✕✕のイヌ
「そんなの、許されるわけないだろ…」
オルデュールの低い声とともに、部屋から出ていこうとしていたスズの視界が揺れた。
いきなり腕を引っ張られ、カーペットの上へと押し倒されたスズは、何が起こったのか一瞬理解できなかった。
「散々オレの人生振り回して、めちゃくちゃにして…今更なにを言っているんだ」
理性を纏っていたはずの彼の皮が剥がれ、イヌの隠すことに慣れ切ったはずの獣耳と尻尾は飛び出し、本性とも言うべき姿が露わになっている。
魔法によって明るく照らされていた室内はいつのまにか光を失い、月光がオルデュールの牙を鈍く照らしていた。
「待ってるっていったはずの君が家からいなくなって、なぜか娼婦になってて、ずっと金は渡してるはずなのにいつまでもやめてくれなくて、また消えたと思ったら気が付いたらオレの渡す金を使って悪役の息子と結婚しようとしてて…オレがずっとどんな思いで生きてきたか…」
まるで、彼の中の獣性と理性の闘争が漏れ出てしまったかのように、オルデュールの白目だったはずの部分がアンバーの虹彩に浸食されてまた白く戻ってを繰り返す。
「君はなにもわかっていないようだから、この際はっきり言おう。オレは君のことを恨んでいるし、憎んでもいる。君はオレに苦痛ばかりもたらす」
「君の結婚式を滅茶苦茶にしたのだって、もちろん全部復讐のためだよ。君の怒りと悲しみに歪む顔がみたくてああしたんだ。逆にどうしてそうじゃないなんて言葉を信じられたんだ?」
「だけど、君があんな顔であんなことを言うから…全部有耶無耶にしてあげて、一緒にいてくれるというから全部許すことにしたんだ」
「なのに、今更なにを言ってるんだ?」
獣の唸り声とともに、優しくない言葉がスズにふりかかってくる。
「…なに?あんた私に嘘をついてたってこと?」
スズの腹の底に冷たいなにかが流れ込んできて、それが体をじわじわとめぐって、息がうまくできない。
「あれはあれで本当だったさ。あの日__ヴィアとのことはずっと後悔してたし、申し訳なく思ってた。だけど、謝る機会すら与えないまま永遠にまた会える【いつか】に期待させ続けるのはさすがに残酷だろう。オレが…オレがどれだけその【いつか】を待っていたか…」
「…それは、ごめんってずっと思ってるし、そうちゃんと言ったじゃん…」
「ああ、言ったね。いったけど、君は結局なにも理解してなくてまたオレを置いていこうとしてる」
オルデュールの顔が泣きそうに、そして苦し気に歪む。
その顔がなんだか幼い頃のオルデュールに重なって、スズも少しだけ冷静さを取り戻す。
「…前と違って今度はいつでも会えるようにする。だから置いていくとかじゃない」
「本当に君は、君のこともオレのことも何一つわかっていない。君は間違いなくこの別れでなんやかんや言い訳をつけて姿をくらませるよ。そしてまたオレは延々と君を探す羽目になる」
「そんなことない。それにそもそも…私のことがそんなに嫌いなら探す必要もないでしょ。それともなに?私を飼い殺しにするのがあんたにとっての復讐なの?」
「…オレは、君のことを間違いなく憎んでいる。でも、でもだ。それ以上に君を必要としている。君がいなければ生きていけない。そうでなきゃ、オレはこんなに苦しんでない…」
ついに、スズの顔にぼたぼたと熱い液体が落ちてくる。
オルデュールの泣く姿を見るのなんて小さい時ぶりで、スズは先ほどまでの不安や恐れなどすっかり忘れて、思わず彼の頬に伝う雫を何粒かすくってしまった。
「…あんたは私なんかいなくても生きていける。本当だよ。本当の本当に。むしろ私の存在は、あんたにとって障害にしかならない」
「オレ本人がそうじゃないと言ってるのにどうしてわかってくれないんだ…」
「あんたこそどうしてわかってくれないの?あんたは立派な大人の男で、資産家で、なにもかも持ってる。なんだってできる。それなのに私みたいなのがいたら邪魔だろうし、私はあんたの障害になって嫌われたくない」
「…本当に、昔からスーはオレの話をなにも聞いてくれない」
そこで、これまで大粒の涙をこぼしていたオルデュールは、突然すべてを諦めたような顔をした。
その、悲しみと失望がない混ぜになった瞳にスズはよく見覚えがあった。
「これ以上君には付き合いきれない」
「…なに?今更突き放そうっていう算段?別にいいけど」
スズの言葉に応答することなく、オルデュールはスズの頬を両手で包みなにかをブツブツと呟きはじめた。
「…なにやってんの?」
「…」
「無視しないでよ」
「…」
「…あっそ」
首あたりがなにか熱を持ち始めたようななんともいえない違和感が生まれ始める。
ここまでされれば、イヌがなんらかの形でスズに危害を加えようとしていることは間違いなかった。
「とっとと殺してちょうだいよ」
「もう生きるのにはうんざりしてるし」
「ナナだって結局一番大事なのはあのクソ息子で、ヴィアも結局一番好きなのは本当の母親で、レアが好きなのはあの恋人で、あんたが好きなのは結局パパ。いつだってパパが優先で、私は二の次。私はいつも誰かの代わりで、その人にとって欠かせないものにはなれない」
「まぁ、仕方ないよね。本当の両親にすら愛されない欠陥品だもん」
スズはまるで一人で雪原の中に立っているような気分だった。
寒くて辛いけど、ある意味ではとても凪で楽。なにかあるといつもスズの脳内に響いてくる、スズを謗るあの声さえも聞こえない。
「…こんな私に優しくしてくれてありがとう。哀れみでも嬉しかった」
スズが心の底からの感謝を込めてその言葉を告げた時、いきなりあたたかいものに全身を包まれる。
「違う。どうしてスーはそんなことばかり言うんだ。哀れみなんかじゃない。オレは欠陥も含めて君が好きなんだ。最低で、クズで、優しくなくて、弱いスーが好きなんだ」
オルデュールの声が耳元で聞こえて、「ああ、抱きしめられたんだ」なんてことを他人事のようにスズは思う。
こんな風にオルデュールに抱きしめられるのなんてオルデュールがまだまだスズより小さい頃ぐらいで、その頃は抱きしめられるというよりも抱き着かれていた。
「代わりなんかじゃない。スーはオレにとってずっと唯一無二で、大切な存在だ。自分でも不思議だけど、本当に君のことが好きだ」
「…あんた、私のことが好きなの?」
「好きだよ。大好きだ。君のためだったらオレはなんだってする。なのに、それになんの不満があるっていうんだ」
「なんだってする」とは大それたことをオルデュールも言うなと思いつつ、その言葉に寒さが和らぐ。
そして、その言葉をきっかけに脳内でなにかおかしな回路に火花が散り始めることを感じる。
「好きって…なによりも?誰よりも?」
「もちろん」
「お父様よりも?」
「父になどとっくに見切りをつけてる」
「私のためだったら、本当のホントになんでもできるわけ?」
「できることだったらなんでも」
「…へぇ」
オルデュールの言葉に馬鹿なんじゃないかと哀れみを感じると同時に、なんとも言えない高揚感がスズの腹の底から湧き上がっていた。この愚かで醜い自分が、自分より権力も、能力も、なにもかもが優れている存在の心を完全に支配しているという__快感、全能感。
(___やった!私、私…)
スズはなにもかもにコンプレックスを感じていた。
学がないことも、貧乏な生まれなことも、親兄弟に捨てられたことも、娼婦なんて仕事をしていることも、自分が愛されない存在であることも、全部全部。
でも、自分よりなによりも勝っているはずの存在は、スズのためであれば「なんでもできる」という。そんなの笑いが止まらないに決まっている。
それに、なにより、
(私は、かわいそうなんかじゃなかった…!)
オルデュールのことを思う親心だとか優しさ、嫌われたくないという臆病心、堕落するであろう今後の自分を止めようとする理性、そんなもの全部吹っ飛んでそんな浮ついた「快」に心を支配されはじめていた。
「私決めた。やっぱどこにも行かない」
「え」
イヌのまぬけ顔にスズは思わず笑い声を上げそうになる。
彼が望んだはずなのに、今更なにを驚いているのだろうか。
「代わりに私の願い全部叶えて」
「私を誰よりも特別で、あの金髪のヴィーナスにも乞われる存在にして」
「私を馬鹿にしたやつ、コケにしたヤツ全員を私の足元に跪かせて」
「私はかわいそうなんかじゃないって、かわいそうなのはお前らだって教えてあげるの」
それらの言葉を言い切ったスズは、今度こそ高らかに嗤い声を上げる。
イヌの顔が面白いとかそういうのではなく、ただただ想像した未来図が愉快で仕方なくて嗤った。
「私の言うことを、いい子で全部聞けて——私の、私だけのイヌでいてくれるなら、一生あんたを隣に置いてあげる」
「…い、一生?」
「そう、一生。ずっと。ずっと傍に置いてやる」
スズはイヌのネクタイを掴み、引き寄せる。
そしてその顔を覗き込みながら、囁く。
「それで?答えは?あんたは私のイヌに戻るの?」
イヌは、頬を赤らめて目を見開き潤ませてスズを見つめ返す。
答えは、明らかだった。
「全てを誓えるのなら今すぐ私の上からどいて、そこに跪いて」
スズは飼い主らしく堂々とその言葉を告げた。
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