第十話 大人
グラは不機嫌そうな顔のまま、買ってきた食材の入った袋をもって部屋を出て行った。いつも笑って、場を和ませる、空気を柔らかくしてくれるグラがあんな表情をするのを見て俺は驚いた。空気を支配する彼女が飲まれるほどの話。俺はしっかり心の準備をする。グラが出て行った後、博士はまた椅子に座った。だが今回は俺の隣ではなく、正面に椅子を持ってきた。
「少し、長い昔話をさせてもらうよ。退屈で、最悪な気分になる話かもしれないけれど。聞いてくれるかい。」
「その前に…そのフクロウのぬいぐるみは何だ?」
俺は博士が持ってきたフクロウのぬいぐるみが気になっていた。ぬいぐるみと言えばグラの事しか思いつかないのだが…。
「あぁ、これかい?これはグラが私の人に触れることができない体質の事を教えたときにくれたんだ。グラが、自分に触れるまで、その子に触れていてあげてほしいとね。全く、どっちが大人なんだか…。まぁ、実際これを触れているときは落ち着くから助かっているのだけどね。」
「そうだったのか。グラはぬいぐるみを気に入っている人にしか渡さないと言っていたから、きっと博士はグラにとって大切な存在なんだろうよ。」
「そんなことを言っていたのかい?ははっ…嬉しいね。」
「すまない、話をそらしたな。それじゃあ最初から最後まで目をそらさず聞くよ。」
「…それは恥ずかしいからたまにそらしてくれると助かるかな…。」
博士はそう言いつつも、俺の目をまっすぐ見て、話しだした。
ーーー
「気持ち悪い子ね…なんで産んじゃったのかしら。」
私がそう、実の親に言われたのは小学二年生の頃だった。幼げながらも私はそのころから達観した性格をしていたからね。そう言われた意味を即時に理解できた。私はいらない子だと。そのセリフを言われる前、私が生まれてから少し経った頃だろう。親からの虐待を私は受け始めた。理由は二つ。一つは両親の離婚。全世界で見ても日常茶飯事なものだ。離婚など。私はそれは仕方ないと割り切った。もう一つは私の逸脱した才能。当時から私の才能はずば抜けていた。四か国語を話す小学生。それはもはや「すごい」という嫉妬、褒めの感情よりも「気持ち悪い」が勝ってしまうだろう。多分私が逆の立場だったとしても私は気持ち悪いと思う。だからそれも割り切れた。
それに私には心の頼りがいたのだ。1人は学校の先生だった。
「水仙は天才だな!次はこの問題とかどうだ?」
私の才能を気味悪がらず、なんならさらに向上させようとしてくれた。本を読ませてくれたり、時には私が悩む問題にヒントを渡してくれた。それがもう小学生を担当する教師の幅を超えてもだ。難しい問題は先生自身も解いて、教えてくれたのだ。私の才能を育ててくれたのは先生だった。私自身、勉強は大好きだったもんだから拒まずにガンガン吸収していった。あの頃は楽しかった。知らないことを知れるのだ。人生において生きているという感覚を一番に感じられたのは知識を得る瞬間だよ。
少し話がそれてしまったな。戻そうか。
「はかせ!今日は何を教えてくれるの?」
もう1人の心の頼りは私にとっては珍しい「友達」という存在。それが彼女。「エマ」だった。苗字は思い出せない。小学生の頃の話なんだ。少しあやふやなところがあるのは許してほしい。
「はかせと呼ぶのはやめろと言っているだろう。」
「えぇー。良いじゃん。かっこいいと思うよ。」
「女の子は可愛いの方が喜ぶんじゃないのか?」
「はかせは可愛いって言われたいの?」
「…そういうわけではないが。」
「じゃあいいね!」
「うぅん…?」
エマは頭がいいという訳ではなかったのに、私は彼女によく言い負かせられた。私に勉学の才能はあってもコミュニケーションの才能はなかったというわけだな。
…斎月君、今鼻で笑わなかったか?笑ってない?…そういうことにしようか。
エマと話すことで私は嫌なことを忘れ、先生と勉強をしていることでそれ以外の事を考えなくなった。家の虐待の事なんて何とも思わなくなった。痛い、という感情は一時的なものだ。耐えればいいと当時の私は思っていた。
それから時は経ち、私とエマは中学生になった。それで何が起こるか。いつも私に勉強を教えてくれていた先生がいなくなるのだ。残念に思ったが仕方がない。それにそのころはもう一人で十分成長できたのだ。先生は私という種に栄養剤をくれた。栄養剤がなくなった今、空気で、光で、水で。自分自身で成長することになる。
私にとっての空気…食事が少なくなったのは中学生に入ってすぐだった。親がほとんど家に帰ってこなくなったのだ。さすがの私もこれには困った。幸い中学も給食制だったためお昼はなんとかなるのだが…さすがに朝夜抜くのはつらい。
ということで私は勉強を人に教える代わりに食べ物を求めた。これが案外うまく行ってな。なんかもはや太ったよ。うん。
…斎月君、もうやせたから。その目はやめてくれ。それともふくよかな女性は嫌いなのか?…まぁ普通そうか。
私にとっての水、知識を得るための本に関しては困らなかった。図書館、中学の図書室。そのころはインターネットだって気軽に使えた。学校でしか使えなかったのだが、ある日一人の男が私に機械をいじる環境をくれたのだ。流石に道端の壊れた機械でPCを作っている中学生がいたらそういう変な人も沸く。その男はこういった。
「才能がもったいないな…。何?家にネット環境がない?君の親はいっちゃ悪いがバカなのか?宝の持ち腐れだ。どうだ、私のラボの一角を貸してやる。金はいらん。その代わり私が渡す宿題みたいなものをやってくれ。やってくれさえすれば自由に使うが良い。足らないものがあったら言え。買ってきてやる。」
私は恵まれていたよ、ほんとに。才能に、運まであった。一瞬天狗になってたよ私。
何?自分を天才って言ってる時点で天狗?うるさいな斎月君は…。
ここまでは良かった。何不自由なく生きていた。身体的欲求、知識欲。そして精神的なものはエマがいてくれた、中学に上がった後でも、彼女は私とよく話してくれた。私が勉強が得意だからと言ってそのことを何か利用するでもなく。ある日、出された課題を一緒にやることがあった。
「…わかんない。」
「教えようか。」
「だめ、博士はすぐ私を甘やかすんだから…。そんなんじゃ私が碌な人間になりませんよ。」
「どういう目線で話しているんだそれ…?」
相変わらず愉快な子だったよ。それから一年、中学二年生に上がってから数か月たったころだ。
私にとっての光、エマを失ったのは。
突然の交通事故。妹を救って自分は車に引かれたと聞いた。そこで私の心はふさがった。脆いものだ。だが同時に私は自分を笑った。
「妹…いたんだな。」
知らなかったのだ。妹がいることを。出会ってから6,7年。私は彼女を失ってから、彼女を知りたいと思った。知識欲を満たしているつもりだった私に、私自身に笑ったのだ。
どの本にも、どのサイトにも、彼女の事は書いていない。当たり前のことに気付かなかった。何が天才なんだろうな。結局頭だけよくてもここ…心がバカだったよ。
ふふっ…そんな顔をしないでくれ。もう過ぎたことなのだよ。
悪いことは立て続けに起こるものでな。エマが亡くなってから私は親切な男に紹介されていたラボに行かなくなっていた。生きる屍。当時の私を形容する言葉があるとしたらまさしくそれだろう。死んでるように生きていたのだ。
でもある日、ふとラボを思い出して行ってみたのだ。
なくなっていたよ、ラボは。火事らしい。私の知らないところでとっくに、私にとっての水は蒸発していたようだ。膝から崩れ落ちた、なんて表現は小説の中だけの比喩だと思っていたけど人間本気で絶望するとその通りになるもんなんだと、私はその時知れた。
そのころ、ついに児童相談所が私の虐待に気付いた。元気そうに過ごしていた私が突然落ち込みだしたからだろう。遅いよ。大人は嫌いではなかったがそう思ってから嫌悪を抱くようになった。
私は施設で過ごすことになった。もう人生めちゃくちゃさ。
施設では頭の良い私を敵視するものがいてね。いじめが始まった。暴力や意地の悪い行為。施設の大人は気づかない。また6,7年待てばいいのか?なんてくだらない冗談すら本気にしていた。
と、言う事なので私は逃げた。この頭脳さえあれば容易さ。そしてここにいても自分が知識を得られないことに気付くのも容易だった。すぐ計画してすぐ実行したよ。
でもその頃の私もまだまだバカなもんだね。脱出は考えていたのにそのあとを考えていなかった。おかげでさまよってたら悪い大人につかまって身売りさ。夜の街で過ごして5年。環境に慣れやすい人間だったからね。すぐに慣れた。
…嘘だって?…斎月君は本当に人の事をよく見ているね。目をたまにはそらしてほしいと言ったじゃないか。
まぁそうだな。慣れなんかしなかった。親友を失い、生きる理由だった知識を失い、生活を失った。泣きっ面に蜂どころじゃないよ。泣きっ面に核爆弾くらいさ。元々男という生き物とあまり関わらなかった人間が、そんな街で体を売ってたら…どうなると思う?察しの通り、人間不信。それも極度の。
私が人に触れられるのが、触れるのが本能的に嫌うようになった原因は…そうだね。一言でいえば…
ーーー
「神様のせい、というのが一番的確かもしれないね。」
博士は淡々と、平気そうな顔をして話していたが手は震え、少し顔は青ざめたいた。話始める前に、辛そうだから話さなくていい。といえば博士は話さなかっただろう。だが博士はそんな状態でも俺に話してくれた。それなら俺も本気で、正面から聞かなければいけないだろう。博士が逃げないのなら、俺も逃げてはいけない。
「…悪かった。軽率に触れてしまって…。」
「知らなかったことを責めることはしないよ。それに…はい。」
博士は震えながらも手のひらをパーの形にして俺の前に見せてきた。
「…大丈夫なのか?」
「多分。」
「多分って…」
俺は恐る恐る博士の手のひらに自分の手を合わせる。俺の手より、博士の手は小さく、折れてしまいそうだった。
「博士、運動してませんね。」
「ははっ…バレてしまうか。」
博士は指を俺の手の指の間に絡ませ、恋人つなぎのような状態にしてきた。
「なんでだろうね…斎月君…、いや、ユラ。君になら触られても大丈夫なんだ。温かいんだよ。すごく…温かい。これも炎の能力のおかげなのかな?」
そういう博士の手は冷たいことに気付いた。こんな細い手のひらで、どれだけの苦痛を体験してきていたのか…他人が想像することなんて、できない。
俺がこの人にできることなんて…あるのだろうか。
「ご飯できたよ。…ってまた触れ合ってるし。いちゃいちゃしすぎ。博士とユラ君。私が嫉妬しちゃうでしょ。」
エプロン姿のグラが部屋に入ってきた。さっきより表情はやわらかいが、笑顔ではない。グラもこの話を聞いたんだろう。そりゃこうもなる。
「グラ、私ユラになら触れても、触れ合っても大丈夫なんだ。すごいだろ。」
「私は?」
「…えっ…と、その…わ、わかった。やってみる。」
グラは手のひらを博士に差し出して、博士のもう一方の手のひらを待った。
博士は目を閉じて恐る恐るグラの手のひらと手を合わせた。
「…えい」
「おぉ、博士。成長したじゃん。ほら、触れてるよ。」
「…なんかグラ不機嫌じゃないか?」
「私抜きでいちゃいちゃされたらそりゃね!ほら、ご飯冷めちゃうから。早く来て。博士もだよ。」
「私さっきカップラーメン食べ…。」
「博士もだよ。」
グラはまたぷんぷんしながら部屋から出て行った。
「…ユラ、なんで私がこのチームに入ったか、わかったか?」
「グラが怖かったから?」
「うん…」
博士は情けない顔でうなずいた。そして猫耳のフードをかぶりなおした。まるで強者におびえている小動物のようだ。
「グラは怒らせないようにするか…。」
「そうだね…。あ、ユラ。改めて言わなくては。」
博士は立ち上がって、また俺の前に跪いた。
「これからチーム『ノマド』の隊員として、そして私の実験材料として。よろしく、ユラ。…そして、始まりの能力者。」
博士は俺の方を見て笑っていった。そこで俺は気づいた。さっきの博士が過去について話していた時に、たまに出ていた自嘲的笑顔と、今こうして俺に見せてくれている笑顔の違いを。博士にとってはもう、過去なんだと。気づかされた。この人は、強い。能力とかじゃなく、精神的に。
「…撫でないからな。」
「なんだ、少し期待したのに。じゃあ…」
博士は立ち上がって逆に俺の頭を撫でた。
「私が撫でる。…やっぱり温かい。じゃ、行こうかグラの所に。随分怒らせているからね。」
「…。」
ちゃんと大人だ。博士は。俺は顔に熱が貯まる感覚を感じつつ、先に行った博士を追った。




