「遠藤奈緒子」
「……遠藤さん、これはあなたの仕事ですか?」
わたしを呼びつけるなり、編集長はデスクの上の原稿を指し示した。
「ええ、それが何か」
それは間違いなくわたしの書いた原稿だ。
日本のブルースシーン。
栄光の過去と落ちぶれた現在を比較しつつ、これからの日本のブルースシーンを盛り上げていくだろう若者たちにスポットを当てたものだ。
「改めて言うまでもないことだろうと思い、今まで言わずにいたのですが……」
編集長はメタルフレームの眼鏡を拭くと、ハアとため息をついた。
繊細そうな額に深い皺を寄せながら、編集長は雑誌『月刊ジャズ&ブルース』についての説明を始めた。
コアターゲットが40~59歳の男女であること。
その多くがジャズのファンであり、ブルース支持層はほとんどいないこと。
「ブルースの人気があったのは1970年から1980年初頭までのごくごく短い期間でした。それ以降はずっと下火で、ファン層も極めて限定されている。当雑誌においてはジャズの人気にブルースがぶら下がっているというのがイメージとしては正しいでしょう。それ単品で成り立つほどの価値は無いと。つまりブルースの記事に関してはおまけである、そう考えていただきたい」
「おまけって……」
「それでもあえて書くなら栄光に満ちた過去の偉人たちにしておいてください。現代のブルースシーンを書くにしても、本場アメリカの超有名どころだけ」
「でも日本の雑誌なのに……」
「ブルースはブラックミュージックなんです。日本人が歌うものじゃない。あなた、外国人が演歌を歌っているのを聴いたらどう思いますか? 物珍しい以外の感想、出て来ますか? そういうことなんです」
いくら反論しても、編集長は認めてくれなかった。
文句があるなら辞表を提出していただいてもけっこうですと、冷たく言い渡されただけ。
「……くそったれ」
会社を出たわたしは、最低の気分だった。
「あいつ、ブルースのことなんかちっともわかってないくせに……」
学習院出のお坊ちゃんで、ノーブルな外見から女子社員には人気だが、音楽に関する素養はゼロに等しい。
あいつが来てから雑誌の方向性は統一され、たしかに売り上げは伸びているようだが、音符を金に変換されているようで、いい気持ちはしない。
というか、単純にムカつくし生理的に受け付けない。
あまりにもムカつくので、コンビニで買った缶ビールをあおった。
通行人がどん引きするのも構わず、何度も毒づいた。
「日本人にブルースが出来ない? だったらロックはどうなんだよ。クラシックは? ジャズはどこ発祥の音楽だ? 日本人だって世界と勝負出来る奴はいくらでもいるんだよ。ちくしょう」
一本飲み干したら次のコンビニに立ち寄り、もう一本飲み干したら次のコンビニに立ち寄り……いつの間にか五本を空にしていた。
「……あーあ。会社、やめよっかなあー……」
やがて公園のベンチに落ち着いたわたしは、ため息とともにつぶやいた。
音楽雑誌を作るのが夢だった。
やるならやっぱりブルースが良くて、その筋では大手の『月刊ジャズ&ブルース』に入社出来た時は、天にも昇るような気持だった。
さあ日本のブルースシーンを盛り上げていくぞと、張り切って記事を書いた。
結果がこれだ。
わたしに許されているのは、過去の偉人の太鼓持ちみたいな、くだらない駄文ばかり。
「もちろんさ、嫌いじゃないよ? むしろ大好き。ハウリン・ウルフにマディ・ウォーターズ、B.B.キング……」
学生だった頃にギターを買い、バンドを組んだことだってある。
だけど皆はブルースに興味を示してくれず、流行りのロックやポップのコピーバンドになってしまった。
じゃあひとりでやろうというほどのパワーはなく、いつしかギターを弾くこともなくなった。
「黄金の50年代、革新の60年代、創世記の偉人たち。その人らがすごいのは皆知ってるよ。でも、大事なのは今じゃんか。現在の若者が作っていかないと、ブルースは死んじゃうじゃん」
毒を吐いて、弱音を吐いて。
寒さで肩が震えたのを潮に、わたしは公園を後にした。
「……帰ろ」
実際には辞める度胸なんてありゃしない。
この就職難のご時世に退職なんてしたら、次の仕事だって怪しいし。
田舎のお母さん辺りは、帰って来て結婚でもしろとかいうんだろうけど……何せもうアラサーだし……。
コートの襟を立ててとぼとぼと歩いていると、駅前の陸橋に人だかりがあるのが見えた。
「……なんだろ、あれ?」
あの辺りを根城にしているブルースマンがいたのを覚えてる。
若い男の子で、なかなかのギターを弾くんだよね。
声も渋くて、今どき見ないようないいブルースしてて。
疲れきった帰り道に聞くと、沁みるんだよね。
「あのコかなあ……でもあんなにお客さんつくような感じじゃないから、違うよねえ……」
おっかなびっくり人だかりの後ろに立ち、顔を覗かせてみると──
「何、これ……?」
そこにいたのはあのコだった。
だけどあのコだけじゃなかった。
もうひとりいて、そっちは女の子で、歌うのは女の子のほうで……。
「何、この歌……?」
鼻にかかるような甘い声。
無邪気で楽し気な歌い方は、ブルースのものとは少し違う。
違うんだけど……。
聞かされてしまう。
耳を傾け、受け入れてしまう。
その場から離れることが出来なくなる。
──いいね、この声。
──うん、なんか癖になる。
若い女の子たちがこそこそと話している。
同感だ。
この声には、人を惹きつける不思議なパワーがある。
多くの偉人たちが持っていたような、魔力に近い何かがある。
ギターの男の子の演奏は、以前に見た時より上手くなっている。
円熟味が増したというのか、音に深みを感じる。
ボーカルの女の子を支え、その不思議な魅力を引き出すことに成功している。
「これは……もしかしたら……」
編集長のお小言は、一瞬で脳内から消えていた。
曲の終わりと同時に、わたしはふたりに名刺を差し出していた。
※歌詞や楽曲を出す予定のないアーティストについては、個人名を出していこうかなと思っています。
※編集長のセリフは、あくまで編集長の「私見」です。悪しからず。