保健室
登校して、まずは僕の座席にくっついている瀬奈の座席を定位置に戻す。僕はもう瀬奈と話さないし、教科書も見せない。ねこくうかんのフィギュアがちょっと倒れたので直し、僕は寝たフリをする。クラスメイト達はなんだなんだと思ったことだろう。まあケンカしたっぽいことは見て取れたと思うから、ざまあみろと思われたかもしれない。瀬奈なんかと仲良くしている僕はたぶんみんなからよく思われていない。どうでもいい。別に構わない。と思っていたんだけど、それも瀬奈がいてくれたからで、瀬奈とも離れて一人になったらもう本当に孤独だ。
瀬奈も登校してきて、離された座席を見て息を呑んでいるのが、寝たフリをしていてもなんとなく伝わってきてわかる。それでもめげずに「山下、おはよ」と声をかけてくるが僕は寝ているので聞こえない。無視する。「山下、昨日はごめんて。ねえ、起きとるんやろ? 話聞いてや」
うるさいので僕は勢いよく立ち上がりそのまま教室を出て、廊下を早足で歩きトイレへ行く。トイレにはちょうど、瀬奈のグループの永谷秀吉がいて、すれ違うが、僕は別に友達でもなんでもないので目も合わさずスルーする。
すれ違いざまに永谷が嘲笑う。
「おめえなんかが楓季と付き合えるわけないやろが。夢見とんじゃねえぞ、カス」
瞬間的にブチギレる。なんだ?こいつ。こいつは瀬奈から話を聞いたのかなんなのか、僕が昨日告白して玉砕したことを知っているのだ。別に知っていたって構わないが、わざわざそんなこと言わなくてもいいだろう。瀬奈と付き合えるわけがない? 夢見るな? わかっとるわ!そんなこと!
僕はすれ違い終えて後方にいる永谷の頭部を裏拳気味に打つ。ヤンキーにケンカを売っていいのか?と思う間もなく僕は手が出ている。永谷秀吉なんて笹野とかの尻にくっついている屁のような存在だ。ヤンキーですらない。下っ端。部活もしていないし、一般生徒よりも弱いだろ、こいつ。
と思いきや、永谷は少し怯みはしたものの、すぐさま好戦的に反撃してくる。僕のイメージでは永谷を吹っ飛ばすことに成功していたはずだったのに、それが全然イメージ通りにならず、ぼんやりしているところに永谷の拳が入る。いった! 火花が見える。顔! 顔顔! いきなり顔面を殴ってきた! まあ僕も最初から頭を狙ったけど!
気を取り直して絶対にぶちのめす!と気持ちだけは燃えているが、永谷の拳をさらにもらうばかりで僕の攻撃は一切手応えがない。漫画みたいに敵の拳を回避してカウンターを浴びせるなんてことはまったくできず、蓋を開けてみれば終始打たれっぱなしで、僕は自分が永谷なんかよりもさらに弱いんだということを思い知らされる。だんだんと戦意も喪失してきて、トイレへ続く途中の床にうずくまる。
「なんじゃ!おめえは」永谷は攻撃をやめない。うずくまっている僕を踏んだり蹴ったりしてくる。「弱ぇクセに調子ん乗ってくるなや。情けねえんな! 死ね!」
「おい、何しとんじゃ!」と怒声が響き、誰かと思ったら瀬奈が男子側のトイレに入ってきて、スカートなのに足を振り上げて永谷を蹴り飛ばす。それこそ漫画みたいに永谷は吹っ飛び、便器の方まで転がっていく。「おぇ、永谷。おめえ、山下にちょっかいかけんなっつったやろ?あたし」
永谷は顔を上げて弁解する。
「ちょう待てや、楓季。先に手ぇ出してきたのは山下やぞ」
「おめえがなんか言うたからやろが!」瀬奈はずんずんと男子トイレの奥まで進行し、内履きシューズの先で永谷を痛めつける。「ふざけんなや。やからおめえは気に入らんのじゃ!」
僕は……もう痛いし情けないし、こんな瀬奈と永谷のバトルを観戦していても仕方がないので、立ち上がってトイレをあとにする。るるる、と鼻血が垂れてくるので袖で拭う。しかしあまりにも素早く大量に垂れてきたもんだから拭いきれなかった分が顎を伝って廊下に滴り落ちてしまう。内履きの底を擦りつけて薄く引き伸ばしておく。
鼻の奥が熱い。血はまだまだ出そうだ。血ばかりに気を取られていてわからなかったが、涙も零れている。僕は泣いている。痛いから? 恐かったから? 情けないから? むなしいから? 自分でも何が原因なのか特定できないくらいに心がグルグルしていてつらい。これからどうなってしまうんだろう? そんなことを考えるととても教室へ戻る気にはなれず、僕は宛てもなくフラフラとどこかへ行く。三階から二階へ下り、二階から一階へ下り、パソコン室……は鍵が開いていなかったため、美術室に入り、カーテンが閉じきったままの薄暗い部屋の床に屈み込んで引き続き泣く。ダサさがすごい。勝てると思っていたヤンキーの下っ端に負け、好きだったけどフラれた女子に助けてもらい、しかもその女子は自分よりもヤンキーよりも強くて僕は鼻血も涙も止まらない。しばらくここで休憩したらとりあえず家に帰ろう……と予定を立てていると、美術室の戸が開き、誰かが中に入ってくる。美術の先生か?と身構えるが違い、瀬奈楓季だった。
もう嫌。僕は立ち上がってさらに逃走しようとするけど、瀬奈に捕まえられ、逃げられないよう抱きしめられてしまう。
「もう。何やっとるんや?」と瀬奈に言われる。抱きしめられていて、瀬奈の顔は僕の肩に乗っていて、表情は窺えない。
「離してや」鼻血も涙もそのままで呼吸もままならない。「ほっといてや」
「ほっとかん。好きやから」
「うるさいわ。僕はもう好きじゃないし」
「そんなこと言わんといてま」
「そもそも瀬奈も僕のこと好きじゃないやろが」
「好きやって」
ぎゅっとされる。より強く。
今はそれがただ苦しい。
「昨日応えてくれんだ時点で、そんなの嘘臭いわ。信じれん」
「ごめんて。昨日はいきなりやったし、びっくりしすぎてすぐに決めれんかった。山下といっしょにおるのはすごく楽しくて、特別で、やからこの気持ちがなんなんかわからんかったんや」
「瀬奈の格も下がるよ?僕といっしょにおったら」
瀬奈はちょっと笑う。
「ごめん。たしかにそれは少し思った。あたし最低や。でも、山下が帰ってもうて、あ、って思ったんや。気付いたんや。あたし、山下がおらんくなったら寂しいわ」
「でも格は下がる」
「ごめんて。ごめん。でもあたしに格なんてないよ? あたしなんて最低なんやから。やから昨日の夜、みんなにも言ったんや。あたしは山下と付き合うけど、それが面白くなかったらあたしのことは切っていいよって」
「…………」
「山下の方が大事や」
「……でも僕、情けなくて恥ずかしいわ。もう瀬奈の顔見れん」
「なんで?」
「一人で拗ねて怒って、永谷なんかにも負けるし、瀬奈に助けられるし……」
「そんなの別に気にせんし。山下の腕っぷしが弱くても、それってあたしが山下を好いとる部分と、全然関係ないし。全然影響せんし。別にケンカなんて強くなくてもいいよ」
「…………」
「で、山下を拗ねさせたのも怒らせたのも全部あたしが悪いんやから。なんも恥ずかしくないよ。顔見せてや」
瀬奈が強引に僕の顔を上げさせて目を合わせようとしてくる。なんかここで抵抗しても恥の上塗りでしかないような気がして僕はもうおとなしくなるが、僕を見て瀬奈は「あ」と固まる。「やばいやん。あんたまだ鼻血止まっとらんのけ?」
「止まらん」
「そうやった。あたし、あんたの鼻血を辿ってここまで来たんやった。あ、ちょう、あたしの制服やばいことになっとる。山下、はよ保健室行くよ」
薄暗い美術室を出て見ると、瀬奈の制服のブラウスは血塗れになっていた。僕の制服もだけど、僕を正面から抱きしめていた瀬奈の肩口辺りはもはや重傷者のようだった。
「ごめん」と僕は謝る。
「ううん」と瀬奈は首を振る。「全然いいよ。好きな人の血やし」
「恥ずかしい台詞」
「だって、山下、心閉ざしてもうとるんやもん。あたしがさっきから好きやって言っとるのに」
「僕が憐れやから言っとるだけやろ」
「……もういい。とりあえず保健室行こ」
瀬奈に連れられて保健室へ向かう。保健のおばさん先生は既にいて、まだ朝だから他の生徒はいない。僕は顔の血を綺麗にしてから先生に診てもらう。鼻は折れていないようだ。手足の痛んでいる部分も、ただ痛いだけらしかった。消毒をしてもらい、ベッドに腰かけてしばらく安静にする。
「……永谷は来んね」
永谷もダメージを受けているはずだからここへ来るかと思ったが。ヤンキーのプライドに賭けて保健室へは来られないか?
「鼻血とかは出させとらんから、来んやろ」と瀬奈はあっさり言う。「顔は狙ったらダメやよ。やるなら体や」
僕はため息をつく。
「瀬奈、ケンカ強いのも恐いけど、凄み方も完全にヤンキーで恐いんやけど。他校の生徒と乱闘したっていう噂も本当なん?」
「しとらんよ」と瀬奈は澄ました顔をしている。怪しい。「恐いし、あたしのこと嫌いになったあ? ほんならほんでもいいよ。あたしももうあきらめるし」
「え」
「昨日の内にもっとちゃんと考えてすぐに返事できればよかったね。ごめん。ほしたらこんなことにはならんだのにな」
「…………」
「あたしもう行くね。あんたは休んどきね」
「え、ちょ」
瀬奈は保健室の出入り口まで歩いてから「いい?」と確認してくる。
「いや」と僕は呻く。「ダメ」
「ほしたら拗ねんといて」と瀬奈が目を細める。「ちゃんと話聞いて。ほんでちゃんと話してや」
僕は一応渋々感を出しつつ「わかったあ」と言う。でも保健の先生もいらっしゃるんだけど。先生は楽しそうにしている。微笑ましそうにしている、と言うべきなんだろうか?
瀬奈もそれに気付き、「先生は出てってや」とまさかの先生追放を決行しようとする。「あたし今から、この人と大事な話するさけ」
先生は「はいはい」と言うことを聞く。「どっち道、今から職員室で朝礼や。しばらく戻らんよ。けど、保健室で変なことだけはせんときねや?」
「変なことするかも~」と笑いながら瀬奈は先生を見送る。
「まず、その血塗れの制服をなんとかせん?」と僕は提案する。
が、「脱いだら変なことしとると思われるやろ」と指摘を受ける。「着替えも今持っとらんし」
「それもそうやね」
「それより」瀬奈が出入り口の辺りから戻ってきて、僕の隣に腰かける。「好きや、山下。付き合いたい」
「僕なんかの何がいいん?」
「別に。知らん。ウザ」と言われる。「好きって言えや」
「瀬奈は可愛いし、話も面白いし、強いし度胸もあるし、面倒見もいいし」
「もお……なんなん?」瀬奈は照れてうつむく。「あんたは……全部いい」
「全部いいわけないやろう」
「いいやん。うるさいなあ。あたしアホやから細かいこと言葉にできんのや。好きやって言っとるんやからそれでいいやん。本当の本当に好きじゃなかったらこんな血塗れ制服着とれんよ? マジで」
「ごめん」と僕は再三謝る。「いろいろありすぎて、頭……っていうか心がぐるんぐるんしとる、今。上手く素直になれん。ごめん」
「いいよ。わかった」
瀬奈はお尻を浮かせ、少しだけ僕の方へ寄る。少しだけ。だけど、それで僕の半身と瀬奈の半身はぴったりくっつく。「山下はけっこう拗ねてまうんやね? わかったわかった」
「…………」
「山下を不安にさせんようにするね? あんたの彼女として」
「……誰かと付き合っとったことある?」
「ないよ! なに?いきなり。びっくりする」
「いや、なんか手慣れとるし」
「手慣れとらんわ。あんたを大事にしたい気持ちがそう見せるだけや」
「ふうん」
「ずーっといっしょがいい」
「…………」
「じゃあ昨日言えやって思っとるやろ。昨日は考える時間が短すぎたんや。あんたはすぐどっか逃げてってまうし」
「なんも言っとらんやん……」
「あたしはアホやから、ぱぱっと考えれんのやって。これ覚えといてや? あたしを大事にしてくれるんやったら忘れんといて」
「わかった」
「ねえ」瀬奈の半身が僕の半身を押してくる。「好きや。付き合って」
「それさっきも言ったよ」
「あんたが言うまで言うんや」と瀬奈は笑っているような怒っているような複雑な顔をする。「言えや」
「昨日言ったやん」
「今日も言えや」
僕はあきらめて「好き」と伝える。
「付き合って」
「付き合うって何するか正直わからんのやけど、よかったら付き合ってほしい」
「いいよ」と瀬奈はやっと上機嫌になる。「難しく考えんでいいんやよ。いつも通りにしときね」
「手慣れとる」
「しつこ。手慣れてねえわ」
「……ほうしたら、これからどうなるんやろう? 永谷は?」
「どうなるんやろう。永谷とぶつかったのもあるし、あたしはハブられるんかな。もしかしたら教室戻ったらあたしとあんたの机が仲良く引っくり返されとるかもしれんし。これから嫌がらせされまくるかもなあ~。そしたら守ってや?」
「いや、瀬奈の方が強いんやけど」でもそんなことも言っていられない。「とりあえず僕はこれから体も鍛えることにするわ。今回の件はホントに情けないと思ったもん」
いつか瀬奈を守れるように。それが無理でも、ヤンキーの下っ端なんかには二度と負けたくない。でもその前に、直近の脅威に対応していかなければならない。全然付き合い始めたという気になれないんだけど、付き合っている以上、原則的には瀬奈が誰かのものになってしまうおそれはないわけで、そういう点では安心だった。
僕は体も鍛えつつ精神も鍛えなければいけない。一度拗ねたら拗ね倒しっぱなしなんて、本当に根性が悪い。直さねば。