死が二人を分かつまで
「大変申し訳ないが…君との結婚の話は白紙に戻させて頂く」
ハーヴィー家のパーティーでの断罪劇が喜劇に終わってから数週間後のある日。
結婚式の厳かな空気の中__誓いが行われるべきその時に、その契約は破棄された。
それを、スズはただ呆然と見つめていた。
結婚式の参列者は、もっと呆然とした表情でそれを見つめていた。
「…どういうつもり?」
「君も面白いことを聞くね」
スズの精一杯吐き出した掠れた声を機に、止まっていた会場の空気がざわめきとともに動き出す。
スズに向けられる視線は、「呆然」から奇異やら哀れみやら…見世物を見る目にあっという間に変わっていた。ざわめいてはいる、しかし、たしかに式場中の目も耳も二人の会話に集中していた。
「君の心は僕のもとにはない。それなのに結婚だなんて__滑稽だろう」
「なにを、」
「僕は知っている。君が僕ではない人間をずっと愛していること。身も心も別の人間に捧げていること。その事実を見て見ぬ振りすべきなのか、今この瞬間までずっと悩んでいたけれど…やはり、僕には無理だ。それにこれは君のためにもならない。だから…この結婚はなしだ」
* * * *
その後、「結婚式になるはずだったもの」は存外あっさり終了した。
それぞれの感情を宿した瞳をスズに目を向けながら、参列者から見物客になった人々は立ち去って行き、それを花婿になるはずだった男が丁寧に頭を下げて見送った。
スズはその場から動かないまま、出口に向かっていく参列者に背を向け無言でずっと俯いていた。…いや、正確にはその姿勢のまま一切動けなかった。スズはおそらく、いや、間違いなく魔法かなにかにより、発声から身じろぎにいたるまで制約を受けていた。
「…どういうつもり?」
参列者が誰もいなくなってから、ようやく再び言葉を発せるようになったスズが先ほどと同じ言葉を繰り返す。
「君には申し訳ないことをしたとは思っているよ」
「そうじゃなくて、"なんで"こんなことをしたのか聞いてんの!!!!」
怒るスズの言葉に対し、花婿は一瞥たりともくれないまま長椅子に座り姿勢を崩す。
「申し訳ない」と口では言いつつも元花婿は酷く面倒そうな様子であり、スズの心情など配慮いている様子は一切見えない。それがスズにとってはなによりも腹立たしい。いや、今日起きた全てがスズには腹立たしいし、もはや泣きそうであった。契約が破棄されたことはもちろん許せないが、今後外を出歩くたびに周囲の人間にどういう目で見られるのか…考えるだけでゾッとする。
「あんたと私の間に愛がないなんてお互いにわかってたことでしょ!!!?でも、お互いに利益があると確認したから結婚することにした!!それなのに今更こんなことして…!!!なに!!!?真実の愛にでも目覚めたとか言うつもり!!!?」
スズが掴みかかってようやく夫になるはずだった人__ルイ・クーポーはスズに視線を向け、ため息をついた。「そんなこともわからないのか」とも言いたげな、馬鹿にした調子で。
「そんなの、僕側に君と婚姻を結ぶ利益がなくなったからに決まってるだろう」
言われた意味がわからなくてまたもやスズの頭は真っ白になる。
スズはナナの本当の娘に…家族になりたくて、ナナと同じ苗字がどうしても欲しくて、この男と結婚することを決断した。
一度はどうしてもイヌから離れたくてナナの元からも離れたスズだったが、ぐちゃぐちゃと考えた結果…やはりスズにはナナしかいないと考え、魔道具の力を借り姿を偽り、名を偽り、その事実をナナにだけ伝えてナナの元に戻った。それからはもうナナのことしか見ないことに決め、享楽に溺れ、不平等な愛に苦しみ、ナナだけに尽くして生きてきた。だけどやはりナナの視線がこちらに一番に向くことはないから、せめてナナの家族になりたくてこうした。
一方ルイは「金のために」スズと結婚したのだ。スズが毎月寄越すと約束した莫大な金目当てでルイはスズと結婚することを決めた。スズはルイのことなど興味がないから細かいことは知らないが、ルイはどうしても大きな額の金が必要らしい。それに対して、スズは求められる限り金を差し出すことを約束した。だから、金が必要な限り、ルイの方からこの契約を切るなんてことはほぼありえなかった。…はずだった。
「いずれお前が金を用意できなくなるってことがわかってたからだよ」
「…は?」
「お前はとある人から金を受け取っている。それをそのまま僕に流している。__そうだよね」
「…」
「そこで黙るということはそういうことだよな。よかったよ、僕の判断が間違いじゃなかったという確信を持てて」
これに関しては図星であった。
しかし、「金を用意できなくなる」という点がスズにとって不可解ではあった。自分が稼いでいるわけではないということから、持続が不可能だと判断したのだろうか。いや、その判断は金があるなら藁にもすがりたいはずのルイにしては冷静すぎるだろう。
「もちろん、君の判断に間違いなどあるはずないよ。クーポー」
スズがない頭を必死に回している時のことだった。
スズにとってはよくよく聞き覚えのある声が、スズとルイ以外いないはずの式場の中で響いた。
「こんにちは、僕の新しいパトロン様」
「…やめてくれ、クーポー」
「ああ、お前。これが君に代わって今日から僕のパトロンになるオルデュールだ。…悪く思わないでくれよ?このまま君と結婚したら、君への支援を断ち切るって言われてね。でも、もし君との結婚をなしにしたら直接僕に支援してくれるっていうんだよ。そりゃあ…ね?」
ここで起きているすべてがスズにはわからなかった。
イヌとルイが普通に会話している理由も、「パトロン」と言う言葉も、なにより…
「…なんで、ここにあんたが?」
「ひさしぶり。ハーヴィー家のパーティー以来だね。スー__いや、ノノと呼んだ方がいいかな」
部外者の乱入は許されないはずの場に堂々と乗り込んできた大柄な男__イヌ、いや、オルデュールはまるで騎士のようにスズの前にひざまずいた。
「…なんであんた…」
「スズの結婚式だ。俺が来ないわけにはいかないだろう」
「そうじゃなくて、
「それともオレがスーの居場所を特定したのを怒ってる?でも、金を送りがてらスーの居場所を特定したわけじゃないから許されるよね」
「…だったら、なんで。なんで、あんた…私がノノだって…」
バレる要素はなかったとスズは確信している。なぜならナナの元に改めて戻ってきてからは日常的に魔道具なんてものも使って、顔のパーツから骨格まで全部変え、名前も偽って「ノノ」として生きてきた。
パーティーのあの日も、いつもと同じように別人の姿でナナの名代の「ノノ」として参加した。
さすがに「スズ」という同名の、しかもスズと同じように極東の血が混じった少女がいるのは驚いたし、あの突然はじまった弾劾裁判にはヒヤリとした。そして、かつてのヴィアがスズを糾弾するような言葉を吐いていることに、いくらか胸の痛みも感じた。
しかし、あちらの「スズ」がどうやら本当にオリヴィアとイヌの仕込みなどではなく、無関係の人間らしいということがわかってからはむしろ安心したし確信を持った。イヌはスズの居場所を特定していないと。
「まさかまたナナのところに舞い戻ってるなんてのは予想外だった。こんな風に魔道具を使ってまでね。でも…君があのあのパーティーに来ることはわかっていたから」
「…なんで」
「オリヴィアとオレが婚約したかもしれないという噂が耳に入れば、その真偽を確かめるために君は"オレたちが確実に参加する"あのパーティーに来るだろう。それが大好きな"ヴィア"のためか、オレの金がこれからも君のために使われ続けるかの確認のためかは知らないけど」
つまり、スズはまんまとおびき出されたというわけであった。
目の前に気になる情報をちらつかせられて、それにとびかかる。まるで、飼い主のねこじゃらしにもてあそばれる猫のようだ。
全てイヌの手の平の上だったと聞くと、頭を掻きむしりたいほど腹立たしいがそういった姿を見せることさえ悔しいのでスズは睨みに留めておいた。
「そしたら予想通り、スーのにおいがする。魔道具を使っているのかな?多少においも誤魔化されていて、特定は難しかったけれど…君の方から話しかけてくれて助かったよ。パーティー終了後に"ノノ"と一応はもう一人の"スズ"、あとはオレたちに話しかけてきた数人の身元を洗い出して改めて確信をもったよ。キミがスーだってね。…まぁ、さすがにあの騒動は予想外だったけれど」
「…」
「でも、さすがに迂闊だったんじゃないか?ずっと不参加を貫いていたはずの"ナナ"の名代として参加して、さらには話しかけてくるだなんて」
あのもう一人の”スズ”に探りをいれたくて、あとはただ懐かしさに心が少し揺らいだだけなのだ。
魔道具も使っていたし、ルイの力も借りていた。だから、どうせバレないだろうと高を括っていた。
それがこんな風に…こんな風になるなんてスズは少しも思っていなかった。
「…帰る」
すべて理解して、すべてが嫌になったスズは、もう打ち負かしてやるだとか知りたいとかいう気持ちもすべてなくなってそれしか言えなかった。
本当はもっと聞くべきことはいっぱいあったはずだけれど、スズはもう息を吸って歩いているだけで精一杯だった。
「…へぇ、どこに?」
ここで突然ここまで黙っていたルイが口を開く。
そんなルイを下から睨みつけ、口を開くなゴミがと憎々しく思いながらスズはその言葉に返答する。
「…ナナの家に決まってるでしょ」
「残念ながら今日から君は使用人としても解雇だ。君を置く場所は僕の家にはない」
「…ふざけんな!!!!!勝手なことしやがって!!!!ナナに…ナナに…言いつけて…」
「残念ながら母上にはすべてを報告済みだし、了承を得ている。…残念ながら、母上は僕の味方だよ。君がなにをしようともね」
あっさりと告げられたその言葉にスズは愕然とする。
それは、スズがナナに切り捨てられたことを意味していた。それだけでなく、それはナナがスズの不幸を許容したということであり、スズには一切の言い訳の余地を与えることもなく問答無用で本当の息子を信じて選んだということだった。
ナナは、スズがなにもかもをナナに捧げて生きていたことぐらい知っていたはずなのに。なのに、こうやって、実の愛息子と天秤にかけられ…いやおそらくはそんな天秤にかけられることすらなく、ごくごくあっさりと切り捨てられた。
「…ふざけんな…ふざけんな…なんでお前なんかがナナの息子なんだ…ナナに愛されてるんだ…」
「…それについては僕もここのところずっと疑問だよ。それは置いておいて、僕も君たちには同情するがあいにくどうしても金が必要なんだ。利用させてもらうよ」
一瞬だけ哀れみの視線をスズに向けたルイは、すぐに視線をずらしイヌに目をやった。
「そろそろ帰りたいんだけどいいかな」
「もちろん」
「感謝するよ。…ああ、あと、君に言われて全部やったけど、これで僕の名前にも母上の名前にも多少傷はついた。こうなることは僕も君も最初からわかっていた。だけど、僕はやりとげた。__そのことはわかってるよね?」
「ああ、君には感謝している。報酬は予定の倍だす」
その言葉にルイは満足気に頷く。そして、その後は一度もスズのことをみることのないまま、結婚式場だった場所から去って行った。
ルイがいなくなってしまった今、そこに結婚式場らしい明るい雰囲気は一切なく、どちらかといえば葬儀場に近い様相を呈している。白い華やかなウェディングドレスを着た真っ青な顔をした死人のような女と、喪服のように全身真っ黒なスーツとネクタイを身に着けた無表情の男が対峙する姿はまさに異様としか言えない光景であった。
「スー、いや…スズ」
「…なに?私への復讐は終わったでしょ?あんたもさっさと帰ったら?」
ナナからの仕打ちにスズはもはや茫然自失の体であった。
ナナからの理不尽は度々あったが、ここまで愛がなくて、酷いものははじめてだった。
もはやこれは絶縁宣言だろう。これで、スズはナナに会うことすら叶わなくなった。あの日以降、スズにとってナナは人生そのものであり最大の目標だった。だから、今のスズはまさに「すべてを失った」状態だった。家だとか、暮らしとか、仕事だとかそういう即物的なものだけでなく、スズの心を成立させていたものなにもかもがパッと蜃気楼のように消えてしまって、スズはもうどうすればいいのかわからない。
それと同時に、今スズはとてもとても恐ろしかった。
先送りにし続けたイヌとの再会が突然果たされて、しかもこんなタイミングで、こんなことをされていて。別に、スズだって本当に一生イヌと会わないつもりというわけではなかった。しかしながら、時間があけばあくほどなんだかイヌに会うのが怖くなってきて、その時を「いつか」にしていただけだ。
なんでイヌなんぞに会うのが怖かったのはスズにもわからない。しかし、イヌに会うと考えるとゾッとなにかが湧き上がってきてどうしようもない憂鬱に襲われた…ただそれだけだ。
「ああ、謝罪と感謝がたりない?…なんであんたが私なんかの尻追っかけまわして、金くれるのかずっと疑問だったけど…この日のためだったってよくよくわかったよ。今まで私なんかのためにどうもありがとう。私は私の罪を認めます。ごめんなさい。すごく後悔してる」
早口で投げやりにそれらの言葉を吐き出したスズだったが、実際スズは後悔していた。イヌのことなんかを金のあてにしたことと、ルイなんかと取引をしたことと、自分の過去の全てを。
「…あんたのこと大事に育ててあげられなくてごめんね。ずっと会わなかったのもごめん。なんか、なんか…色々ごめんね…」
軽い声でどうにか誤魔化しているつもりでいたが、スズはなんだかもう泣きそうだった。さっきまではルイの裏切りとイヌの策への怒りで一杯だったが、ナナに切り捨てられたことを知ってからは悲しみと絶望でもうぐちゃぐちゃだった。
様々な思考が頭をめぐっては、消えて、痛くて、つらくなる。
そして、イヌと会うことを考える度に頭に響いたあの言葉が、ずっとスズを苛んできたあの言葉が、また脳内に響く。
__かわいそうに
違う。スズは、かわいそうなどではないのだ。
スズは人生のどこかで愛されることだってあった。愛してくれる人だっていた。
イヌだって、これまでスズに散々なことをされても大人しく金を渡してきた。どんなに金額をふっかけても、どんなに長く会わなくても、必ず金を送ってきた。
そこからもわかるように、かわいそうなのはイヌだし、スズはイヌに愛されて…
(…愛されて、いないのかもしれない)
…いや、そんなことずっとスズはわかっていた。わかっていたけど、それを認識するのが恐ろしかったから、イヌとの再会を先延ばしにしていた。
だって、これまでのスズの行動を考えても愛される要素などないし、スズなんかが愛されるわけもない。今日のことなんか特に、スズを大切に思う気持ちがあるなら、こんなことできるわけない。
というか、スズを愛するような人間がいるとしたらそれは、なにか目的があってのことで、「スズ」ではなくスズが持つもの__例えば女の肉体とか金__を愛しているのを「スズを愛している」と言い換えているだけだろう。
だから、スズ自身が愛されることなどなく、スズは、スズは…
__あなたは、一生誰からも愛されない。
あの日のあの言葉がまた頭を揺さぶる。
スズの脳みそがどろどろに溶けておかしくなる。
溶けた脳みそが、勝手に目から一粒落ちてくる。
「…ごめんなさい、ごめんなさい…愛されるような人間じゃなくて、ダメな人間で、本当にごめんなさい」
「…え?」
「ごめんなさい。もう、会わないし、一生関わらないし、お金ももういらない。あんたが望むんだったら、できる限りで返してもいく。だからもう、許して…」
なんだかもう、スズは消えたかった。
というか、スズは今「消える」だけじゃなくて過去の自分が生きてきた痕跡すべてを消したかった。
「愛されている」なんて勘違いしていた自分が存在していたことがとにかく恥ずかしい。愛されているのかもなんて期待して、愚かなことばかりして、みんなを呆れさせて、失望させて、捨てられたその過去すべてを消したい。家族にも、レアにも、ヴィアにも、イヌにも、ナナにも、本当に申し訳ない。こんなスズに勝手に期待されて、勘違いされて、好かれて、すごく迷惑だっただろうし気持ち悪かっただろう。
できることなら、生まれたばかりの頃の自分の首を絞め、この世界に恥をさらす前に殺してやりたい。どうせ血のつながった家族にとってもいらなかったこの身だ。この人生がなかったことになっても、誰も悲しまないしむしろ喜ばれるだろう。
「それであんたの気がすむなら、私のこと殺してくれたって構わないから…」
構わない、じゃなくて本音は「殺してくれ」だった。
すべての痕跡を消したり、自分が生まれなかったことにはできないことは、スズにだってわかっている。だったら、せめて死にたい。自分で死ぬのは怖くて無理だから、誰かにさっくりと殺されたい。
死ぬとして痛いのは嫌だが、イヌであれば痛くするほどの度胸も残忍性も持ち合わせていないだろう。
「なに言ってるの…」
少し前まで堂々とした振る舞いをしていたイヌは、今や小さく震えていた。
右手でスズの頬に触れようとして、やめて、結局その手はスズの肩に添えられる。
「本当に、もう死んでいいの。だから全然殺してくれていい。名目は復讐でも、人助けでもなんでもいいから」
「…どうして、今さらそんなことを言うんだ…」
「別にもう生きる意味もないし…消えたいし…」
「そんなこと、そんなこと…言わないでくれ…」
まるで「死なないでくれ」と言わんばかりの様子のイヌに、スズは「このイヌはなにを考えているのだろう」とぼんやりと思う。
まさかこの後に死なれたら後味が悪いからとかそういう理由だろうか。だとしたらずいぶん身勝手だ。
しかし、小心者のイヌらしいといえばイヌらしい。むしろ今日の婚約破棄劇の立役者なんて大役の方が違和感がある。
「あんただって私が死ねばうれしいでしょ?私も私が死ねばうれしい。どっちにも利益があるんだから、別にいいでしょ」
「…そんなわけない。オレは、君に死んで欲しくなんかない」
「じゃあなに?あんたは私にどうしてほしいの?」
イヌはスズになにをしてほしくて金なんか渡してきたのか、追いかけまわしてきたのか。
ボールを拾ってしまったあの日から、イヌがまだ子犬だったころぐらいまでは、イヌがなにを考えているのかまだわかっていたような気がする。
でも、いつのまにかイヌが大きくなって、どんどんよくわからなくなった。未知の生物に接しているみたいだった。スズはずっとずっと怖かった。
「オレは…ただスーに傍にいてほしいだけなんだ」
長い長い沈黙の後に、考え込んでいた様子のイヌはそんな言葉を呟くようにポロリと落とした。
「ずっと会えなくて、本当に寂しかった。どうすればいいのかわからないぐらい」
「…」
「あの日のことを何度も後悔したし、思い出すと今でも血の気がひく。…あの日なぜスーがあんなに怒ったのか最初は理解できなかったけれど、今だったらわかるよ。大切な人との別れは、傍にいられないことは…あまりにも辛く寂しい」
あの日のことは、スズも何度も思い出した。
ヴィアが別のところにいる人間だと自覚して、イヌが意味不明の理解不能な生物に見えたあの日。ヴィアもイヌもすべてが遠くて、スズはそんな自分に絶望した。
「君とヴィアを引き離すような真似をして、本当にすまなかった。今日のことも…ここまでやる必要はなかった。ごめん」
頭を下げるイヌに、スズはどうすればいいのかわからなくなる。
スズはそんなものを求めていたわけでもないし、本当は全部スズが悪いことも自覚していた。
なのになぜかイヌは頭を下げている。
「なんであんたが謝ってるの?あんたはなにも悪くないし…あんたは今日、私に復讐しにきたんじゃないの?恨んでるんでしょ?どうして謝罪なんかするの?」
「…違うよ。少しも恨んでなんかないし、今回のは復讐でもない。オレはただ今日…君とどうしても会って、話がしたかった。あの日のことを謝りたかった。それに、愛のない結婚なんてものもしてほしくなかった。ただ、それだけなんだ」
スズの見る目がないだけかもしれないが、不思議とイヌが嘘をついているようには見えない。
しかし、そこに嘘がなさそうだからといって、よくわからない状況なのは変わらない。
「今回とあの時のことの謝罪代わりに…いや、それにすらならないけど。スーに新たな家と立場を提供するから、どうかオレと一緒に来て欲しい」
スズはもっともっとよくわからなくなる。
なぜかイヌに謝罪されたと思ったら、家だとかなんやらを提供すると言う。
冷静に考えれば、すべてを滅茶苦茶にした張本人がなにをいっているんだという話だが、もちろんスズは冷静ではない。
底冷えするような寂しさと不安に絶えず襲われていて、怖くて仕方なかった。衣を失うことよりも、食と職を失うことよりも、住を失うことよりも、孤独におびえていた。
「…よくわかんないけど…そうすりゃ、あんたは私を許してくれるの…?」
「…許すよ、全部。スーが傍にいてくれる限り」
その言葉に、スズはなんだか少しだけ救われたような、ようやく罪を雪げるような気持になって、蜘蛛の糸に縋る罪人のように差し出されたその手を掴み、不安げな顔でイヌを見上げた。
「帰ろう、オレたちの家に」
そんなスズの姿に、苦笑いしたイヌはその手を強く握り返し、つながれた手を見つめながらしみじみとそう呟いた。
遅くなってしまい本当に申し訳ありません。
次の次で最終話です。