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3 あなた、犬、イヌ?



「遠い学校に行けってお父様が。だからスーとは…離れて暮らさなきゃいけないかもで…」


 服のすそをもじもじと掴みながらイヌがそう言いだした時、スズはいつも通りのイラつきと同時に「ついにこの時が来たか」という感慨ともいえるものを抱いていた。

 イヌはもう18くらいになっていたはずだし、出会った頃の弱々しい子犬の面影を失いスズよりも一回りも二回りも大きくなっていた。弱々しいのはその軟弱な性格と態度だけで、「口」ではなく本当の喧嘩になったらスズの勝ち目など一切ないだろう。

 実際もうイヌは獣の姿になった時も、犬と言えるような外見ではなかった。鋭いアンバーの瞳も、重厚なクリームの毛並みも、巨大な肢体も…なによりふと口を開いた時の牙の鋭さが明らかに「犬」のものではない。だが、もちろんスズはそんな事実は見て見ぬふりで、イヌのことは犬として扱っていた。

 だからなのか、イヌは本当に犬のようにスズに振舞い続けていた。あるいは、イヌがそう振舞うからスズもそういう風に扱っていた。


「で?なに?私になんて言って欲しいわけ?それを聞かされた私はどうすればいいの?」

「…」


 ここで黙るあたりにイヌの浅い底が見える。スズが思うに、イヌのこの発言をもってスズが「キレる」想定しかイヌはしていなかった。あるいは、そういう対応を期待していた。だから、「キレた」ときの対応は考えていても、こんな風に質問されてもなにも言えないのだ。


「…ごめん」

「別に怒ってないし謝られても困るんだけど」


 真実そうだった。スズはムカつきはしても怒ってはいなかったし、謝られても「なにに対して?」という他ない。

 ここでスズがなにをいってもイヌはオトーサマに逆らわない。逆らえない。イヌにとってスズの言葉なんかよりもお父様の方が何倍も意味があって重みがあるから。口ではどうこういっても、結局イヌはスズを一番にしないしイヌにとってはお父様が最優先事項だ。

 そんなのここでの日々の暮らしで十二分に理解していたし、イヌと自分が離れて暮らすことにどうこう言っても無駄でしかないから、この確認事項のようでいて決定事項なこれに対し感情的に反応するつもりは全くなかった。それにやっぱりスズはこういう日がいつか来ることを薄々察していた。だから、別にイヌのこれにたいしては「ついにきたか」と「やっぱりムカつく」以外の感想はなかった。


「その…えっと…オレ…大学ってところに行かなきゃいけなくて。しばらくはスーと離れて暮らさなきゃだめなんだって」

「ふーん」

「…スーは怒らないの?」

「別に?」

「…なんで?」


 なんでと言われても困る。たしかに前までのスズであれば怒っただろうが、今のスズには怒る気力も理由もない。スズは無駄な体力は使わない主義なのだ。


「別に怒る理由がないし。…どうせすぐ戻ってくるんでしょ?」

「それは…うん。そうなれるように頑張るつもり」

「ぜひそうして」

「うん。オレ、がんばるよ」


 イヌは少し安心したようにスズを見つめると、イヌの姿になりソファに座るスズの腹に頭をぐりぐりと押しつける。

 イヌは身体が大きくなりはじめてからスズに触れる時は、犬の姿になることが多くなった。これの理由は明確で、イヌの体が徐々に「男」の形を成していくにつれ、スズがイヌとの肉体的接触を避けるようになったためである。

 スズとしては、ちまっこかったはずのイヌがいつの間にか大人の姿になっていくことになにか恐ろしいものを感じていた。自分に巻き付く腕が腰ではなくて肩に周るようになって、もちもちしてやわっこい肉体が硬く力強いものになっていって、スズと変わらないどころかスズよりも高かった声が男の人みたいに落ち着いた声になって…イヌがイヌじゃなくなっていくみたいで気持ち悪かった。

 そして、その成長に対する拒否感は自分と同じ人間の姿の時の方が強かった。だから、人間の姿で近づいてきたときはなんかキモくてあんまりイヌの方を見なくなったし、触ってきたときは容赦なくその手をはたきおとしていた。

 それに対しイヌは最初は泣きそうな顔で「なんで…」と言うばかりだったが、徐々に犬の姿であれば避けられないと気付いたのか犬の姿で近づいてくることが増えた。


「…勝手に触んないでくれる?」


 なんてことをいいつつ、スズの手はイヌの毛並みを撫でていた。イヌの毛並みはまるで高級な絨毯みたいでスズも嫌いじゃない。なので、機嫌がいいときは…あるいは自分の気持ちを落ち着かせたい時は、まれにこうやって撫でることもある。


『帰ってきたら…お父様、オレに家督を譲ってくれるって』

「かとく?なにそれ?」

『お父様の立場をオレに譲ってもらえるってこと』

「なんで?あの…金色頭が全部もらうんじゃないの?」

『アダンが受け継ぐのはお父様の資産と名前。オレが役割と仕事を受け継ぐ』

「へぇ。よかったじゃん」


 これはスズにとってかなり意外なことだった。

 イヌの父はイヌの義弟であるアダン__イヌの父と真に愛する女の間に生まれた子供__を溺愛していて、イヌのことなど眼中になかったはずである。だから、すべてのものはその義弟に与えられ、イヌはこのまま適当に放置されるのだとばかり考えていた。

 にも関わらず、イヌはそれなりに大きなものを譲りうけるらしい。これもイヌの長年の片想いと献身のおかげか、あるいはやはり長男だからということだろうか。


『…そうだね。うん、よかった』

「…どうしたの?」

『いや、なんでもない。でも、これでオレも自由だ。なんだってできる。どこにでも行ける』

「…そう」

『ねぇ、スーはどこに行きたい?どこにでも連れて行ってあげる』

「いや…」


 「別に私はどこにも行きたくないけど」、という言葉をスズは飲みこんだ。どうせキャンキャンとその言葉に噛みつかれることは十分に想像できたし、それに対応するのは想像の中だけで十分だったので。

 それにようやく最愛のお父様に目を向けられたらしいイヌが、それが心底嬉しいというわけではなく、「自由になれる」という点に喜びを見出している点が少し不思議で…水を差してやるのも哀れかなと珍しくちょっと気を使ったからである。


『オレは…いつか花の都に行ってみたいな』

「…行けるよ、あんただったらきっと」


 スズはその「花の都」がどこにあるのかすら知らない。

 でも、なんとなくそう思った。


『うん、行こうね…』


 その日はそのまま勝手にイヌが寝落ちて動けなくなったので、スズは随分久しぶりに一緒に寝た。毛皮が暑苦しくてまともに眠れたものではなかったからか、昔の…イヌがまだ小さかった頃の夢なんて悪夢も見てしまった。イヌが隣にいたのもあってしばらくはなにが現実なのか曖昧だったけれど、イヌを蹴飛ばして洗面所まで行ってようやく我に返った。


「…私…」


 そこでは、大人の女がスズを見つめている。

 いつのまにか縦にのびた顔、そしてその上にのる見覚えのないしみやら黒子、全体的に体はカーブを描いていて、横を向くとたしかに胸が膨らんでいる。


「気持ち悪…」


 スズはここ何年も鏡なんぞ見ていなかった。いや、見ているようでみていなかった。たしかに視界には入っていた。だが、決してじっくりとはみようとしなかった。


「…」


 (私だけ…ずっと…)


「スー、どこ…?スー?」


 先ほどの蹴りで目覚めたらしいイヌのふにゃふにゃした声が聞こえたと思ったら、あっという間に声が近くなって、すぐにスズの後ろまできた。

 

 スズはすぐに鏡から目を離して、後ろにいたイヌを突き飛ばしソファに戻る。イヌはスズが付き飛ばせば、今でも子犬の頃のように「わぁ」と大げさによろめいめ見せるが、それがイヌの演技であることぐらいスズにはわかっていた。わかっていたけれど、それを指摘することは自分の非力さをイヌに対して認めることだから、決して口にしてこなかった。

 なのでもちろん今回もそれは指摘することはなかったけれど、今日は猛烈にイラついていたから今回ばかりはイヌのそのスズへの侮りと姑息さを糾弾したくなった。


 イヌはその日から遠くの学校に飛び立つ日まで、どさくさに紛れてスズと一緒に寝ようとしたが、スズはもちろんそんなことを許さなかった。

 スズはイヌのことが嫌いなので当然のことである。



  *  *  *  *



「今までありがとうございました」


 スズはごくごく適当に頭を下げて館を出る。

 イヌが出て行ってから半年後のことだった。

 前々から薄々決めていたことではあったが、色々あってようやく決心がついた。なによりもイヌがいなくなったあの狭いイヌ小屋に引きこもり続けるのは、あまりにも退屈で虚無だった。イヌは月末になると顔を出しはする。しかし、これまでのように半日いないことの繰り返しと、ほぼ一か月いないことが繰り返されるのは訳が違う。

 

 だからスズは、イヌが大学とやらに行き初めて数か月後になんとか勇気を出してはじめて母屋の方を尋ねた。どうすれば自分の主であるイヌの父に会えるかも、イヌの父がどんな顔をしているのかもよくわからなかった。なので、適当にその辺にいる使用人に声をかけたら、嫌な顔をしながらも一応便宜を取り計らってくれて無事イヌの父に会えることになったのだ。

 初めてみたイヌの父は本当にイヌそっくりで、イヌが突然ちょっと老けてスズの前にでてきたのかと一瞬硬直してしまうほどだった。だが、その鋭い目つきと一文字に結ばれた口が、いつまでたってもふにゃりと馬鹿みたいに歪まないのをみてようやく別人だと理解できた。


 そっくりなのに中身はまるで別人なイヌの父に相対することはすごく緊張したけれど、思ったよりもイヌの父はあっさりとスズの要求を呑んだ。いや、「思ったよりも」なにも、あまりにも「どうでもよすぎて」あっさり要求をのんだのであって、意外なことでもなんでもなかったのかもしれない。

 スズの「出ていきたい」という要望も、「どこか別の働き先を紹介してくれ」という要望も、スズになんの思い入れもなければ容易に受け入れられることだろう。給金に関しての要望だけが完全には受け入れられなかったのが答えと言えるかもしれない。

 給金に関しては家にずっと送られていたのでフルでは渡せないと言われ、一年分の給金をこれまでの謝礼として渡されることになった。スズの給金など本当に雀の涙ほどのもので、一年分といっても大した額ではなかったけれど。




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