを纏い、姿勢は正しく、冷徹な執務モードの眼差しを浮かべている。
だが、その瞳がゆりを捉えた瞬間、氷の仮面が一瞬で崩れ、頬が柔らかくほころんだ。
「お忙しい中、すみません」
「えぇ、本当に」
穏やかな声音に、腹部の前で両手を重ね、背筋を伸ばしたゆりは、凛とした表情のまま無機質に応じる。
社交辞令のように淡々と告げるその態度は、司がいくら笑顔を向けても揺るがない。
やっぱりこいつか。
今度は一体何の用だ。
心の奥で吐き捨てるように思う。
ゆりのそんな態度に、司はふっと笑みをこぼし、右手を軽く動かした。
「…フッ……お掛けください」
応接用の革張りのソファを、手のひらで示す。
その仕草は、あくまで上司としてのもの。
ゆりは鼻から小さくフンとため息を吐くと、そのまま背筋を正してソファに腰を下ろした。
両手は下腹部の前できちんと重ね、ホテルマンがお辞儀をする時のように、動きひとつに乱れのない所作で揃えている。
その整った仕草には、警戒と緊張が滲んでいた。視線は鋭く、眉間にはうっすらとシワ。
いつ、司からのセクハラがまた降ってくるか。
そんな警戒心を隠すことなく、ゆりの全身は張り詰めていた。
対照的に、司はまるで別人のように柔らかな表情を浮かべている。
デスクに広げていた資料を几帳面に揃え、立ち上がると、ゆりの正面、応接ソファの対面にゆっくり腰を下ろした。
そして、手にしていた資料をテーブルの上に置き、落ち着いた声で切り出す。
「ストーリーテイルパーク・アメリカで人気のキャラクターレストランを、日本にも導入する話が進んでいます」
「キャラクター…レストラン?」
パッと、ゆりの鋭い表情が一瞬にして弾け飛ぶ。
キャラクターと直接触れ合いながら食事を楽しめる、夢のような空間。
司がテーブルに広げた資料へ、ゆりは思わず身を乗り出し、目を輝かせた。
「ドリームガーデンエリアですか……ん?ここ、《メルヘンダイニング》?」
「さすがです。メルヘンダイニングは来春いっぱいでリニューアルに入り、キャラクターレストランとして新装オープン予定です。」
「えっ!?えぇーっ!?…レストランのキャラってちなみにっ!?」
興奮気味に問い詰めてくるゆりを上目遣いに見て、司の口角は上がった。
「プリンセスですよ、ゆりさん。」
「キャーーーーッッッッ!!!!」
ゆりは両手で顔を覆い、堪えきれない喜びの声を上げる。
いつもの警戒心は消え失せ、子供のように純粋な歓喜を露わにするゆりのその姿に、司はつい公私の境界を忘れてプライベートな呼び方で彼女を呼んでしまっていた。
だが、目の前で夢中になって叫ぶゆりには、そんなことに気づく余裕などなかった。
パレードでプリンセスに気づいてもらいたくて、必死に大きな声で名前を呼んだ。
こっちを向いて笑って欲しくて、ファンサをもらいたくて、プリンセスキャラクターのカチューシャをつけ、ドレスに似たファッションで全力でアピールした。
パレードやショーが急に中止になった時には、胸が張り裂けそうになりながらそれでも諦めきれず、パーク中を駆け回ってプリンセスを探した。
そんなゆりにとって、「会いたい時に、会える場所で、いつでもプリンセスに触れ合える」という未来は、まるで夢が現実になったような奇跡だった。
「……っ」
喜びがあまりに大きすぎて、胸の奥から自然に涙が溢れた。
「……っ!?」
司は思わず息を呑んだ。
プリンセスが好きだと、以前にレストランで彼女が語った時の熱量から、この情報が喜びになることは予想していた。
だが涙まで流すほどだとは思っていなかった。
どうして泣いた?
なぜこのタイミングで?
俺はどうしたらいいんだ?
アタフタと心の内で混乱する司に、ゆりは涙を拭い、ぱっと花のように笑顔を咲かせた。
「嬉しいですっ!!夢みたい!!本当に嬉しいっっ!!」
その、とびきりの笑顔に。
司は一瞬呆然としたまま見とれる。
そして、思わず小さく呟いた。
「……やっぱり…適任はあなたしかいない」
真剣な声音。
冗談や気まぐれではない、確固とした意志を宿す言葉だった。
そして強い瞳でゆりを真っ直ぐに見据え、続ける。
「この企画プロジェクトの担当者としてフード部から、あなたを任命したい」
「…え?わ、私……?」
耳を疑った。
思わず声が震え、息を呑む。
「会議で名前が挙がった。他にも候補のSVはいたが、あなたほどパークやお客様に誠実で、そしてアークへの情熱が高い従業員は他にはいない」
(…司が私を…信じて任せたい…?)
胸の奥が、じんわりと熱を帯びていく。
スタッフや日本のパークを軽んじ、見下すような態度だった彼が今、パークやスタッフやアークへの誠実さ、情熱の大切さを認め、その力をプロジェクトに生かしたいと求めてくれている。
信じられないほどの変化だった。
あの司が、そんな意思を持ってくれた事が嬉しかった。
「嬉しいです、桐生さんっ!ありがとうございます!全力で、頑張ります!」
ぱぁっと咲くような笑顔で答えるゆり。
その笑顔に、司の視線は抗えぬほど吸い寄せられる。
熱を帯びた瞳の奥に職務を超えた何かが灯り、司の胸はじんわりと温かさで満たされた。
気づけば、司は甘やかな空気を自ら作り出していた。
ソファの背もたれに預けていた背中をゆっくりと起こし、重厚なテーブルに肘をつく。
触れたい。
そして右手を静かに伸ばし、握手を求めてゆりに差し出した。
「これからは休日だけではなく、業務でもお会いできる機会が増えそうですね。僕も、嬉しいです」
ゆりは嬉しそうに小さく笑って照れたように司の手を取った。
「フッ…業務中はお控え下さいよ?」
軽口を返しながらも、ほんのり頬を赤らめるゆり。
その指先はしっとり柔らかく、彼女の掌の温もりがじんわり伝わり、ゆりの手を包む司の掌が一層熱を帯びていく。
「……これくらいなら、いいですか?」
囁くように言うと、司はゆりの手をそっと持ち上げ、その甲に静かに唇を触れさせキスを落とした。
「……イギリスでは、挨拶ですから」
視線を絡めたまま、うっとりと見上げる司。
ゆりもまた、熱を帯びた瞳で見下ろしていた。
応接室に漂うのは、職務では説明のつかない甘い気配。
二人の胸を同時に強く締めつけていくその瞬間。
コンコン。
「失礼いたします、桐生様。ご来客が──」
重い扉越しに響く声が、その熱を帯びた空気を断ち切った。
扉の外からはセキュリティの声。
「後にしろ!取り込み中だと伝えろ!」
邪魔をされた苛立ちを隠さず、司は鋭く言葉を被せた。
ゆりと過ごすこの数分を奪われたくない。
その一心で、冷たく言い放った。
だが、わずかに間を置いて、再びノックの音が鳴る。
コンコン
「なんだ!!」
声を荒げる司。
外の空気がわずかに揺らぎ、セキュリティの声は怯えたように続いた。
「も、申し訳ありませんっ……あの、至急の接見をご希望とのことで……」
至急?この俺の指示を退けるなど、そんな不届き者が存在するなどありえない。
司の眉間に深い皺が寄る。
「あぁ?誰だその身の程知らずは!」
声が応接室に響き渡る。
一瞬、廊下の向こうで押し黙る気配。
続く声は、途切れ途切れに震えていた。
司が今、目の前の女性に熱を上げていることなど当然セキュリティは百も承知だ。
だからこそ、この来訪者を告げるのは命懸けに等しい。
セキュリティの喉がゴクリと鳴る音すら聞こえそうな沈黙のあと、ようやくモゴモゴとした声が落とされた。
「……いや…あの………お…奥様が…ご来訪です……」
声が応接室に響き渡る。
「──っっっ!!」
刹那、司の表情が固まる。
呼吸さえ忘れるように、血の気が引いたその横顔。
ゆりは見逃さなかった。
ほんの数秒前まで自分に向けられていた甘い視線が、まるで氷に閉ざされるように凍り付くのを。
眉間に刻まれた深い皺、普段の冷徹さとは違う、追い詰められたような表情。
「は…?奥様…?」
思わず口にしたゆりの問いかけに、司は返答する間もなく──
ガチャ。
扉は司の許可を待たず、強引に開かれた。
「さっさと開けなさいよ。ゴタゴタ言ってないで」
鋭く突き刺す声と共に現れたのは、長くカールした栗色の髪を揺らす、すらりとした高身長の女性。
一歩足を踏み入れただけで、空気が支配される。
圧倒的な美貌とオーラに、ゆりは思わず息を呑んだ。
「……下がりなさい…っ早瀬さん」
司が苦虫を噛み潰したような声で低く言う。
「…あ、失礼します!」
即座にゆりはペコッと司に頭を下げ、美女が立つ応接室入り口へと足早に向かう。
「へぇーー」
艶やかな唇から、わざとらしく感嘆の声が漏れて、
咄嗟にピタリとゆりの足が止まる。
「司がもの凄い剣幕で取り込み中だなんて喚いてるからどんな政治家かハリウッド俳優でも来てるのかと思ったら…」
振り返ると、入り口の壁にもたれ掛かっていた高身長の美女が、氷のような笑みを浮かべながらゆりに近づいてくる。
ヒールの音が、応接室に緊張を刻んだ。
すらりとした身体をわずかに折り曲げ、ゆりの瞳と同じ高さに視線を合わせる。
間近で放たれる、香水と冷たい視線の圧。
「まさか部屋からこんな高校生…どころか中学生みたいな小娘が出てくるなんて予想外。あんた、今の司の彼女?」
「……なっ!?」
突拍子もない言葉に、ゆりの顔が凍り付く。
美女は勝ち誇ったように目を細め、さらに畳みかける。
「今まで居なかったタイプじゃん。ロリ系?司の趣味こっち系に変わったの?」
そのままゆったりと腰を戻し、腕を組むと、冷え切った声で司に向き直った。
「行きなさい、早瀬さん」
司は妻の言葉に返事をせず、ただ険しい表情で「早く出ろ」と視線で促す。
ゆりは奥様に小さく会釈し、背筋を正すと、そのまま足早に応接室を後にした。
応接室。
ゆりが去った後、重苦しい沈黙が数秒間漂った。
やがて、その空気を破るように司が低く口を開いた。
「紗羅。わざわざ会社にまで来るとは…どういう風の吹き回しだ?」
ソファに腰掛けたままの紗羅は、すらりと組んだ脚を優雅に揺らし、冷めた声で答えた。
「あんたが最近全然連絡取れないし、至急伝えたい事があってついでに寄ったのよ」
司の眉間に皺が寄る。
「……なんだ?」
「今夜お婆様が自宅に来るって。今朝連絡があったの」
淡々と、けれど爆弾を落とすように紗羅は言い放った。
「……っ!?」
司の喉が鳴る。
「用件はわかるわよね?跡継ぎの件」
「……フン、しつこい婆さんだ」
無理に冷静を装って鼻で笑ったが、指先はソファの肘掛けを強く握りしめていた。
紗羅は氷のように冷徹な表情を浮かべると、さらに追い打ちを掛けた。
「結婚して3年。私たちが実際、蓋を空けたら子作りしてませんでした、なんて事実をあの人は夢にも思ってないだろうから、今夜は医者を連れてきて、あなたと私、両方を検査するらしいわよ」
「なっ…!?そんな急すぎるだろ!冗談じゃない!」
バンッ!!
紗羅の白い手のひらが、司の前の机に叩きつけられた。
鋭い音が応接室に響き渡り、司は思わず肩を震わせる。
「冗談じゃないのはこっちよ!!!」
紗羅は突然火がついたように喚きちらした。
「毎日毎日、祖父母からも両親からも“子供子供子供子供ってっ!!検査で問題がなければ人工授精、体外受精って言われて!!!頭おかしくなりそうだわっっっ!!!!」
「………………くっそ……!」
司は顔を歪め、また苦虫を噛み潰すように唇を噛んだ。
その拳は、膝の上で静かに震える。
つい先ほどまで、プリンセスに涙を浮かべるゆりの手に口づけを落とした、あの幸福な甘い時間とは雲泥の差。
いま応接室に広がるのは、逃げ場のない地獄の空気だった。
「……ねぇ、司……?」
机に手をついたまま、紗羅はゆっくりと身をかがめ、栗色の髪を耳に掛ける。
その仕草は一見穏やかでいて、吐き出す言葉は刃のように鋭い。
「……彼が言ったの。“腹ボテの私は抱きたくない”って…」
その一言に司の視線が鋭く跳ねる。
紗羅には、司と結婚する前から続いている恋人がいる。
彼女はゆっくりと司に近寄り、悪魔のように微笑んだ。
「私のスタイルが崩れるのは辛いって……」
吐息を混ぜ、悪魔のような台詞は耳元に囁く。
「……あの子に産ませてよ。桐生家の跡継ぎは」
「………………っ!!!!」
鼓膜を突き破るほどの衝撃。
全身の血が逆流するような怒りと困惑に、司は思わず立ち上がりかける。
「私はお婆様や両親の前で妊娠してるフリだけして、こっそりあの子が産んだらそれを貰って、その子をうちのシッターに育てさせましょう」
「……はっ…とんでもない女だな…」
声は低く、掠れて震えていた。
紗羅は一切怯むことなく、ヒールの音を響かせながら軽快に扉へと向かう。
「じゃ、考えておいてねっ司♡」
扉が閉じられ、応接室には重たい沈黙が落ちた。
「……………ゆりを腹ボテに…?」
乾いた笑いが喉から零れる。
その直後
バサッ!
司は堪え切れず、椅子に掛けてあったジャケットを紗羅が去っていった扉の方へ思い切り投げつけた。
革張りの扉に鈍い音が響く。
「冗談じゃない…っ!」
肩で荒く息をしながら、額に浮かぶ汗を拭おうともしない。
「……“腹ボテを抱きたくない”のは……こっちも同じだ……っ!!」
吐き出す言葉は、紗羅への嫌悪と、ゆりのへの狂おしいまでの欲望が混ざり合ったもの。
司の顔には、もはや理性の欠片もなく、ゆりの姿を思い浮かべながら歪みきった狂気的な表情が浮かんでいた。




