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狂気の魔法  作者: 波方 真季


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第10話 バニーズクラッシャー


ゴールデンウィークの怒涛の繁忙期を乗り越え、ようやく訪れた短い安息も束の間。

ついに今日、新アトラクション「バニーズクラッシャー」の完成披露式典が開かれる日を迎えた。


その巨大なゲートの前には、深紅のカーペットがまっすぐに敷かれ、陽光を浴びて艶やかに輝いている。


両脇には、国内外から詰めかけた報道陣のカメラがびっしりと並び、シャッター音とフラッシュが間断なく走るたびに光の洪水が広場を覆った。

照り返す光は、カーペットの上を歩く誰もをひときわ大きく、そして眩しく見せる。


最前列の来賓席には、スポンサー企業の重役たちがずらりと腰を下ろしていた。黒や紺のスーツに身を包んだ彼らの姿は、列をなして整然と並ぶことで一層の威圧感を放っている。


その隣にはアークグローバルエンターテイメントグループの役員陣。

国内外から集められた精鋭たちが並び、固い表情で舞台を見守っていた。


カーペットの奥に設えられた特設ステージでは、背後に聳える「バニーズクラッシャー」の巨大なゲートが鎮座している。鋼鉄を思わせる灰色のアーチには、ウサギの耳を模したシンボルがあしらわれ、来園者の視線を一心に集めていた。

その足元に立つ司会者の声はマイクを通して澄んだ音を響かせ、場内を引き締める。


《本日はご多忙の折、多数お集まりいただき誠にありがとうございます──》


アナウンスが流れるたびに、整然とした拍手が広場を満たす。

厳かさと華やかさが同居するその光景は、まさに“世界に向けた門出”を告げるセレモニーの舞台そのものだった。


ゆりはその華やかな光景の端、アトラクションそばに設けられたスナックワゴンに立っていた。

フード部社員として彼女が用意しているのは、新アトラクション「バニーズクラッシャー」にちなんだ限定メニュー「クラッシュポップコーン」。

砕いたナッツを香ばしくローストし、熱々のキャラメルでコーティングした新商品だ。


ワゴンの上には金色に輝くサンプルカップが並び、湯気と共に立ち上る甘い香りが周囲の空気に広がっていく。

通りすがりのスタッフやカメラマンが思わず視線を向けるほど、食欲をそそる芳香だった。


ゆりはスタッフたちに次々と指示を飛ばす。


「トレーは1度に2列で。見栄えを重視して、端は揃えてください」


「はい!」


報道陣へ提供するタイミングは、式典の進行と連動する。

壇上では次々と挨拶が続き、フラッシュの光が絶え間なく瞬いていたが、ゆりは常にステージへ視線を送り、進行状況を確認しながら段取りを整えていた。


壇上に並ぶ役員の列。

その中に隣合わせに立つのはCEOの蓮とロンドン本社幹部役員の司。


蓮が不意に視線を横へ流すと人混みの端に立つゆりを見つける。

嬉しそうに無邪気な笑みを浮かべ、わかる者にしかわからない小さな仕草で手を振った。


ゆりはそれに気づき、一瞬だけ蓮と目が合ったがすぐに小さく会釈をして、硬い表情のまま再びワゴンへ視線を戻す。

まるで「業務中ですので」と、無言で線を引くかのように。


だが蓮は、視線を逸らされてもなお目を離さなかった。

司の視界にも当然ゆりの姿は捉えられており、その蓮の異様な眼差しを、司は見逃さなかった。

冷徹な観察眼で隣に座る蓮の横顔を見据え、その視線の奥に潜むものを読み取る。

壇上でスピーチが進む中、二人の視線はまるで示し合わせたかのように、会場端で動くひとりの女性を追っていた。


「彼女は……先日の。」


司の声が、低く抑えられて蓮の耳に届く。


「作用です。現在も勤務していますよ。」


「彼女とは、その後も面識が?」


「えぇ、何度かお会いしました。」


蓮は一拍の間も置かずに答えた。

短く応じる蓮の横顔は変わらない。

何事もないふうを装いながら、その目だけはゆりを離さない。

二人の視線は、まるで磁石に引かれるように同じ一点に注がれ続けていた。


「それは……業務上ですか?」


司の言葉が鋭く差し込んだ瞬間、蓮の眉がわずかに動いた。

何を探ろうとしているのか。

問いの真意を測りかねて、蓮は思わず横目で司を窺う。

しかし次の瞬間、彼は薄く笑みを浮かべ、軽く肩をすくめて言葉をそらした。


「……珍しいですね、桐生統括。接待後の従業員にご興味が?らしくないですね。」


柔らかな声音の裏に潜ませたのは、焦燥と警戒。

ゆりは今までのどんな女よりも強烈に魅力的だ。

もし司の関心が本格的に傾けば、それで終わりだ。

だから蓮は、あえて「らしくない」と揺さぶり、いつもの冷徹な桐生司を思い出させようとしていた。


司との付き合いはもう十年近くなる。


学生の頃に父の傍らで経営を学んでいた下積み時代に、司はロンドンからの派遣幹部として日本に配属してきた。


わずか十六歳でイギリスの大学を卒業した司は、自分とはたった四歳しか違わないのに、若くして既に社会経験が豊富で権力も兼ね備え、当時は憧れの存在だった。


不思議と同じものが好きだった。

同じ映画に熱を上げ、同じ音楽を語り合い、好みの食べ物まで重なる。

まるで正反対の性格なのに。


ゆりが司に興味を持たれたら、厄介だ。




夜。

新アトラクション完成を祝うレセプションは、パーク内に併設されたホテルの壮麗な宴会場で幕を開けていた。


高い天井から下がる幾重ものシャンデリアが眩い光を放ち、金糸の入った厚手のカーテンが夜景を背に重々しく揺れている。

広間いっぱいに並んだ丸テーブルには、磨き抜かれたグラスと銀のトレイ、シャンパンボトルや色鮮やかなフィンガーフードが整然と並べられ、タキシードやイブニングドレスに身を包んだ招待客たちが華やかな談笑を繰り広げていた。


その喧騒の隅、メイン会場から少し離れたコーナーに、ひときわ賑わうブースがあった。

そこでは、新アトラクション「バニーズクラッシャー」にちなんだ限定スイーツが提供されている。


「バニーズキャロットケーキでございます。どうぞお試しくださいませ。」


スタッフが笑顔で差し出すプレートの背後では、ゆりが控えめに立ち、全体の進行を指揮していた。

スタッフ一人ひとりに目を配り、配膳や補充のタイミングを合図する姿は、華やかな会場の中で唯一、裏方としての緊張感をまとっている。

煌びやかな祝宴の片隅で、彼女は表舞台を支える“影の歯車”として黙々と役割を果たしていた。


場内の中央、シャンデリアの光を浴びながら、司は幾人かの重役たちと談笑していた。

グラスを傾け、時に笑いを交わしながらも、視界の端で、ゆりが会場を出ていく姿をとらえる。


胸の奥が微かににざわめいた。


「失礼、お手洗いへ。」


穏やかな笑みを崩さぬまま、目の前の重役達に一声かける。

相手が軽く頷いたのを確認すると、司はさりげなくグラスを置き、会場の外へと歩を進めた。


ゆりが向かった先は、表の華やかさとは打って変わり、裏方の騒がしさで溢れている。

スタッフが料理を運び、トレーの金属がぶつかる音、次の段取りを確認する声が飛び交う。

その喧噪の中で、遠くにゆりの後ろ姿を見つけると、司の歩幅は自然と早まった。


「早瀬さん」


「桐生さん…!」


声を掛けられ、ゆりが振り返る。

一瞬だけ驚いた瞳が揺れた。

司は人目を避けるように、顎を斜めにクイッと上げて“こっちへ”という合図を送る。

ゆりは戸惑いを隠せない表情を浮かべながらも、その指示に従い、足を向けた。

二人が入り込んだのは、厨房すぐ横にある控え室。

扉を閉めると、壁越しの金属音や料理人たちの掛け声が微かに響き続ける。

外の喧騒が嘘のように遠のいた小部屋には、緊張感と二人だけの静寂が満ちていた。


司は、扉が閉まった瞬間を逃さず、一歩距離を詰めた。

ゆりの逃げ道を塞ぐような近さに、彼女の肩が強張る。


「……お会いできて嬉しいです、ゆりさん。」


低く抑えた声が耳元に落ちてくる。

唐突な距離感に、ゆりは一瞬身体を固くするが、すぐに両手で司の胸を押し返した。


「桐生さん…っ業務中は…お控えください!」


必死に声を潜めながら突き放す。

その言葉には“業務中は”という条件が無意識に含まれており、その響きに、司の心臓が高鳴る。

つまり業務外であれば承諾されるというもの言いに、彼の胸を熱くさせた。


だが同時に、脳裏には先ほどの光景が蘇る。

壇上から蓮が笑みを浮かべ、わかりやすくゆりへ手を振ったあの場面。

あの視線の中にある意味を、見逃すほど司は鈍くはなかった。


「……蓮と、関係をお持ちですか。」


静かに放たれたその問いは、刃のように鋭く空気を裂いた。

ゆりは鼓動が跳ね上がる。

突如突きつけられた直球の言葉に、ゆりの胸が大きく脈打った。


なぜ、それを……。


単純に、さっき壇上で蓮に手を振られたからなのか。

それとも、蓮から何かを聞いたのか。

この男、何を知っている?

どこまで知っている?


疑念と不安が頭の中を暴れ回る。



「バニーズキャロットケーキ、追加お願いしまーす!」


ビクッ──。


厨房の方から飛んできたフード部スタッフの声。

厚い扉を隔てた控え室にまで届いたその響きに、ゆりの身体は反射的に震えた。

ここは現場だ。

私は業務中。

早く戻らなければ。


「……会場に戻らないと…失礼します。」


吐き出すように言葉を落とし、視線を逸らして部屋を出ようとする。

だが、その一歩を阻むように、司はゆりの進路に立った。

逃げ道を塞がれ、思わず足が止まる。


ゆりの、あからさまな動揺。

問いには答えず、ただ逃げようとする背中。


その姿を目にした瞬間、司の胸中でふつふつと沸き立つものがあった。

疑念は確信へと変わり、そしてそれは苛立ちと同時に、どうしようもない愛しさとなって競り上がってくる。


後退った拍子に、背中が壁に触れる。

司は距離を詰めたが、その圧は十分すぎた。

熱を帯びた吐息が頬をかすめ、ゆりは思わず顔を背ける。


「…きりゅ…っさん……んんっ…!」


くぐもった声が喉奥で潰れる。

必死に両腕で司の胸を押し返し、顔を目一杯背ける。

唇が離れた瞬間、ゆりは荒い息を整えながら、強い声音で言い放った。


「……っぷはっ!…職場ですよっ!!桐生さんっっっ!!!」


その声とともに、鋭く射抜くような視線。

怒りと戸惑いが入り混じった、張り詰めた瞳。

キッと睨まれる。

その強さに、常ならば怯むべきなのに、司の背筋を駆け上がったのは、むしろ耐えがたいほどのゾクゾクとした快感だった。


「みんなに迷惑かけちゃうので…離してください」


弱々しく、必死に職務を理由にして抗おうとするゆり。

その姿は確かに真面目で、スタッフとしての責任感に満ちていた。


だが司の脳裏に蘇るのは、あの夜、唇から放たれた残酷な台詞。


(土下座しなよ♡)


妖艶に笑いながら支配者として見下ろした、狂気すら帯びたゆりの眼差し。


「……あなたは本当に、どこまでも仕事に忠実で、誠実だ」


司は小さく息を吐きながら、ゆりの髪を撫でる。


しかし、胸の奥では違う衝動がうずいていた。



こんな弱い姿じゃない。

もっと、怒りを露わにして欲しい──



司は淡々と口を開きながらも、その瞳の奥には狂おしい欲望が渦巻いていた。

理性の線が危うく揺らぎ、抑え込んでいた何かが今にも溢れ出しそうな気配がある。


「あなた程の特別な人が…その他大勢の、所詮給仕係に走り回る仕事なんかに、今のこの時間を使うのは勿体ない」


挑発めいた声。

吐き出す言葉とは裏腹に、その視線は執着と支配の色を帯びていた。


「それよりもよっぽど」


不敵な笑みを浮かべ、視線を絡め取る。

その眼差しは、支配と欲望がないまぜになった、底知れぬ狂気に満ちていた。


「私を満足させる方が…あなたの仕事内容としての価値は高い!」


司の呼吸は荒く、焦燥にも似た熱がこもっていた。

冷たい壁の感触が頬に伝わり、ゆりは思わず身を強張らせた。


「……っやめて下さい!!こんなところで…っ何考えてるんですか!!」


必死の声は、司の耳には届かない。

彼はさらに、逃げ場を断つ距離で圧をかけてくる

その強引な体勢に、ゆりの背は恐怖で強張った。


壁の向こうからは、トレイのぶつかる音、グラスを運ぶスタッフの声。


「こちらのドリンク運んでくださーい!」


現場のざわめきが、すぐそこに生々しく届いてくる。

その現実が、逆にゆりをさらに追い詰めた。


「…ゆりさん!っ…大声出したら聞こえますよ…!」


司は耳元に低く囁き、逃げ道を塞ぐ距離は変わらないまま、もはや理性を欠いた危うさを孕んでいる。


その瞬間──。



バシンッッッ!!!



鋭い衝撃。

頬に焼き付く熱。


振り返りざまに繰り出されたゆりの手のひらの裏側が、司の頬を強烈に打ったのだ。


「…………っっ!!」



司の身体が一瞬止まり、頬に走った衝撃と熱に目を見開く。

あまりに突然のことに、司はただ呆然とした。

一瞬、自分の身に何が起きたのかすら理解できない。

目の前で怒りに燃えるゆりの瞳が、自分を真っ直ぐ射抜いて身なりを整えながら叫んだ。


「……いい加減にしろ!!この変態痴漢野郎!!!」



バンッ!!


勢いよく扉が開かれる音。

その怒声と共に、ゆりは嵐のように部屋を飛び出していった。


「………………」


残された司は、その場に立ち尽くす。

頬に残る鋭い痛み。

誰かに叩かれるなど、この人生でただの一度もなかった。

いや、あるはずがなかった。

衝撃的な事実に、頭の中は真っ白に塗り潰される。



バシンッッッ!!


(…いい加減にしろ!!この変態痴漢野郎!!!)



先ほどの感触と言葉が、脳内で何度もリフレインする。


「……はぁ………」


息が荒くなる。

抑えられない心拍の急上昇。

頬の痛みが妙に心地よく蘇り、羞恥と屈辱が高揚に変わる。

自分でも理解できない昂ぶりが、全身を支配していた。

無意識のまま、膨れ上がった感情はもう誤魔化しようがなく、司には、このどうしようもない衝動を抑え込む術がなかった。


「……ゆりさん……あぁ……ゆり…さん……」


荒い息を吐きながら、唇が勝手に名を紡ぐ。

頬に走った痛みの記憶。

鋭い瞳で自分を睨みつけた、あの瞬間の彼女の表情。

その断片が重なり合い、司の胸を焼き、身体の芯を灼く。

その時のすべてを反芻しながら、司は目を閉じる。


「…はぁ……あぁっ……ゆりさん…っ!」


昂ぶりに支配され、理性はとうに崩れ落ちていた。

ゆりの名を繰り返しながら強烈な感情へと変わり胸の奥でふつふつと熱が膨れ上がる。


支配する側だったはずの自分が、初めて突きつけられた拒絶と怒り。

それは彼にとって未知の感情で、対処の仕方が分からない。


ただひとつだけ確かなのは——


胸の奥に燃え上がったそれは、決して簡単に鎮まる種類の衝動ではなかった。


司は静かに息を吐いた。

乱れた呼吸はすぐには収まらなかった。


心の奥底で何かが決定的に変わったことだけが、確かだった。





翌朝。


ゆりはいつものようにロッカー前でノートPCを開き、業務前のルーティンでメールチェックを始めた。


受信トレイの上段に並ぶ件名のひとつに、目が止まる。


『5月26日──』


「……まったく、この男は……」


送信者は桐生司。

昨日、控え室で強引に迫ってきて、その直後に自ら頬を打ち、罵倒してやった相手だ。


前回同様、狙ってなのかたまたまなのか、非番の日を指定されたホテルレストランへのお誘いメールとURL。


常識的に考えれば、あの一件で彼が距離を置くのが普通だろう。

だが現実は真逆。

むしろ司は、あの出来事を燃料にしてさらに近づいてきている。

昨日の鋭い視線、強烈な一撃、吐き捨てた「変態痴漢野郎」という言葉。

それらが、司にとっては呪いではなく、恍惚の種になってしまったのだ。


懲りないというか…

完全に目覚めたなこいつ…


呆れと諦め、そして心の奥で小さな笑み。

ゆりは画面を見つめたまま、ぽつりと呟いた。


「……お仕置きが必要だな」


その瞳は、既に冷静な計算と覚悟を宿していた。

キーボードに指を置くとたったひと言を打ち込む。


『承知しました』


送信ボタンを押した瞬間、PCの画面に小さな送信完了マークが表示される。

ゆりの胸には、冷たい火花のような決意が散っていた。




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