6 まいごのまいごのめすねこちゃん
「…誰?私、スズなんて知りません」
結局、スズの逃亡劇は数十秒どころか数秒で終わった。
スズを買おうとしていた男は少し冷静になって「悪役」の気配に気づいたのか、早々に逃げ去った。別にもともとなにかを男にスズが期待していたわけではないが、あまりにも情けないとは思う。
逃げたスズを捕まえた方の男はしばらく悩んだ後、どこかの高そうなホテルへとスズを引きずっていった。
「…たしかに君の見た目は色々変わったよ。でも、俺にはにおいでわかる。君は間違いなくスーだ」
「勘違いです。帰っていいですか?」
「どうして君が…こんな、こんなことをしているんだ…」
男は立派な図体を小さく震わせていた。特に手なんかが顕著で、まるで吹雪の中にでもいるようであった。
しかし、そんな哀れな様子の男に対してスズは冷酷で、「だからあなたなんて知りませんから」と答え、何度回しても押しても引いても開かないドアノブを再度回す。もちろん今回もあかない。
「誤魔化さないでくれ、頼むよスー…」
「なんの話ですか?さっきからよくわからないんですが」
「…まさか記憶喪失?一体なにがスーに…」
「…あんたって本当に昔から馬鹿だよね」
スズはついにあまりにも呆れすぎてそんな言葉が口からまろびでてしまった。
口を慌てて抑えるがもう遅い。イヌはじっとりとした瞳でスズを見つめていた。
「…久しぶりだね、スー。オレのこと思い出してくれたようで嬉しいよ」
「…どうも久しぶり。私は最悪の気分」
開き直ったスズは足をくんでベッドに腰かけた。
そんなスズに対し、イヌは床に片膝をつき目線を合わせる。
スズがイヌを大学に見送ってからそう時間は経ってないはずなのに、それまで嫌でも毎日顔を合わせていたせいか、イヌの顔をこうやってみるのは随分久しぶりのような気がしていた。しかも、スズの勘違いでなければイヌはまた一回り大きくなっていた。
「…なんで…なんで、こんなところでこんなことを?」
「さぁ?」
「これが、売ろうとしたのは初めてなんだよね?実際に身体を売ったことはまだないんだよね?」
「さっきのやり取りをみてそう思うなら__随分楽観的でウブなのね、お坊ちゃん」
スズはその言葉と同時にイヌのサスペンダーを引っ張り、互いの息の温度がわかるぐらいにまで顔を寄せた。
なにを思っているのかイヌは体を硬直させ、スズにされるがままだ。
「私のべべちゃん、あなたは私においくら支払ってくださるの?あんたは知り合いだしサービスするよ」
「…やめて」
「どういうのが好み?あ、イヌだしペットプレイ?いいよ。それぐらいいくらでもやってあげる」
「やめてくれ…」
「ああ、ごめん。私がペット側の方がいいか。首輪は…あいにくもってないからこのサスペンダー借りるね。ムチもあるけど貸そうか?」
「やめろっていってるだろ…!!!!」
さきほどまで大人しく…どころか言葉を発する以外はまばたきさえしなかったイヌは、ついにスズの手を払いのけた。それどころか、しばらく前から魔法で隠すようになった獣耳やら牙をむきだし、スズの肩を思い切り突き飛ばした。
その勢いで、スズはベッドに倒れる。背中に当たったベッドはふんわりとスズの身体を受け止めてくれて、いつも寝てきた床に寝てるのとほぼ変わらないような安っぽいベッドとは全然違うな…なんてどうでもいいことをスズは考えていた。
「あ、ごめ、…
さすがに理性の強いイヌはハッと正気に返って、謝罪と同時にその余分な耳と牙をひっこめる。
だが、今度はこっちがもう遅い。
スズはニヤリと笑って、イヌの首に白粉がまぶされて病的に白いその腕をまきつけた。
「あらま、お坊ちゃん。随分積極的じゃない。それでいくらにする?あ、安心して。一応最低料金ってのはあるけど、あんたの一日分のお小遣いぐらいで買えると思うから」
「わかったから…もうやめてくれ、スー」
イヌは頭をふり、壊れものにふれるようにそっとスズの手をほどくと、逃げるようにベッドから離れ、そのすぐ前にあったソファに腰かけ文字通り頭を抱えた。
「安心しなよ、べべちゃん。あんたに抱かせる気なんて最初からこれっぽっちもないから」
それを見てスズは勝ち誇った顔で軽やかに嗤い声をあげ、身体を起こした。
なんだかスズの心は久しぶりに晴れやかで、やけにスッキリしていた。
「…はやくうちに戻ろう。スーが戻れるようにオレからもお父様に頼むから」
「そんなことしてくださらなくて結構。私は私の意思でここにいるし、あんたがなにをしようとあそこに戻るつもりはないから」
「…そう」
イヌは相槌をうってはいるが、明らかになにかをしようとしている顔をしていた。
だからスーは改めてイヌの顔に指を突きつけて教えてやる。
「わかってる?なにを、しても、ムダ!だからね」
「…それについては納得はしてないけど、わかった。でもせめて、どうすればこんなことやめてくれるの?」
「こんなことって?」
「スーが…自分を売るような…こんな…」
「やめないけど?」
「どうして?」
「今の毎日が楽しいから」
実際、スズは毎日すごく楽しかった。行為が楽しいわけではないけれど、存在がナナに近づいていると思えば悪くなかった。それに、頑張れば頑張るだけナナから「ありがとう」と言って貰える。
そうじゃなくても、イヌのところにいた虚無な毎日__自分だけ世界から置いてかれているような毎日__とは比べるべくもなく、圧倒的にこっちの方が刺激的で楽しい毎日だった。
「__なんだってするよ。だから頼む。こんなことやめてくれ」
イヌは今度はソファから立ち上がると、地面に跪き深く深くスズに頭を下げた。
その姿を見ながら、スズはいつもの自分をぼんやり思い出していた。「抱いてください」と、金のために思ってもいないことを言わさせられ頭を下げさせられる惨めな自分を。
「じゃあさ___」
だからだろうか。
スズは、思わず口を開いていた。
慈悲とかそういうのじゃなくて、自分がそんな存在に成り下がっている事実をこれ以上受け入れられなくて、口を開いた。